ドトールな人々 マッチングアプリ
平日はほぼ毎日訪れる倉田百合子のドトール滞在時間は短い。
長くてもせいぜい10分、短いと5分を切ることもある。
ギリギリまで寝ていたい百合子が、出勤前の慌ただしい時間に寄るのだからしょうがないと言えばしょうがない。
母親が入院してから、朝食はドトールになった。
午前8時6分の電車に乗るためには、ドトールを何としても7時50分には出ないと間に合わない。午前7時半開店とほぼ同時に入り、いつも同じモーニングセットを注文する。
食いしん坊の百合子にとって朝食は必須で、もし抜いたり食べられなかったりすると、午前11時には空腹感で仕事が手につかなくなってしまう。
小さい頃からずっとそうだった。
とにかくよく食べた。
1年前に亡くなった父の正男は、百合子同様、相撲取りと間違われてもおかしくないくらい体格がよく大食いだったから父方の遺伝かもしれない。
美味しそうに食べる正男と百合子のために母の豊子は毎日一生懸命料理を拵えた。
豊子は正男が亡くなってからは、心の寂しさを埋めるかのように、ますます百合子のために料理の腕をふるった。
百合子には豊子の気持ちが痛いほど分かっていた。
だから一生懸命食べた。
会社の付き合いで夕食を食べて帰ってからも食べた。
時には豊子に背を向けて泣きながら食べた。
正男はとても優しい父だった。
叱られた記憶は一度もない。無口だがいつもニコニコしていた。
豊子とも大の仲良しで喧嘩しているところを百合子は見たこともない。せいぜいテレビ番組で揉めるくらいで、その時はいつも正男が豊子に譲った。見たくもない韓国ドラマをじっと我慢して見ていた正男の姿が浮かんでくる。
テレビを見ていた百合子や正男が、出てきた料理を見て、美味しそうだねと言うと、レシピなど知りようもない豊子が、自分なりに工夫して必ず作ってくれた。そしてそれはいつも美味しかった。
食事は愛だ。
母の食事に慣れていた百合子は、ファストフードやコンビニ弁当などを食べると体が拒否反応を示す。友人と同じものを食べて、吐きそうになったことさえある。その友人は美味しいと言って食べているにも関わらず。
豊子は冷凍食品や加工食品を一切料理に使わなかった。
料理をするところを見ていると、いつも食材を、可愛い生き物にでも触れるように、優しく繊細に、そして大切に扱った。
包丁を入れるときでさえ、あたかも痛くないようにと心を込めているようだった。
学校へ持って行く華やかで大盛りの弁当は、友人たちから羨ましがられ、いつも百合子の自慢だった。
百合子が短大を卒業して今の会社に勤め始めてから、すでに20年が過ぎた。
顔立ちは決して悪くなく、どちらかと言えば可愛い方と言ってもおかしくない。若い頃は多少標準体重を上回っていても、愛嬌がありいつもニコニコしているぽっちゃり型の百合子は会社の人気者で、同僚や少し上の先輩社員に、付き合って欲しいと言われたことも何度もある。
高校時代のことだ。百合子は一つ年上のバレー部の先輩に本気で恋をした。当時、熱狂するほど大好きだったアイドルに似ていたのが今思えば大きな理由だった。
恋のライバルが数多い中、意を決して告白すると、
「いいよ」
すんなりOKされ、舞い上がった。
初めてのデートはお決まりの映画となり、百合子は先輩に喜んでもらえるかもと、手作り弁当を作ろうと考えた。映画を観た後に、どこか公園のベンチで仲良く一緒に食べる二人の姿を思い描き、胸ははちきれんばかりに膨らんだ。
百合子は、朝早くに起き出し、豊子に手伝ってもらいながら一生懸命弁当を作った。
映画を観終わると二人は移動して公園に行き、木陰のベンチに腰を下ろした百合子は、早速、母譲りの自慢の弁当を開けた。
その途端、先輩の表情が変わるのが百合子には分かった。
最初は、あまりに美味しそうで驚いたのだろうと思っていた。
二口ほど食べた先輩から、
「オレ、いつもメシの後、コーヒー飲むんだよ。コンビニでもなんでもいいからどっかで買ってきてくんないかな」と言われ、百合子は、分かった、食べて待っていてねと言い置き、公園を出て探したコンビニでコーヒーを2つ買って戻ると、先輩の弁当はすでに空になっていた。
先輩は、美味しかったよと言ってコーヒーを飲んだ。
百合子も自分の弁当を急いで食べ、コーヒーを飲んだ。
さあ、帰ろうかと公園を出ようとしたとき、先輩が空になったコーヒーカップを持て余しているのに気づいた百合子が、
「それ、捨ててくるね」と、さっと先輩の手から取って、先程のベンチの近くにあったゴミカゴに捨てに走った。
何気なく中を見た百合子は絶句した。
ゴミカゴには、精魂込めて作った自分の弁当の中身が元あった形のまま捨ててあった。
先輩には何も言えず、家に帰って泣いた。
母ほど上手に作れないのはわかってるよ。
それにしても、捨てることはないでしょ。
嘘までついて。
百合子の心に怒りが宿った。母親の料理がバカにされたような悔しさもあった。
翌日、いつものようにバレー部の練習で汗を流す先輩を、陽が暮れかかった校門で待っていると、
「お待たせ」と爽やかな笑顔で先輩がやってくる。
二人、肩を並べて歩くが、いつもと違い表情が硬く言葉少ない百合子に、
「どうした、なんか嫌なことでもあった?」と先輩が聞いてくる。
「昨日のお弁当のことなんだけど」
百合子は先輩の目を真っ直ぐ見て言った。
一瞬、先輩の目が泳ぐ。
「いや、あれは」
「嘘はやめて」
百合子のピシッと言ったその一言に先輩の顔色が変わった。
「じゃ、言ってやるよ。お前みたいなデブと付き合ってやってるだけでもありがたいと思え。それをあんなクソまずい弁当を、しかもこっちは相撲取りでもねえのにとんでもない量作ってきやがって。太っちまうだろうが」
それっきりだった。
そしてそれが百合子のトラウマになってしまい、どうしても男と付き合う気にはなれなかった。
会社には、3つ下の山下聡美という後輩がいる。
容姿が対照的だったのがかえって良かったのかもしれない。
聡美は、どれだけ食べても太らない体質らしく、背が高く痩せギスで細面の、特に目が少しきつい印象を与える顔立ちだったのだが、歳が近いことや、食べ物の好みが似ていることなどもあって、聡美の入社以来、百合子はずっと仲良くしていた。
そして、その関係は、歳を経るごとに増えてくる、男性社員や若い女性社員からの、疎んじるような視線を共にかいくぐってきた、いわば戦友でもあった。
「絶対、絶対、絶対頑張って定年退職まで一緒にいようね」
二人は、食事や飲みに行くたびに、何度も何度も同じ約束を交わしていた。
夕方、聡美からラインが入った。
「急だけど、今晩空いてる?」
「もちろん!どうせ一人だから予定は真っ白!」
仕事を終えた二人は、いつものイタメシ屋で待ち合わせた。
最初から聡美はなんだかモジモジしている。
そのうち言うだろうと百合子は思っていたが、いつまで経っても言い出さない。百合子の話は上の空で聞いている。ワインはいつもの2倍のスピードで飲み干す。
「何よ。言いたいことがあるんでしょ。遠慮しないで言いなさいよ」
どうせ、いつもの仕事の愚痴だろう。
最近、聡美の上司が代わって、今度のは前にもまして嫌味なやつだと言っていた。
よほどやられたか。
聡美はまだモジモジしている。
「もう!いい加減にしなよ」
さすがに怒った口調で百合子が言うと、
「実はね・・・」
そこまで言ってまた黙り込む。
「あのねえ、聡美」
「分かった、ちゃんと言うから」
そう言って大きく息を吐き出し、
「実はね・・・結婚することになった」
百合子は聡美が何を言ったのか全く理解できなかった。
しばらく沈黙の時間が流れる。
「嘘でしょ」
ようやく百合子が言葉を絞り出す。
「ごめんね。ホントごめん」
聡美は泣き出しそうな表情でそう言う。
冷静さを取り戻した百合子がきちんと話を聞くと、3ヶ月ほど前、遊び半分でやってみたマッチングアプリで知り合った男と、何度かラインでやり取りをした後、思い切って会ってみると、すぐ打ち解けたらしい。相手は48歳で奥さんとは死別、子供はいない、会社を経営し、資産はそれなりにあるが、一人で老後を迎えるのは不安になって出会いを求めたと言う。
「それで仕事はどうするのよ」
「子供が欲しいから・・・。彼も辞めてくれって言うし」
結婚は、夏までにはしたい。会社はキリの良くない4月末で辞めると消え入るような声で聡美は言った。
キリの良くないって?と百合子が聞くと、嫌味ったらしい上司に少しでもやり返したいと言う。
4月末ってことは、あと3ヶ月だ。
5月から私一人?嘘でしょ。あんな連中と一人で戦えるわけないじゃない。まだ定年まで20年近くあるのよ。
聡美の結婚を祝ってあげなくてはと頭では思いながら心はそれに付いていけない。
「おめでと」
ぎこちない笑顔で言って聡美と別れた後、豊子のいない暗い家に一人帰る百合子の足取りは重かった。
週末、百合子は病院に行くが、豊子の様子に変化はなかった。
脳内出血を起こした豊子は、命は取り留めたものの、医師からは、意識が戻る保証はないと言われていた。
正男が亡くなり、豊子がこんな状態になって、今また、聡美が自分から去っていく。
豊子の手を握った百合子の手の甲にポタポタと大きな雨粒のような涙が落ちた。
病院からの帰りに、夕食の買い物をし、ドトールに寄ってスマホを見ながらコーヒーを飲んでいて、ふと思い立ち、マッチングアプリとやらを調べてみる。
「アメリカでは結婚したカップルの約30パーセントがマッチングアプリで出会っている」
「日本でもマッチングアプリの利用経験者は、20歳から49歳までの50パーセントにものぼる」
「恋人や結婚相手をマッチングアプリで探すのは当たり前の時代」
へえ、そうなんだ。あの聡美がやってみようと思うくらいだから、確かにそうなのかもしれない。
男に対しては、ずっと心を閉ざしてきた。それを後悔してはいない。
そう思いつつも、寂しさと一抹の不安がないまぜになって弱くなった心のせいか、誰でもいいから頼りたくなったせいか、百合子の指はマッチングアプリをダウンロードしていた。
待ち合わせは、男に指定された駅の改札だった。
会ってみると、メールで見るより精悍で、年齢の割には若々しい感じがした。
男の行きつけだという焼鳥屋に行き、焼酎のお茶割りを飲みながら話をすると。妙に気が合う。
男は、中垣道夫と言い、49歳で独身、仕事一筋で生きてきたため、恋愛の機会を逃したと言って笑った。身構えていた自分の心が解きほぐされ、温かいもので満たされて行くように百合子は感じた。
2度目のデートの時、百合子は正直に告白した。
「とにかく食べるのが好きなの。だからこんなに太っちゃって」
「全然。太ってなんていないよ。それに僕は、女性が美味しそうに食べる姿は大好きだよ」
中垣は優しく言った後、じゃ僕もと自分の身の上話をした。
東北の田舎に、高齢の母親が一人で暮らしていて、毎月仕送りをしていること、呼び寄せようと思ったが、頑として動こうとしないこと、会社から独立して仕事を始めようと思っていること、その場合、支えてくれる人が欲しいと思っていることなどを朴訥と語った。
それを聞いた百合子も、一年前に父が亡くなり、母も病気で入院していること、自分一人きりになりそうで寂しく不安に思っていることなどを話すと、中垣は真摯な表情で相槌を打ち、大変だったね、と言った。
3度目のデートでの食事中だった。
「百合子さん、僕と結婚を前提にしたお付き合いをしてもらえませんか」
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
百合子は頭を下げた。
食事の後、中垣はさりげなくホテルに誘ってきたが、百合子はもうしばらく時間が欲しいとやんわり断った。
心のどこかにまだ残る男に対する微かな抵抗感に加えて、ブヨブヨの自分の裸が見られることへの羞恥心もあった。
家に帰る電車の中で、お互いもういい歳なのだから、思い切ってホテルに行った方が良かったかな、ちょっと面倒臭い女だと思われてしまったかも、と百合子は少し後悔していた。
その後、中垣と全く連絡が取れなくなった。
何度、ラインしても電話しても返信どころか既読さえつかない。
最初は、この前ホテルを断ったのが気を悪くさせたのだろうか、それとも何か他にまずいことでも言ってしまっただろうかと気に病んだが、どう考えてもおかしい。
病気にでもなったか、事故にでも合ったのだろうか。
住んでいる場所は大まかなもので、正確な住所はまだ聞いていない。
どうしたらいいだろうと思い悩んでみたもののとりあえずどうしようもない。
聡美の様子がおかしい。
聡美が退社するまで残り2ヶ月を切っていた。
やはり結婚に踏み出すのも、長く勤めていた会社を辞めるのも、心が複雑に揺れ動くのだろうと百合子は思い、
「今晩どう?久しぶりに行かない?」とラインを送るとすぐ返信がある。
「ありがとう。じゃ、6時にいつものところで。本当にありがとう」
本当にありがとう?
だいぶ精神やられてるな。しょうがないか。
イタメシ屋に行くと、聡美が待っていた。
表情が暗い。何やら思い詰めている。細い聡美がさらに細くなったように見える。
「どうしたの?大丈夫?まさかのマリッジブルーってやつ?」
百合子が席に着くなり言うと、聡美はテーブルに突っ伏していきなり泣き始めた。
「ちょっと、どうしたのよ」
店員が心配そうにチラチラと見ている。
しばらく聡美が落ち着くのを待つ。
「あのね・・・」
しゃくり上げて言葉にならない。
またしばらく待っていると、ようやく平静を取り戻した聡美がポツポツと話し始めた。
「騙されたの・・・」
「騙された?」
「うん、結婚詐欺だった」
「けっこんさぎぃ!」
百合子は思わず大声で聞き返してしまい、他の客が何事かとこっちを見る。
「ごめん、ごめん、聡美、どう言うこと?」
「だから、お金目当てだったの」
「お金取られたの?」
「・・・うん」
「いくら?」
「500万」
「ごひゃくまん!」
またも大声になり、他の客に見られる。
「それでどうしたのよ」
「警察に捕まった。他にも被害者がいて」
「くうう。やられたね。お金は戻りそうなの?」
聡美は首を横に振る。
「警察が言うには難しいだろうって」
「と言うことは・・・仕事はどうすんのよ」
「・・・続ける」
「続けるって、聡美、あの嫌味な上司にもう辞めるって言っちゃってんじゃないの?」
「まだ言ってない。ギリギリまで待って、言ってやろうと思ってたから。嫌がらせで」
「なるほど。それは不幸中の幸いだったね。嫌味な上司に感謝しなきゃ」
「もう、あいつ、絶対許せない」
聡美が鋭い視線で一点を見つめて言う。ただでさえきつい表情が、深く昏い恨みの色を帯び、昔見たホラー映画の主人公のようだ。
「だよねー。でも、まだそのくらいで済んで良かったんじゃない。高級車をぶつけて全損させたと思えばさ」
本当は分かってるよ、聡美。
お金じゃなくて、その気にさせた男とさせられた自分が悔しいんだよね。
私もあの時そうだったんだよ。
聡美の目にみるみるうちにまた涙が溜まっていく。
「あ、そうそう。その男の写真ってあるの?あったら見せてよ。どんな男か見てみたいわ」
聡美が、スマホを取り出し、指先でなぞった後、百合子に渡す。
「ああっ!」
今度の声が一番大きく、店中がこっちを見る。
その男は、あの中垣だった。
「どうしたの?」
聡美の問いかけに、百合子は泣きながら笑うしかなかった。
その夜を境にして、百合子と聡美は、仲の良い先輩後輩から本物の親友であり戦友になった。
そして新たな約束を交わした。
「どちらかが幸せになるなら心からおめでとうと言う」
「絶対に隠し事はしない」
「万一結婚しても仕事は辞めず、最後の最後まで力を合わせて戦い抜く」
その後まもなくして、豊子は意識を取り戻したが、右半身に強い麻痺が残り、転院して1ヶ月ほど厳しいリハビリ生活を強いられた。
百合子も折に触れ、豊子の元に通い励まし続けた。
「お母さん、よく頑張ってますよ」
リハビリ担当の理学療法士が笑顔で百合子に言うと、ついさっきまで辛い表情をしていた豊子の顔がパッと明るくなる。
40歳前後だろうか。仕事柄なのか無骨な感じの人だが、それにしても豊子のこの表情はなんだろう。家では全く見せたことのない女の顔ではないか。
爽やかな五月晴れの週末、百合子は退院した豊子と二人でドトールに行った。
右半身に軽い麻痺の残る豊子は、杖を付いて右足を引きずるようにしていた。折悪く、1階は満席で、百合子が寄り添うように豊子を支え、二階への階段を上がろうとした時だった。
「ここ、どうぞ」
声のする方を見ると、高校生らしき男女が立ち上がってこっちを見ている。
席を譲ってくれるようだ。
男の子がテーブルの上の本やノートを掻き込むようにリュックに乱暴に突っ込み、女の子はトレーにカップや皿を乗せて片付けると、ペコリと頭を下げて店を出て行った。
百合子は、良かったねと言って、豊子を座らせ、レジにモーニングセットを取りに行った。
「お母さんが入院している間は、毎朝、ここでこれ食べてたんだよ」
「そう、ごめんね。でも、これ美味しいね」
「それにしてもお母さん、お父さんみたいな男の人っていないね」
「そりゃそうよ。私が選んだんだから」
へえ、選んだと言うのは初めて聞いた。
「お母さん、選ぶって言うのはね、たくさん候補があるってことだよ」
「だってお母さん、モテたもの」
百合子の目が点になった。
「何よ。私だってまだまだ捨てたもんじゃないわよ」
凄い。正男の死からも病気からも完全に立ち直ってる。
「参りました」
百合子が頭を下げる。
「あ、そう言えば百合子。私のリハビリ担当してくれてた河野さん、覚えてる?」
「ああ、あの人河野さんって言うの。覚えてるよ」
「あんたのこと気に入ってたみたい。今度会ってみたら。あの人まだ独身だし、悪い人じゃないからちょうどいいんじゃない」
「あ、そう。ふーん」
来週にでも聡美には早めに言っておかなきゃ。
それと豊子が包丁をふるえない今のうちに体重を落とさないとね。
いずれにしても、しばらく二人の朝食はドトールになりそうだと百合子は思った。