てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

凪の時間

 

 人事発令のあった日から酒の量が増えていた。

 三月上旬のその日も、会社を後にして最寄りの駅に降り、南口にある居酒屋で飲んだが、そのまま家に帰る気にもなれず、飲み屋の連なる表通りから一本入った路地をぶらぶら歩き、ネオンが幾つか点った三階建ての細長いビルにふらっと入り、階段を上がった。

 店名にもなっている、恵子というママが、うちは明朗会計だから安心して飲んでいってと言った。たまたま入ったカウンターだけのスナックだが、店内は思いのほか広く、ゆったりしていて、居心地は悪くなかった。平日のまだ早い時間だからか、客は入口付近に座る初老の男一人しかおらず、私はカウンターの中程に座り、ハイボールを注文した。

「なんておっしゃるの」

「ああ、私、井上」

「井上さんね、よろしく。お仕事の帰り?」

「うん」

「ご自宅はこっち?」

「うん、北口だけど」

「あらそう。あっちは閑静な住宅街でいいわよね」

「まあ、そうかな」

「タバコは?」

「止めたんだ」

 ママと当たり障りのない話をしつつ、ハイボールを三杯ほど飲んだ私はようやく気分が良くなり、リモコンで歌を探していると、ドアが開いて三十半ばくらいの女が入ってきた。常連らしく、ママは、あら、早いわねと言ったが、女は無言のまま私の後ろを通ってカウンターの奥に座った。二曲目を歌い終わり、女と視線が交錯すると、酒で緩んでいたロックが容易く外れた。

「歌いませんか」 

女は、答える代わりに、タバコを揉み消し、視線を外した。

 しばらくして、初老の男が私の好きな演歌を歌い始めた。私がデュエット気分でマイクを持って歌い始めると、やめなよ、と女の声が微かに耳に届き、歌いながら目を向けると、

「やめなって」

 私はマイクをオフにしてカウンターに置いた。その捨て猫のような荒んだ目をした女が由香だった。

 

 その夜も酒のおかげで寝付きは良かったが、中途覚醒するのは分かっていた。

 誰も目覚めたいとは思わない、深として夜でもなく朝でもなく、世界で自分だけが目覚めていると思うあの時間。

 枕元のスタンドライトを点け、隣のベッドでこちらを背にして寝ている妻を起こさないよう足音を忍ばせて真っ暗な台所に行き、水を二口ほど飲んだ後、したいわけでもない小便をチロチロ絞り出し、再びそっとベッドに横になり、スタンドライトを消して目を閉じる。ひどく眠いが頭の芯が醒めてしまっていて眠れないことは分かっているので、ただ横になり時間が過ぎるのを待つ。

 六時に家を出て、会社にはいつものように七時ちょうどに着いた。エレベーターを十五階で降りると、ドア脇のセンサーに社員証をかざしてフロアに入る。ポツンと島から離れたデスクに行き、酒と睡眠不足で鈍く重い頭と躰を椅子にぐったり預け、パソコンの電源を入れる。長年の習慣で、無用で無駄なメールチェックとアウトルック確認をしてしまう。

 八時近くになると、多くの社員が出社して、そこここで挨拶の声が聞こえ、フロアは活気づいてくる。ついこの前まで部下だった人間たちが、そこに私がいないかのように挨拶し合い、笑い、通り過ぎる。九時前には、やれ会議だ、打ち合わせだ、出張だと人は減っていき、フロアは閑散とする。十二時近くなると、また騒がしくなり、昼食に出て行くと静かになり、十三時前に再びガヤガヤとし、十三時にはまた会議などでフロアは静けさを取り戻す。夕方になればまたフロアは喧騒で包まれてくるが、その頃には、私はエレベーターホールでボタンを押しているのだ。

 そんな風に会社の一日が回っていたことを、三十年あまり過ぎた今、私は初めて知ったのだが、そんなことを知ることになるとは思いも寄らなかった。自分は会社にとって重要で必要な人材だと信じていたが、それは私の単なる思い込みに過ぎないと気付くのにそれほど時間はかからなかった。

 

 次の日も『恵子』に行った。やはり初老の男だけが入り口付近のカウンターに座っていた。

 由香が現れた時、私はすでに結構飲んでいて、彼女を特に気にすることもなく歌を入れ、前奏が始まると、立って歌おうとスツールから立ち上がった。座んなよと声が聞こえ、由香がこちらを見ているのが目の端に映ったが私は無視した。歌い終わって由香を見ると、あの荒んだ目と合った。

「いくつ」

「ん」

「いくつ」

「五十五だ」

「うそ」

「うそじゃない」

「うそだ」

「そういうお前はいくつだ」

「四十一」

「ひと回りも下か」

「うそでしょ」

「しつこいな。本当だったらここの払い持つか」

 由香は頷き、私はスツールを立って由香のところまで行き、財布に入れてある免許証を取り出した。

「ほんとだ」

「約束だ、払えよ」

 私は、ハイボール二杯と数曲を歌って店を後にしたが、由香に払わせることはしなかった。

 

 あの内示の日、私は昇格するとばかり思っていた。ところが、担当役員から言い渡されたのは、子会社への転籍だった。しかもその会社は長野にあった。役員は、向こうから優秀な人材が欲しいと要望されてねと苦しい言い訳を繰り返し、処遇はそれなりにと伝えてあるからと言った。慰めるつもりだったのか、飲みに誘われたが、私はそれを適当な理由で断った。元気のない私に、何かあったのかと尋ねる妻にも、何も言わなかった。

 

『恵子』に通い始めて十日ほど経った頃、遅い時間にやってきた由香は、珍しく私に絡むこともなくウイスキーをロックで煽るように飲んでいたが、しばらくして気づいた時にはカウンターに突っ伏していた。

 他の客たちが去り、私も帰ろうとしたがなんとなく由香が気になった。

「彼女、大丈夫? 起こそうか」

「そのうち起きるでしょ」

「店、何時まで?」

「一応十二時までだけど、由香ちゃんが起きるまでは付き合わなきゃしょうがないわね」

「じゃ、もう少し付き合うよ」

「いいの?明日仕事じゃないの」

「うん、いいんだ」

「悪いわね」

 ママは、これは奢りと言って水割りを私の前に置いた後、ドアに鍵をかけ、有線の音楽を切って私の隣に座った。ママは、栃木生まれで、東京に出てきて訛りで苦労したことや、店を開いた経緯などをぽつぽつ語り、それを聞くともなしに聞いていたが、そのうち話すこともなくなり、私はちびちびと水割りを舐めるように飲み、ママは足を組んでタバコをふかしていた。

 すると、由香が顔を上げたかと思うといきなり吐いた。あっと思う間も無く今度はスツールから転げ落ちた。ママが床で仰向けになった由香のもとに駆け寄り、大丈夫、由香ちゃんと声を掛けるが、由香は何やら訳の分からない言葉を発している。

「駄目だ、腰が抜けちゃってる。井上さん、お願いなんだけど、この子の部屋、この裏のなんとかっていう白いマンションなのよ。連れてってもらえる? 私じゃ階段も下ろせないし。ね、お願い。井上さんなら安心だし」

「まあ、いいけど、部屋も分からないし、鍵もないよ」

 そう言うと、ママは由香のバッグを探って鍵と免許証を見つけた。

 私は、由香を肩で抱えて階段を下り、店のビルの裏手に回ったところに建つ、瀟洒なマンションの五階の部屋に運び入れた。電灯のスイッチを探り当てると、そこは意外にもモノトーンでまとめられたセンスの良い清潔な雰囲気の部屋だった。ベッドまで運ぼうかとも思ったが、なんとなく憚られたため、リビングのソファに由香を寝かせた。

 髪は茶髪で脂っ気がなくバサバサしているが、よくよく見ると、顔立ちは悪くないし、多少ぽっちゃりはしているものの肉感的な体型と相まって、あの捨て猫のような目と刺々しい口調さえ無ければそこそこいい女と言ってもおかしくはない。

 女として由香を見ている自分に気づき、その考えを振り払って帰ろうとした矢先、ドアの鍵をどうしたものか、はたと困ってしまった。後で思えば、ドアはオートロックだし、そのまま置いて出てくれば良かったのだが、その時は全く思いつかなかった。すでに午前三時近くなっていて、疲れ果ててもいた私は、とりあえず少しだけ休もうとソファを背にして床に座り込むと、そのまま眠り込んでしまった。

 翌朝、由香の悲鳴で目が覚めた私は、自分がどこにいるのかすぐには分からず、状況を理解するのにしばらくかかった。部屋の隅でびくつく由香に、私が経緯を説明すると、由香は、神妙な面持ちでごめんなさいと何度も謝った。酒の抜けた由香は別人のようだった。

「本当にごめんなさい。何かお礼をさせてください」

「いや、そんなのはいいよ。私はママに頼まれただけだから」

「いえ、それでは申し訳ないので」と余りにもしおらしく言う由香に可笑しくなり、

「じゃあ、たまにはここに来ていいかい。もちろん君のいない時にだけど」

 と、悪戯心を起こした私は、冗談まじりに言った。

 由香は一瞬、戸惑ったが、驚くことに、いいですよと言った。いや、冗談だよと私は手を振ったが、部屋の物にはテレビ以外、一切触れない、ゴミになるものを持ち込まない、居て良い場所はリビングとトイレだけという条件を守ってくださいと言って、由香は私に合鍵をくれた。

 

 翌日の午後、会社でこれといって仕事のない私は、適当に抜け出し、由香の部屋に行った。よく知らない独身の女の部屋にいるのは、中学生の頃、親父のタバコを盗んで、隠れて吸った時のような罪悪感を伴う感覚と、誰も知らない私だけの秘密の空間のような気がして心が不思議と高揚した。

 テレビを見たり、雑誌を読んだりして数時間を過ごし、部屋を後にして『恵子』に行った。その日も、遅くに由香がやって来たが、私とは目も合わせようとはせず、私もあえて彼女に話しかけようともしなかった。

 

 子会社への転籍のことを妻にいつ話そうか私は悩んでいた。それまでの順風満帆だった会社人生で、自分がこの歳でそんな処遇を受けるとは自分自身が信じられない思いだったし、それを言葉にして妻に言う勇気がどうしても湧いてこなかったのだ。

 妻にはこの春の人事で役員待遇に昇格するかもしれないと言ってあった。今更ながら、そんなことを口走ってしまった自分が後悔されるが、どうしようもない。

 東京から長野までは二時間弱、ドアツードアで三時間といったところか。もちろん通える距離ではないし、趣味や交友関係を充実させている妻についてきて欲しいとも言えない。

 五十歳半ばで初の単身赴任か。しかも全く初めての土地で、全く知らない会社、全く知らない上司や部下と一からの仕事だ。考えれば考えるほど私の気持ちは萎えた。

 

 ある日、私のいる時間に由香が帰宅した。どこで飲んできたのか泥酔した由香は、ソファに寝転んでタバコに火を点け、天井に向かって狼煙のごとく煙を吐き出したかと思うと、

「もう帰る時間でしょ。いつまでいる気?」と酒で濁った虚な視線で言った。

 私は、思わず腕時計を見て、ああ、もうこんな時間かと呟いた。

「奥さんが待っているんだから早く帰んなよ」

 そうだなと立ち上がると、

「ったく。ひとのうち、勝手に上がり込んでるんだから、たまには気利かせてワインでも買ってきたら」と由香が言った。

「ああ、今度買ってくるよ」

「安物はだめだからね」

「高いワインなんか買えない」

「どうしてよ」

「金がないから」

「あんた、いっつも偉そうにしてるくせにそんなに金ないの」

「私がいつ偉そうにした」

「最初っからあんたは偉そうだった。どうせ会社でも偉そうにしてんでしょ」

会社という言葉が私の癇に障った。

「お前にそんなことを言われる筋合いはない。知ったふうな口を聞くな」

「会社でも邪魔者扱いされて出世できないんじゃないの」

思わず動揺して目が泳いだ。

「ふん、図星なんだ。あんたみたいな男は用済みなのよ。いい? 会社にとっていらない人間なの」

「そうだよ。その通りだ。お前の言う通りだよ」

「へっ、開き直っちゃって。本当にそう思うんならいっそ死んじゃえば」

「それもいいかもな。お前の言う通り、仕事もない、金もない、ただ生きてるだけの男だからな。由香、殺してくれるか」

「なんで私があんたみたいな男、殺さなきゃならないのよ。勝手に自分で死ねば」

そうだなと私は自嘲気味に笑って言った。

「ったく。このジジイ、話になんない」

 そう言って火のついたタバコが飛んできた。私はそれを拾って灰皿で揉み消し、じゃあと言ってリビングを出て玄関に向かった。背中から、帰れ、ジジイという由香の声が聞こえた。

 それでも私は、不思議と由香の部屋に行くのを止める気が起きなかった。ひと回りも年下の女の、酔った戯言をまともに聞く必要もないと思っていたし、何より由香の辛辣な言葉はなぜか私には心地良かったからだ。

 

 ある日、いつものように由香の部屋で過ごしていて、テレビでも見ようとリモコンを探しているうち壁際の白のチェストが気になった。その中に何があるのか知りたくなった。ある種、由香という一風変わった女に対する純粋な興味が湧いた。もし、触れたことが知れれば由香は激怒するだろう。そう思ったが、興味が勝った。

 引き出しは五段あり、上から順に開けていった。四段目までは、領収書や請求書やマンションの契約書、薬箱や裁縫道具、テレビや冷蔵庫などの取扱説明書、乾電池、ドライバーセットなどのちょっとした工具、雑誌などが綺麗に整頓されていた。一番下の五段目には、写真立てとA4のノートがあった。

 写真に写っていたのは、由香と由香よりは明らかに年上の見知らぬ男だった。ノートの表表紙には何も書かれておらず、さすがに由香の秘密を覗き見るようで一瞬、躊躇ったが、やはり興味が上回った。表表紙をめくると、そこには、死にたいと、いつもの由香のイメージからは想像もつかない、小さく丁寧な文字で綴ってあった。単に酒を飲んで感傷的に走り書きしたのではないと、その几帳面な文字は物語っていた。そこにかえって由香の心の奥が垣間見えたように思った。

 私には次のページをめくる勇気はなく、それをそっと閉じて、注意深く元の形のまま置き、引き出しを閉めた。やはり、見なければよかったと私は後悔した。

 今日は早めに帰ろうと思っていたら、由香が帰宅した。由香は明らかに酔っていたが、その表情から珍しく機嫌は良さそうだった。

「あら、まだいたの」

「あ、いや。もう帰るよ」

「せっかく来たんだからもうちょっとゆっくりしていきなよ。まだ時間あるんでしょ」

「ああ、まあな。じゃもうちょっとだけ」

 由香はキッチンに行き、冷蔵庫からワインボトルとグラスを持ってきた。私たちは、乾杯し、由香は並々と入ったグラスを一気に飲み干すと、注いでよと言った。私がワインを由香のグラスに注ぐと由香はそれも一気に飲み干し、今度は自分で注いだ。そして、タバコに火をつけ、深く吸い込んでから煙を天井に向けて吐き出した。

「ああ、おいしい。どう?」

「ああ、うまいよ」

「じゃもっと飲みなさいよ。ほら」

 私は、グラスを開け、由香はそこになみなみとワインを注いだ。

「何かいいことでもあったのか」

「別に」

 あっと言う間にボトル一本が空くと、由香はさらに冷蔵庫から違う白ワインをもう一本持ってきて同じようなペースでぐいぐい飲み始めた。

「おいおい、大丈夫か」

「あんたさ、なんでここに来るのよ」

 とろんとした焦点の合わない目で由香が聞く。

「なんでって、お前が来ていいって言ったからだよ」

 いきなり由香がケラケラ笑い出した。

「全く理由になってないし。まあ、いいわ。ところで、あんたの奥さんていくつ」

「三つ下だから、五十二だな」

「今でもセックスしてんの」

「バカ言うな。するわけないだろ」

 私は虚をつかれたように慌てた。妻とはもう何年も没交渉だった。

「なんでバカなの。男と女じゃない。それに愛し合って結婚したんでしょ」

「まあそうだが」

「出来ないの、それともさせてもらえないの」

 どうして、こいつはこんなに人の弱点をピンポイントで突いてくるのか。由香はまたもケラケラと笑った後、驚くべきことを言い始めた。

「わたしとセックスしたい?」

「なに」

「させてあげてもいいよ。お願いするなら」

「あほくさ」

 正直なところ私の心臓は鼓動を早めていた。それまでも由香を何度も女として見ていたし、時には性的な妄想をしたことさえあった。

「ここに来てわたしを思ってオナニーでもしてんじゃないの」

「頭おかしいんじゃないのか」

 由香は、またケラケラと笑い、ワインを煽ると、タバコをガラスの灰皿で揉み消し、もう一本、火をつけ、ソファに寝転んだ。タバコを大きく吸い込んで、天井に向けて煙を吐き出すとおもむろに言った。

「で、どうするのよ」

「何を」

「わたしにお願いするの、しないの」

「バカか。するわけないだろ」

 由香は天井を見つめたまま黙り込んだ。指に挟んだタバコの灰が長くなっていく。

「あんたはね、人を見下してんの。わかる?」

「……」

「自分では気づいてないだけ」

「……だとしたらなんだ」

「なんでもない。そういう救いようのない人間てこと」

「私に言えた義理か!お前だって大して変わらないだろ。私に八つ当たりするな!」

 自分を抑えられず言葉が迸った。

「ふん、あんたのためを思って聞いてあげたのがわかんないの。大体、わたしが一回りも上のジジイと好き好んでセックスするとでも思ってんの」

「どうせセックスしてくれる男がいなくて欲求不満なんだろ」

 今にも泣き出しそうに由香の表情が歪んだ。言ってはいけない言葉だと気づいたが遅かった。

「うるさい!このジジイ!」

 私は黙って、バッグを持って玄関まで行き、ドアを開けようとして思い出し、ポケットから鍵を取り出してシューズクローゼットの上に置いた。リビングの方から、もう二度と来るな、という由香の大声が響いた。

その日から由香の部屋に行くことはなく、『恵子』からも足が遠のいた。

 

 ある夜、私は全てを妻に告げた。長野の子会社に転籍になることはもちろん、自分が思うほど自分は会社から評価はされていなかったことや、それを妙なプライドが邪魔をして今まで言えないでいたことなどを。

 妻は、一瞬、憐れむような視線を浮かべたが、あら、そうだったの、それじゃ、これから大変だわねと何気ないように言った。

 私はその妻の言葉に感謝し、自分がなんとなく自由になれた気がした。

 

 ある日、ふと、思い立ち、『恵子』のドアを押した。

「あらあ、久しぶりじゃないの」

 ママが満面の笑みで迎えてくれた。私は長野への転勤の話をし、挨拶がてら寄ったと話した。

「そういえば、最近、由香ちゃんって来てる?」

「それがね。引っ越したのよ」

「引っ越した?」

「色々あったからね、あの子も。それから来てないわ」

「色々って?」

「ほら、よくあるでしょ、上司との道ならぬ恋ってやつ」

 脳裏にあの写真とノートが浮かんだ。

 あの日、由香は珍しく妙に上機嫌で楽しそうに見えたが、本当は寂しくて、そんな気持ちを紛らわせたくて私を揶揄ったのかもしれない。私がセックスさせてくれよと遊び半分でお願いしてあげれば、いい歳して本気にするなジジイと私を罵倒し、ワインをしこたま飲んで、最後は酔っ払ってソファで眠ったかもしれない。

 私は無性に由香に会いたくなったが、その後、粘って二十三時過ぎまで待ってはいたものの由香は現れず、さすがに今日はもう来ないだろうと椅子から立ち上がったところにドアが開いた。由香だった。

「あら、今日は珍しい。久しぶりの人ばっかり」とママが言った。

 由香は、私の後ろを通って、いつもの奥のカウンターに座った。ママが水割りセットと灰皿を由香の前に置き、

「部屋は落ち着いた?」と聞いた。

 うんと素直に答えた由香は随分印象が変わっていた。肩まであった茶髪が黒くショートになり、化粧も薄い。タバコも吸っていない。ママと話す視線が、あの捨て猫のような荒んだ目ではない。何気なく眺めていると、目が合った。一瞬ドキッとし、それが言葉となって出た。

「久しぶり。元気そうだな」

「ふん、あんたなんかに心配される筋合いはないよ」

 由香は視線を外し、水割りを煽った。なぜか私は嬉しかった。

 しばらくして店を後にし、夜道を歩き始めた私の熱った頬を、三月のまだ冷たい風が心地良く撫でた。

 

 

                                    

 了