ドトールな人々 タバコ
ドトールの2階には喫煙ルームがあり、そのすぐ近くに挙動不審な男が座っている。
男は、35歳の竹下良平というこの街でも有名な資産家で、誰もが知っている大豪邸に住んでいた。とはいえ、良平がその豪邸で住み始めたのはまだ3年前のことだったし、帽子を目深に被ってサングラスをしたその挙動不審な男が、その家の主人だとは誰も気づかなかった。
とにかく良平はタバコが吸いたかった。
それなら、喫煙ルームでコーヒーを飲めばいいようなものだが、良平はそうしない。タバコの煙が嫌なのでもない。喫煙ルームに入って、5口ほどでタバコを一本喫うと急いで出てくる。5分ほどすると、また同じことを繰り返す。時々、キョロキョロ辺りを見回す。そうやってタバコを5本ばかり喫うと満足気に帰っていく。
良平の元の姓は、佐野と言った。
高級インテリアの輸入販売業を営み、都内でも銀座本店の他に、青山や六本木、赤坂といったセレブリティな場所に店舗を構え、多くの財界人や芸能人などとも交流のある、竹下詩織と出会ったのは、まだ昨年末のことだった。
一人娘の詩織が、急逝した父の事業を引き継いだのは10年も前で、何不自由ない気ままなOL生活を満喫し、そろそろ結婚相手でも探そうかと言う28歳の時だった。
詩織には、父親譲りの経営の才があったのか、慣れない仕事ながら着実に事業を拡大していったのだが、気づいた時にはすでに世間的な結婚適齢期を過ぎていた。
決してブスでもなく、スタイルも良い詩織だったが、目元と口元に表れている生来の負けん気の強さは隠しようがなく、ビジネスの交渉では得をしても、恋愛には不向きと言わざるを得なかった。
男どもが尻込みする中で、ただ一人平然としていたのが良平だった。
「佐野さん、あなたご趣味は?」
婚活パーティの席上で、派手なドレスを身に纏った詩織が、組んだ足を解こうともせず聞くと、
「いえ、特にはないんです」と、良平は興味なさげに言う。
それもそのはずで、30代限定のこの婚活パーティに良平が参加したのは、特別、結婚相手を見つけたかったわけでもなく、参加費を払ってくれると言う、開業医の息子で金回りの良い友人の誘いに付き合っただけだった。
良平は、育ちのせいか、生まれつきなのか、ずっと刹那的な生き方をしてきた。
女性に関しては、カラダか金が目当てだったし、仕事は給料が良く楽な方に転職を繰り返し、友人でさえ自分に得になるかどうかで選んでいた。
参加費が男性8万円、女性5万円と高額なだけあって、皆、着ているものから、身に付けているアクセサリー、時計や靴の類まで、そのような高級品にはあまり縁のない良平でさえ一目で分かるほどレベルが高い。
その中でも、この女は特別だな。
良平は、6歳年上の詩織を見てそう思った。
私は負けず嫌いですと言わんばかりのメイクの濃い顔、大きな胸をこれみよがしに強調したドレス、腕には、ダイヤの散りばめられた派手なフランクミュラー、こんなに分かりやすい女はいない。
「どんな女性が好みかしら?」
もちろん、分かってやっているのだろう、少し、前屈みになり胸の谷間を強調する。
「いえ、それも特にはないんです」
良平は相変わらず興味を示さない。
「あなた、こんなところに来てるのに、女性に興味がなさそうだけど、お金にも興味はないのかしら」
この一言で、良平は詩織に惹きつけられた。
「いや、お金には興味があります」
正直に、良平が言うと、
「そうよね。ふふふ。正直でいいわ。じゃ、今日私とカップルになりなさい。いい?」
「いいけど」
「OK。じゃ、もう一つ。あなたタバコを喫うでしょ。しかもヘビー。さっきから見てると、何度も出ていくのはタバコを喫うためよね」
図星だった。
「今晩私といる間はタバコをやめて」
「分かった」
良平は30分と我慢できないヘビースモーカーだったが、詩織への興味が勝った。
その後、いくつかのイベントをこなした後、告白タイムを経て、二人はめでたくカップルとなり、良平は、友人やその他大勢の結ばれなかった参加者たちが拍手で送る中を、詩織を連れて会場を後にした。
その夜、ホテルで2回目のことが終わった後、詩織が言った。
「どうしてあなたを選んだか教えてあげる。見た目よ。それだけ」
「見た目?」
「そう。あなたってあと10歳若かったら、ジャニーズのアイドルでもおかしくないでしょ」
確かに、詩織の言う通りで、良平は学生時代からよくモテた。そのため、一時はホストにでもなろうかと思ったほどだった。
「私はね、あなたが思う以上にお金持ちなの。それにね、この国を動かしているような著名人とも付き合いがあって、しょっちゅう、会食やパーティに行かなきゃいけないわけ。わかる?」
「うん、なんとなく」
「そうするとね。いるわけよ。連れてくる男を自慢げに見せびらかす女どもが」
「恋人ってこと?」
「違うわ」
「じゃあ旦那?」
「まあ一応」
「一応って?」
「一種の金持ちの遊びというか、自立した女の究極の道楽というか」
「よくわからないけど」
「まあいいわ。でね。あなたにもそうなって欲しいのよ」
まもなく、良平と詩織は、契約結婚をした。
婚姻期間は、3年間で、3年経った時点で、二人が合意すれば延長、どちらかが拒否すれば契約終了となる。契約一時金は、1,000万円で一時金とは別に、毎月、50万円が支給される。もちろん詩織から良平にだが。
さらに詩織は良平に3,000万円で特約を提案した。しかも、この特約は、3年間守ったら支払われ、破ったら罰金として、支払われないどころか逆に取られるという内容だった。
「夜の営みは、週3回必ず、それに、タバコをやめること」
週3回!
詩織の性欲が半端ないのは、付き合ってよく分かったが、それにしても週3回とは。
「週3回ってほぼ1日置きだろ。付き合いとか仕事とかなんかで色々あって出来ない時はどうするんだよ」
「週末にまとめてすればいいのよ」
平然と詩織が言い放つ。
良平は、頭で想像して、何とか頑張ればいけるかと判断したが、問題はもう一つの方だった。
「タバコは何とか認めてくんないかな」
「だめ」
「家の中や君の前では喫わないから」
「絶対だめ」
頑として譲ろうとしない。
良平は結局、3,000万円の魅力に負けた。3年間、我慢すれば、合計で5,800万円手にすることが出来るのだから。
良平は新たな生活に順応しようと必死で頑張った。
何しろ大金がかかっている。
特に、週3回とタバコの特約を破れば、全てが水疱に帰す。それどころか、逆に3,000万円を払う羽目になってしまう。改めて良平は特約の怖さを思った。
結婚当初は、自分の仕事もしていたが、残業で夜遅くなったり、付き合いで飲みに行ったりすると、詩織と出掛けるセレブとの付き合いと相俟って疲れが溜まり、夜のお勤めが困難になり始めた。なにしろ平日に一回パスすると、地獄の週末が待っている。ダブルヘッダーどころか、三連戦もありうるのだ。
とはいえ、元々それほど夜の強い方ではない良平にとっては、日を追うごとに体力的にも精神的にも厳しくなり、徐々に追い詰められていく。
このままではまずいと思った良平は、とうとう自分の仕事を辞めた。
時間に余裕のできた良平は、昼間はジムに行って体を鍛え、セレブのパーティで会った人の名刺を管理し、特徴付けて忘れないようにした。さらに経済や時事ネタにもついていけるよう、日経新聞を隅から隅までまで読み、専門用語を学ぶため図書館にも通った。
元々単なるイケメンだった良平が、体が絞られて精悍さとバイタリティが増し、会話も洗練されてくると、詩織や周囲の目も変わってきて、それなりの自信も芽生えてくるようになった。
2年も経つと、良平はセレブ仲間の中でもよく知られる存在になり、見た目もさることながら、付き合いが良く時間の自由が効く良平は、財界人の夜のお供や、若手芸能人との遊びに誘われることが多くなった。
良平の交友関係は人から人へとどんどん広がる一方で、今度は詩織との特約が重くのしかかる。
以前の自分の仕事の際の残業や夜の付き合いの比ではない。
ハワイでゴルフしようとか、クルーザーで釣りに行こうなどという誘いは、さすがに断っていたが、飲みに行けば、とことん飲まされ、ゴルフに行けば早朝から運転手をさせられ、麻雀に付き合えば徹夜になった。
週3回の約束が先へ先へとどんどん振り替えられていくと、週末だけではどう頑張っても足りなくなり、何も予定のない平日の夜が連日ダブルヘッダーなどというAV男優のような地獄の日々になる。
それでも必死に何とかこなしながら、約束の3年までようやく残り1ヶ月を切り、先が見えてきたと思ったそのとき、良平の心にふと忍び込んできたのは、
「タバコが喫いたい」という思いだった。
それまでも、心の片隅にその思いが頭をもたげないでもなかったが、まだまだ続く長丁場を考えると、芽生えた欲望を抑え込むのはまだ易しかった。
ところが、あと少しだとなると、この思いは抗い難いほどの強さを持って良平を襲った。
良平は必死に考えた。
セレブ仲間にバレては絶対にまずい。あいつらはすぐ詩織にご注進するだろう。どこだったら安全に誰の目も気にすることなく喫えるだろうか。
良平の結論は、これぞ灯台下暗しと言って良い、家の近くのドトールだった。
詩織がいない時間にそっと家を出てドトールでタバコを喫う。万一、何かの手違いで、詩織に見咎められても、コーヒーを飲みに行くと言えば済む。
問題は匂いをどう誤魔化すかだ。
良平は何度もドトールに足を運び、2階の喫煙ルームをそれとなく観察すると、平日のある時間帯には、ほとんど人がいないことを発見する。
あの時間帯なら、短時間で喫って出てくれば匂いを最小限にすることが出来るはずだ。もちろん家に帰るときには念の為に全身に消臭スプレーをすれば良い。さらに、口臭を抑える為に、念入りな歯磨きにデンタルフロス、マウスウオッシュにタブレットなども併用する。
よし。これならいける。
こうして、良平のドトール通いが始まった。
野球帽を目深に被り、サングラスをした良平は、喫煙ルームに人がいるときには、外でスマホでも見る振りをしながらじっと待つ。
大体喫煙ルームの客は長居をしない。誰もいなくなると、さっと中に入り、5口くらいで喫い終え、またさっと出てくる。万一知った顔が来ないか、時折キョロキョロと見回す。そんなことを繰り返し30分程度で5本を喫い終えると、店を出る。
ドトールでの喫煙がバレないまま、とうとう、契約期間最後の日となった。
今日は、なんの予定も入れていない。若手俳優仲間からのゴルフの誘いも言い訳をして断った。
詩織は朝から仕事に出掛けている。
最高の1日だ。俺は耐え抜いたのだ。明日、俺は晴れて3,000万を手に入れて、詩織ともこの地獄のような日々ともおさらばできる。
良平は生まれて初めて味わう達成感に体が震えるような思いだった。
辺りをそれとなく伺った良平が、喫煙ルームに音もなく入り、タバコに火をつけ大きく吸い込み、最高の一服を吐き出したときだった。
喫煙ルームのドアがスッと開いた。
入ってきたのは、なんと詩織だった。
愕然とする良平に、
「美味しそうに喫ってるじゃない」
隣に座って詩織が微笑む。
「いや、これは、その」
「ま、色々言い訳したいでしょうが、それは後でと」
詩織がバッグから書類を取り出しながら言う。
「特約は、今日まで有効だから、違約金3,000万円いただくわ。それでいいわね」
良平は言葉が出ない。
「でも多分あなたには払えるお金がないわよね。まあ、長い時間かけて少しずつ払ってもらってもいいんだけど、どうする?」
そう言いながら、書類を良平に見せると、そこには、新たな契約内容が記されていた。
延長契約として新たに3年間、月50万円、もちろん延長なので一時金はなし、そして特約として、3,000万円、内容は、今まで同様、夜の週3回と禁煙となっている。
良平には選択の余地がなかった。
また、地獄の日々が始まるのか。良平はそう思いながら書類にサインした。
詩織は、書類をカバンにしまい、ついでに小さな箱を取り出した。
その箱から、細くて長い一本を取り出し、これもポケットから取り出した洒落たライターで、おもむろに火をつけ、深々と吸い込んでから白い煙をゆっくり吐き出した。
「やっぱり、仕事の後の一服は美味しいわね」
呆然とする良平を尻目に詩織は微笑んだ。
了
ドトールな人々 金色と銀色のイヤリング
「こんなうまいコーヒーを飲むのは何年ぶりだろう」
秋山大輝は思った。
酒の飲めない下戸の大輝は、収監される3年ほど前までよく通っていたドトールのコーヒーを飲むのが出所した時の唯一の楽しみだった。
当時、大輝は薬品卸売会社に勤めており、多忙な日々を送っていた。
休日にドトールに行き、今はやめたタバコを吸いながら、ほっと一息ついて好きなコーヒーを飲むのが至福の時だった。
なんでこうなってしまったのか。
大輝は目の前の濃い茶褐色の液面に映る、ぼんやりとした誰の顔とも判別のつかない朧げな姿を見つめていた。
大輝の勤める薬品卸売業は、その名の通り、製薬メーカーの作る薬を、病院や開業医、薬局などに販売し、届ける仕事が生業であるが、その主体は営業であり、営業マンとしての大輝には、売上をいかに上げるかが厳しく求められた。
大輝は営業に向いている性格ではなかった。
何しろ押しが弱い。
買ってくださいが言えないのだ。
だからいつも競合する会社に注文が取られてしまう。
買う方もついつい商売熱心な方に発注してしまう。
営業で入社して数年も経つと、その多くは、自分のそんな弱さに気づき、やり方を変えるか、諦めるかどちらかだが、大輝はただただ我慢強かった。
売り上げが上がらず上司に叱責されようが、同僚や後輩に馬鹿にされようが、耐え抜いた。
鈍感だったわけではない。それが数年前に亡くなった父、和雄の教えだったからだ。
「弱いことは恥ではない、逃げることが恥だ」
和雄はそう言った。
長男の兄、孝一が交通事故で亡くなった時も、母の静江が末期癌でこの世を去った時も、和雄は一筋の涙も見せなかった。
和雄は孝一や静江の死を真正面から受け止め、ただ耐えていた。
「おい、大輝、今日どこ行く?」
大輝のデスクに来て袴田俊介が言った。
「どこでもいいよ」
「じゃ駅前の焼き鳥屋な」
「分かった」
俊介と大輝は、同期入社で同じ営業所に配属されたことや、奇しくも血液型や誕生日まで全く一緒、さらに、二人とも兄妹を幼い時に亡くしていること、好みの女性のタイプ、応援しているサッカーチーム、吸っているタバコの銘柄まで同じだった。
異なっていたのは、酒の強さと押しの強さだけだった。
どちらも強い俊介にどちらも弱い大輝。
営業という仕事においてどちらも強い俊介が有利なのは自明の理で、二人の会社からの評価は彼らの親密度に反比例するように、その差が拡大していった。
二人は毎晩のように、仕事が終わると飲みに行った。
浴びるように飲む俊介に、ウーロン茶で付き合う大輝という不思議な関係だったが、家族を亡くし、一人切りの大輝には、なんでも相談でき、言いたいことを言い合える俊介は、親友と言っていい貴重な友人だった。
入社して5年も経つと、俊介は若くして係長に大抜擢された。大輝は係長どころか主任にもなれない平社員のままだったが、大輝はそんなことは一切気にもしていなかった。
ちょうどそんな頃、入社してきた営業事務担当の新入社員に、大輝は一目惚れした。
明るく、可愛く、誰にでも分け隔てなく接するその新入社員は、清水愛梨という女子大卒の女性だった。
「おい、大輝、今日どこ行く?」
いつものように俊介が来て言う。
「どこでもいいよ」
「じゃ駅前の焼き鳥屋な」
「分かった」
仕事で遅れた俊介が、店に駆けつけると、カウンターに俊介の姿がない。
あれ?おかしいなと思い、小上がりの方を見ると、
「おーい、大輝、こっち、こっち」
手を振る俊介のその前には、愛梨がいた。
「ダメもとで誘ったら来てくれたんだよ」
嬉しそうに言う俊介に、愛梨が照れたようにはにかむ。
その日を境に2人で遊ぶ日々が3人へと変わっていった。
なかなか二人きりになるチャンスがない大輝は、どうやって自分の気持ちを愛梨に伝えようか思い悩んでいた。
俊介に正直に打ち明け、相談しようかとも思ったが、せっかくの3人の良い関係が壊れてしまいそうな気持ちがして踏み切れないでいた。
ある日、愛梨への募る想いが抑えきれなくなった大輝は、とうとう休日に愛梨を呼び出した。
「どうしたの?」
ただ来て欲しいと言われてやって来た愛梨が不思議そうな表情を浮かべる。
大輝は、まともに答えず、とりあえずお茶でも飲もうと言うと、愛梨がそれじゃあとスマホで見つけた近くのドトールに大輝を引っ張るように連れて行く。
以前、酒の飲めない大輝が、ドトールでコーヒーを飲むのが好きだと言ったのを愛梨はしっかり覚えていたようだ。
呼び出したはいいが、二人きりになるとドギマギしてしまう。
休日のせいか、私服のせいか、会社で見るより大人びてほのかな女性の色香を漂わせる愛梨に、なかなかいつものように大輝は気軽に言葉が出てこない。
お前は押しが弱いんだよ。
課長にいつも言われている言葉が脳裏に浮かんでくる。
「ね、何か言いたいことがあるんでしょ。なーに?」
愛梨が前屈みになって顔を近づけてくる。
仕事ではつけていないイヤリングがどこかの光の反射を受けてキラキラ光る。
ハートの形で金色と銀色が半分ずつに分かれているようだ。
本物の金と銀かな。いくらぐらいするんだろう。自分で買ったのか、それとも、誰かに買ってもらったのかな。
余計なことばかりが頭に浮かぶ。
「あのさ」
「うん」
「あのう・・・」
愛梨が大きな目でじっと見つめる。
「あのう・・・俊介のこと、どう思ってる?」
全く考えてもいなかった言葉が口をついて出た。
「俊介?そんなこと聞きたくて呼び出したの?」
「あ、いや、その」
「大好きよ。これでいい?」
そう言うと、愛梨はさっと席を立って店を出て行ってしまった。
その日以来、以前のように、二人の誘いに愛梨が応じることはなくなり、そのうちフェードアウトするかのように愛梨は会社を去り、大輝の前から消えてしまった。
愛梨への想いが消え去らない大輝だったが、俊介のことを大好きだと言った一言だけが思い出され、追いかける勇気も湧かなかった。
休日のある日、課長の命令で会社のゴルフコンペに参加することになった大輝のアパートに、朝早いからと逆方向にもかかわらず、俊介が車で迎えに来てくれた。
俊介は相変わらず売り上げも絶好調で、仕事に遊びにそれこそ飛び回っているような感じで、社内では、エースと呼ばれ、最短で管理職になるのは時間の問題と見られていた。
大輝はと言えば、長年に亘ってコツコツ頑張ってきた仕事に対して、厚い信頼を置いてくれる顧客も現れ始め、徐々にではあるが営業成績もついてくるようになっていた。
「この車に乗る男はお前が初めてだからな」
俊介が車を買ったとは聞いていたが、確かに乗せてもらうのは初めてだった。
「男はって。女は違うって意味か?」
「ま、想像に任せるよ」
俊介はニヤリと笑う。
兄弟同然で付き合ってきた俊介だったが、ごくたまに、大輝に見せたことのない一面を垣間見せる時がある。
そのようなとき、様々な一致点ゆえに運命的な関係だと思い込んでいるが、実はそれはとんでもない思い違いなのかもしれないと大輝は思った。
「着いたよ」
ろくに出来もしない散々なゴルフが終わり、アパートに送ってもらった車の中で、疲れ果てた大輝は眠り込んでしまっていた。
「あ、ごめん」
目を覚ました際に、手に持っていたスマホがドアとシートの間に落ちた。
手を突っ込んでも取れそうもなく、ドアを開けシートの下に滑り落ちたスマホを取ろうとした時、小さく光るものが見えた。
それは、金色と銀色の二色でできたハート型のイヤリングの片方だった。
大輝は、それを拾い、
「これ」と俊介に見せると、
「何だ?あ、この前の女のだな。悪いけどどっか捨てといてくれよ」
車で走り去る俊介を見送った大輝は、そのイヤリングを思いきり遠くへ投げ捨てた。
アパートに帰った大輝の頭は混乱していたが、なぜあそこにイヤリングが落ちていたのかは、鈍い大輝にも想像がついた。
そうか、俺も愛梨を呼び出したとは言わなかったが、俊介も俺に言わなかったのか。
俊介との距離が、少しずつ、少しずつ、離れて行くのを大輝は感じていた。
仕事が終わって俊介と飲みに行く機会も、月一回ほどに減ってしまっていたのだが、それは、愛梨の問題のせいではなく、大輝の仕事が多忙になったためだった。
大輝の営業成績は、いつの間にかトップランクになっていて、同時に、顧客からも、後輩からも絶大な信頼を得ていた。あれだけ叱責していた課長も、大輝の力を認めざるを得なくなり、数人の若手の指導を任せるようになったため、大輝は毎日遅くまで会社に残って彼らの面倒を見ていたのだ。
平日はほぼアパートと会社の往復だけになった大輝が楽しみにしていたのは、休日にドトールにコーヒーを飲みに行くことだった。
その日はお昼過ぎだったせいか、店は混み合っていて、二階の喫煙ルームは満席で、已む無く一階に戻って空席を目で追っていると、
「えっ!」
こちらを真っ直ぐ見つめる愛梨と目が合う。
久しぶりに会った愛梨は、本当に好きだったのは、実は大輝だと言った。
あの日、期待して出掛けたにも関わらず、予想もしなかった俊介のことを聞かれてショックだった、大輝の顔を毎日見るのが辛くて会社を辞めたが、やはり諦め切れず、よく行くと言っていたこの店に時々来ていたのだと。
大輝の脳裏に、俊介の車に落ちていたあのイヤリングが蘇るが、口に出すことは出来なかった。
二人は、堰き止められていた水が流れ始めるように自然と会うようになり、その流れのまま結婚した。
そして1年後には男の子が生まれ、勇輝と名付けた。
二人は幸せの絶頂にいた。
エースと呼ばれ、最短で管理職に昇格すると目されていた俊介は足踏みしていた。
営業成績こそ上位を維持していたが、一時のような圧倒的な勢いは見られない。
その大きな理由は、もともと大きな武器だった酒と押しの強さにあった。
酒を浴びるように深夜まで飲み、翌朝、遅刻する、酒臭い息をさせていると顧客から会社にクレームが入る、売るためには価格を落とすしかないと、しつこく課長に食い下がり、そんなに下げたら利益がなくなると諭しても無理やり認めさせる。
いつの間にか、俊介は営業の基本を忘れてしまったかのようだった。
一方の、大輝は全く営業姿勢が変わることなく、コツコツと信頼を積み重ね、価格の要求どころか、担当を替えようものなら、もっとお宅からたくさん購入するから替えないでくれと顧客から課長の元に電話が入るほどだった。
まるで、ウサギと亀だった。あれほど、開いていた二人の差が全く無くなり、今やともに職位は係長で、どちらが先に次の管理職になるかは営業所の注目の的になっていた。
「今日だな」
トイレで隣同士になった、俊介が言う。
「ああ、発表か。そうだな」
「まあ二人とも昇格ってのはないだろうから、どっちがなっても恨みっこなしだ」
「順当に行けば俊介だよ。俺はまだ係長になったばっかりだし」
「まあ、そんなに謙遜するなよ、大輝。ホントは自信あんだろ」
ニヤリとあの得体の知れない表情を見せる。
その日の仕事中、大輝の会社の携帯が鳴った。課長からだった。
「今回は見送りだ。今本社から連絡があった。でもお前なら次は必ず上がれるから。気を落として事故起こすなよ」
予想された結果ではあったが、やはり落胆した。同時に浮かんだのは、俊介のことだった。
あいつはどうなったのだろう。
大輝のスマホが鳴る。俊介からのラインだった。
「大輝、今晩、久しぶりに飲みに行こう」
二人は以前よく通った駅前の焼き鳥屋に行った。
「俊介、おめでとう。良かったな」
大輝が言うと、生ビールを勢いよく一気に飲み干し、ありがとうと、満面の笑みで俊介が言った。
その後はほとんど一方的に俊介が喋り続けた。
俺は元々お前が出来るやつだと思っていた、今の時代に俺のやり方は合わない、課長が精一杯だろう、今後、もし、お前が俺の上司になったらよろしく頼む。
大輝は時折相槌を打ったり、首を振ったりしながら聞いていたが、気分がよほどいいのだろう、何しろ俊介の酒のピッチが早い。呂律も怪しくなっている。
明日もあるし早めに帰ろうと、俊介を宥めて店を出るが、どうしてももう一軒付き合えと言って聞かない。あと1時間だけだぞ、1時間したら俺は絶対帰るからと大輝が言うと、俊介は分かったとすぐ近くのカラオケスナックの扉を押した。
「あら、俊ちゃん。今日は早いわね」
ママが言うが、俊介の酔いは深く、ボックス席のソファに倒れ込む。
「ママ!酒!」
ママがボトルと水割りセットを持ってきて、水割りを作ると、俊介はそれを奪うようにつかみ、一気に飲み干す。
さっきまであれほど饒舌だった俊介が一言も喋らず、ママの作る水割りをただ黙々と飲み続ける。カウンターに一人いる高齢客の歌う演歌だけが響く。
「おい、大輝。お前、俺に並んだと思ってたんだろう」
ニヤリと例のあの目でいきなり俊介が言う。
「そんなことは思ってないよ」
「残念だったな。また差がついちまって」
さすがに、ずっと我慢していた大輝もイラッとするが、
「お前には勝てないよ」と言うと、
「嘘言ってんじゃねえよ。ばーか」とさらに煽ってくる。
「いい加減にしろよ、俊介」と静かに大輝が言うと、
「いい加減とはなんだ!おい、大輝!」
いきなりの怒声に、高齢客の歌声が止まる。
「あのなあ、この際だから教えてやるよ。お前はずっと俺の後を追っかけてんだ。知ってるか。ずっとだ。仕事だけじゃない、愛梨のこともだ」
愛梨と聞いて、大輝は自分の顔色が変わるのが分かった。
「お前、愛梨と結婚して俺に勝ったと思ってんだろ。間違えるなよ、大輝。あいつはな、俺のお古なんだよ」
そう言って俊介はケラケラと笑った。
そこから大輝はよく覚えていない。体中の血液が逆流して目が見えなくなった。
気がつくと、頭から血を流した俊介が呻いていて、自分の右手には割れたウイスキーボトルが握られていた。
大輝は障害事件で起訴されたが、初犯でもあったことから、悔悛の情を示し、示談が成立すれば、不起訴もしくは執行猶予がつくと見られていた。ところが、弁護士や会社の勧めにも関わらず、大輝は頑として示談を拒否したため、俊介の被害の大きさも考慮され、三年の実刑判決となった。
大輝は会社を退職した。
懲戒解雇にならなかったのがせめてもの救いだったが、大輝にとってはもはやどうでも良いことだった。
愛梨は何度も理由を尋ねたが、大輝は事件について一切喋らず、ただ一言、
「別れてくれ」と言った。
もう少し時間をかけて話し合いたいと懇願する愛梨だったが、頑なな大輝の態度に最後は折れ、二人は別れた。
出所の日は、五月晴れの土曜日だった。大輝は、3年前まで住んでいたアパートの近くのドトールでコーヒーを飲みながら今後のことを考えた。
本当は愛梨にも勇輝にも今すぐにでも会いたい。
素直な心はそう叫ぶが、どうしても愛梨に連絡を取る気にはなれなかった。この3年というもの、ずっとそうだった。
自分でも情けないと思うが、愛梨を思い出すたび、あの金と銀のイヤリングと俊介の勝ち誇った顔が浮かんでしまい、それ以上先に進まないよう心を閉ざしてきた。
「弱いことは恥じゃない。逃げることが恥だ」
コーヒーを見つめる大輝の心に、ふいに和雄の言葉が響いた。
俺は、すべてを正面から受け止めて親父のように耐え抜くことが出来るだろうか。
・・・出来る。俺なら出来る。なぜならあの親父の息子だから。
大輝が意を決したそのときだった。
「コーヒー美味しい?」
顔を上げると、そこには小さな男の子を連れた愛梨が立っていた。
驚いて言葉もない大輝の前に、愛梨は椅子を引いて座り、男の子を膝に乗せ、
「僕、大きくなったでしょって。来年小学生だもんね」と、男の子に話しかけるように言う愛梨の瞳から涙がこぼれ落ちる。
大輝が、ハンカチを取り出し渡そうとして気づいた。
愛梨の両耳に光るそれは、あの投げ捨てたはずの金と銀のイヤリングだった。
「おいおい、その子重くねえか」
80歳くらいだろうか、隣のじいさんが、読んでいた新聞を畳み、ハンカチで涙を拭う愛梨に声をかけた。
「ほら、こっち来いよ。なんか難しい話でもあんだろ」
そう言って立ち上がり、空いたカップを持って去って行った。
大輝がその背中を見送ると、じいさんはレジの方に向かって、
「西島ちゃん、また来るわ」と声を掛け、なぜだかドアのところで、
「かあああっ」と大きな声を上げたので、ちょうど入ってきた若い女性が驚いていた。
ドトールな人々 マッチングアプリ
平日はほぼ毎日訪れる倉田百合子のドトール滞在時間は短い。
長くてもせいぜい10分、短いと5分を切ることもある。
ギリギリまで寝ていたい百合子が、出勤前の慌ただしい時間に寄るのだからしょうがないと言えばしょうがない。
母親が入院してから、朝食はドトールになった。
午前8時6分の電車に乗るためには、ドトールを何としても7時50分には出ないと間に合わない。午前7時半開店とほぼ同時に入り、いつも同じモーニングセットを注文する。
食いしん坊の百合子にとって朝食は必須で、もし抜いたり食べられなかったりすると、午前11時には空腹感で仕事が手につかなくなってしまう。
小さい頃からずっとそうだった。
とにかくよく食べた。
1年前に亡くなった父の正男は、百合子同様、相撲取りと間違われてもおかしくないくらい体格がよく大食いだったから父方の遺伝かもしれない。
美味しそうに食べる正男と百合子のために母の豊子は毎日一生懸命料理を拵えた。
豊子は正男が亡くなってからは、心の寂しさを埋めるかのように、ますます百合子のために料理の腕をふるった。
百合子には豊子の気持ちが痛いほど分かっていた。
だから一生懸命食べた。
会社の付き合いで夕食を食べて帰ってからも食べた。
時には豊子に背を向けて泣きながら食べた。
正男はとても優しい父だった。
叱られた記憶は一度もない。無口だがいつもニコニコしていた。
豊子とも大の仲良しで喧嘩しているところを百合子は見たこともない。せいぜいテレビ番組で揉めるくらいで、その時はいつも正男が豊子に譲った。見たくもない韓国ドラマをじっと我慢して見ていた正男の姿が浮かんでくる。
テレビを見ていた百合子や正男が、出てきた料理を見て、美味しそうだねと言うと、レシピなど知りようもない豊子が、自分なりに工夫して必ず作ってくれた。そしてそれはいつも美味しかった。
食事は愛だ。
母の食事に慣れていた百合子は、ファストフードやコンビニ弁当などを食べると体が拒否反応を示す。友人と同じものを食べて、吐きそうになったことさえある。その友人は美味しいと言って食べているにも関わらず。
豊子は冷凍食品や加工食品を一切料理に使わなかった。
料理をするところを見ていると、いつも食材を、可愛い生き物にでも触れるように、優しく繊細に、そして大切に扱った。
包丁を入れるときでさえ、あたかも痛くないようにと心を込めているようだった。
学校へ持って行く華やかで大盛りの弁当は、友人たちから羨ましがられ、いつも百合子の自慢だった。
百合子が短大を卒業して今の会社に勤め始めてから、すでに20年が過ぎた。
顔立ちは決して悪くなく、どちらかと言えば可愛い方と言ってもおかしくない。若い頃は多少標準体重を上回っていても、愛嬌がありいつもニコニコしているぽっちゃり型の百合子は会社の人気者で、同僚や少し上の先輩社員に、付き合って欲しいと言われたことも何度もある。
高校時代のことだ。百合子は一つ年上のバレー部の先輩に本気で恋をした。当時、熱狂するほど大好きだったアイドルに似ていたのが今思えば大きな理由だった。
恋のライバルが数多い中、意を決して告白すると、
「いいよ」
すんなりOKされ、舞い上がった。
初めてのデートはお決まりの映画となり、百合子は先輩に喜んでもらえるかもと、手作り弁当を作ろうと考えた。映画を観た後に、どこか公園のベンチで仲良く一緒に食べる二人の姿を思い描き、胸ははちきれんばかりに膨らんだ。
百合子は、朝早くに起き出し、豊子に手伝ってもらいながら一生懸命弁当を作った。
映画を観終わると二人は移動して公園に行き、木陰のベンチに腰を下ろした百合子は、早速、母譲りの自慢の弁当を開けた。
その途端、先輩の表情が変わるのが百合子には分かった。
最初は、あまりに美味しそうで驚いたのだろうと思っていた。
二口ほど食べた先輩から、
「オレ、いつもメシの後、コーヒー飲むんだよ。コンビニでもなんでもいいからどっかで買ってきてくんないかな」と言われ、百合子は、分かった、食べて待っていてねと言い置き、公園を出て探したコンビニでコーヒーを2つ買って戻ると、先輩の弁当はすでに空になっていた。
先輩は、美味しかったよと言ってコーヒーを飲んだ。
百合子も自分の弁当を急いで食べ、コーヒーを飲んだ。
さあ、帰ろうかと公園を出ようとしたとき、先輩が空になったコーヒーカップを持て余しているのに気づいた百合子が、
「それ、捨ててくるね」と、さっと先輩の手から取って、先程のベンチの近くにあったゴミカゴに捨てに走った。
何気なく中を見た百合子は絶句した。
ゴミカゴには、精魂込めて作った自分の弁当の中身が元あった形のまま捨ててあった。
先輩には何も言えず、家に帰って泣いた。
母ほど上手に作れないのはわかってるよ。
それにしても、捨てることはないでしょ。
嘘までついて。
百合子の心に怒りが宿った。母親の料理がバカにされたような悔しさもあった。
翌日、いつものようにバレー部の練習で汗を流す先輩を、陽が暮れかかった校門で待っていると、
「お待たせ」と爽やかな笑顔で先輩がやってくる。
二人、肩を並べて歩くが、いつもと違い表情が硬く言葉少ない百合子に、
「どうした、なんか嫌なことでもあった?」と先輩が聞いてくる。
「昨日のお弁当のことなんだけど」
百合子は先輩の目を真っ直ぐ見て言った。
一瞬、先輩の目が泳ぐ。
「いや、あれは」
「嘘はやめて」
百合子のピシッと言ったその一言に先輩の顔色が変わった。
「じゃ、言ってやるよ。お前みたいなデブと付き合ってやってるだけでもありがたいと思え。それをあんなクソまずい弁当を、しかもこっちは相撲取りでもねえのにとんでもない量作ってきやがって。太っちまうだろうが」
それっきりだった。
そしてそれが百合子のトラウマになってしまい、どうしても男と付き合う気にはなれなかった。
会社には、3つ下の山下聡美という後輩がいる。
容姿が対照的だったのがかえって良かったのかもしれない。
聡美は、どれだけ食べても太らない体質らしく、背が高く痩せギスで細面の、特に目が少しきつい印象を与える顔立ちだったのだが、歳が近いことや、食べ物の好みが似ていることなどもあって、聡美の入社以来、百合子はずっと仲良くしていた。
そして、その関係は、歳を経るごとに増えてくる、男性社員や若い女性社員からの、疎んじるような視線を共にかいくぐってきた、いわば戦友でもあった。
「絶対、絶対、絶対頑張って定年退職まで一緒にいようね」
二人は、食事や飲みに行くたびに、何度も何度も同じ約束を交わしていた。
夕方、聡美からラインが入った。
「急だけど、今晩空いてる?」
「もちろん!どうせ一人だから予定は真っ白!」
仕事を終えた二人は、いつものイタメシ屋で待ち合わせた。
最初から聡美はなんだかモジモジしている。
そのうち言うだろうと百合子は思っていたが、いつまで経っても言い出さない。百合子の話は上の空で聞いている。ワインはいつもの2倍のスピードで飲み干す。
「何よ。言いたいことがあるんでしょ。遠慮しないで言いなさいよ」
どうせ、いつもの仕事の愚痴だろう。
最近、聡美の上司が代わって、今度のは前にもまして嫌味なやつだと言っていた。
よほどやられたか。
聡美はまだモジモジしている。
「もう!いい加減にしなよ」
さすがに怒った口調で百合子が言うと、
「実はね・・・」
そこまで言ってまた黙り込む。
「あのねえ、聡美」
「分かった、ちゃんと言うから」
そう言って大きく息を吐き出し、
「実はね・・・結婚することになった」
百合子は聡美が何を言ったのか全く理解できなかった。
しばらく沈黙の時間が流れる。
「嘘でしょ」
ようやく百合子が言葉を絞り出す。
「ごめんね。ホントごめん」
聡美は泣き出しそうな表情でそう言う。
冷静さを取り戻した百合子がきちんと話を聞くと、3ヶ月ほど前、遊び半分でやってみたマッチングアプリで知り合った男と、何度かラインでやり取りをした後、思い切って会ってみると、すぐ打ち解けたらしい。相手は48歳で奥さんとは死別、子供はいない、会社を経営し、資産はそれなりにあるが、一人で老後を迎えるのは不安になって出会いを求めたと言う。
「それで仕事はどうするのよ」
「子供が欲しいから・・・。彼も辞めてくれって言うし」
結婚は、夏までにはしたい。会社はキリの良くない4月末で辞めると消え入るような声で聡美は言った。
キリの良くないって?と百合子が聞くと、嫌味ったらしい上司に少しでもやり返したいと言う。
4月末ってことは、あと3ヶ月だ。
5月から私一人?嘘でしょ。あんな連中と一人で戦えるわけないじゃない。まだ定年まで20年近くあるのよ。
聡美の結婚を祝ってあげなくてはと頭では思いながら心はそれに付いていけない。
「おめでと」
ぎこちない笑顔で言って聡美と別れた後、豊子のいない暗い家に一人帰る百合子の足取りは重かった。
週末、百合子は病院に行くが、豊子の様子に変化はなかった。
脳内出血を起こした豊子は、命は取り留めたものの、医師からは、意識が戻る保証はないと言われていた。
正男が亡くなり、豊子がこんな状態になって、今また、聡美が自分から去っていく。
豊子の手を握った百合子の手の甲にポタポタと大きな雨粒のような涙が落ちた。
病院からの帰りに、夕食の買い物をし、ドトールに寄ってスマホを見ながらコーヒーを飲んでいて、ふと思い立ち、マッチングアプリとやらを調べてみる。
「アメリカでは結婚したカップルの約30パーセントがマッチングアプリで出会っている」
「日本でもマッチングアプリの利用経験者は、20歳から49歳までの50パーセントにものぼる」
「恋人や結婚相手をマッチングアプリで探すのは当たり前の時代」
へえ、そうなんだ。あの聡美がやってみようと思うくらいだから、確かにそうなのかもしれない。
男に対しては、ずっと心を閉ざしてきた。それを後悔してはいない。
そう思いつつも、寂しさと一抹の不安がないまぜになって弱くなった心のせいか、誰でもいいから頼りたくなったせいか、百合子の指はマッチングアプリをダウンロードしていた。
待ち合わせは、男に指定された駅の改札だった。
会ってみると、メールで見るより精悍で、年齢の割には若々しい感じがした。
男の行きつけだという焼鳥屋に行き、焼酎のお茶割りを飲みながら話をすると。妙に気が合う。
男は、中垣道夫と言い、49歳で独身、仕事一筋で生きてきたため、恋愛の機会を逃したと言って笑った。身構えていた自分の心が解きほぐされ、温かいもので満たされて行くように百合子は感じた。
2度目のデートの時、百合子は正直に告白した。
「とにかく食べるのが好きなの。だからこんなに太っちゃって」
「全然。太ってなんていないよ。それに僕は、女性が美味しそうに食べる姿は大好きだよ」
中垣は優しく言った後、じゃ僕もと自分の身の上話をした。
東北の田舎に、高齢の母親が一人で暮らしていて、毎月仕送りをしていること、呼び寄せようと思ったが、頑として動こうとしないこと、会社から独立して仕事を始めようと思っていること、その場合、支えてくれる人が欲しいと思っていることなどを朴訥と語った。
それを聞いた百合子も、一年前に父が亡くなり、母も病気で入院していること、自分一人きりになりそうで寂しく不安に思っていることなどを話すと、中垣は真摯な表情で相槌を打ち、大変だったね、と言った。
3度目のデートでの食事中だった。
「百合子さん、僕と結婚を前提にしたお付き合いをしてもらえませんか」
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
百合子は頭を下げた。
食事の後、中垣はさりげなくホテルに誘ってきたが、百合子はもうしばらく時間が欲しいとやんわり断った。
心のどこかにまだ残る男に対する微かな抵抗感に加えて、ブヨブヨの自分の裸が見られることへの羞恥心もあった。
家に帰る電車の中で、お互いもういい歳なのだから、思い切ってホテルに行った方が良かったかな、ちょっと面倒臭い女だと思われてしまったかも、と百合子は少し後悔していた。
その後、中垣と全く連絡が取れなくなった。
何度、ラインしても電話しても返信どころか既読さえつかない。
最初は、この前ホテルを断ったのが気を悪くさせたのだろうか、それとも何か他にまずいことでも言ってしまっただろうかと気に病んだが、どう考えてもおかしい。
病気にでもなったか、事故にでも合ったのだろうか。
住んでいる場所は大まかなもので、正確な住所はまだ聞いていない。
どうしたらいいだろうと思い悩んでみたもののとりあえずどうしようもない。
聡美の様子がおかしい。
聡美が退社するまで残り2ヶ月を切っていた。
やはり結婚に踏み出すのも、長く勤めていた会社を辞めるのも、心が複雑に揺れ動くのだろうと百合子は思い、
「今晩どう?久しぶりに行かない?」とラインを送るとすぐ返信がある。
「ありがとう。じゃ、6時にいつものところで。本当にありがとう」
本当にありがとう?
だいぶ精神やられてるな。しょうがないか。
イタメシ屋に行くと、聡美が待っていた。
表情が暗い。何やら思い詰めている。細い聡美がさらに細くなったように見える。
「どうしたの?大丈夫?まさかのマリッジブルーってやつ?」
百合子が席に着くなり言うと、聡美はテーブルに突っ伏していきなり泣き始めた。
「ちょっと、どうしたのよ」
店員が心配そうにチラチラと見ている。
しばらく聡美が落ち着くのを待つ。
「あのね・・・」
しゃくり上げて言葉にならない。
またしばらく待っていると、ようやく平静を取り戻した聡美がポツポツと話し始めた。
「騙されたの・・・」
「騙された?」
「うん、結婚詐欺だった」
「けっこんさぎぃ!」
百合子は思わず大声で聞き返してしまい、他の客が何事かとこっちを見る。
「ごめん、ごめん、聡美、どう言うこと?」
「だから、お金目当てだったの」
「お金取られたの?」
「・・・うん」
「いくら?」
「500万」
「ごひゃくまん!」
またも大声になり、他の客に見られる。
「それでどうしたのよ」
「警察に捕まった。他にも被害者がいて」
「くうう。やられたね。お金は戻りそうなの?」
聡美は首を横に振る。
「警察が言うには難しいだろうって」
「と言うことは・・・仕事はどうすんのよ」
「・・・続ける」
「続けるって、聡美、あの嫌味な上司にもう辞めるって言っちゃってんじゃないの?」
「まだ言ってない。ギリギリまで待って、言ってやろうと思ってたから。嫌がらせで」
「なるほど。それは不幸中の幸いだったね。嫌味な上司に感謝しなきゃ」
「もう、あいつ、絶対許せない」
聡美が鋭い視線で一点を見つめて言う。ただでさえきつい表情が、深く昏い恨みの色を帯び、昔見たホラー映画の主人公のようだ。
「だよねー。でも、まだそのくらいで済んで良かったんじゃない。高級車をぶつけて全損させたと思えばさ」
本当は分かってるよ、聡美。
お金じゃなくて、その気にさせた男とさせられた自分が悔しいんだよね。
私もあの時そうだったんだよ。
聡美の目にみるみるうちにまた涙が溜まっていく。
「あ、そうそう。その男の写真ってあるの?あったら見せてよ。どんな男か見てみたいわ」
聡美が、スマホを取り出し、指先でなぞった後、百合子に渡す。
「ああっ!」
今度の声が一番大きく、店中がこっちを見る。
その男は、あの中垣だった。
「どうしたの?」
聡美の問いかけに、百合子は泣きながら笑うしかなかった。
その夜を境にして、百合子と聡美は、仲の良い先輩後輩から本物の親友であり戦友になった。
そして新たな約束を交わした。
「どちらかが幸せになるなら心からおめでとうと言う」
「絶対に隠し事はしない」
「万一結婚しても仕事は辞めず、最後の最後まで力を合わせて戦い抜く」
その後まもなくして、豊子は意識を取り戻したが、右半身に強い麻痺が残り、転院して1ヶ月ほど厳しいリハビリ生活を強いられた。
百合子も折に触れ、豊子の元に通い励まし続けた。
「お母さん、よく頑張ってますよ」
リハビリ担当の理学療法士が笑顔で百合子に言うと、ついさっきまで辛い表情をしていた豊子の顔がパッと明るくなる。
40歳前後だろうか。仕事柄なのか無骨な感じの人だが、それにしても豊子のこの表情はなんだろう。家では全く見せたことのない女の顔ではないか。
爽やかな五月晴れの週末、百合子は退院した豊子と二人でドトールに行った。
右半身に軽い麻痺の残る豊子は、杖を付いて右足を引きずるようにしていた。折悪く、1階は満席で、百合子が寄り添うように豊子を支え、二階への階段を上がろうとした時だった。
「ここ、どうぞ」
声のする方を見ると、高校生らしき男女が立ち上がってこっちを見ている。
席を譲ってくれるようだ。
男の子がテーブルの上の本やノートを掻き込むようにリュックに乱暴に突っ込み、女の子はトレーにカップや皿を乗せて片付けると、ペコリと頭を下げて店を出て行った。
百合子は、良かったねと言って、豊子を座らせ、レジにモーニングセットを取りに行った。
「お母さんが入院している間は、毎朝、ここでこれ食べてたんだよ」
「そう、ごめんね。でも、これ美味しいね」
「それにしてもお母さん、お父さんみたいな男の人っていないね」
「そりゃそうよ。私が選んだんだから」
へえ、選んだと言うのは初めて聞いた。
「お母さん、選ぶって言うのはね、たくさん候補があるってことだよ」
「だってお母さん、モテたもの」
百合子の目が点になった。
「何よ。私だってまだまだ捨てたもんじゃないわよ」
凄い。正男の死からも病気からも完全に立ち直ってる。
「参りました」
百合子が頭を下げる。
「あ、そう言えば百合子。私のリハビリ担当してくれてた河野さん、覚えてる?」
「ああ、あの人河野さんって言うの。覚えてるよ」
「あんたのこと気に入ってたみたい。今度会ってみたら。あの人まだ独身だし、悪い人じゃないからちょうどいいんじゃない」
「あ、そう。ふーん」
来週にでも聡美には早めに言っておかなきゃ。
それと豊子が包丁をふるえない今のうちに体重を落とさないとね。
いずれにしても、しばらく二人の朝食はドトールになりそうだと百合子は思った。
ドトールな人々 結婚指輪
本田雄一は、週末になると必ずと言っていいほどドトールに行くようになった。
娘の子育てがあらかた終わり、自由な時間が出来たためだったが、本当の理由は、ネームプレートに西島とあるその女性が自分を覚えてくれたせいだった。
レジカウンターの前に雄一が立つと、彼女は黙ってレジを打ち、クレジットカードの差込口に、カードを入れてくださいと表示され。カードを挿入すると今度は、ほんの数秒ほどでカードをお取りくださいと表示される。雄一がカードを抜くのとほぼ同時に、ブラックのアメリカンコーヒーMが彼女から手渡されレシートは処分される。
ほんのたまに目が合うと、雄一は年甲斐もなく中学生のようにドキッとしてしまう。
30歳の半ばだろうか。それとも落ち着いて見えるだけでもっと若いのかもしれない。
左手に指輪はなさそうだが、仕事柄外していることもありうる。
カードの抜き差しもコーヒーの受け取りも右手だから、左手の結婚指輪に彼女は気づいてないはずだ。
真夏のうだるような暑さが続いていた。
その日も朝から30度をゆうに超える、とんでもなく暑い日だった。
いつものように家で昼食を食べた後、雄一がドトールに行くと、涼を求める客で入り口からはみ出るほど混んでいる。
レジはアルバイトらしき若い女の子で、西島さんは奥の方で何やら忙しなく立ち働いていた。
並んで待っていると、
「1時間以内のご利用に協力お願い申し上げます」と書かれた立て看板が目に入る。
コーヒーを受け取り、何とか一つ席を見つけて座った。
スマホでSNSニュースを見ていると、ラインが入る。娘の遥だった。
「今晩、美咲んちで勉強することになったから」
またか。最近、週末になると友達の家で受験勉強するとか言って泊まりに行く。
「晩ごはんいらない。あと、泊まってくるから」
やっぱり。我が娘を疑うつもりはないが、年頃だけに気にもなってくる。心なしか化粧も濃くなっているようだし。
スマホで、女子高生、外泊と入れてググって見ると、事前に親に言うならそこまで心配しなくても良さそうなことが書いてある。ただ、気になるなら泊まる先の電話番号を聞いてみて、きちんと言うようなら行かせる、そうでないなら行かせないともある。
こういうとき、奈緒子ならどうしただろう。気が強いあいつのことだ。遥が何と言おうがダメなものはダメとか言って一切取り合わないのかもしれない。
どうしようか。聞くだけ聞いてみるか。
「美咲さんの家の電話番号を念のために教えてくれる?」
さらに付け加える。
「何かあったら心配だから」
「もしかして疑ってる?」
ほぼ同時に返信がきて雄一ははたと困った。
「いや違うよ。心配だから」
「何が心配なの?勉強するんだよ」
ダメだ。勝てそうもない。
「わかった。じゃ美咲さんの家に着いたら、無事着いたと連絡入れてくれればいいから」
弱い。それじゃダメでしょと奈緒子に言われそうだ。
遥からの返信は、よく知らないキャラクターがOKと言っているスタンプだった。
雄一が、ふうと一息つきコーヒーを飲もうと手を伸ばしたときだった。
「あのう、1時間以内のご利用にご協力をお願いします」
目の前に男性店員が立っている。
一瞬、自分に言われたかと思った雄一だが、店員の視線は、隣の高校生らしき男女に向いている。彼らは、参考書やノートを開いて勉強していて、すでに滞在時間が長いのだろう。
男の子が、はい、すいませんと、慌てて片付け始めると、男性店員がいなくなるのを見計らい、女の子が小声で男の子に言う。
「まだ大丈夫だって。今度来たらで」
男の子は、ホント?と、一旦、片付けた本やノートをまたテーブルに開く。
その様子に、雄一は、会社ではダイバーシティとかジェンダーレスとか言っているが、この世代は多様性どころかジェンダー逆転しているのではないのかと思ったりする。
15分ほど経ち、先程の男性店員がまたやってきた。
「1時間以内のご利用をお願いしているのですが」
強めの口調に苛立ったのか、女の子が男性店員を睨みつけ逆ギレした。
「分かってるって!出るって言ってるでしょ!」
混雑した店内の客たちが驚いて見守るなかを、女の子は堂々と、男の子は伏目がちにおどおどと、店を後にした。
やっぱり逆転している。間違いない。
その後、家に戻り夜遅くまで待っていた雄一だったが、結局、遥からの連絡はなかった。
翌、日曜日、やはり朝から快晴で気温がぐんぐん上昇する。
さすがに心配になり、遥にラインをすると少し経って既読がつくが返信はない。
いくら相手が父親だからって返信くらい寄越せよなと一人毒づく。
「ああ、疲れた」
用意した昼食も食べずに待っていると、夕方になってようやく遥が帰ってきた。
何か言おうとする前に、シャワー浴びて一眠りすると言ってさっさと風呂場に行く。
夜、起きてきた遥に、晩ごはんどうすると聞くと、焼肉が食べたいと言う。
昔、家族3人でよく言った人気の店に車で行くと、すでに駐車場は一杯で、駐めるだけで20分ほど、さらに店も1時間待ちだと言う。
「腹減ったろ、どうする?」
「うーん。もう口が焼肉になってるしなあ」
「じゃ頑張って待つか」
「うん、待とう」
遥はさっきまで寝ていたためか、それほど腹も減ってないようだが、昼食抜きの雄一は腹ペコで、何でもいいから食べたいというのが本音だった。
結局、1時間以上待たされ、席に着いたのは午後9時近かった。
日曜日のせいか、家族連れが多く店はまだ混み合っている。店員もバタバタと忙しそうた。
腹が減っていることに加えて車で来ているのでビールも飲めない。とにかく何か食べたい雄一は、メニューをさっと見て、店員を呼ぶ注文のボタンを押す。
5分ほど待つが、店員の来る様子がない。もう一度ボタンを強めに押す。
「もう来るよ」
遥がのんびりした口調で言うが、イライラが募ってくる。
さらに5分ほど待たされ、ようやくアルバイトらしき若い男性がやってきた。
「はい、どうぞ」
さっさと注文しろとばかり無愛想に言う。
お待たせしましたの一言もないのか。
イラッとする雄一だが、押さえ込み、いくつか注文をする。
ところが、またも10分近く待たされた挙句やってきた女性店員が、皿をガチャガチャと乱暴にテーブルに並べていく。
ん?僕も遥も大好きなハラミを頼んだはずだが、何だろう、違う赤みの肉のようだ。
「ハラミを頼んだけど。これ、違うよね」
「はい?」
「いや、だから。これハラミじゃないでしょ」
「注文受けたの私じゃないから・・・」
「君じゃなくても違うものは違うんだ!さっさと替えて来い!」
雄一の頭の中で女性店員と昨日の女子高生とが重なり、カッとなってつい怒鳴ってしまった。
女性店員は、すいませんと小声で言って肉の皿を持って走って行った。
「パパ、最低」
頬杖ついた遥が雄一を蔑むように言った。
「ごめん。ついカッとしてしまった」
しばらくして先程の女性店員と店長が二人でやってきて謝罪し、雄一は、僕の方こそ声を荒げて申し訳なかったと謝った。
雄一は、昨日のドトールでのこと、返信をくれなかった遥に不満を持っていたこと、腹が減ってイライラしていたこと、さっきの彼女がドトールの女子高生とイメージが重なったことなどを正直に話した。
「私もごめんなさい。パパに甘えてた。でも嘘はついてない。ずっと美咲と勉強してたから」
「うん、そうか」
「でも、その女子高生はひどいね」
「遥だったらどう?」
「どうって、絶対するわけないじゃん。だってバチ当たりたくないもん」
「バチ?」
「ママがよく言ってたもん。人に迷惑かけたり心配かけたりしたら絶対バチが当たるって。さっきのもパパを心配させたバチが私に当たったんだよ」
「へえ」
バチか。あっという間に大人になったと思ったが、まだまだ子供なんだな。
奈緒子、遥は素直に育っているぞ。心配いらないよ。
「パパは再婚しないの?」
食事の途中で遥が急に言い出す。
「な、なんだ?」
「もうそろそろいいんじゃない?私、平気だよ。きっとママだって許してくれるよ」
「そんなこと言ったって、相手がいなきゃどうしようもないだろ」
そう言いながら、西島さんの優しげな笑顔が浮かぶ。
その夜、雄一と遥は、美味しい焼肉を腹一杯食べ、楽しい時間を過ごした。
会計すると、ハラミ一人前の代金が値引きされていた。
次の土曜日もやはり朝から蒸し暑い日だった。
夕方、ドトールに行くと、またもやレジに多くの客が並んでいて、シフトのせいか、今日も西島さんは奥にいる。
席に座って、何気なく店内を見渡すと、いるいる、またもやあの高校生カップルが。ちょうど、またあの男性店員が彼らに声を掛けている。
よくまあ毎回、毎回、懲りないものだと思った矢先だった。
「こら!いい加減にせんか!とっとと出てけ!」
店内に怒号が響き渡った。
高校生カップルの隣に座って新聞を読んでいたお年寄りがいきなり彼らを怒鳴りつけたのだ。
その有無を言わせない余りの迫力に、2人は一瞬固まったあと、男の子は、すいません、すいませんと言いながらオロオロと本などを片づけ出し、女の子は泣き出してしまう。
え?バチが当たったのか?
「ワタナベさん、ダメでしょ。怒鳴っちゃ」
西島さんが駆けつけてきて、女の子を落ち着かせようと背中をさすり始めた。
「すまん。ちょっと声が大きすぎたか」
ワタナベさんは、申し訳なさそうにかすかに残った白髪頭を掻いている。
「ワタナベさん、店のことを思ってでしょうけど、やり過ぎはバチが当たりますよ」
悪戯をした幼い子供を優しく嗜めているような言い方だ。
西島さんが、そばにいた女性店員に指示して二人をスタッフルームに連れて行かせ、客を見回して言った。
「皆さま、お騒がせして申し訳ございませんでした。どうぞ、引き続きごゆっくりなさってくださいませ」
「お、いけねえ。俺ももうすぐ1時間だ。バチが当たらねえうちに帰るとするか。じゃな」
そう言うと、ワタナベさんはそそくさと店を出て行った。
翌日の日曜日、朝10時前にドトールを覗くとレジに西島さんがいた。
よし。
西島さんはいつものように、雄一の顔を見ると何も言わないでアメリカンコーヒーMを渡す。
すかさず、雄一がいつもは貰わないレシートを下さいと言うと、
「あ、はい」と、少し怪訝な表情をする西島さんの前で、家から持ってきたボールペンでレシートの裏に、走り書きをする。
「もし良かったら連絡ください。本田雄一○○○-○○○○-○○○○」
レシートを押さえる雄一の左手に指輪はない。家に置いてきたからだ。
さっとレシートを二つに折り、西島さんに渡す。
席に座って、ドキドキが収まらないままコーヒーを飲んでいると、スマホが鳴った。見るとショートメッセージだ。
「今度の日曜日は休みです。西島」
やった!
「かあああっ」と何だかよくわからない声だか音が聞こえてきたが、スマホを見つめ続ける雄一には全く気にならなかった。
ドトールな人々 ナベさん
もちろん暇になったからだ。
他に行くところがないし、やることもない。
昨年6月に定年退職してから、1年近くが経とうとしているが、この数ヶ月はほぼ毎日だ。
孝の会社の同期の10人に9人はシニア雇用とかいう、給料が半分以下になるが65歳まで働けるっていう仕組みに乗っかって会社にしがみついている。
しがみついているって言うのは少しばかり言い過ぎかもしれない。事情があって辞められない者もいるからだ。ただ、孝から言わせれば、ほとんどの同期は単にやることがないという理由で会社に残っている。
スパッと辞めた孝からすると、そんな彼らに腹が立つ。
たまに彼らと飲んだりすると、いま何やってんだ?暇だろう、どう時間潰してんの?が、挨拶代わりだ。そのうち、会社がああだ、こうだって、孝の知りようもない話を得意げにし始める。
辞めた当初は、やりたくもないつまらない仕事して、そこそこのカネを有り難く貰えればそれでいいって、なんとも情けない奴らだと思っていた孝だった。
それが、まさか一年も経たないうちに一生懸命ハローワークに通って再就職先を探すなんて、孝自身思ってもいなかった。
会社からの開放感を感じていたのは、せいぜい失業保険を貰っている間だけで、そのうち、時間が有り余るようになると、社会から取り残されるような恐怖感を感じるようになる。お前は何の役にも立たない人間だと言われているようにも思えてくる。
会社なんぞに未練はない。それだけははっきり言える。しかし、40年近くを転勤族で過ごして仕事しかして来なかった孝には、これといった趣味もなければ、東京に友人と言える付き合いもない。
で、結局は時間を持て余して鬱々とする姿をカミさんに見られたくなくて、その目を避けるように家を出る。行く場所はハローワークかドトールだがどこに行くとは言わない。カミさんも何かを察しているのか、どこに行くのと孝には聞かない。
なんとも情けないがそれが今の孝だった。
いつ、そのじいさんに気づいたか、孝は覚えていない。
80歳前後だろうか、いつも一番奥の左手の壁際に座っているそのじいさんは、新聞を広げていて、5分に1回は大きな音で「かあああっ」とやる。
最初はなんだろうと思った。喉に絡んだ痰を吐き出すときのような音だ。ただ、音はするが痰をどこかに吐き出すことはしない。
気になるのは俺だけか。そう思った孝は周りを見るが、不思議と気にしている様子はない。
あまりに繰り返すその音にイライラし、2階に上がろうかと何度も思うが、孝は2階があまり好きではなかった。
以前、1階が混んでいて止むを得ず2階に行ったことがあるが、すぐ近くにある喫煙ルームにいればいいものを、吸う時だけ行く者が結構いて、戻ってくるたびにタバコ臭い匂いを撒き散らすのに辟易したからだ。
どっちが嫌かの選択になるが、結局は「かあああっ」を我慢する。
ドトールには他にも困った客がいて、それは、保険屋とか株屋の類だった。
彼らは、大体30半ばの男と20後半の女のセットで来て、本来、二人掛けの机を2つくっつけ四人席にし、客を呼んで事務所がわりに使い始める。
その日も待ち合わせの客が来るまでの間なのか、男はそこそこの声でずっと携帯で何やら話し、女はパチパチと耳障りな音を立ててパソコンを叩いていたのだが、彼らが不幸だったのは、隣にあのじいさんがいたことだった。
じいさんはいつものように、「かあああっ」と定期的に繰り返しつつ新聞を読んでいたのだが、話し続ける隣の男の携帯電話にさすがに業を煮やしたのか、
「こら!電話はやめんか!」と大声で男を一喝した。
電話をしていた男は、じいさんの余りの剣幕に、即座にすいませんと謝り、そそくさと逃げるように電話を持って店を出て行き、女の方は素早くパソコンを閉じた。
孝は、心の中で快哉を叫んでいた。
やるなあ、じいさん。自分を棚に上げて。
毒を以て毒を制すとはこのことか。
数日後のドトールは結構混み合っていた。
うわ、じいさんの隣しか空いてないのか。しょうがない。2階に行くか。
孝が、階段に向かうと、ちょうどレジで後ろにいた女性が先に上がっていく。嫌な予感がする。
案の定だった。その女性で2階もちょうど満席になってしまった。
覚悟を決め、じいさんの隣にもぐり込む。文字通りもぐり込むのだ。なぜなら新聞を広げているからだった。
時折響く「かあああっ」にビクッとしながら、スマホ片手にコーヒーを啜っていると、一人の小柄なじいさんがやってきて、
「よう」と言って、じいさんの前に座った。
「おう、ツルタ、久しぶりだな」とじいさんが新聞をたたみながら答える。
二人は古い友人なのか、会うのは久しぶりのようだった。
「ナベ、元気だったか」
じいさんはナベと言うのか、つまりワタナベか。
「まあな。何とかこうやって生きてるよ」
「しかし、ナベ、お前会社やめてからこっち、俺たちの集まりにも来ないで何やってたんだ」
「ん?そうだな。やりたいことやって、見たいもん見て。まあ、今は、見ての通りブーラブラだ。かあああっ」
「結局仕事もせずじまいか」
「そんなもんするわけねえだろ」
「たく。お前は変わらないな」
「そう言うお前はどうなんだ、ツルタ」
「55で定年した後は70まで嘱託で勤めたよ」
「てことは、9年前まで働いてたってわけだ。大したもんだ。面白かったか」
「面白いわけないだろう。仕事なんだから」
「へえ。面白くもないのに70まで働いてたのか。へえ。ご苦労さんなこった」
「みんなそうやってしょうがなく働いてんだよ」
「で?今何やってんだ?」
「何って、何にもしてないよ。暇してるよ」
「じゃ一緒じゃねえか。バカ」
思わず孝は吹き出しそうになった。掛け合い漫才か落語を聞いているようだ。
「だから昔っから俺が言ってたろう。どうしても食うに困るんなら我儘言ってらんねえ。どんな仕事もやるさ。でもな。そうじゃなきゃ残り少ねえ人生、死んだように送ってどうする。いいか。人生ってのは人が生きるって書くんだぞ。かあああっ」
ナベさんの分かったような分からないような話にツルタさんが急にしんみりする。
「悔しいがお前の言う通りだったよ。やっと女房を旅行にでも連れてってやろうかって矢先に死んじまったからな」
「なに!キミちゃん、死んだのか?いつ?」
「もう10年になるよ。俺が仕事辞める前の年だから」
「そうかあ。そりゃ残念だったな」
「子宮がんでな、見つかった時は手遅れだ。旅行どころじゃないよ。何とか延命治療ってんでやったんだが、苦しいばっかでさ、可哀想だったよ」
「9年も前だとそうかもな。今は随分がん治療も良くなってるみてえだが」
「何だ、詳しいような口ぶりだな」
「俺も、ほら、去年、やってっから」
ナベさんが自分の胸を指さす。
「何?肺がんか?」
「ああ。でもこの通りピンピンだ。やっぱり仕事なんかせずに好きなことやってたのが良かったんだな。かあああっ」
「何だ、さっきから。痰でも絡むのか」
「いや、肺切るまではずっと痰が絡んでたんだが」
「違うのか、じゃ今のは何だ」
「そん時の癖だ。直んねえ」
癖!あれは癖だったのか。しかも肺がんの時の。
「そういえば、ハルコさん、どうしてる?元気か?」
「ああ、おかげでな。もう80だってのに週3日ばかり働いてるよ」
「働いてる?どこで?」
「掃除婦ってやつだ。体動かしてるのがいいんだってよ」
「へえ、そりゃ大したもんだな」
「何が大したもんなんだよ」
「ナベ、今は人生100年時代なんだぞ。まだあと20年もあるんだぞ」
「そんなもん、俺の知ったこっちゃねえ。世間が勝手に言ってるだけだろうが」
「何にもやることないんだろ。不安にならないのか」
「あれからこっち、ずっとやることなんかねえよ。だけど、こうやって生きてるじゃねえか。何が問題なんだよ。たく、お前は昔っから先、先ばっかし心配してやがって。かあああっ」
そこへ、店員の女性がやってきて、孝の隣の客が帰った後のテーブルを拭いた後、
「あら、ナベさん、珍しいわね。お友達なんて」と言うと、
「西島ちゃん、お友達なんて洒落たもんじゃねえよ、腐れ縁ってやつだ」
「はいはい、まあ、ごゆっくり」
西島さんという女性店員はレジの方に戻っていく、
「まあいいや、ところでナベ、まだ時間あるか」
「なきゃこんなとこにいるかよ」
「そろそろ昼だろ。その辺で一杯どうだ」
「それもいいが、俺んとこ来いよ。久しぶりにお前の顔見りゃ女房も喜ぶしな」
二人のじいさんは、揃ってドトールを出て行った。
翌日、孝はハローワークに行くのをやめた。
そして、家を出るときに言った。
「ドトール行ってくるよ」
あ、そう、気をつけてとカミさんは孝に言った。
エッセイ 雪の顔
二十年ほど前、転勤で札幌に数年暮らしたことがある。
最初の冬、初めて雪虫を知った。その名の通り、雪と間違うくらい白く小さな虫がフワフワ大量に舞い、雪の訪れを知らせるのだ。
雪にはいくつもの顔がある。
僕は、静まり返った早朝の銀世界が大好きだった。
幻想的で、荘厳で、稀に、厚い雲の切れ間から一筋の光が差し込む時などは、思わず息を呑むほど美しい。
仕事の終わった夜、雪の無人駅のホームで、一人いつまでも来ない電車を待つ。
世界には暗闇と降りしきる雪と自分だけ。
これほどの容赦のない孤独を感じたことが果たしてあっただろうか。
ただただ永遠とも思える時間だけが過ぎていく。
冬の朝、高速道路を岩見沢市へと向かっていると、徐々に雪が激しくなり、ついには猛吹雪になった。
白、白、白。
他には何も見えない。時折、猛烈な雪を撒き散らして大型トラックが走り抜ける。手汗と背中を流れる汗が半端ない。
こういう時、低速で走り続けろと聞いていた僕は、何ものも見逃すまいと、ハンドルに覆い被さるようにして走っていたが、あっと思った時はすでに遅かった。
前を走る車の赤いテールランプが微かに目に入った瞬間、咄嗟にブレーキを踏むと、車は右に大きくスピンし、ガードレールに衝突して、反対方向を向いて止まった。
パニックになった僕の視界に大型トラックが迫るのが見え、必死にパッシングを繰り返すと、トラックは轟音と共に僕の横をすり抜けて行った。
死は思いの外、身近にあると知った。
僕は、平日は出張で家を留守にしていたので、冬の週末は溜まった雪掻きが主な仕事だった。
ある日、出張から帰ると、家の前が格段に綺麗になっている。
カミさんは、近所の一人暮らしのお爺さんが掻いているのを見かけたと言うので、お礼に伺うと、ランニングシャツ姿のそのお爺さんは、照れた表情で、なんもさあと言った。
そしてそれは、カミさんの雪掻きが一人前になるまで黙々と何度も繰り返された。
豪雪で知られる深川市での仕事の折、腰の曲がった高齢の小柄な女性がやってきた。
大雪の降る夜だった。
三時間かけ電車とバスを乗り継いで来たと言う。
こんな日にありがとうございますと言うと、なんもさとニッコリ笑った。
その笑顔に胸が熱くなり涙が込み上げた。
猫が行方不明になった雪の夜に助けてくれた近所の人々に、菓子折りを持ってお礼に回った際の一言が今も忘れられない。
「お互い様っしょ。こんなことするならもう二度と手伝わないからね」
雪が見せてくれる顔は、そのどれもが非情なまでに真剣だ。
雪は本気なのだ。だからこそこの上なく美しく、とてつもなく厳しい。
人の中途半端な感情などに左右されないし、雪の前では全く無力で小さい自分を徹底的に思い知る。
そういえば、初雪前に大量に街を舞い、時折、口や鼻や目に飛び込んでくる、あの可憐な白い雪虫は、アブラムシの一種である。
このあたりもある意味厳しく、甘くはないのだ。
ちゃちゃ
パパは、クリスマスの日の夜、今度は札幌だよと言った。そして、1月10日が公示だから、引っ越しはその後だなと続けた。
私は中学1年生、2人の妹は小学4年生と1年生だった。
登校最後の日、いざ前に立ってみると、クラスのみんなの顔がまともに見られなくて、あれも言ってやる、これも言ってやると決めていた話は何一つ出来ないまま、声が小さくなるにつれて、顔もだんだん下を向いてしまった。
吉田美幸先生は、転校するのが寂しいのだろうと勘違いして、優しく私の肩を抱いてくれた。
引っ越しの日、朝から妹たちの大の仲良しの朋美ちゃんや加奈ちゃんがやって来て、二人はずっと泣いていた。
私は泣かなかった。
ママとパパは、「強くなったね。さすがお姉ちゃん」と褒めてくれた。
でもそれは違う。2度目の転校だったし、もう中学生だし、お姉ちゃんだけど、それは違う。悲しくなかったから泣かなかっただけだ。
本当のことを知っていたのはちゃちゃだけだった。
ちゃちゃは、聞き上手で、余計なことは言わず、ときには優しく慰めてくれる最高の相談相手だったから。
ちゃちゃ、私、不安で不安でしょうがないよ。
今度は友達できるかな。
またいじめられたらどうしよう。
ちゃちゃは、きっと大丈夫だよ、と私の鼻をちろっと舐めてくれた。
ちゃちゃは、5年前に静岡県浜松市から三重県津市に引っ越してすぐの頃、パパが拾ってきたメスの三毛ネコだった。
道端で佇む子ネコが、車のヘッドライトに一瞬映し出され、一旦は通り過ぎたが、やっぱり戻って拾ってきてしまったと、ネコの嫌いなパパは言い訳するように言った。
冷たい雨が降る夜だった。
大のネコ好きのママは、しょうがないわねと言いながら、想定外に飼うことになった子ネコをタオルケットにくるんでその濡れた小さな体を優しく拭いていた。
私たち姉妹は当時大好きだった、赤ずきんちゃちゃという漫画から、ちゃちゃと名付けた。
ちゃちゃはミルクもあまり飲まず、下痢が止まらなくて、ママが動物病院に連れていくと、お腹に虫がいると言われて薬をもらってきたが、回虫症とかいう子ネコによくある病気で、死ぬようなことはないと聞いて私たちは胸を撫で下ろした。
私たち姉妹とちゃちゃは一緒に大きくなっていった。
ちゃちゃは大きくなってもとても憶病で、外に出してあげてもすぐ帰って来るし、他のネコが庭に現れようものなら、あっと言う間に2階の部屋の片隅に逃げ隠れてしまうくらいだった。
パパは、あんな小さなときに、親と引き離されて、捨てられて、冷たい雨の中で寂しく泣いていたから憶病になっちゃったんだよと言った。
ちゃちゃはとても優しくもあった。
当時パパは仕事が忙しく、いつも疲れた顔をしていて、そのせいか、よくママと口喧嘩をした。そんなとき、必ずちゃちゃはそっと動いてパパとママの間に座っていたのを私は知っていた。
ちゃちゃは仲裁しているつもりだったのだ。
なぜなら、私と妹が喧嘩したときもいつもそうだったから。
札幌へ行く日、ケージに入れられたちゃちゃはぐったりしていた。
憶病なちゃちゃは乗り物が大嫌いだったから、動物病院で麻酔の注射をしてもらって運ぶためだったが、私たちは心配で心配でしょうがなかった。
札幌に着くと大雪で、新しい家に荷物を入れるのも大変そうだったが、私と妹たちは、雪が珍しくて庭に積もった雪をかけ合ったりして遊んでいた。
ちゃちゃがいなくなったのはその引っ越しの最中だった。
大きな荷物は、庭から入れるために窓を開けたり閉めたりしていたので、気付かぬうちにそこから逃げたのかもしれないとママは言った。
パパはそのうち帰ってくるよと言ったし、私たちも臆病なちゃちゃのことだからそうだよねとそれほど心配していなかったのだが、その夜どころか次の日もちゃちゃは帰ってこなかった。
ママは私がもっと気をつけていたらと泣いた。
人目も憚らずにあんなに泣くママを見たのは初めてだったので、ママもちゃちゃに助けてもらっていたのだと初めて知った。
動物病院の先生は、庭から出たときに他のネコとか車とかに驚いて逃げたのかもしれない、最初の1週間くらいは、半径200メートルくらいのどこかに隠れていると思うが、それ以上過ぎるとどこかもっと遠くに行ってしまうかもしれないし、この雪なので餌がないと死んでしまうかもしれないと言った。
それを聞いたママは次の日の朝、よく眠れなかったのか、泣いていたのか、目が充血していた。
次の日も、その次の日もちゃちゃは帰ってこなかった。
北海道特有の長い冬休みが終わり、札幌の新しい学校へ行く日が近づいていたが、私は、ちゃちゃがいないことが寂しくて、悲しくて、不安で不安でしょうがなくて、とても学校に行く勇気が持てなかった。
ママとパパと私は、毎晩、厚着をして長靴を履いて、懐中電灯を持って雪のなかを捜して回ったが、姿どころか、どこのネコかも分からない雪の中の足跡しか見つけることができず、冷え切った体に落胆が重くのしかかった。
ママのお願いで、パパがパソコンで作ってくれた、ちゃちゃの名前と写真入りのポスターを持って、私とママは、近所の家々や食品スーパーやラーメン屋、美容院からガソリンスタンドなどのお店まで、ちゃちゃのようなネコを見かけたら連絡をくださいとお願いして回った。
ママは私と同じく、どちらかというと引っ込み思案で、人前では物怖じするタイプだと思っていたけど、手当たり次第と言っていいほど呼び鈴を押して、出てきた人にどんどん話しかけていく。
お店なんかにも、他にお客さんがいようが関係なく、お構いなしにずんずん入っていって、ポスターを押し付けるようにして説明する。
ママっていざとなったら凄い。
ちゃちゃがいなくなって6日目の夜、ママはとうとう玄関に布団を持ってきて寝ると言い出した。それまでも、いつちゃちゃが帰ってきてもいいように、玄関ドアはずっと開けっ放しだったし、灯りも点けっぱなしだった。
札幌の家は大体、冷気が入らないように玄関は2重ドアになっていて、内側の扉はガラスの引き戸になっていたから、ママは、玄関で寝ていればもしちゃちゃが帰ってきてもすぐ気づけるでしょと言った。
パパはずっと寝不足で疲労の色が濃いママが心配で、さすがにそれは止めろよ、体に悪いよと何度も止めたが、ママは頑として聞かず、パパは弱々しくソファに座り込んでしまった。
ちゃちゃは、翌日の朝、ひょっこり帰ってきた。
私たちはママの歓喜の叫びを聞いて、まさかと思い、2階の部屋から転げ落ちるように階段を駆け下りると、痩せて一回り小さくなったちゃちゃがそこにいた。
ちゃちゃを見た私が泣き出したので、妹たちもつられるように泣き出した。
ママは毛布を持ってきて、ちゃちゃを包んで抱き、寒かったね、お腹すいたねと何度も言いながら優しく撫でた。
ママからのラインでちゃちゃが戻ったと知ったパパは、それこそ飛ぶように仕事から帰ってき
て、ちゃちゃを大きな手で優しく抱いて、ママと同じように、寒かっただろう、ごめんなと何度も言って撫でていた。
パパは私たちにずっと顔を背けていたからきっと泣いていたのだと思う。
その夜、パパは近所にある回転寿司のお店で、家族5人では食べきれないほどの寿司を買ってきて、ちゃちゃ生還のお祝いをした。
さすがに北海道のいくらやカニは飛びっきり美味しくて最高だったけど、ママも私たちも苦手なウニだけは、パパが大喜びで食べていた。
ちゃちゃが帰ってきた喜びと明日から始まる学校が楽しみでしょうがない妹たちは、風呂を出た後、きゃあきゃあとハイテンションで家の中を駆け回っていた。
妹たちの甲高い声にびくともせず、居間のソファの上で気持ち良く寝ているちゃちゃに、
「お前は、憶病だけど強いやつだな」とパパがぼそっと言った。
夜、ベッドに入ってはみたものの、なかなか寝付けない私のところに、ちゃちゃがそっとやって来た。
翌日、雪のなかを歩いて新しい学校に登校した。
担任の先生に連れられて、教室に入り、紹介された。
私は、ちゃちゃに言われた通り、胸を張ってクラスのみんなを正面から見て、ちゃんと最後まで大きな声で挨拶した。
そして、自分の好きなアイドルと好きな食べものと家族とちゃちゃの話をした。
席に着くと、隣の女の子が、
「うちにもネコいるよ」
と、嬉しそうに話しかけてきた。
了