てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

凪の時間

人事発令のあった日から酒の量が増えていた。 三月上旬のその日も、会社を後にして最寄りの駅に降り、南口にある居酒屋で飲んだが、そのまま家に帰る気にもなれず、飲み屋の連なる表通りから一本入った路地をぶらぶら歩き、ネオンが幾つか点った三階建ての細…

岸部

岸部は40歳をいくつか過ぎ、そろそろ結婚を諦めようかと思う頃に、沙耶香に出会った。 元々、結婚願望が強い方ではなかったが、信州の実家で一人暮らす母親に、初孫の顔を見せてやりたい気持ちは心のどこかに常にあった。すでに嫁いで十年以上になる姉に子…

ペットの男

「タワーマンションに住むような人間は本物の金持ちじゃないのよ」 情事の後、詩織は言った。 「どうして?」 無性にタバコが吸いたいのを堪えていた亮平は、どうでもいい話だとは思いながらもそう聞いた。 「見下ろすことに快感を覚えるのは劣等感の裏返し…

豆御飯(改稿版)

豆御飯 日曜日の昼過ぎの駄菓子屋は子供たちで一杯だった。 その店は、家の近所の駄菓子屋よりも広く、種類も豊富に健吾には見えた。 「おばちゃん、これいくら」 「それは10円だよ」 「じゃこっちは」 「それは20円だね」 子供たちの声に、小上がりの座…

トリガー

僕の紙飛行機が輪っかをくぐったその瞬間、地鳴りのような大歓声が起こった。その場に何百人もいたせいかもしれない。 隊長は痛いほど僕の背中を叩き、第十六団十五人ほどの仲間たちは、皆、手を叩き小躍りして喜んでいた。たかだか十メートルほど先の、ロー…

ちゃちゃ 改稿版

パパは、クリスマスの日の夜、今度は札幌だよと言った。そして、一月十日が会社の発表だから、引っ越しはその後だねと続けた。 私は中学一年生、二人の妹は小学四年生と一年生だった。 登校最後の日、いざ前に立ってみると、クラスのみんなの顔がまともに見…

竜造の家出 改稿版

裏口のドアが開いてコンビニの店員が出てきた。 まずい。竜造は慌てて、ゴミ箱の蓋を閉めてその場を離れた。 今日も何も食えずか。夕闇迫る五月下旬の札幌の、寒々とした冷気の中を、とぼとぼといつもの雑居ビルに辿り着き、二階の階段の新聞紙を敷き詰めた…

ドトールな人々 光る

みづきが初めて、文芸サークルの部室に現れた日を僕は一生忘れないだろう。 そこにいた男子の目が全員釘付けにされた。文字通り釘で打ちつけられたかのように、しばらくの間、誰も動けなかった。単にかわいいとか美しいというのではない。今から思えば、圧倒…

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。 年…

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。 年…

ドトールな人々 祓う男

その顔色の悪い痩せた細面の男は、ドトールの二階に上がり、街中を見下ろせる窓側の一人席に座った。手に持っていた黒い小型のバッグは窓に持たせかけ、コーヒーを載せたトレーを置き、袋を破いて濡れナプキンを取り出すと、小さく震える両手を何度も几帳面…

ドトールな人々 何がオモロいねん

いつもボロ自転車に乗ってドトールにやってくるその若い男は、桜田義彦と言う二十八歳のピン芸人だった。本名がいかにもイケメン風なので、芸名に使うのは諦め、桜田をもじって、サクラダファミリーとしていた。 もちろん、全く売れていないので、誰も芸人と…

ドトールな人々 孤独(ひとり)、心のスキマ

七海はずっとスマホを見続ける。 心のどこか奥の方で、やめろ、という囁きが声のような、音のような、はたまたイメージのような感覚で微かに意識されるが、やめられない。 どれだけ画面を見続けたとしても、誰からもメールもラインも来ないことは分かってい…

ドトールな人々 読む人

時折、コーヒーを一口飲みながら、ずっと、静かに文庫本を読んでいる。 喧騒の店内で、彼女の周りだけが、あたかも静寂に満たされた緩やかな時間が流れているようだと、櫻井亘(わたる)は改めて思った。 彼女をこのドトールで初めて見たちょうど一年前の記憶…

ドトールな人々 白いテンガロンハットの男

もう1時間近く経つのに、その席には誰も座らない。 もちろん、煩瑣いナベさんの隣だったから、常連なら避けもしただろうが、混み合う日曜日の午前中にも関わらず誰も座ろうとはしなかった。 西島さんたち店員も不思議に思い始めた頃、そのテンガロンハット…

ドトールな人々 タバコ

ドトールの2階には喫煙ルームがあり、そのすぐ近くに挙動不審な男が座っている。 男は、35歳の竹下良平というこの街でも有名な資産家で、誰もが知っている大豪邸に住んでいた。とはいえ、良平がその豪邸で住み始めたのはまだ3年前のことだったし、帽子を…

ドトールな人々 金色と銀色のイヤリング

「こんなうまいコーヒーを飲むのは何年ぶりだろう」 秋山大輝は思った。 酒の飲めない下戸の大輝は、収監される3年ほど前までよく通っていたドトールのコーヒーを飲むのが出所した時の唯一の楽しみだった。 当時、大輝は薬品卸売会社に勤めており、多忙な日…

ドトールな人々 マッチングアプリ

平日はほぼ毎日訪れる倉田百合子のドトール滞在時間は短い。 長くてもせいぜい10分、短いと5分を切ることもある。 ギリギリまで寝ていたい百合子が、出勤前の慌ただしい時間に寄るのだからしょうがないと言えばしょうがない。 母親が入院してから、朝食は…

ドトールな人々 結婚指輪

本田雄一は、週末になると必ずと言っていいほどドトールに行くようになった。 娘の子育てがあらかた終わり、自由な時間が出来たためだったが、本当の理由は、ネームプレートに西島とあるその女性が自分を覚えてくれたせいだった。 レジカウンターの前に雄一…

ドトールな人々 ナベさん

吉岡孝は、ほぼ毎日ドトールに行くようになった。 もちろん暇になったからだ。 他に行くところがないし、やることもない。 昨年6月に定年退職してから、1年近くが経とうとしているが、この数ヶ月はほぼ毎日だ。 孝の会社の同期の10人に9人はシニア雇用…

エッセイ 雪の顔

二十年ほど前、転勤で札幌に数年暮らしたことがある。 最初の冬、初めて雪虫を知った。その名の通り、雪と間違うくらい白く小さな虫がフワフワ大量に舞い、雪の訪れを知らせるのだ。 雪にはいくつもの顔がある。 僕は、静まり返った早朝の銀世界が大好きだっ…

ちゃちゃ

パパは、クリスマスの日の夜、今度は札幌だよと言った。そして、1月10日が公示だから、引っ越しはその後だなと続けた。 私は中学1年生、2人の妹は小学4年生と1年生だった。 登校最後の日、いざ前に立ってみると、クラスのみんなの顔がまともに見られ…

奥多摩トリップ

「チェックインお願いします」 と言った時の受付男性の余りにも驚いた表情に僕は驚いた。 「チェ、チェックインですか?」 そんなに驚くことか。時間が早すぎたか。いやもうすぐ17時だろう。 「はい、そうです」 「あ、しょ、少々お待ちください」 何やら…

井上さんの選択

俺は死んだ。 死んだと思う。 いや、間違いなく死んだはずだ。 だって、医者は俺の左腕の脈を取るのを止めたし、恭子と雅美は涙ながらに大きな声で俺の名前を呼んでいるし。 俺だって、こんなに急に自分が死ぬなんてまったく思っていなかったさ。血圧が少し…

みかん 第一章

東京に出てきて初めて借りた部屋は、家賃3万円の風呂なし6畳一間だった。 この春大学を卒業した僕だったが、晴れて就職する予定だった地元の企業がなんと卒業間際で倒産する事態に直面した。早い話が就職浪人となってしまったのだ。さすがに慌てた僕は、地…

モノローグ酒場へようこそ

不思議な酒場がある 様々な年代、様々な職業の人々が集い、好き好きに語り出すのだ もちろん聞いているだけの人もいる 私がこの酒場に通い始めて40年近くになる 色んな話をこの耳で聞いてきた 笑える話もあれば泣ける話、感動する話もあれば怒れる話もある …

雪の正受庵

僕の求めているものは見つかるだろうか。 でもどうあろうと今の僕には行くしかないのだ。 そこに見つけたいものがあろうとなかろうと。 12月中旬の火曜日、僕が乗車する北陸新幹線はくたかは10時32分に東京を発った。 長野県の飯山市にある正受庵が本…