てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

豆御飯(改稿版)

豆御飯                           

 

 

 日曜日の昼過ぎの駄菓子屋は子供たちで一杯だった。

 その店は、家の近所の駄菓子屋よりも広く、種類も豊富に健吾には見えた。

「おばちゃん、これいくら」

「それは10円だよ」

「じゃこっちは」

「それは20円だね」

 子供たちの声に、小上がりの座布団に座ったおばちゃんが答える。

 子供たちは、持っているお金と欲しい駄菓子を天秤にかけて考えている。

 そのうち思い思いの駄菓子を片手に、もう一方の小さな手で小銭をおばちゃんに渡す。お釣りがあると、おばちゃんは、足元にある書類ケースのようなところを開け、3円とか5円を、また子供たちの手に戻す。

 健吾は、親戚のおばあちゃんに貰ってきた500円玉を右手に握り、左手は妹の小さな手を握っていた。知らない店に来て健吾は少し緊張していた。いつもの駄菓子屋なら友達ばかりなのに、知らない子たちばかりだと思った。

「おにいちゃん、これがいい」

 と妹が言った。

 妹が指差したのは、見たことのない駄菓子だった。早く買って帰りたい健吾は、それを取って、おばちゃんに聞くと、50円だよと答えた。健吾は、もう一つ取って、500円をおばちゃんに渡して、400円お釣りを貰った。どこからか、いいなあという声が聞こえた。

 おばちゃんは、それを寄越しと言った。健吾が渡すと、片手で持てるようにと二つとも小さなビニール袋に入れてくれた。それを持って帰ろうとすると、店の出口に、とうせんぼをするように何人かの男の子がいた。5年生か6年生か、3年生の健吾より大きく高学年の子に見えた。健吾は、嫌な感じがしたが、妹の手を引いて間をすり抜けるように出ようとした。

 店の外に出たと思ったとき、お尻の辺りを後ろから蹴られた。痛くはなかったが、健吾は、怖くなった。そして、振り返るとケンカになるような気がして、振り返らなかった。妹を守らなきゃと思った。

 おばあちゃんの家に着いた健吾は、ずっと不機嫌だった。買ってきた駄菓子を妹が食べたいと言っても、まだ駄目と言って食べさせなかった。自分もなんとなく食べたくなかった。心配したおばあちゃんが気にかけて、どうしたのと聞いても、むくれて何も答えなかった。健吾たちのために買ってくれていた玩具も、晩御飯に連れていってくれた大好きな寿司屋にも、健吾の機嫌は直らず、翌日、両親が迎えに来た時も健吾はむくれていた。おばあちゃんはどうしたんだろうねえと言った。

 帰りの車の中で、健吾は、ずっと自分が負けたんじゃない、妹を守ろうとして我慢しただけだと自分に言い聞かせていた。それでも、お尻を蹴られた時の恐かった気持ちを思い出すと、やっぱり自分が負けたんだと思って嫌になった。そんな気持ちになったのは初めてだった。

 家に帰ると、母親が機嫌を直そうと思ってか、健吾の大好きな豆御飯を作ると言った。それで健吾は少し気分が良くなった。ずっとむくれていてバツの悪い思いのあった健吾は、母親を手伝おうと台所に行った。母親に言われるまま、えんどう豆をサヤから出して透明のボウルに入れた。残ったサヤは、生ごみ入れに捨てた。母親は、炊飯器に米を入れて研ぎ、ほら、ここに少しお酒を入れると美味しくなるんだよと言った。それから健吾の剥いたえんどう豆をボウルから炊飯器に入れ、塩を振って、蓋をした。

 しばらくすると父親が帰ってきて、

「お、今日は豆御飯か」

 と言い、

「健吾のおへそがね、直るようにね」

 と母親が笑った。

豆御飯を食べて満足した健吾は、リュックに入れてあった駄菓子を出して、ビニール袋を破り妹と仲良く食べた。

 

 中学校に上がると、健吾は剣道部に入った。これと言った理由もなく、ただなんとなく入った。強いて言えば、たまたま見たテレビ番組で、お笑い芸人が剣道をやっている姿を見て、そのギャップに驚き、凛々しく見えたせいかもしれない。そのくらいの軽い気持ちだった。

 大人ほどに見える3年生の先輩に命じられ、体育館の横の小部屋に行き、棚に並んだ面や、胴や小手と、持つところが擦り切れた竹刀を持って、体育館に入ると、新入部員の1年生2人はまず正座をさせられた。

 クラブの顧問をやっている先生は、剣道は礼に始まり礼に終わる、体でなく心を鍛えるものだと言い、いかに剣道が人生で大切なことを教えてくれるかを語った。話を聞いているうち、すぐ健吾の足は痺れてきた。頭の中は、早く話が終わって欲しいという思いで一杯になっていた。健吾は違うことを考えようと思った。出てきたのは豆御飯だった。なぜご飯を炊く前に、お酒を足すのがいいのかを考えた。お酒を足すと豆がふっくらとすると確か、母親は言ったが、なぜ酒で豆がふっくらするのか健吾には分からなかった。父親が酒を飲むと、顔が赤くなって上機嫌になるので、豆も同じようになるのかと思ったりした。

 顧問の先生の剣道の話が終わったと思ったら、今度は、主将が出てきて、防具の付け方のレクチャーが始まった。それも何とか我慢して、ようやく正座から解放され、痺れる足をさすり、さすり、実際に防具を付けてみたが、被った面のあまりの臭さに驚いた。古い汗が染み付き、すえたような、台所の生ごみが捨ててある所のような、なんとも言えない匂いがした。健吾は剣道部に入ったことをもう後悔していた。やっぱり美術部に入れば良かったと思った。小さい頃からずっと絵を描くのが好きだった。絵を描いていると時間を忘れたし、皆が健吾の絵を見て褒めてくれた。母親と行った日本橋高島屋で、たまたまやっていた絵画コンクールで絵を描いた。それは、リンゴと食器が台の上に置いてあって、それをその場でデッサンするのだが、健吾は、母親がいるのも忘れ何時間もかけて描いた。それは見事に選に選ばれた。健吾は、飾られている間、何度も自分の絵を見に高島屋に連れて行ってもらった。

 防具を付け終わると、竹刀を持つことなく、その格好のまま、体育館の壁際をぐるっとウサギ跳びをさせられた。一周も満足に出来なかった。途中で止まると、先輩が来て竹刀で床を何度も叩いた。結局、3周させられ、健吾たち1年生2人は、それだけでヘトヘトになった。その後、竹刀を持って素振りを300回して練習は終わった。

 来る日も来る日も臭い防具を付け、ウサギ跳びと素振りばかりやらされた。学校に行くのが嫌で嫌でしょうがなかったが、それでも何とか健吾は耐えた。剣道はすでに嫌いになっていたし、強くなろうなどとは、これっぽっちも思っていなかったが、先輩が怖かったのだ。

 蒸し暑い梅雨の時期になると、さらに面の匂いがひどくなった。

 その日も、滴り落ちる汗で体育館の床を濡らしながらウサギ跳びを終えた健吾たちに、

「よし、今日から打ち込みだ。竹刀を持って集まれ」

 主将が言った。

 健吾たちは、先輩と相対して、互いに面や胴、小手を打ち合う稽古を始めた。

 竹刀で打たれるのが、これほど痛いものかと健吾は思った。面も頭のてっぺんに目が眩むほどの衝撃が走るが、特に小手は思わず竹刀を落としてしまいそうになる。さらに胴は、上手く防具を捉えてくれればいいが、時折、カバーされていない脇の下あたりに入ると、その激痛にしゃがみ込んでしまうほどだった。先輩は思い切って打ち込んでこいと言った。健吾も打ち込むが、それは弱々しいもので、もっと強く打てと叱られた。健吾には打てなかった。そういう気持ちというか、憎くもない相手を打つには何かが自分には不足していた。打ち込みが終わると、面を取った先輩はにやにやして言った。

「お前みたいな弱々しい新入生は初めてだよ」

 なぜかこの言葉で健吾は先輩が怖くなくなった。

 

 健吾は、夏休み前に剣道部を辞めた。職員室に顧問の先生を訪ねて、辞めさせてくださいと言うと、先生はあっさり、ああ、そう、分かったと言った。叱られたり、説教されるんじゃないかと身構えていた健吾は、ほっとした。

 辞めたことを母親にも父親にも言わなかった。いずれは分かると思ったが、それはその時でいいと思った。一緒に入ったもう一人の同級生は辞めなかった。その生徒は蓮くんといって、健吾よりもずいぶん小柄で、長い竹刀に振り回されているような感じでとても続かないだろうと思っていたが、蓮くんは、頑張って先輩みたいに強くなるんだと言った。その気持ちが健吾には全く理解できなかった。先輩が強いとは思わなかったし、とても強くなれるとは思えなかったからだ。やっぱり辞めて良かったと思ったが、辞めてからしばらくすると、健吾は、自分が情けなく思えてきた。自分に負けたような気がしたし、嫌なことから逃げたような気がしてきた。その後ろめたいような気持ちが、親に辞めたと言えない理由だとその時気づいた。

学校で、剣道部の先輩に会うと、睨み付けられたりして嫌だったがそれも少しの間だったし、そのうち段々と忘れてしまった。

 2年生になると、クラスも変わり、友達も増えて少しずつ中学生活が楽しくなってきて、好きな女の子も出来た。違うクラスだったので、たまに見かける姿を遠くから眺めるだけだったが、それでも健吾には十分満足だった。それなのに修学旅行で友達に話してしまったから、それからは、彼女を見かけると、一緒にいた友達がわざとらしく囃し立て、そのせいで、彼女に伝わったようだった。なぜか彼女とよく目が合うようになったからだった。それまで彼女が自分を見ることはなかったのに、廊下などですれ違うときに、不思議と目が合った。行き過ぎて、振り返ると、彼女の友達が自分の方を見て、何やらはしゃいで彼女に囁いているようなこともあった。そんな時、健吾は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。

 秋の運動会の練習をしていた日、喉が乾いた健吾は水飲み場に行った。残暑の残る9月のひどく暑い日だった。

 すでに多くの生徒がいて5つある水飲み場の順番待ちをしていた。健吾も待っていた。

「横入りはやめろよ」

 と隣の列で待っていた男の子の声が聞こえた。見ると蓮くんだった。後から来た生徒が、蓮くんの前に割り込んだのだ。でも割り込んだその生徒はニヤニヤしていたので、最初健吾は二人は友達同士で、冗談でやったのかなと思った。ところが、蓮くんが、割り込んだ生徒の体操着を引っ張って無理やりどかそうとしたものだから、その生徒が蓮くんを突き飛ばした。健吾は、あっと思った。蓮くんは、後ろに倒れ込んで尻もちをつくと泣き始めてしまった。健吾は、それを見て可哀想に思った。酷いことをすると思った。割り込んだ生徒を見ると、またニヤニヤしていた。不意に健吾は激しい怒りを感じて、思わずその割り込んだ生徒の顔を右手で殴りつけた。殴られた生徒は顔を庇うような仕草をし、頬を手で押えて蹲ってしまった。すぐ周りが騒がしくなって、先生たちが何人かやってきた。

 職員室で事情を聞かれ、先生から連絡を受けた母親がやってきた。健吾が殴った生徒の母親もやってきて、健吾の母親は、二人に一生懸命謝った。母親に促され健吾も謝ったが、悪いことをしたとは全く思っていなかった。自分は正しいことをしたと思った。さらに言えば、殴って自分はあの悪いことをした生徒に勝ったのだと誇らしささえ感じていた。

 家に帰ると、母親は、何も言わず豆御飯を作ってくれた。仕事から帰ってきて事情を聞いた父親も、健吾には何も言わなかった。いいとも悪いとも言わなかった。ただ、そうかと言った。

 翌日の学校では仲の良い友達が、

「やったな、健吾。すごいじゃん。一発ノックアウトって天心かよ。カッコ良すぎるだろ。でも俺、健吾の友達でよかったあ」

と言った。

「そんなことないよ。先生にも親にもめちゃくちゃ叱られて大変だったんだよ」

 なぜかそう言った方がいいと健吾は思った。

登校してきたヤンキーっぽい生徒が、健吾を見て目を伏せた。心なしか女の子たちも、そういう目で自分を見ているように健吾は感じて、なんとなく気分が良かった。

 

 健吾に殴られた男の子は、優斗といった。

 あの水飲み場で、優斗は、並んでいる蓮を見つけた。後ろからそっと近寄って、いきなり横入りした。こんな小さな嫌がらせのようなちょっかいはいつものことだったが、みんなの前だったせいか、珍しく蓮が声を荒げた。どうせ大したことはできないだろうとたかを括っていたが、蓮が体操着を引っ張ってきたので押し倒してやると、やっぱりメソメソ泣き始めた。

 その時、いきなりゴンと言う音とともに左頬に衝撃があった。強い痛みがすぐ後からやってきた。誰かに殴られたと気付いたが、また殴られるのが怖くて、思わず頬を押さえて蹲った。何が起こったかよく理解できないまま、優斗は先生に連れられて職員室に行った。先生には、自分は何もしていないのに、いきなり知らない生徒に殴られたと言った。しばらくすると母親がやってきて、先生たちにすごい剣幕で捲し立て始めた。

「どうしてうちの優斗が殴られたんです?一体、優斗が何をしたって言うんですか?きちんと説明してください!」

 先生は一生懸命何かを説明しようとしていたが、母親の怒りは収まらなかった。そこへ、優斗を殴った生徒とその母親がやってきて、自分と母親に謝った。見たことのある生徒だった。優斗はなぜ自分や蓮と何の関わりもないはずのこの生徒は自分をいきなり殴ったのだろうと思った。そして、この前、読んだ本に書いてあったことは本当だったのかもしれないと思い始めた。

 図書館で借りたその本は、前世とか生まれ変わりについて書かれていて、オカルト好きの優斗の興味を引いた。そこには因果応報とあり、人は何か良いことも、悪いことも、そのしたことの結果は、様々な予期しない形で必ず自分に返ってくると書いてあった。へえ、そうなのかと思い、優斗はそれらしきことが過去になかったか考えてみたが、何も思い当たらずそれきり忘れていた。

 ところが、あの水飲み場で、この知らない生徒にいきなり殴られたことは、因果応報ではなかったかと思ったのだ。そうとも考えないと説明がつかなかった。盗み見るように顔をよく見てみるが、いきなり知らない人間を殴りつけるような生徒にはとても見えない。どちらかと言うと、真面目で大人しい感じがする。蓮にしてきた数々のことが、巡り巡ってこの生徒を通じて自分に返ってきたのかもしれないと考えた。優斗は、蓮とは友達だと思っていたが、ちょっとしたことですぐおどおどする蓮を揶揄ったりするのが楽しかったし、体が小さくて体育も苦手だった蓮は、クラスの女子たちでさえ馬鹿にしたりしていたので、それを特に悪いことだとも思ってはいなかった。

 優斗は、自分の母親が殴った生徒の母親に激しく言い募るのを、もう止めて欲しいと頼んだ。先

生にも本当のことを言った。自分が蓮の前に横入りして、怒った蓮を押し倒したのだと。それを聞

いた母親の怒りがようやく収まった。

 翌日、学校に行った優斗は、教室に一人座る蓮の前の席に座った。そして言った。

「昨日はごめん。本当にごめん。もうこれから蓮が嫌がることは絶対にしないから」

蓮は半分信じていないような顔で優斗を見ていたが、最後は笑ってわかったと言った。

優斗はほっとして、窓側の自分の席に戻った。何人かの友達がやってきて、そのうちの一人が、

「殴ったやつにやり返すんだろ、優斗」

 と言った。

「ああ、そのうちな」

優斗は曖昧な返事で誤魔化した。授業のチャイムが鳴り、生徒たちは自分の席に戻って行った。

窓から外を見ると今にも雨が降り出しそうな曇天になっていて校庭には誰もいない。とんでもなく暑かった昨日と違って、いきなり秋がやってきたような肌寒い日になっていた。

優斗は、一人、自分のしたこととその帰結について再び思いを巡らしていた。

考えれば考えるほどとんでもない宇宙の秘密を知ってしまったような気がしていた。この世は恐ろしいと思った。小さな頃から甘やかされ、ずっと我儘ばかり言ってもちゃんと生きてこれたのが不思議なくらいに思える。もっと酷いことにならなくて良かったとも思った。とはいえ、知ってしまった以上、これからどうやって生きていくかに思いをさらに巡らした。

 

 健吾は、蓮くんが気になっていた。剣道部で上級生に打ち込まれ、ボロボロになりながらも必死に頑張っていた蓮くんが、尻もち着いたくらいであんなに簡単に泣いてしまったことが驚きだったし、もしかしたらあの生徒にずっといじめられているのかもしれないと思った。もしそうなら、強い自分がなんとかしてやらねばくらいに思った。

 一時限目が終わると、健吾は、蓮くんのクラスを見に行った。ドアのところからそれとなく覗くと蓮くんは思いのほか元気そうで、何やら楽しげに他の生徒と話していた。ほっとした健吾は、自分の教室に戻ろうとして気付いた。自分の殴ったあの生徒が、窓際で一人寂しげに何やら考え込んでいる姿に。その縮こまったような姿を見て、健吾は、初めて自分のやったことを理解した。弱い者いじめをしたと思った。心の底から本当に御免なさいと謝りたくなった。誇らしいと思った自分が恥ずかしくなった。

 教室に戻った健吾は、その後、ずっと自分に殴られた生徒の気持ちを考えていた。

午後から降り出した雨は、学校が終わる頃には本格的な冷たい雨となっていたが、傘を持って来ていない健吾は、濡れるのも構わず家路についた。

 

 

 

 

                                         了