ドトールな人々 金色と銀色のイヤリング
「こんなうまいコーヒーを飲むのは何年ぶりだろう」
秋山大輝は思った。
酒の飲めない下戸の大輝は、収監される3年ほど前までよく通っていたドトールのコーヒーを飲むのが出所した時の唯一の楽しみだった。
当時、大輝は薬品卸売会社に勤めており、多忙な日々を送っていた。
休日にドトールに行き、今はやめたタバコを吸いながら、ほっと一息ついて好きなコーヒーを飲むのが至福の時だった。
なんでこうなってしまったのか。
大輝は目の前の濃い茶褐色の液面に映る、ぼんやりとした誰の顔とも判別のつかない朧げな姿を見つめていた。
大輝の勤める薬品卸売業は、その名の通り、製薬メーカーの作る薬を、病院や開業医、薬局などに販売し、届ける仕事が生業であるが、その主体は営業であり、営業マンとしての大輝には、売上をいかに上げるかが厳しく求められた。
大輝は営業に向いている性格ではなかった。
何しろ押しが弱い。
買ってくださいが言えないのだ。
だからいつも競合する会社に注文が取られてしまう。
買う方もついつい商売熱心な方に発注してしまう。
営業で入社して数年も経つと、その多くは、自分のそんな弱さに気づき、やり方を変えるか、諦めるかどちらかだが、大輝はただただ我慢強かった。
売り上げが上がらず上司に叱責されようが、同僚や後輩に馬鹿にされようが、耐え抜いた。
鈍感だったわけではない。それが数年前に亡くなった父、和雄の教えだったからだ。
「弱いことは恥ではない、逃げることが恥だ」
和雄はそう言った。
長男の兄、孝一が交通事故で亡くなった時も、母の静江が末期癌でこの世を去った時も、和雄は一筋の涙も見せなかった。
和雄は孝一や静江の死を真正面から受け止め、ただ耐えていた。
「おい、大輝、今日どこ行く?」
大輝のデスクに来て袴田俊介が言った。
「どこでもいいよ」
「じゃ駅前の焼き鳥屋な」
「分かった」
俊介と大輝は、同期入社で同じ営業所に配属されたことや、奇しくも血液型や誕生日まで全く一緒、さらに、二人とも兄妹を幼い時に亡くしていること、好みの女性のタイプ、応援しているサッカーチーム、吸っているタバコの銘柄まで同じだった。
異なっていたのは、酒の強さと押しの強さだけだった。
どちらも強い俊介にどちらも弱い大輝。
営業という仕事においてどちらも強い俊介が有利なのは自明の理で、二人の会社からの評価は彼らの親密度に反比例するように、その差が拡大していった。
二人は毎晩のように、仕事が終わると飲みに行った。
浴びるように飲む俊介に、ウーロン茶で付き合う大輝という不思議な関係だったが、家族を亡くし、一人切りの大輝には、なんでも相談でき、言いたいことを言い合える俊介は、親友と言っていい貴重な友人だった。
入社して5年も経つと、俊介は若くして係長に大抜擢された。大輝は係長どころか主任にもなれない平社員のままだったが、大輝はそんなことは一切気にもしていなかった。
ちょうどそんな頃、入社してきた営業事務担当の新入社員に、大輝は一目惚れした。
明るく、可愛く、誰にでも分け隔てなく接するその新入社員は、清水愛梨という女子大卒の女性だった。
「おい、大輝、今日どこ行く?」
いつものように俊介が来て言う。
「どこでもいいよ」
「じゃ駅前の焼き鳥屋な」
「分かった」
仕事で遅れた俊介が、店に駆けつけると、カウンターに俊介の姿がない。
あれ?おかしいなと思い、小上がりの方を見ると、
「おーい、大輝、こっち、こっち」
手を振る俊介のその前には、愛梨がいた。
「ダメもとで誘ったら来てくれたんだよ」
嬉しそうに言う俊介に、愛梨が照れたようにはにかむ。
その日を境に2人で遊ぶ日々が3人へと変わっていった。
なかなか二人きりになるチャンスがない大輝は、どうやって自分の気持ちを愛梨に伝えようか思い悩んでいた。
俊介に正直に打ち明け、相談しようかとも思ったが、せっかくの3人の良い関係が壊れてしまいそうな気持ちがして踏み切れないでいた。
ある日、愛梨への募る想いが抑えきれなくなった大輝は、とうとう休日に愛梨を呼び出した。
「どうしたの?」
ただ来て欲しいと言われてやって来た愛梨が不思議そうな表情を浮かべる。
大輝は、まともに答えず、とりあえずお茶でも飲もうと言うと、愛梨がそれじゃあとスマホで見つけた近くのドトールに大輝を引っ張るように連れて行く。
以前、酒の飲めない大輝が、ドトールでコーヒーを飲むのが好きだと言ったのを愛梨はしっかり覚えていたようだ。
呼び出したはいいが、二人きりになるとドギマギしてしまう。
休日のせいか、私服のせいか、会社で見るより大人びてほのかな女性の色香を漂わせる愛梨に、なかなかいつものように大輝は気軽に言葉が出てこない。
お前は押しが弱いんだよ。
課長にいつも言われている言葉が脳裏に浮かんでくる。
「ね、何か言いたいことがあるんでしょ。なーに?」
愛梨が前屈みになって顔を近づけてくる。
仕事ではつけていないイヤリングがどこかの光の反射を受けてキラキラ光る。
ハートの形で金色と銀色が半分ずつに分かれているようだ。
本物の金と銀かな。いくらぐらいするんだろう。自分で買ったのか、それとも、誰かに買ってもらったのかな。
余計なことばかりが頭に浮かぶ。
「あのさ」
「うん」
「あのう・・・」
愛梨が大きな目でじっと見つめる。
「あのう・・・俊介のこと、どう思ってる?」
全く考えてもいなかった言葉が口をついて出た。
「俊介?そんなこと聞きたくて呼び出したの?」
「あ、いや、その」
「大好きよ。これでいい?」
そう言うと、愛梨はさっと席を立って店を出て行ってしまった。
その日以来、以前のように、二人の誘いに愛梨が応じることはなくなり、そのうちフェードアウトするかのように愛梨は会社を去り、大輝の前から消えてしまった。
愛梨への想いが消え去らない大輝だったが、俊介のことを大好きだと言った一言だけが思い出され、追いかける勇気も湧かなかった。
休日のある日、課長の命令で会社のゴルフコンペに参加することになった大輝のアパートに、朝早いからと逆方向にもかかわらず、俊介が車で迎えに来てくれた。
俊介は相変わらず売り上げも絶好調で、仕事に遊びにそれこそ飛び回っているような感じで、社内では、エースと呼ばれ、最短で管理職になるのは時間の問題と見られていた。
大輝はと言えば、長年に亘ってコツコツ頑張ってきた仕事に対して、厚い信頼を置いてくれる顧客も現れ始め、徐々にではあるが営業成績もついてくるようになっていた。
「この車に乗る男はお前が初めてだからな」
俊介が車を買ったとは聞いていたが、確かに乗せてもらうのは初めてだった。
「男はって。女は違うって意味か?」
「ま、想像に任せるよ」
俊介はニヤリと笑う。
兄弟同然で付き合ってきた俊介だったが、ごくたまに、大輝に見せたことのない一面を垣間見せる時がある。
そのようなとき、様々な一致点ゆえに運命的な関係だと思い込んでいるが、実はそれはとんでもない思い違いなのかもしれないと大輝は思った。
「着いたよ」
ろくに出来もしない散々なゴルフが終わり、アパートに送ってもらった車の中で、疲れ果てた大輝は眠り込んでしまっていた。
「あ、ごめん」
目を覚ました際に、手に持っていたスマホがドアとシートの間に落ちた。
手を突っ込んでも取れそうもなく、ドアを開けシートの下に滑り落ちたスマホを取ろうとした時、小さく光るものが見えた。
それは、金色と銀色の二色でできたハート型のイヤリングの片方だった。
大輝は、それを拾い、
「これ」と俊介に見せると、
「何だ?あ、この前の女のだな。悪いけどどっか捨てといてくれよ」
車で走り去る俊介を見送った大輝は、そのイヤリングを思いきり遠くへ投げ捨てた。
アパートに帰った大輝の頭は混乱していたが、なぜあそこにイヤリングが落ちていたのかは、鈍い大輝にも想像がついた。
そうか、俺も愛梨を呼び出したとは言わなかったが、俊介も俺に言わなかったのか。
俊介との距離が、少しずつ、少しずつ、離れて行くのを大輝は感じていた。
仕事が終わって俊介と飲みに行く機会も、月一回ほどに減ってしまっていたのだが、それは、愛梨の問題のせいではなく、大輝の仕事が多忙になったためだった。
大輝の営業成績は、いつの間にかトップランクになっていて、同時に、顧客からも、後輩からも絶大な信頼を得ていた。あれだけ叱責していた課長も、大輝の力を認めざるを得なくなり、数人の若手の指導を任せるようになったため、大輝は毎日遅くまで会社に残って彼らの面倒を見ていたのだ。
平日はほぼアパートと会社の往復だけになった大輝が楽しみにしていたのは、休日にドトールにコーヒーを飲みに行くことだった。
その日はお昼過ぎだったせいか、店は混み合っていて、二階の喫煙ルームは満席で、已む無く一階に戻って空席を目で追っていると、
「えっ!」
こちらを真っ直ぐ見つめる愛梨と目が合う。
久しぶりに会った愛梨は、本当に好きだったのは、実は大輝だと言った。
あの日、期待して出掛けたにも関わらず、予想もしなかった俊介のことを聞かれてショックだった、大輝の顔を毎日見るのが辛くて会社を辞めたが、やはり諦め切れず、よく行くと言っていたこの店に時々来ていたのだと。
大輝の脳裏に、俊介の車に落ちていたあのイヤリングが蘇るが、口に出すことは出来なかった。
二人は、堰き止められていた水が流れ始めるように自然と会うようになり、その流れのまま結婚した。
そして1年後には男の子が生まれ、勇輝と名付けた。
二人は幸せの絶頂にいた。
エースと呼ばれ、最短で管理職に昇格すると目されていた俊介は足踏みしていた。
営業成績こそ上位を維持していたが、一時のような圧倒的な勢いは見られない。
その大きな理由は、もともと大きな武器だった酒と押しの強さにあった。
酒を浴びるように深夜まで飲み、翌朝、遅刻する、酒臭い息をさせていると顧客から会社にクレームが入る、売るためには価格を落とすしかないと、しつこく課長に食い下がり、そんなに下げたら利益がなくなると諭しても無理やり認めさせる。
いつの間にか、俊介は営業の基本を忘れてしまったかのようだった。
一方の、大輝は全く営業姿勢が変わることなく、コツコツと信頼を積み重ね、価格の要求どころか、担当を替えようものなら、もっとお宅からたくさん購入するから替えないでくれと顧客から課長の元に電話が入るほどだった。
まるで、ウサギと亀だった。あれほど、開いていた二人の差が全く無くなり、今やともに職位は係長で、どちらが先に次の管理職になるかは営業所の注目の的になっていた。
「今日だな」
トイレで隣同士になった、俊介が言う。
「ああ、発表か。そうだな」
「まあ二人とも昇格ってのはないだろうから、どっちがなっても恨みっこなしだ」
「順当に行けば俊介だよ。俺はまだ係長になったばっかりだし」
「まあ、そんなに謙遜するなよ、大輝。ホントは自信あんだろ」
ニヤリとあの得体の知れない表情を見せる。
その日の仕事中、大輝の会社の携帯が鳴った。課長からだった。
「今回は見送りだ。今本社から連絡があった。でもお前なら次は必ず上がれるから。気を落として事故起こすなよ」
予想された結果ではあったが、やはり落胆した。同時に浮かんだのは、俊介のことだった。
あいつはどうなったのだろう。
大輝のスマホが鳴る。俊介からのラインだった。
「大輝、今晩、久しぶりに飲みに行こう」
二人は以前よく通った駅前の焼き鳥屋に行った。
「俊介、おめでとう。良かったな」
大輝が言うと、生ビールを勢いよく一気に飲み干し、ありがとうと、満面の笑みで俊介が言った。
その後はほとんど一方的に俊介が喋り続けた。
俺は元々お前が出来るやつだと思っていた、今の時代に俺のやり方は合わない、課長が精一杯だろう、今後、もし、お前が俺の上司になったらよろしく頼む。
大輝は時折相槌を打ったり、首を振ったりしながら聞いていたが、気分がよほどいいのだろう、何しろ俊介の酒のピッチが早い。呂律も怪しくなっている。
明日もあるし早めに帰ろうと、俊介を宥めて店を出るが、どうしてももう一軒付き合えと言って聞かない。あと1時間だけだぞ、1時間したら俺は絶対帰るからと大輝が言うと、俊介は分かったとすぐ近くのカラオケスナックの扉を押した。
「あら、俊ちゃん。今日は早いわね」
ママが言うが、俊介の酔いは深く、ボックス席のソファに倒れ込む。
「ママ!酒!」
ママがボトルと水割りセットを持ってきて、水割りを作ると、俊介はそれを奪うようにつかみ、一気に飲み干す。
さっきまであれほど饒舌だった俊介が一言も喋らず、ママの作る水割りをただ黙々と飲み続ける。カウンターに一人いる高齢客の歌う演歌だけが響く。
「おい、大輝。お前、俺に並んだと思ってたんだろう」
ニヤリと例のあの目でいきなり俊介が言う。
「そんなことは思ってないよ」
「残念だったな。また差がついちまって」
さすがに、ずっと我慢していた大輝もイラッとするが、
「お前には勝てないよ」と言うと、
「嘘言ってんじゃねえよ。ばーか」とさらに煽ってくる。
「いい加減にしろよ、俊介」と静かに大輝が言うと、
「いい加減とはなんだ!おい、大輝!」
いきなりの怒声に、高齢客の歌声が止まる。
「あのなあ、この際だから教えてやるよ。お前はずっと俺の後を追っかけてんだ。知ってるか。ずっとだ。仕事だけじゃない、愛梨のこともだ」
愛梨と聞いて、大輝は自分の顔色が変わるのが分かった。
「お前、愛梨と結婚して俺に勝ったと思ってんだろ。間違えるなよ、大輝。あいつはな、俺のお古なんだよ」
そう言って俊介はケラケラと笑った。
そこから大輝はよく覚えていない。体中の血液が逆流して目が見えなくなった。
気がつくと、頭から血を流した俊介が呻いていて、自分の右手には割れたウイスキーボトルが握られていた。
大輝は障害事件で起訴されたが、初犯でもあったことから、悔悛の情を示し、示談が成立すれば、不起訴もしくは執行猶予がつくと見られていた。ところが、弁護士や会社の勧めにも関わらず、大輝は頑として示談を拒否したため、俊介の被害の大きさも考慮され、三年の実刑判決となった。
大輝は会社を退職した。
懲戒解雇にならなかったのがせめてもの救いだったが、大輝にとってはもはやどうでも良いことだった。
愛梨は何度も理由を尋ねたが、大輝は事件について一切喋らず、ただ一言、
「別れてくれ」と言った。
もう少し時間をかけて話し合いたいと懇願する愛梨だったが、頑なな大輝の態度に最後は折れ、二人は別れた。
出所の日は、五月晴れの土曜日だった。大輝は、3年前まで住んでいたアパートの近くのドトールでコーヒーを飲みながら今後のことを考えた。
本当は愛梨にも勇輝にも今すぐにでも会いたい。
素直な心はそう叫ぶが、どうしても愛梨に連絡を取る気にはなれなかった。この3年というもの、ずっとそうだった。
自分でも情けないと思うが、愛梨を思い出すたび、あの金と銀のイヤリングと俊介の勝ち誇った顔が浮かんでしまい、それ以上先に進まないよう心を閉ざしてきた。
「弱いことは恥じゃない。逃げることが恥だ」
コーヒーを見つめる大輝の心に、ふいに和雄の言葉が響いた。
俺は、すべてを正面から受け止めて親父のように耐え抜くことが出来るだろうか。
・・・出来る。俺なら出来る。なぜならあの親父の息子だから。
大輝が意を決したそのときだった。
「コーヒー美味しい?」
顔を上げると、そこには小さな男の子を連れた愛梨が立っていた。
驚いて言葉もない大輝の前に、愛梨は椅子を引いて座り、男の子を膝に乗せ、
「僕、大きくなったでしょって。来年小学生だもんね」と、男の子に話しかけるように言う愛梨の瞳から涙がこぼれ落ちる。
大輝が、ハンカチを取り出し渡そうとして気づいた。
愛梨の両耳に光るそれは、あの投げ捨てたはずの金と銀のイヤリングだった。
「おいおい、その子重くねえか」
80歳くらいだろうか、隣のじいさんが、読んでいた新聞を畳み、ハンカチで涙を拭う愛梨に声をかけた。
「ほら、こっち来いよ。なんか難しい話でもあんだろ」
そう言って立ち上がり、空いたカップを持って去って行った。
大輝がその背中を見送ると、じいさんはレジの方に向かって、
「西島ちゃん、また来るわ」と声を掛け、なぜだかドアのところで、
「かあああっ」と大きな声を上げたので、ちょうど入ってきた若い女性が驚いていた。