てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

2022-01-01から1年間の記事一覧

凪の時間

人事発令のあった日から酒の量が増えていた。 三月上旬のその日も、会社を後にして最寄りの駅に降り、南口にある居酒屋で飲んだが、そのまま家に帰る気にもなれず、飲み屋の連なる表通りから一本入った路地をぶらぶら歩き、ネオンが幾つか点った三階建ての細…

岸部

岸部は40歳をいくつか過ぎ、そろそろ結婚を諦めようかと思う頃に、沙耶香に出会った。 元々、結婚願望が強い方ではなかったが、信州の実家で一人暮らす母親に、初孫の顔を見せてやりたい気持ちは心のどこかに常にあった。すでに嫁いで十年以上になる姉に子…

ペットの男

「タワーマンションに住むような人間は本物の金持ちじゃないのよ」 情事の後、詩織は言った。 「どうして?」 無性にタバコが吸いたいのを堪えていた亮平は、どうでもいい話だとは思いながらもそう聞いた。 「見下ろすことに快感を覚えるのは劣等感の裏返し…

豆御飯(改稿版)

豆御飯 日曜日の昼過ぎの駄菓子屋は子供たちで一杯だった。 その店は、家の近所の駄菓子屋よりも広く、種類も豊富に健吾には見えた。 「おばちゃん、これいくら」 「それは10円だよ」 「じゃこっちは」 「それは20円だね」 子供たちの声に、小上がりの座…

トリガー

僕の紙飛行機が輪っかをくぐったその瞬間、地鳴りのような大歓声が起こった。その場に何百人もいたせいかもしれない。 隊長は痛いほど僕の背中を叩き、第十六団十五人ほどの仲間たちは、皆、手を叩き小躍りして喜んでいた。たかだか十メートルほど先の、ロー…