てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

岸部

 

 岸部は40歳をいくつか過ぎ、そろそろ結婚を諦めようかと思う頃に、沙耶香に出会った。

 元々、結婚願望が強い方ではなかったが、信州の実家で一人暮らす母親に、初孫の顔を見せてやりたい気持ちは心のどこかに常にあった。すでに嫁いで十年以上になる姉に子供はなかった。

 彼はいわゆる恋愛体質からはほど遠く、人を好きになる能力があるとすれば、自分では10点満点中、せいぜい2点かよくて3点くらいだろうと思っていたが、その理由を、父の愛情を知らずに育ったせいではないかと漠然と思っていた。

 システムエンジニアという仕事は、クライアントとの面倒な交渉を含めて、岸部の性分というか、喜怒哀楽を表に出すことなく的確に物事を処理できる彼みたいな男には向いていたのだが、女性との出会いという点では、平日の残業はもちろんのこと、土日の出勤も多く、就職してからというものそんな機会はほとんどなかった。

 残業を終え、夜遅くマンションに帰って缶ビールを飲みながら、パソコンでYouTubeを見ていて、ふと思いつき、何度か出会い系サイトに登録しようとしたものの最後は思い止まり、またある時は、結婚相談所にでも行ってみようかとパンフレットをいくつか取り寄せたりもしたが、それも結局は、ゴミ箱に捨てられた。

 沙耶香は岸部より一回りほど下で、春の異動で大宮のオフィスから、岸部のいる新宿オフィスへと移ってきた女性だった。取り立てて可愛いとか美人というほどではなかったが、常に笑顔の絶えない明るく朗らかな女性で、すぐ誰とでも打ち解け、ずっと前からそこにいたかのような思いをオフィスの誰もに抱かせた。

 ある大手のクライアントの仕事で同じチームになり、ミーティングを重ねるうちに、ごく自然に会話を交わすようになり、チームの飲み会がきっかけで、二人は食事に行くようになった。

「今日も課長に叱られちゃった」

 新宿駅からほど近い居酒屋で、沙耶香は言った。言うほど気にしてはいないことが岸部には分かっていた。いつものことだったからだ。岸部が黙っていると、

「あれ。慰めてくれないの」

「いや、そういうわけじゃないよ。でも、そんなに気にしてないでしょ」

「ひどーい。それじゃまるで私が鈍感みたいじゃない」

 その通りだよ、という言葉が過ぎるが、もちろん岸部は、

「いや、それは沙耶香の良いところだからさ」

 と言った。彼女は不満げに口を尖らせた後、すぐ笑顔に戻って、ま、いいかと言い、焼き鳥の串を、箸で皿の上にバラし始めた。

「ほら、この方が食べやすいでしょ」

 岸部は、焼き鳥を串からバラして食べるのが好きではなかった。せっかく串に刺さったものは、串のまま口で引き抜くようにして食べてこそ旨いように思うし、ちまちまと外すのは貧乏臭いような気がするのだ。大して高いものじゃなし、同じ串を食べたければ別に注文すれば良いだろうと思う。しかし彼は口には出さない。小さいことを気にする男だと沙耶香に見られたくなかった。

 沙耶香は一事が万事、全てにおいて世話を焼きたがるような女性で、相手がどう思っているかは彼女には関係ないように思われた。自分がやりたいからやる、ただそれだけに見えた。

 彼女のそのような性格は、時として仕事の上では、良くない結果となって現れてしまう。

 ある日、クライアントの一人であるK企画のSから岸部に会いたいと連絡が入った。長年、付き合っている男で、岸部とは仕事上の信頼関係がある。

 待ち合わせのカフェで、しばらく待っていると、

「やあ、岸部さん、お待たせしました」

 そう言って、Sがやってきた。

「いえ、どうしたんですか。急に」

 Sは、ブレンドコーヒーを注文した後、

「お忙しいでしょうから手短に申し上げますが。岸部さんとも古い付き合いですし」

 と、言いにくそうに目を伏せ、口元を歪ませる。一瞬、何か大きなミスを犯したかと嫌な予感が掠めた。

「なんでしょう。そんなにおっしゃりにくいことですか」

「いや、実はですねえ。お宅の女性、確か加藤さんでしたか」

 沙耶香のことかと岸部は思い、言葉の先が読めるような気がした。

「気が利くのはいいんですが、こう、なんというか、こちらの要望とは違っていると言いますか」

 Sはそう言ってコーヒーを一口啜った。飲みたくないと思える飲み方だった。朝から何杯も飲んでいるのかもしれない。

 結局、Sは1時間近く、沙耶香の仕事のやり方から始まり、今の自分の処遇についてまで不満を述べ、それじゃ、またと言って店を出て行った。沙耶香の話は大したクレームではないと思ったが、岸部には、Sの言っている意味がよく分かった。痒いところを掻いてはくれず、その周りを強く掻くのだ。彼女に決して悪気はなく、それどころか良かれと思って一生懸命なのだが、それだけにまた都合が悪かった。

 それ以降、岸部は何かにつけ沙耶香のサポートをした。特に重要なクライアントや仕事は振らないように手を回しもした。そういうことにも沙耶香は全く気が付いてないようだった。

 

 夏になり、二人は旅行に出かけた。

 言い出したのは沙耶香で、河口湖に行きたいと言った。岸部は少しばかり逡巡した。男女が旅行に行くのはそれなりの関係になってからだろうと思ったが、二人はたまに食事をする同僚というだけで、その範囲を超えてはいなかったからだ。それでも結局、行くことにしたのは、押しの強い沙耶香にきっぱりと断ることも、その理由も見当たらなかったからに過ぎない。それに、岸部の女性経験は極端に少なく、まともに付き合ったことさえなかったから、沙耶香がどういう思いで自分を旅行に誘ったのかも判断がつかないままで、要は流れに身を任せてしまったのだ。

 岸部はレンタカーを借りた。今、流行りのカーシェアで、マンションの近くの駐車場にあるのを以前から知っていた。試しにやってみると、申し込みから、実際に借りて返すまで全てがスマホで事足りることに彼は驚いた。

 当日、彼は沙耶香のマンションに迎えに行き、首都高速から中央道に入り、河口湖方面へと向かった。快晴の土曜日で高速は渋滞気味ではあったが、急ぐ旅でもなく、岸部はのんびりと左車線を走った。

「こんな気持ちのいい日にドライブできるなんて最高。ね、来て良かったでしょ」

「そうだね」

 確かに沙耶香の言う通り、雲一つない紺碧の空に濃い緑を見ているだけで、岸部は爽快な心持ちになった。旅行などいつ行ったかすぐには思い出せないし、何年かぶりの車の運転さえも新鮮だった。

 河口湖インターチェンジで高速を降りた岸部たちは、少し離れてはいるが、前から見てみたいと思っていたという沙耶香のリクエストで、忍野八海鳴沢氷穴を巡り、ホテルに着いたのは夕方だった。

 沙耶香の予約した河口湖畔のホテルは、思いのほか小ぶりで、お洒落で、清潔だった。ツインベッドの部屋は、白を基調として明るく、大きな窓からは河口湖が一望できた。

 岸部には沙耶香に対する性的な欲求があるにはあったが、それはそれほど強くはなく、そのようなことがあってもなくてもいいくらいに思っていた。

 建物に比して河口湖に面した芝生の庭は広く、彼女は、そこでディナーができるのが最高なのよと言った。前に来たことがあるような口振りだったが、岸部は聞き流した。

 庭からの富士山は岸部の思っていた富士山とは違っていた。彼は、新幹線の窓外から見える雪化粧をした優しげな富士山を富士山とイメージしていたが、今、目の前に在る夏の富士山は、荒々しく、人を寄せつけないほどの絶対的な威圧感を放っている。それはまさしく霊峰富士であり、仰ぎ見るとは、こういうことを言うのだなと岸部は思った。

何席か設てある白いテーブルの多くは、若いカップルばかりだった。旅雑誌とかSNS、もしくはテレビででも紹介されたのを見て来るのだろう。岸部は、蚊が嫌いで気になっていたが、全く出なかった。

 料理はイタリアンのフルコースで、仕事の関係で何度か行った東京の有名店のそれと特に大きく変わると思えなかったが、パスタだけは初めて食べるものだった。

「これは何というパスタですか」

 飲み物を持ってきたウエイターに岸部は聞いた。

ポルチーニ茸のクリームソース、トリュフ仕立てでございます」

「あ、いえ、料理の種類ではなくて、パスタの種類のことなんですが」

「失礼しました。そちらは、キタッラと申します。元々はイタリア語でギターという意味だそうで、このパスタを作る道具がギターに似ていることから名付けられたそうです」

 へえ、そうなんだ、すごーいと沙耶香が大袈裟に言った。

「キタッラですか、ありがとうございます。初めて食べた感じがしたもので」

 岸部がそう言うと、

「特徴的な歯切れの良い食感があります。四角いんですね、形が」

 なるほどそれでなのかと岸部は納得した。

 陽の残る時間に始まった食事も、デザートが供される頃には、河口湖は闇に沈んでいた。代わりに、そこここで柔らかな赤いキャンドルライトが灯され、庭は幻想的な雰囲気を醸し出している。

 先ほどのウエイターが、コーヒーを持ってきて、

「よろしければ、バーのご用意が出来ますが」

 と言った。

 沙耶香に聞くと、行ってみたいと言うので、岸部はお願いした。

 そのバーは、庭からホテルに入る通路から折れたところに、入り口があったが、店名やバーを示す表示は何もなく、言われなければ全く気づかないだろうと岸部は思った。ドアを開けると、階段があり、それを地下へと降りると、まるでわざと隠されているかのようにそのバーはあった。

 岸部は重厚な扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 ダークスーツに身を固めた初老のバーテンダーだった。短く刈り込まれ、後方に撫で付けられた清潔感のある白髪に、同じく刈り揃えられた白い顎髭が似合っている。目の縁に刻まれた深い皺が、人生経験の豊富さとそこからくるであろう慈愛を感じさせた。

 他に客はおらず、バーテンダーに促されるまま、岸部と沙耶香は10席にも満たないカウンターの中ほどに腰掛けた。

「何をお飲みになりますか」

 岸部はスコッチのハイボール、沙耶香はアルコールの強くない甘めのカクテルを頼んだ。

写真でしか見たことはないが、何となく目の前のバーテンダーに面影が似ているせいか、岸部はふと、亡き父を想った。自分が一歳の頃に亡くなったという父を岸部は知らないが、生きていればこんな感じなのかもしれないと思ったりした。

「こちらは随分と古いというか、歴史を感じさせますね」

 岸部が、調度類を眺めて言った。

「ええ、そうなんです。上物は建て替えたんですが、ここはそのままでしてね」

 バーテンダーは飲み物を作りながら答えた。ああ、そのせいでこの場所が分かりにくくなっているのかと岸部は妙に納得をした。

「元々は江ノ島につながる洞窟だったらしいです」

「あ、それ、私、聞いたことがある。本当だったんですね」

 嬉しそうに沙耶香が言うと、

「いや、残念ながら真偽のほどは定かではありません。洞窟というのは色んな世界につながっていますからね。どうですか、少し冷んやりしませんか。全く冷房は入れてないんですよ」

 そう言われれば、外に比べ随分と涼しい。

「でも洞窟なんてなんか素敵。こんなバーがあるなんて知らなかったな」

 またしても沙耶香が思わせぶりなことを言う。いや、全くそんなつもりはないのかもしれないと岸部は思い、たとえ誰かと過去にこのホテルを訪れたことがあったとしても、それを詮索するのは、この場合少し違うように感じた。

「この辺りは、富士山信仰などもあって、他にも様々な伝説や神話が残っているんですよ」

 バーテンダーが言うと、

「そうなんですか、私、聞きたーい」

 早くも少し酔いが回っているのか、沙耶香が甘えた声で無邪気に答える。

「そうですね。では折角ですので・・一つだけ。富士山の神様は、木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)という美しい女性の神様なのですが、ある時、天照大神の孫にあたる邇邇芸命ニニギノミコト)という神様から見染められて、結婚を申し込まれたのです。それを喜んだ木花咲耶姫のお父さんは、姉である岩永姫(イワナガヒメ)も一緒に、嫁に出すのです。岩永姫は永遠の命を持つ神でした。ところが岩永姫の外見は妹とは真逆だったために、邇邇芸命は、美しい木花咲耶姫だけを嫁にし、岩永姫を送り返してしまいました。お父さんはそれに怒り、その子孫は永遠の命を与えられないようにしてしまいました。木花咲耶姫の曾孫が、初代天皇神武天皇なのですが、そのために人間は限りある生命になってしまったとのことです」

「へえ、そんな不思議な伝説があるんですね。だから富士山はあんなに美しいのでしょうか」

 沙耶香が感心したように言う。

「そうかもしれませんね。ちなみに桜の語源は、木花咲耶姫から来ていると言われています。確かに儚く美しい桜の花とイメージが被るのでしょう」

「なんかロマンチック」

「少し柄にもなく喋り過ぎました。今夜は、お二人にとって大切な夜でしょうから、どうか、今、この時間を大切になさってください。差し支えなければですが、お二人はご夫婦でらっしゃいますか、それとも・・」

 岸部が答えに窮すると、沙耶香がすかさず、

「友達以上恋人未満なんです。私たち」

「なるほど。幸せになっていかれる途上というわけですね。羨ましい限りです。今夜がお二人にとって特別な夜になるよう心より祈っております。どうぞごゆっくりお過ごしください」

 幸せになる途上という言葉に、沙耶香は、はにかんだように俯いた。

 バーテンダーはプロらしく、それ以上、立ち入った話をすることはなかった。

 その夜、岸部と沙耶香はごく自然な流れで結ばれた。

こんなふうにして男女は結ばれ、結婚するものなのか、そうすると自分も沙耶香と結婚することになるのかもしれないなと、岸部は漠然と思った。

 

 河口湖旅行から戻ると、会社の同僚の前でも恋人然として親しげに振る舞う沙耶香とは裏腹に、岸部はいかにも気のないような、そっけない態度を取った。それは、彼からすると、深い関係になったがゆえの、ある種の責任感、もしくは怖れからの逃避のような感覚だったが、それが何に起因するものかは彼にもよく分からなかった。

二週間ばかり経った日の夜、そろそろ寝ようかという矢先、沙耶香から電話が入った。

「もしもし」

 何も聞こえない。

「もしもし」

 くぐもった声が微かに聞こえる。泣いているようだ。

「どうしたの」

 仕事で大きなミスでもして課長にこっぴどく叱られたのだろうか。

「・・ごめんなさい」

 それきり言葉にならず、啜り泣く声がする。

 しばらくして落ち着いた沙耶香の話はこうだった。

 一年ほど前に別れた前の男から、借りていた金を返すからと言われ、その言葉を信じてホテルまで行ったが、結局、金は戻らなかった。沙耶香はそう説明した。彼女は何度もごめんなさいと言った。岸部は、大丈夫、忘れよう、僕も忘れるからと言ったが、そう言っておきながら、一体何が大丈夫なのか、自分自身への論理的な説明は何も出来なかった。

そもそも沙耶香は、なぜホテルまで行ったのか。彼女は、借りていた金を返すから来てくれと呼び出されたと言った。そう言ったが、一年前に別れたとはいえ、付き合う女性から遊ぶ金を借りるような男の待つホテルの一室に行くことがどういう意味があり、どのような結果をもたらす可能性があるか分からぬはずはあるまい。日を追うごとに下衆で嫌な考えが次から次へとやってきた。

岸部は、沙耶香に誘われるまま、食事や映画には行ったが、それ以上の関係を再び持とうとはしなかった。かと言って別れを切り出すこともしなかった。それが中途半端だと自分でも分かっていた、分かってはいたが、自分でもどうしようもなかった。

そんなある日、

「岸部さん、忘れるって言ったけど、本当はまだ私のことを責めているんでしょ」

 と、拗ねた口調で沙耶香は言った。岸部は答えなかった。

「やっぱり。言いたいことがあるなら全部言って。そんな風に黙ってられたら余計に辛いから」

 それでも岸部は何も言わない。何かを口に出せば、抱いてきた疑念の数々が堰を切ったように流れ出すと分かっていたし、それはそのまま沙耶香との関係の終わりを意味していたからだ。

「私は全部正直に話したの。これだけは信じて欲しい」

「分かってる。いつまでも変に引き摺っている僕が悪いんだ」

 沙耶香が嘘を上手につけるようなタイプではなく、いわゆる天然キャラで、多分、男に呼び出された時も、何の疑いも抱かなかっただろうと岸部は頭では分かっていた。ただ、今はその無知な純粋さと鈍感な天真爛漫さが口惜しく、憎かった。

岸部は彼女への愛が本物ならそんな小さな過ちは忘れられるはずだと思った。それが出来ないのは自分の心が矮小だからだ、要は彼女を丸ごと信じて受け入れられない自分が悪いのだ。そう思うようにして彼女を責める自分と折り合いをつけるしか彼には方法がなかった。

 それでも夏が秋めいていくに従い、沙耶香へのわだかまりは徐々に薄れていき、彼は今の宙ぶらりんのままの沙耶香との関係をきちんとするために、結婚を前提に付き合うことを考え始めた。岸部の気持ちはようやく前向きになり、彼は、少しでも早く喜ばせ、安心させようと、信州で一人暮らす母親に電話をした。

「本当に本当なの?」

 そう言って、母は電話口で泣いた。よほど嬉しかったのか、それとも自分のことをそれほど心配していたのか、あるいはその両方か、いずれにしろ母の反応は岸部の予想を裏切った。

「近いうちに彼女を連れて挨拶に行くから」

「うん、うん、分かった。いつでもいいからね。待ってる」

 電話を切ろうとして、岸部はふと思いついた。

「そういえば、死んだ親父って、母さんにはどうやってプロポーズしたんだっけ」

「何、急に。どうしたの」

「いや、なんとなくさ」

「お父さんは真面目というか、奥手でね。ずっとはっきりしなくて、最後は、母さんのお母さん、つまりあんたのおばあちゃんがね、うちの娘をいつまでほっとくつもり、そのうち婆さんになっちゃうじゃないのって言ったのよ。そうしたら、お父さん、慌てて、結婚しますって。笑えるでしょ。だからプロポーズなんかなかったの」

 そうか、僕はやはり親父の息子なんだと岸部はなぜかほっとした。

「親父は母さんを愛してた?」

「また、今日はどうしたの」

「いいから」

「亡くなる少し前にね、ありがとう、愛してると言ったの。それから、遅過ぎたけどごめんと謝った。でも、生きてたら今でも言ってないかも」

 やっぱり親父の息子だ。間違いない。

「僕が結婚するって言ったら親父はなんて言ったと思う?」

「お父さんが?」

「うん」

「なんて言っただろうねえ。きっと言いたいことは山ほどあったと思うけど」

「喜んでくれたかな」

「当たり前でしょ。どれほどあんたのことを気にかけてたか・・」

 そう言ってまた母は泣き出した。

 

 岸部が、今日あたり沙耶香に話そうと思っていたところへ、逆に沙耶香から食事に誘われた。店は、いつもの新宿西口の居酒屋ではなく、代官山の洒落たフレンチレストランだった。

 他愛もないお喋りをし、食事を終えたところで、岸部が話を切り出そうとすると、沙耶香が、バッグから封筒を取り出し、

「これ」

 と言って岸部に渡した。

 それは産婦人科病院から発行された妊娠届出書だった。彼は言葉を失った。

「驚いた?」

「あ、ああ、もちろん。驚いたよ」

 高揚した表情の沙耶香は、岸部の子だと信じきっているようで、次の彼の言葉を期待して待っていた。何を期待しているのか彼には分かったが、これからのことを考えなきゃねと言うのが岸部には精一杯だった。

 沙耶香と別れてマンションに帰る岸部の頭は混乱していた。まさかと思った。確かにあの河口湖の夜には、避妊をしていない。そんな準備もしていなかった。そうなることを想定して準備しようかとも思った。しかし、いざそうなった時に、沙耶香にそのつもりだったと思われたくなかったのだ。

 自分の子か、それとも・・。なぜ沙耶香は、ああも無邪気に僕の子だと思い込んでいるのか。まさか女の直感とでもいうのか、それともそれなりの根拠があるのか。たった一つの質問をすれば良いだけだが、それがどうしても岸部には出来ない。その質問をして答えを得れば、納得が得られるかもしれないが、沙耶香を疑った事実は消えず、これ以上、彼女に情けない自分の姿を晒したくはなかったし、そんな自分を嫌いになりたくはなかった。

 岸部の心は右へ左へと散り散りに乱れ、今後どうすべきか、彼女に対してどういう態度を取るのか、全く結論を出せず、進むことも戻ることもできなくなった。会社で彼女の顔を見ることさえ苦痛になった。夜、眠れなくなり、食欲も失せた。ひと月ほどすると仕事にも影響が出てきてしまい、上司の勧めで療養休暇を取った。沙耶香がひどく心配したが、君も知っての通り、システムエンジニア特有の長年のストレスのせいだ、医者からはしばらく休めば良くなると言われているからと嘘をついた。

 岸部は、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で何日も鬱々と過ごした。スマホは電源を落として部屋の隅に放ってあった。毎日のように、ドアがノックされ、ビニール袋に入ったパンや飲み物や果物が置かれていた。時には、心配しているので連絡が欲しいという趣旨の手紙が添えてあり、もちろん沙耶香だったが、彼は、連絡を取る気にはどうしてもなれなかった。

 岸部にはこんな悩みを相談できる相手が誰もいなかった。大学時代の友人や、会社の同僚の何人かの顔は浮かんだが、腹を割って打ち明けられる間柄でもない。ふと、父がいたらと思った時、あのバーテンダーの顔が浮かび、いても立ってもいられず、スマホの電源を入れ、ホテルに予約を入れると、身支度を整え、着替えをバッグに詰め込み、マンションを出て最寄り駅に向かった。

 新宿駅からJR中央線に乗り、大月駅富士急行線に乗り換えた。平日の車内に人は少なく、岸

部は空いている席に腰を下ろした。車窓に流れる淡く雪化粧をした穏やかな富士山や、赤や黄色に

色づき始めた山々の景色が岸部の目に映ったが、それを彼が楽しむことはなかった。

 終点の河口湖駅は、閑散としていて、すでに陽は傾きかけていた。タクシーを探したが、どこにも見当たらない。やむなく岸部は河口湖の方へと向かって歩き始めた。

 彼は記憶を頼りに疲れた足取りでとぼとぼ歩き、ホテルに着いた頃には、すでにとっぷりと日が暮れていた。朝から何も食べていなかったが、空腹は感じなかった。

「岸部様、お待ちしておりました」

 チェックインカウンターの男が言った。沙耶香と来た時に、パスタの話をしたウエイターだった。小さなホテルだからかと岸部は思った。

「バーに行きたいのですが」

 岸部が言うと、

「そうでしょうとも。どうぞ、すでに開いております」

 男は、部屋のカードキーを渡しながらそう言った。

 岸部は、庭へ出る通路を進み、途中を曲がってしばらく行った先のドアを開け、地下への階段を降りた。

 重い扉を開けると、

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。確か夏にお越しいただきましたね」

 あの時のバーテンダーだった。

 客は他に誰もおらず、岸部は彼の真向かいに腰掛けた。

「何をお飲みになりますか」

「スコッチのダブルをストレートでお願いします」

「承知しました」

 一口飲むと喉から胃にかけて焼けつくような熱さを感じる。しばらくして、ほんのりとした酔いがやってきて、固まっていた何かが解けるようだった。

 岸部は初めて気づいたが、店内に音楽はなく、静寂だけがあった。ちょうどいいと彼は思った。

 二杯目を飲み終えた時、彼は口を開いた。

「実は聞いていただきたいことがあって来たんです」

「私でよろしければ」

 バーテンダーはグラスを拭きながら言った。

 岸部は何もかも全てを話した。事実とその事実に対して自分が思っている全て。そして、その結果、自分ではどうしようもない身動きの取れない状況にあり、このままでは自分がどうにかなってしまいそうであることなどを。さらに、彼は気づいていながら認めようとしなかった心の内側までも語った。

「僕は自分が傷つくのが嫌だったんです。だから逃げていたんです。彼女を受け止めるのが怖かったのかもしれません。というより彼女の愛を信じられなかったんだと思います」

バーテンダーは慈愛のこもった眼差しを浮かべ、ただ聞いていた。話し終わると、店はまた静寂に包まれた。

「私に何かお役に立てることがあるといいのですが・・」

 バーテンダーが悲しそうな表情を浮かべて重い口を開いた。

「いえ、いいんです。聞いていただけただけで十分なんです」

 そう言って、岸部は、三杯目のスコッチに口をつけた。心の全てを曝け出した解放感からか、すでに相当、酔いが回り始めていた。

「こんなことを申し上げてなんなのですが・・。お客さまはその女性をご自分が傷つくほどに深く愛していらっしゃるのですね」

 バーテンダーのその言葉に、岸部は戸惑った。言われて初めて、彼自身、気づきもしなかった心の奥深くに隠された思いに触れたような気がした。それが何かをもっと探ろうとしたが、酔いがそれを許さなかった。頭の芯がぼやけてしまっていた。

「ああ、そう言えば、夏に来られた時に、富士山の神様である木花咲耶姫の話をしましたね。あの話には続きがあるのです」

 バーテンダーが語り始めた。

木花咲耶姫は、見染められた邇邇芸命との一夜の契りで、子を身籠もるのですが、たった一夜の契りでそんなはずはないと言われてしまいます。木花咲耶姫は、あなたの子でないなら私と子は焼かれて死ぬでしょうと言って火を放つのです。そして、その火の中で、三人の男の子を無事、産んだという話です」

 その話の意味を岸部はしばらく考えたが、やはり酔いのせいか何も浮かばなかった。

岸部は、残っていたスコッチを煽って言った。

「ありがとうございます。少し、飲み過ぎてしまいました。そろそろ寝みます」

 椅子から立ちかけて足元がふらついた。

 重い扉を開けた岸部の背中に、どうぞお幸せに、ずっと見守っていますと、そう聞こえたが空耳のようにも思った。

 岸部は、よろける足取りで部屋に入り、そのままベッドに倒れ込んだ。

 その夜、岸部は、もぞもぞとした感触に目を覚ました。横向きに寝ている背中の方からベッドの中に誰かが入ってきたようだった。ほんのりと鼻先を掠める匂いは沙耶香のものだった。

しなやかな手が彼の上腹部あたりに回される。背中にぴったりと体が押しつけられ、柔らかな乳房の感触を感じたその刹那、下腹部から頭頂部にかけて抗い難い性の欲望が岸部を貫いた。

 それは性的な欲求を出発点としたが、それを超えてただ沙耶香と一つになりたいという欲望にまで昇華した。彼はその欲望に全てを委ねた。何も考えられなかった。ただ感覚だけがあった。それは思考を持たないたった一つの細胞のようだった。

 その後、彼は深い眠りに落ち、また目覚めた。

 顔がひどく熱い。部屋は炎に包まれていた。炎がゆらめいて、その中に人がいるのが見えた。沙耶香だ。助けなくてはと、起き上がって炎に飛び込もうとした刹那だった。

 目の前に笑顔の沙耶香がいた。

 ほらと言って、赤ん坊を手渡された。

 岸部はその子を受け取って自分の胸に抱いた。可愛らしい子だった。すやすやと眠っている。何か温かいものがやってきて岸部を包み込んだ。

 岸部は恥も外聞もなく大声で泣いた。

 岸部の心は叫んでいた。僕は沙耶香を愛している。深く愛している。

同時に、岸部の心の奥深くにあった沙耶香に対する疑いやわだかまり、自分を苛む思いなどが全て剥がれ落ちていくのを感じた。

 ひとしきり泣くと、また深い眠りに落ちた。

 そして彼は、目覚めた。

シーツが涙で濡れている。

夜が明ける寸前の柔らかな光によって部屋の中の何もかもが青みがかって見える。

 何日間も眠っていたような気がした。

 岸部は、顔を洗い、着替えてロビーに行き、チェックアウトをした。出てきた男は、あのウエイターではなかった。タクシーを呼んでもらい、河口湖駅に行った。

 河口湖駅の後方に聳え立つ富士山は、岸部が夏に見た荒々しいものではなかった。それは、白く冠雪し、全てを受け入れるかのような優しげな女性の姿に思えた。

 岸部は、駅のホームでベンチに座り電車を待つ。

彼の腕には、赤ん坊を抱いた感触があった。そこには重みだけでなく温かな体温までもが残っていて、岸部はそれを愛おしく感じた。

電車に乗った。

 早朝の電車は空いていて、岸部は適当に座った。朝の陽射しが山々を照らし始めている。

 しばらくすると、彼は強い空腹を感じ、新宿に着いたら何か食べようと思った。そしてその後、沙耶香に連絡をしようとも思った。

 窓外に流れる景色は、赤や黄色に色づいた目にも鮮やかな紅葉の山々が続く。

 その景色は、時間とともに、家々が連なる街の風景へとうつり変わっていく。

 電車は少しずつ混み始め、駅を経るごとにビジネスマンや、学生たちが次から次へと乗り込んでくる。

 新宿に近づく頃には、岸部の周りは人で溢れ返っていた。

 

 翌年の春、岸部と沙耶香は結婚し、しばらくして女の子が生まれた。

 さらに2年余りが過ぎ、夏になると、岸部と沙耶香は、三人であの河口湖のホテルに行こうと思い立った。

 岸部はホテルに電話して、予約を入れた。

 3年ほど前にお世話になった者ですが、地下のバーにおられたバーテンダーさんはまだ変わりなくいらっしゃいますかと聞くと、フロント係と思われる男性は、

「バー・・でしょうか。少々お待ちください」

 と答え、保留音の軽快な音楽が鳴る。

「お電話代わりました。わたくし、支配人をしておりますNと申します。当ホテルには現在、バーはございませんで、はい。相当昔にはあったやに聞いておりますが、詳しい者がすでに辞めてしまっておりまして、はい。ええ、ぜひ、お待ちしております」

  

                                          了