てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

ドトールな人々 タバコ

 

 ドトールの2階には喫煙ルームがあり、そのすぐ近くに挙動不審な男が座っている。

 男は、35歳の竹下良平というこの街でも有名な資産家で、誰もが知っている大豪邸に住んでいた。とはいえ、良平がその豪邸で住み始めたのはまだ3年前のことだったし、帽子を目深に被ってサングラスをしたその挙動不審な男が、その家の主人だとは誰も気づかなかった。

 とにかく良平はタバコが吸いたかった。

 それなら、喫煙ルームでコーヒーを飲めばいいようなものだが、良平はそうしない。タバコの煙が嫌なのでもない。喫煙ルームに入って、5口ほどでタバコを一本喫うと急いで出てくる。5分ほどすると、また同じことを繰り返す。時々、キョロキョロ辺りを見回す。そうやってタバコを5本ばかり喫うと満足気に帰っていく。

 

 良平の元の姓は、佐野と言った。

 高級インテリアの輸入販売業を営み、都内でも銀座本店の他に、青山や六本木、赤坂といったセレブリティな場所に店舗を構え、多くの財界人や芸能人などとも交流のある、竹下詩織と出会ったのは、まだ昨年末のことだった。

 一人娘の詩織が、急逝した父の事業を引き継いだのは10年も前で、何不自由ない気ままなOL生活を満喫し、そろそろ結婚相手でも探そうかと言う28歳の時だった。

 詩織には、父親譲りの経営の才があったのか、慣れない仕事ながら着実に事業を拡大していったのだが、気づいた時にはすでに世間的な結婚適齢期を過ぎていた。

 決してブスでもなく、スタイルも良い詩織だったが、目元と口元に表れている生来の負けん気の強さは隠しようがなく、ビジネスの交渉では得をしても、恋愛には不向きと言わざるを得なかった。

 男どもが尻込みする中で、ただ一人平然としていたのが良平だった。

「佐野さん、あなたご趣味は?」

 婚活パーティの席上で、派手なドレスを身に纏った詩織が、組んだ足を解こうともせず聞くと、

「いえ、特にはないんです」と、良平は興味なさげに言う。

 それもそのはずで、30代限定のこの婚活パーティに良平が参加したのは、特別、結婚相手を見つけたかったわけでもなく、参加費を払ってくれると言う、開業医の息子で金回りの良い友人の誘いに付き合っただけだった。

 良平は、育ちのせいか、生まれつきなのか、ずっと刹那的な生き方をしてきた。

 女性に関しては、カラダか金が目当てだったし、仕事は給料が良く楽な方に転職を繰り返し、友人でさえ自分に得になるかどうかで選んでいた。

 参加費が男性8万円、女性5万円と高額なだけあって、皆、着ているものから、身に付けているアクセサリー、時計や靴の類まで、そのような高級品にはあまり縁のない良平でさえ一目で分かるほどレベルが高い。

 その中でも、この女は特別だな。

 良平は、6歳年上の詩織を見てそう思った。

 私は負けず嫌いですと言わんばかりのメイクの濃い顔、大きな胸をこれみよがしに強調したドレス、腕には、ダイヤの散りばめられた派手なフランクミュラー、こんなに分かりやすい女はいない。

「どんな女性が好みかしら?」

 もちろん、分かってやっているのだろう、少し、前屈みになり胸の谷間を強調する。

「いえ、それも特にはないんです」

 良平は相変わらず興味を示さない。

「あなた、こんなところに来てるのに、女性に興味がなさそうだけど、お金にも興味はないのかしら」

 この一言で、良平は詩織に惹きつけられた。

「いや、お金には興味があります」

 正直に、良平が言うと、

「そうよね。ふふふ。正直でいいわ。じゃ、今日私とカップルになりなさい。いい?」

「いいけど」

「OK。じゃ、もう一つ。あなたタバコを喫うでしょ。しかもヘビー。さっきから見てると、何度も出ていくのはタバコを喫うためよね」

図星だった。

「今晩私といる間はタバコをやめて」

「分かった」

 良平は30分と我慢できないヘビースモーカーだったが、詩織への興味が勝った。

 その後、いくつかのイベントをこなした後、告白タイムを経て、二人はめでたくカップルとなり、良平は、友人やその他大勢の結ばれなかった参加者たちが拍手で送る中を、詩織を連れて会場を後にした。

 その夜、ホテルで2回目のことが終わった後、詩織が言った。

「どうしてあなたを選んだか教えてあげる。見た目よ。それだけ」

「見た目?」

「そう。あなたってあと10歳若かったら、ジャニーズのアイドルでもおかしくないでしょ」

 確かに、詩織の言う通りで、良平は学生時代からよくモテた。そのため、一時はホストにでもなろうかと思ったほどだった。

「私はね、あなたが思う以上にお金持ちなの。それにね、この国を動かしているような著名人とも付き合いがあって、しょっちゅう、会食やパーティに行かなきゃいけないわけ。わかる?」

「うん、なんとなく」

「そうするとね。いるわけよ。連れてくる男を自慢げに見せびらかす女どもが」

「恋人ってこと?」

「違うわ」

「じゃあ旦那?」

「まあ一応」

「一応って?」

「一種の金持ちの遊びというか、自立した女の究極の道楽というか」

「よくわからないけど」

「まあいいわ。でね。あなたにもそうなって欲しいのよ」

 

 まもなく、良平と詩織は、契約結婚をした。

 婚姻期間は、3年間で、3年経った時点で、二人が合意すれば延長、どちらかが拒否すれば契約終了となる。契約一時金は、1,000万円で一時金とは別に、毎月、50万円が支給される。もちろん詩織から良平にだが。

さらに詩織は良平に3,000万円で特約を提案した。しかも、この特約は、3年間守ったら支払われ、破ったら罰金として、支払われないどころか逆に取られるという内容だった。

「夜の営みは、週3回必ず、それに、タバコをやめること」

 週3回!

 詩織の性欲が半端ないのは、付き合ってよく分かったが、それにしても週3回とは。

「週3回ってほぼ1日置きだろ。付き合いとか仕事とかなんかで色々あって出来ない時はどうするんだよ」

「週末にまとめてすればいいのよ」

 平然と詩織が言い放つ。

 良平は、頭で想像して、何とか頑張ればいけるかと判断したが、問題はもう一つの方だった。

「タバコは何とか認めてくんないかな」

「だめ」

「家の中や君の前では喫わないから」

「絶対だめ」

 頑として譲ろうとしない。

 良平は結局、3,000万円の魅力に負けた。3年間、我慢すれば、合計で5,800万円手にすることが出来るのだから。

 

 良平は新たな生活に順応しようと必死で頑張った。

 何しろ大金がかかっている。

 特に、週3回とタバコの特約を破れば、全てが水疱に帰す。それどころか、逆に3,000万円を払う羽目になってしまう。改めて良平は特約の怖さを思った。

 結婚当初は、自分の仕事もしていたが、残業で夜遅くなったり、付き合いで飲みに行ったりすると、詩織と出掛けるセレブとの付き合いと相俟って疲れが溜まり、夜のお勤めが困難になり始めた。なにしろ平日に一回パスすると、地獄の週末が待っている。ダブルヘッダーどころか、三連戦もありうるのだ。

 とはいえ、元々それほど夜の強い方ではない良平にとっては、日を追うごとに体力的にも精神的にも厳しくなり、徐々に追い詰められていく。

このままではまずいと思った良平は、とうとう自分の仕事を辞めた。

 時間に余裕のできた良平は、昼間はジムに行って体を鍛え、セレブのパーティで会った人の名刺を管理し、特徴付けて忘れないようにした。さらに経済や時事ネタにもついていけるよう、日経新聞を隅から隅までまで読み、専門用語を学ぶため図書館にも通った。

元々単なるイケメンだった良平が、体が絞られて精悍さとバイタリティが増し、会話も洗練されてくると、詩織や周囲の目も変わってきて、それなりの自信も芽生えてくるようになった。

 2年も経つと、良平はセレブ仲間の中でもよく知られる存在になり、見た目もさることながら、付き合いが良く時間の自由が効く良平は、財界人の夜のお供や、若手芸能人との遊びに誘われることが多くなった。

 良平の交友関係は人から人へとどんどん広がる一方で、今度は詩織との特約が重くのしかかる。

以前の自分の仕事の際の残業や夜の付き合いの比ではない。

ハワイでゴルフしようとか、クルーザーで釣りに行こうなどという誘いは、さすがに断っていたが、飲みに行けば、とことん飲まされ、ゴルフに行けば早朝から運転手をさせられ、麻雀に付き合えば徹夜になった。

週3回の約束が先へ先へとどんどん振り替えられていくと、週末だけではどう頑張っても足りなくなり、何も予定のない平日の夜が連日ダブルヘッダーなどというAV男優のような地獄の日々になる。

それでも必死に何とかこなしながら、約束の3年までようやく残り1ヶ月を切り、先が見えてきたと思ったそのとき、良平の心にふと忍び込んできたのは、

「タバコが喫いたい」という思いだった。

 それまでも、心の片隅にその思いが頭をもたげないでもなかったが、まだまだ続く長丁場を考えると、芽生えた欲望を抑え込むのはまだ易しかった。

 ところが、あと少しだとなると、この思いは抗い難いほどの強さを持って良平を襲った。

 良平は必死に考えた。

 セレブ仲間にバレては絶対にまずい。あいつらはすぐ詩織にご注進するだろう。どこだったら安全に誰の目も気にすることなく喫えるだろうか。

 良平の結論は、これぞ灯台下暗しと言って良い、家の近くのドトールだった。

 詩織がいない時間にそっと家を出てドトールでタバコを喫う。万一、何かの手違いで、詩織に見咎められても、コーヒーを飲みに行くと言えば済む。

 問題は匂いをどう誤魔化すかだ。

 良平は何度もドトールに足を運び、2階の喫煙ルームをそれとなく観察すると、平日のある時間帯には、ほとんど人がいないことを発見する。

 あの時間帯なら、短時間で喫って出てくれば匂いを最小限にすることが出来るはずだ。もちろん家に帰るときには念の為に全身に消臭スプレーをすれば良い。さらに、口臭を抑える為に、念入りな歯磨きにデンタルフロス、マウスウオッシュにタブレットなども併用する。

 よし。これならいける。

 こうして、良平のドトール通いが始まった。

 野球帽を目深に被り、サングラスをした良平は、喫煙ルームに人がいるときには、外でスマホでも見る振りをしながらじっと待つ。

大体喫煙ルームの客は長居をしない。誰もいなくなると、さっと中に入り、5口くらいで喫い終え、またさっと出てくる。万一知った顔が来ないか、時折キョロキョロと見回す。そんなことを繰り返し30分程度で5本を喫い終えると、店を出る。

 

ドトールでの喫煙がバレないまま、とうとう、契約期間最後の日となった。

今日は、なんの予定も入れていない。若手俳優仲間からのゴルフの誘いも言い訳をして断った。

詩織は朝から仕事に出掛けている。

最高の1日だ。俺は耐え抜いたのだ。明日、俺は晴れて3,000万を手に入れて、詩織ともこの地獄のような日々ともおさらばできる。

良平は生まれて初めて味わう達成感に体が震えるような思いだった。

辺りをそれとなく伺った良平が、喫煙ルームに音もなく入り、タバコに火をつけ大きく吸い込み、最高の一服を吐き出したときだった。

喫煙ルームのドアがスッと開いた。

 入ってきたのは、なんと詩織だった。

 愕然とする良平に、

「美味しそうに喫ってるじゃない」

 隣に座って詩織が微笑む。

「いや、これは、その」

「ま、色々言い訳したいでしょうが、それは後でと」

 詩織がバッグから書類を取り出しながら言う。

「特約は、今日まで有効だから、違約金3,000万円いただくわ。それでいいわね」

 良平は言葉が出ない。

「でも多分あなたには払えるお金がないわよね。まあ、長い時間かけて少しずつ払ってもらってもいいんだけど、どうする?」

 そう言いながら、書類を良平に見せると、そこには、新たな契約内容が記されていた。

 延長契約として新たに3年間、月50万円、もちろん延長なので一時金はなし、そして特約として、3,000万円、内容は、今まで同様、夜の週3回と禁煙となっている。

 良平には選択の余地がなかった。

 また、地獄の日々が始まるのか。良平はそう思いながら書類にサインした。

 詩織は、書類をカバンにしまい、ついでに小さな箱を取り出した。

 その箱から、細くて長い一本を取り出し、これもポケットから取り出した洒落たライターで、おもむろに火をつけ、深々と吸い込んでから白い煙をゆっくり吐き出した。

「やっぱり、仕事の後の一服は美味しいわね」

 呆然とする良平を尻目に詩織は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

                                          了