てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

豆御飯

 日曜日の昼過ぎの駄菓子屋は子供たちで一杯だった。

 その店は、家の近所の駄菓子屋よりも広く、種類も豊富に健吾には見えた。

「おばちゃん、これいくら」

「それは10円だよ」

「じゃこっちは」

「それは20円だね」

 子供たちの声に、小上がりの座布団に座ったおばちゃんが答える。

 子供たちは、持っているお金と欲しい駄菓子を天秤にかけて考えている。

 そのうち思い思いの駄菓子を片手に、もう一方の小さな手で小銭をおばちゃんに渡す。お釣りがあると、おばちゃんは、足元にある書類ケースのようなところを開け、3円とか5円を、また子供たちの手に戻す。

 健吾は、親戚のおばあちゃんに貰ってきた500円玉を右手に握り、左手は妹の小さな手を握っていた。知らない店に来て健吾は少し緊張していた。いつもの駄菓子屋なら友達ばかりなのに、知らない子たちばかりだと思った。

「おにいちゃん、これがいい」

 と妹が言った。

 妹が指差したのは、見たことのない駄菓子だった。早く買って帰りたい健吾は、それを取って、おばちゃんに聞くと、50円だよと答えた。健吾は、もう一つ取って、500円をおばちゃんに渡して、400円お釣りを貰った。どこからか、いいなあという声が聞こえた。

 おばちゃんは、それを寄越しと言った。健吾が渡すと、片手で持てるようにと二つとも小さなビニール袋に入れてくれた。それを持って帰ろうとすると店の出口に、とうせんぼをするように何人かの男の子がいた。5年生か6年生か、3年生の健吾より大きく高学年の子に見えた。健吾は、嫌な気分がしたが、妹の手を引いて間をすり抜けるように出ようとした。

 店の外に出たと思ったとき、お尻の辺りを後ろから蹴られた。健吾は、怖くなった。そして、振り返るとケンカになるような気がして、振り返らなかった。妹を守らなきゃと思った。

 おばあちゃんの家に着いた健吾は、ずっと不機嫌だった。買ってきた駄菓子を妹が食べたいと言っても、まだ駄目と言って食べさせなかった。自分もなんとなく食べたくなかった。心配したおばあちゃんが気にかけて、どうしたのと聞いても、むくれて何も答えなかった。健吾たちのために買ってくれていた玩具も、晩御飯に連れていってくれた大好きな寿司屋にも、健吾の機嫌は直らず、翌日、両親が迎えに来た時も健吾はむくれていた。おばあちゃんはどうしたんだろうねえと言った。

 帰りの車の中で、健吾は、ずっと自分が負けたんじゃないと自分に言い聞かせていた。それでも、お尻を蹴られた時の恐かった気持ちを思い出すと、やっぱり自分が負けたんだと思って嫌になった。そんな気持ちになったのは初めてだった。

 家に帰ると、母親が機嫌を直そうと思ってか、健吾の大好きな豆御飯を作ると言った。それで健吾は少し気分が良くなった。ずっとむくれていてバツの悪い思いのあった健吾は、母親を手伝おうと台所に行った。母親に言われるまま、えんどう豆をサヤから出して透明のボウルに入れた。残ったサヤは、生ごみ入れに捨てた。母親は、炊飯器に米を入れて研ぎ、ほら、ここに少しお酒を入れると美味しくなるんだよと言った。それから健吾の剥いたえんどう豆をボウルから炊飯器に入れ、塩を振って、蓋をした。

 しばらくすると父親が帰ってきて、

「お、今日は豆御飯か」

 と言い、

「健吾のおへそがね、直るようにね」

 と母親が笑った。

 豆御飯を食べて満足した健吾は、リュックに入れてあった駄菓子を出して、ビニール袋を破り妹と仲良く食べた。

 

 中学校に上がると、健吾は剣道部に入った。これと言った理由もなく、ただなんとなく入った。強いて言えば、たまたま見たテレビ番組で、お笑い芸人が剣道をやっている姿を見て、そのギャップに驚き、凛々しく見えたせいかもしれない。そのくらいの軽い気持ちだった。

 大人ほどに見える3年生の先輩に命じられ、体育館の横の小部屋に行き、棚に並んだ面や、胴や小手と、持つところが擦り切れた竹刀を持って、体育館に入ると、新入部員の1年生2人はまず正座をさせられた。

 クラブの顧問をやっている先生は、剣道は礼に始まり礼に終わる、体でなく心を鍛えるものだと言い、いかに剣道が人生で大切なことを教えてくれるかを語った。話を聞いているうち、すぐ健吾の足は痺れてきた。頭の中は、早く話が終わって欲しいという思いで一杯になっていた。健吾は違うことを考えようと思った。出てきたのは豆御飯だった。なぜご飯を炊く前に、お酒を足すのがいいのかを考えた。お酒を足すと豆がふっくらとすると確か、母親は言ったが、なぜ酒で豆がふっくらするのか健吾には分からなかった。父親が酒を飲むと、顔が赤くなって上機嫌になるので、豆も同じようになるのかと思ったりした。

 顧問の先生の剣道の話が終わったと思ったら、今度は、主将が出てきて、防具の付け方のレクチャーが始まった。それも何とか我慢して、ようやく正座から解放され、痺れる足をさすり、さすり、実際に防具を付けてみたが、被った面のあまりの臭さに驚いた。古い汗が染み付き、すえたような、あるいは、台所の生ごみが捨ててある所のような、なんとも言えない匂いがした。健吾は剣道部に入ったことをもう後悔していた。やっぱり美術部に入れば良かったと思った。小さい頃からずっと絵を描くのが好きだった。絵を描いていると時間を忘れたし、皆が健吾の絵を見て褒めてくれた。母親と行った日本橋高島屋で、たまたまやっていた絵画コンクールで絵を描いた。それは、リンゴと食器が台の上に置いてあって、それをその場でデッサンするものだったが、健吾は、母親がいるのも忘れ2時間もかけて描いて応募した。それは見事に選に選ばれ、高島屋に飾られた。健吾は嬉しくて、飾られている間、何度も自分の絵を見に高島屋に行った。

 防具を付け終わると、竹刀を持つことなく、その格好のまま、体育館の壁際をぐるっとウサギ跳びをさせられた。一周も満足に出来なかった。途中で止まると、先輩が来て竹刀で床を何度も叩いた。結局、3周させられ、健吾たち1年生2人は、それだけでヘトヘトになった。その後、竹刀を持って素振りを300回して練習は終わった。

 来る日も来る日も臭い防具を付け、ウサギ跳びと素振りばかりやらされた。学校に行くのが嫌で嫌でしょうがなかったが、それでも何とか健吾は耐えた。剣道はすでに嫌いになっていたし、強くなろうなどとは、これっぽっちも思っていなかったが、先輩が怖かったのだ。

 蒸し暑い梅雨の時期になると、さらに面の匂いがひどくなった。

 その日も、滴り落ちる汗で体育館の床を濡らしながらウサギ跳びを終えた健吾たちに、

「よし、今日から打ち込みだ。竹刀を持って集まれ」

 主将が言った。

 健吾たちは、先輩と相対して、互いに面や胴、小手を打ち合う稽古を始めた。

 竹刀で打たれるのが、これほど痛いものかと健吾は思った。面も頭のてっぺんに目が眩むほどの衝撃が走るが、特に小手は腕が痺れるほど痛い。思わず竹刀を落としてしまいそうになる。さらに胴は、上手く防具を捉えてくれればいいが、時折、カバーされていない脇の下あたりに入ると、その激痛にしゃがみ込んでしまうほどだった。先輩は思い切って打ち込んでこいと言った。健吾も打ち込むが、それは弱々しいもので、もっと強く打てと叱られた。健吾には打てなかった。そういう気持ちというか、憎くもない相手を打つには何かが自分には不足しているように感じたのだ。打ち込みが終わると、面を取った先輩はニヤニヤして言った。

「お前みたいな弱々しい新入生は初めてだよ」

 なぜかこの言葉で健吾は先輩が怖くなくなった。

 

 健吾は、夏休み前に剣道部を辞めた。職員室に顧問の先生を訪ねて、辞めさせてくださいと言うと、先生はあっさり、ああ、そう、分かったと言った。何か説教されるんじゃないかと身構えていた健吾は、ほっとした。

 辞めたことを母親にも父親にも言わなかった。いずれは分かると思ったが、それはその時でいいと思った。一緒に入ったもう一人の同級生は辞めなかった。その生徒は蓮くんといって、健吾よりもずいぶん小柄で、長い竹刀に振り回されているような感じでとても続かないだろうと思っていたが、蓮くんは、頑張って強くなるんだと言った。その気持ちが健吾には全く理解できなかった。やっぱり辞めて良かったと思ったが、辞めてからしばらくすると、健吾は、自分が情けなく思えてきた。負けたような気がしたし、逃げたような気がしてきた。その後ろめたいような気持ちが、親に辞めたと言えない理由だと気づいたがもう遅かった。学校で、剣道部の先輩に会うと、睨み付けられたりして嫌だったがそれも少しの間だったし、そのうち段々と忘れてしまった。

 2年生になると、クラスも変わり、友達も増えて少しずつ中学生活が楽しくなってきて、好きな女の子も出来た。違うクラスだったので、たまに見かける姿を遠くから眺めるだけだったが、それでも健吾には十分満足だった。それなのに修学旅行で友達に話してしまったから、それからは、彼女を見かけると、一緒にいた友達がわざとらしく囃し立て、そのせいで、彼女に伝わったようだった。なぜなら、彼女とよく目が合うようになったからだった。それまで彼女が自分を見ることはなかったのに、廊下などですれ違うときに、不思議と目が合った。行き過ぎて、振り返ると、彼女の友達が自分の方を見て、何やらはしゃいで彼女に囁いているようなこともあった。そんな時、健吾は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。

 秋の運動会の練習をしていた日、喉が乾いた健吾は水飲み場に行った。残暑の残る9月のひどく暑い日だった。

 すでに多くの生徒がいて5つある水飲み場の順番待ちをしていた。健吾も待っていた。

「横入りはやめろよ」

 と隣の列で待っていた男の子の声が聞こえた。見ると蓮くんだった。後から来た生徒が、蓮くんの前に割り込んだのだ。でも割り込んだその生徒はニヤニヤしていたので、最初健吾は二人は友達同士で、冗談でやったのかなと思った。ところが、蓮くんが、割り込んだ生徒の体操着を引っ張って無理やりどかそうとしたものだから、その生徒が蓮くんを突き飛ばした。健吾は、あっと思った。蓮くんは、後ろに倒れ込んで尻もちをつくと泣き始めてしまった。健吾は、それを見て可哀想に思った。酷いことをすると思った。割り込んだ生徒を見ると、またニヤニヤしていた。不意に健吾は激しい怒りを感じて、思わずその割り込んだ生徒の顔を右手で殴りつけた。殴られた生徒は顔を庇うような仕草をし、頬を手で押えて蹲ってしまった。すぐ周りが騒がしくなって、先生たちが何人かやってきた。

 職員室で事情を聞かれ、先生から連絡を受けた母親がやってきた。健吾が殴った生徒の母親もやってきて、健吾の母親は、二人に一生懸命謝った。母親に促され健吾も謝ったが、悪いことをしたとは全く思っていなかった。自分は正しいことをしたと思った。さらに言えば、殴って自分はあの悪いことをした生徒に勝ったのだと誇らしささえ感じていた。

 家に帰ると、母親は、何も言わず豆御飯を作ってくれた。仕事から帰ってきて事情を聞いた父親も、健吾には何も言わなかった。いいとも悪いとも言わなかった。ただ、そうかと言った。

 翌日の学校では仲の良い友達が、

「やったな、健吾。すごいじゃん。一発ノックアウトって天心かよ。カッコ良すぎるだろ。でも俺、健吾の友達でよかったあ」

と言った。

「そんなことないよ。先生にも親にもめちゃくちゃ叱られて大変だったんだよ」

 なぜかそう言った方がいいと健吾は思った。

 クラスにいた少しヤンキーっぽい生徒が、健吾を避けるようになった。心なしか女の子たちも、そういう目で自分を見ているように健吾は感じて、なんとなく気分が良かった。

 

 健吾に殴られた男の子は、優斗といった。

 あの水飲み場で、優斗は、並んでいる蓮を見つけた。後ろからそっと近寄って、いきなり横入りした。こんな小さな嫌がらせのようなちょっかいはいつものことだったが、みんなの前だったせいか、珍しく蓮が声を荒げた。どうせ大したことはできないだろうとたかを括っていたが、蓮が体操着を引っ張ってきたので押し倒してやると、やっぱりメソメソ泣き始めた。

 その時、いきなりゴンと言う音とともに左頬に衝撃があった。強い痛みがすぐ後からやってきた。誰かに殴られたと気付いたが、また殴られるのが怖くて、思わず頬を押さえて蹲った。何が起こったかよく理解できないまま、優斗は先生に連れられて職員室に行った。先生には、自分は何もしていないのに、いきなり知らない生徒に殴られたと言った。しばらくすると母親がやってきて、先生たちにすごい剣幕で捲し立て始めた。

「どうしてうちの優斗が殴られたんです?一体、優斗が何をしたって言うんですか?きちんと説明してください!」

 先生は一生懸命何かを説明しようとしていたが、母親の怒りは収まらなかった。そこへ、優斗を殴った生徒とその母親がやってきて、自分と母親に謝った。見たことのある生徒だった。優斗はなぜ自分や蓮と何の関わりもないはずのこの生徒は自分をいきなり殴ったのだろうと思った。そして、この前、読んだ本に書いてあったことは本当だったのかもしれないと思い始めた。

 図書館で借りたその本は、前世とか生まれ変わりについて書かれていて、オカルト好きの優斗の興味を引いた。そこには因果応報とあり、人は何か良いことも、悪いことも、そのしたことの結果は、様々な予期しない形で必ず自分に返ってくると書いてあった。へえ、そうなのかと思い、優斗はそれらしきことが過去になかったか考えてみたが、何も思い当たらなかった。

 ところが、あの水飲み場で、この知らない生徒にいきなり殴られたことは、因果応報ではなかったかと思ったのだ。そうとも考えないと説明がつかなかった。盗み見るように顔をよく見てみるが、いきなり知らない人間を殴りつけるような生徒にはとても見えない。どちらかと言うと、真面目で大人しい感じがする。蓮にしてきた数々のことが、巡り巡ってこの生徒を通じて自分に返ってきたのかもしれないと考えた。優斗は、蓮とは友達だと思っていたが、ちょっとしたことですぐおどおどする蓮を揶揄ったりするのが楽しかったし、体が小さくて体育も苦手だった蓮は、クラスの女子たちでさえ馬鹿にしたりしていたので、それを特に悪いことだとも思ってはいなかった。

 優斗は、自分の母親が殴った生徒の母親に激しく言い募るのを、もう止めて欲しいと頼んだ。先

生にも本当のことを言った。自分が蓮の前に横入りして、怒った蓮を押し倒したのだと。それを聞

いた母親の怒りがようやく鎮まった。

 翌日、学校に行った優斗は、教室の片隅に一人座る蓮の前の席に座った。そして言った。

「昨日はごめん。本当にごめん。もうこれから蓮が嫌がることは絶対にしないから」

蓮は半分信じていないような顔で優斗を見ていたが、最後はわかったと言った。

優斗はほっとして、窓側の自分の席に戻った。何人かの生徒がやってきて、そのうちの一人が、

「殴ったやつにやり返すんだろ、優斗」

 と言った。

「ああ、そのうちな」

優斗は曖昧な返事で誤魔化した。授業のチャイムが鳴り、生徒たちは自分の席に戻って行った。

窓から外を見ると今にも雨が降り出しそうな曇天の校庭には誰もいない。とんでもなく暑かった昨日と違って、いきなり秋がやってきたような肌寒い日になっていた。

優斗は、一人、自分のしたこととその帰結について再び思いを巡らしていた。

考えれば考えるほどとんでもない宇宙の秘密を知ってしまったような気がしていた。この世は恐ろしいと思った。何も知らずに生きてきたのに、もっと酷いことにならなくて良かったとも思った。知ってしまった以上、これからどうやって生きていくかに思いをさらに巡らした。

 

 健吾は、蓮くんが気になっていた。剣道部で上級生に打ち込まれ、ボロボロになりながらも必死に頑張っていた蓮くんが、尻もち着いたくらいであんなに簡単に泣いてしまったことが驚きだったし、もしかしたらあの生徒にずっといじめられているのかもしれないと思った。もしそうなら、強い自分がなんとかしてやらねばくらいに思った。

 一時限目が終わると、健吾は、蓮くんのクラスを見に行った。ドアのところからそれとなく覗き蓮くんを探した。蓮くんは思いのほか元気そうで、何やら楽しげに他の生徒と話していた。ほっとした健吾は、自分の教室に戻ろうとして気付いた。自分の殴った生徒が、窓際で一人寂しげに何やら考え込んでいる姿に。その姿は健吾にショックを与えた。その縮こまったような姿を見て、健吾は、初めて自分のやったことを理解した。弱い者イジメをしたと思った。心の底から本当に御免なさいと謝りたくなった。誇らしいと思った自分がいかに情けなく恥ずかしい人間であるかと思った。

 教室に戻った健吾は、2時限目の授業中、ずっと自分に殴られた生徒の気持ちを考えていた。もしかすると冗談半分でやったことが、思いもしない相手から殴られ、みんなの前で晒し者のような恥ずかしい状態になってしまった。彼はさぞや辛かったに違いない。クラスのみんなからも、冷たい目で見られたかもしれない。彼の中学生活においてのこの一件は、この先、憶い出すたびに嫌な憶い出として蘇るのじゃないか。そう考えると、健吾はさらにやり切れなくなった。

 学校が終わる頃には冷たい雨が降り出していた。

 傘を持って来ていない健吾は、濡れるのも構わず歩き始めた。

 健吾の心持ちは昨日と全く変わってしまっていた。昨日はあれほど誇らしく強い自分だったのに、今日は前より弱くなったと感じていた。

 健吾は、昨晩食べた豆御飯を思い出した。なぜ母親は豆御飯を作ってくれたのだろうと思った。

 自分はもっと本当の意味で強くならなければならないと健吾は思った。

 

トリガー

 僕の紙飛行機が輪っかをくぐったその瞬間、地鳴りのような大歓声が起こった。その場に何百人もいたせいかもしれない。

 隊長は痛いほど僕の背中を叩き、第十六団十五人ほどの仲間たちは、皆、手を叩き小躍りして喜んでいた。たかだか十メートルほど先の、ロープで括られた直径三十センチほどの輪っかを、手作りの紙飛行機で通すゲームだった。富士山の麓の朝霧高原に全国のボーイスカウトカブスカウトたちが一堂に集まった四年に一度のジャンボリーと呼ばれる大会に初めて参加した時のことだ。

 見渡す限りの広い場所に、テントが無数に張られていた。僕にとってあんなに楽しかった思い出は他にはない。唯一人輪っか通しを成功させた僕は一躍スターのようになり、僕の元には聞いたこともない土地の子供たちが集い、せがまれてバッチやワッペン、フラッグなどを交換したりした。初めて聞く方言がわからず何度も聞き返した。近くに自衛隊の基地もあって戦車に乗せてもらったりもした。誰もが無邪気に笑っていた。夕方になると、飯盒でご飯を炊き、手分けしてカレーを作った。炊き上がった米は水が少なかったせいか、火にかけていた時間が長かったせいか、固く、所々焦げていたが、とんでもなくおいしかった。

 食べ終わると、隊長の指示で、広場の真ん中に集まった。中央には、巨大なキャンプファイアー用に、木々が山と組まれ、その周りを何周にも取り囲むようにして、僕たちスカウトの子供たちは座った。すでに日は山の影に落ち、辺りは薄暗く、少し離れた同じ隊の仲間の顔も判然とはしなかった。八月とはいえ高原の肌寒さを感じながらも我慢して座っていると、誰かの号令が遠くに聞こえてちらちらと赤い火が見えた。すると、それはみるみる間に空に届かんばかりの大きな火柱となり、僕たちの顔を赤く熱く照らした。誰の顔も光り輝いて見えた。漆黒へと向かう空と山に対し、その大きな火柱だけが生き物のようにうねり、パチパチと音を立て、火の粉を舞上げて、見ろ、俺は生きてるぞと叫んでいるかのようだった。

 しばらくして誰かが歌を歌い始め、だんだんそれは大きな合唱になった。何曲も何曲も歌った。僕の知らない歌もあったが、合わせて歌った。最初、とても小さな声しか出なかったが、最後には喉が潰れんばかりに声を張り上げていた。前の方では、隊長が、隣を見ると青山くんが、僕と同じようにこれ以上ないくらい大きく口を開けていた。

 

 この年の春、それは僕が小学三年生のことなのだが、僕がカブスカウトに入団したのは母の智子の勧めだった。

「絶対、楽しいわよ。お母さんが保証する」

 僕は気乗りしなかったが母は行けば楽しいのだから行った方がいいと何度も言った。僕にはなんとなく母の気持ちは分かっていた。誰かの紹介で家に挨拶に来た吉田とかいう議員さんやPTAの役員会に出て初めて会う校長先生とも、臆せず親しげに話すような社交的な母と違い、あまり外に出て友達とも遊ばず、どちらかと言えば引っ込み思案で、家で絵を描いていたりするのが好きな僕が心配だったのだ。積極性に欠けると思っていたに違いない。母の口から男の子なんだからという言葉をよく聞いたから多分そうだと思う。あるいは父の満男のようになって欲しくないと思っていたのかもしれない。

 でも僕はこう思っていた。

 自分はお母さんみたいにすぐ誰とでもペラペラとお喋りしたりはしないが、クラスでは手をあげて発言もするし、休み時間には校庭でみんなと遊ぶし、確かに運動神経とかはいい方ではないけれど、かといって足立くんみたいにとんでもなく悪いわけじゃない。僕は僕だと思っているだけで、それはお父さんがいつもお風呂で僕に言っていることだ。でも、たぶんそれをお母さんに言ってもきっと分かってはくれないだろう。僕がカブスカウトに行くのは僕のためだと思っているだろうし、お母さんは自分の思い通りにならないと気が済まない性格だから。

「お父さん、お母さんが行けって言うけど、カブスカウト行った方がいいかな」

 バスタブに浸かり、僕は父に聞いてみた。

「和也は和也なんだから。誰がなんと言おうと和也が決めたらいいさ」

 父は、両手でお湯を掬い顔にかけ言った。いつもの、そして予想通りの答えだった。それ以上何かを父が言うことはないと僕は知っていた。父は無口で、大人しくて、でも優しくて、母とは正反対のようだと思っていたが、母と違って僕のことはよく分かってくれていると思っていた。僕はそんな父が大好きだった。

「そうだよね。僕は僕だもんね」

 風呂を出た僕は早速、母にカブスカウトには行かないと言った。

「いいの?青山くんも行ってるらしいわよ」

 母は僕の返事を予期していたかのようにすぐさま言った。そして、その返答は僕に刺さった。青山くんは僕の一番の仲良しで、少し前に転校してしまっていた。友達の少ない僕は寂しい思いをしていて青山くんに会いたいとずっと思っていたのだ。

「本当に青山くんに会える?」

「同じ団だから会えるわよ」

「うん、分かった。行くよ」

 こうして母の思い通りに僕はカブスカウトに行くことになった。

 

 カブスカウトの入隊式では、みんなの前で挨拶したり、誓いの言葉を言わされたりした。僕はいくつかあるその言葉を一生懸命覚えた。保護者と一緒に大きな声で言わねばならないとされていたから、一週間も前から何度も母と練習を繰り返した。それでも僕はとても緊張し、所々突っかかったり、詰まったりしたものの何とか言い終えた。

「よく頑張って覚えたね。おめでとう。ようこそ和也くん、これからは仲間だ」

 それまで厳しい顔をしていた隊長が微笑んで言った。隊の仲間たちが集まってきて、口々におめでとうとか、これから一緒に頑張ろうねとか、握手したり肩や背中を叩かれたりした。青山くんは最後にやって来て、ちょっとはにかんでいた。

「和也くん、これからまた一緒だね」

「うん、そうだね」

 僕もなんだか照れ臭いような気持ちだった。

 カブスカウトの行事は毎週のようにあって、街頭で募金活動をしたり、集まってロープの結び方を覚えたり、時には近場にハイキングに行ったりした。僕は何より青山くんに会えるのが楽しみで嬉々として出かけた。

 8月初旬の楽しかった富士山ジャンボリーが終わり、夏休みも後半に入ると、恒例の山登りキャンプが企画されていた。母は、やっぱり僕に行かせたかったのだろう。何度もきっと楽しいから行ってきたらと言うが、体力や運動能力に自信のない僕は、気乗りせず愚図愚図していた。

「青山くんも行くらしいわよ」

 母は言い、僕は悩んだ。本音は、青山くんの家に遊びに行くか、こっちに来てもらって二人でゲームをしたり、絵を描いたりして遊びたかったからだ。

 僕は青山くんに電話してみた。

「青山くん、今度の山登り行くの?」

「うーん。和也くんはどうする?」

「青山くんが行くなら行こうかなと思ってるけど・・」

「僕も和也くんが行くなら行ってもいいけど・・どうする?」

「どうしようか」

「・・じゃあ、山登りから帰ったら、僕んちで遊ぶ?」

「うん、そうだね。そうしよう」

 僕は電話を切って、母に山登りに行くことを伝え、帰ったら青山くんの家で遊ぶから車で連れてってと言った。結局のところ母の思い通りになったわけだ。

 

 八月下旬、山登りに参加した僕たち隊の子供たちは、副隊長の運転するマイクロバスに乗り込んで親たちに見送られ長野に向けて出発した。

 キャンプ場でテントを張り、その晩を寝袋で寝た僕たちは、翌朝早く起き出し、近くの冷たく綺麗なせせらぎで顔を洗い、飯盒炊爨で炊いたおにぎりを持って山に向かった。山といっても、子供の足で片道三時間程度の道のりだから、それほどのものでもないと隊長は言っていた。ところが、いざ登り始めてみると、足を取られやすい川や滑りやすい岩場、身を屈めてロープに捕まって登る急峻な場所などがあったりして、決して歩きやすくはない。

 僕は、とにかく必死になって皆について行った。遅れないことだけを考えていた。足元だけを見ていた。汗が額から顔や首にかけて流れ落ち、時々目に入って痛かった。喉が渇いて水が飲みたかったが我慢した。そうやって頑張っているとなんだか楽しくなってきた。自分にも登れそうな気がしてきて余裕が出たのか、皆の顔や足取りや景色さえ見られるようになった。

 登り始めて二時間ほど経った頃、少し広くなっている森の木陰で休憩となった。皆、赤く上気した顔に玉のような汗をかいている。めいめいで持ってきた水筒をごくごくと美味しそうに飲み、お菓子などを食べた。草むらに入って用をたす子もいた。僕は青山くんと並んで座り、持ってきたお菓子を青山くんにあげようとしたが、青山くんはいらないと言った。

「青山くん、大丈夫?」

 青山くんは、うんと言ったが、顔色が悪く、具合が悪そうだった。

「疲れたの?」

 青山くんは首を振った。青山くんは手をお腹に当てていた。僕はきっとお腹が痛いに違いないと思った。でも青山くんは言い出せないのだ。代わりに自分が隊長に言おうかと思った。自分もお腹が痛くなった時はいつもそうだったからよく分かる。授業中でもよく我慢していた。家に帰ってお母さんに言うと、そう言う時は正直に言うの、絶対がまんしては駄目、恥ずかしくなんかないんだからと言われたのを思い出した。でも、青山くんはきっと恥ずかしいから言えないのだ。僕はどうしてあげたらいいかわからなかった。

「おーい。そろそろ出発するぞ」

 隊長の大きな声が響いた。

「いいか。ここから頂上までは少しきつくなるぞ。どうしても疲れて登れない、もう止めたいというならここで止めてもいいぞ。どうだ。誰かいるか」

 僕はほとんど反射的に手を挙げた。

「ん。ああ、一人いたか。和也くんか。本当に止めるのか」

 僕は頷いた。

「ん。聞こえないぞ」

 僕は、はい、止めますと目を瞑って大きな声で答えた。

「そうか。わかった。では、ここから元の道を戻っていい。和也くん、テントで待ってなさい」

 隊長の声は心なしか冷たく響いた。

「どうだ。他にはいないか。いないな。よし。副隊長、すまんがよろしく頼む」

 僕は、水筒やお菓子をリュックサックに詰めながら、青山くんの方をちらちらと見た。青山くんが僕も止めますと言うとばかり思っていた。でも、青山くんは何も言わず地面を見ていた。

 僕はリュックを背負い、副隊長の後をついて歩き始めた。みんなが自分を見ているのが分かった。

「おーい。いいか、みんな。あんなふうにはなるなよ」

 しばらく歩くと隊長の声が背中の方から聞こえた。僕はなんだかとても惨めなやるせない気持ちになった。歩きながら副隊長は、大丈夫か、そんなに疲れたのかと心配してくれ、僕はただ黙って頷いた。

 テントに着くと、僕は一人、何時間もずっと皆の帰りを待っていた。青山くんが戻ってくるかもしれないと思って何度もテントから山の方を覗いたりもした。時々、副隊長が様子を見に来てくれた。気分はどうと聞かれ、大丈夫ですと答えた。せっかく朝作ったおにぎりも家から持ってきたお気に入りのお菓子も食べたいと思わなかった。

 夕方になって肌寒くなった頃、わいわいと遠くから声が聞こえてきた。テントから飛び出すと、戻ってきた皆は、誰もがやり切った満足げな眩しい顔をしていた。青山くんも同じだった。隊長は副隊長と何やら話した後、僕を一瞥し、和也くん、大丈夫かいと言い、僕が大丈夫ですと小さく答えると、すぐ行ってしまった。その後、また飯盒でご飯を炊き、バーベキューをした。僕は黙々と作業し、出来た料理を口に運んだが、誰もが別人になってしまったのか、自分が透明人間にでもなったのか、誰一人話しかけてはこず、今までとは違う世界にでもいるような感じがしていた。

 食事の後片付けを終えると、皆で前日集めた木材を組み上げ、キャンプファイヤーをして歌を歌った。口は動かしたが多分声はほとんど出ていなかったと思う。隣に座る青山くんに何度も声をかけようかと思ったが、その度に青山くんが僕を避けているように感じてどうしても声をかけられない。帰りのマイクロバスでも青山くんは僕の隣に座らず、僕の隣には誰も座らなかった。わいわい騒ぐ声が聞こえる車中で、僕はずっと窓の外だけを眺めていた。

 夕方、集合場所に到着すると、父兄に対し隊長の無事戻りましたという報告があり、それが終わって解散となったスカウトの子供たちは歓声を上げながら、迎えに来ていたそれぞれの父兄の元に駆け寄って行った。母と青山くんのお母さんも並んで待っていた。青山くんは最後まで僕を見ようとはせず、母親の手を引っ張るようにして帰って行った。

 車に乗り込むなり僕は言った。

「お母さん、僕、カブスカウトやめる。それから青山くんちにも行かない」

 母は驚き、何があったのかと聞いたが、僕は何も答えず、ただ前だけを見ていた。僕は何かにとても怒っていたが、同じくらい悲しく今にも泣き出しそうだった。

 家に戻ってから母は何度も僕にカブスカウトをやめる理由を尋ねた。僕は答えなかった。自分でも何をどう答えていいのかよく分からなかった。僕は僕だと心の中でずっと自分に言い聞かせていた。

 そんな僕に郷を煮やしたのか母は言った。

「どうせ青山くんと喧嘩でもしただけでしょ。友達増えたってあんなに楽しそうだったじゃない。山登りだって嫌がってたけど行ってみたら出来たんだから。まだ一年も行ってないのにやめるなんてもったいないわよ。ね、お母さんが青山くんのお母さんに仲直りするように言ってあげるから」

 不意に込み上げてきた涙が流れるのを堪えた僕は母に怒鳴るように言った。

「僕はやめるって決めたんだ!」

 母は一瞬たじろいでから、呆れたような顔をして何も言わなくなった。そばにいた父はただ黙っていた。その後、カブスカウトを退団した僕は、青山くんと一度も会うことはなかった。青山くんから連絡が来ることもなかった。

 

 

 無我夢中で走っているうちに、いつの間にか大人になり、僕は今、サンフランシスコ郊外に居を構え、シリコンバレーで働く毎日を送っている。

 家庭を持ち、娘が生まれ、仕事にも多少なりとも余裕が生まれたせいか、家でくつろぐふとした瞬間に、あのカブスカウトの出来事を思い出すようになった。

 思えば、あの日以降、思い当たる理由もなく、僕は来る日も来る日も猛勉強をするようになった。それまでの成績が嘘のように伸びていった。

 僕の変化は勉強に留まらなかった。

 引っ込み思案だった僕が、児童会役員選挙に立候補し、全校生徒の前でスピーチまでした。

 なぜ立候補したのか今もって説明できない。

 東大では、情報工学研究に没頭する一方、多くの女性とも付き合った。

 大学院を卒業すると、就職を勧める母の反対を押し切って、世界を二年ほど放浪し、その際にインドのリシケシュで知り合ったアメリカ人研究者に誘われる形で、アメリカに渡り、彼が立ち上げたITベンチャーの共同経営者となった。

 

 あれは僕にとってどんな意味があったのだろう。

 隊長はどんなつもりであの言葉を言ったのか。皆や青山くんが僕を避けたのはなぜか。そして僕は、なぜ誰にも何も言えなかったのか。

 僕はこう思った。

 隊長はそれほど疲れているふうでもないのに山を降りると言った僕が情けないと思い、皆の士気に関わると思ってあの言葉を言った。それでみんなは隊長から僕と同じように見られたくなくて僕を避けるようになった。青山くんは、自分の代わりに僕が手を挙げたことは分かったが、やはり恥ずかしくて言い出せなかった。それが隊長の言葉で僕が悪者みたいになってしまい、さらに心の重荷となって、僕をまともに見られなくなった。子供のことだ。きっとそうだろう。

 では、僕はどうなのか。

 青山くんに一緒に山を降りようとなぜ言わなかったのか。隊長の言葉が背中に聞こえた時、なぜ振り返って、違います、僕は元気ですと言えなかったのか。

 ここで、もしかすると僕は僕だという思いに拘泥していたせいではないかと思い当たった。僕は恥ずかしいと思う青山くんを気遣ったように見せて、実は青山くんは恥ずかしくとも自分で言うべきだという未熟で硬直した考えがどこか心の内にあったように思えるのだ。

 それに、衝動的とはいえ、やはり僕は僕として手を挙げてしまった以上、それを誰になんと言われようと甘んじて受け入れるしかないと思ったからこそ隊長に抗議も出来なかったのではないか。

 これらの思いは僕の心を萎えさせたが、一縷の救いは、手を挙げた衝動そのものに隠された思いや嘘はなかったと思えたことだった。

 それにしてもあの後、僕が自分でも信じられないほど変化したのはなぜなのか。

 今まで何度となく思いを巡らしてきたが、やはり分からない。あれが僕の人生を大きく転回させるトリガーになったのは間違いないと思うのだが・・。

 待てよ。もしかしたら僕の中にはいくつかの種のようなものがあり、一定の条件の下と何かのトリガーでそのうちのどれかが発芽したのではないか。

 

 父は、ごく普通のサラリーマンで無口で大人しく誠実な人柄だったが、出世することなく定年退職した。今思えば、母が近所の仲の良い主婦を何人かパートで雇い、いきなりカフェを開いたのも父の稼ぐ収入だけでは心許ないと思ったからだろう。母にはその才覚があった。臆せず誰とでも快活に話し、すぐ友達になった。お節介で人の世話をよく焼いた。後で聞いた話だが、カフェを開く資金や、場所なども知り合いのコネをうまく使ってあっと言う間に手配したらしい。

 今やそのカフェは店舗を増やし、抱えるパートやアルバイトは数十人もいて母は一端の経営者だ。父は母のカフェを手伝わされているが、無口なのは相変わらずで、客あしらいに長けている母にすればそれが不満のようだが、従業員の面倒なシフトをあれこれ考え、主婦や若い子たちの複雑な人間関係や店への愚痴(多くは母への不満だろう)を黙って聞いてくれる父が便利とも思っているようだ。

 父にしてみれば、主客が逆転したような生活が面白いはずはないと思うのだが、僕には、強引な母に文句一つ言わず、黙って人の話を聞き、皿やカップを洗い、電卓で売上伝票の計算を黙々とこなす父の姿が目に浮かぶ。そして今は分かる。それは弱さでなく父の真の強さだと。

 

 僕は、父と母から知らず知らずのうちに多くを学んでいたのだろう。

 それは、僕の中にあった種の一つが発芽する条件となり、理由は分からないが、カブスカウトでの出来事はそれを発芽させるトリガーとなったように思える。

そうとでも考えないと僕にはとても説明がつかない。

 ただ、よく考えてみると、トリガーになったのは、あの衝動そのものだ。

 隊長に「山を降りたい者は手を上げろ」と言われたあの刹那、僕の中に生じた衝動は少なくとも考えではなかった。

 

 あの衝動はどこからやってきたのか。

 やはり分からない。分からないが、人生を大きく転回させるトリガーは、いつもあのようにしてやってくるのかもしれない。

                      

ちゃちゃ 改稿版

                            

 パパは、クリスマスの日の夜、今度は札幌だよと言った。そして、一月十日が会社の発表だから、引っ越しはその後だねと続けた。

 私は中学一年生、二人の妹は小学四年生と一年生だった。

 登校最後の日、いざ前に立ってみると、クラスのみんなの顔がまともに見られなくて、あれも言ってやる、これも言ってやると決めていた話は何一つ出来ないまま、声が小さくなるにつれて、顔もだんだん下を向いてしまった。吉田美幸先生は、転校するのが寂しいのだろうと勘違いして、優しく私の肩を抱いてくれた。

 引っ越しの日、朝から妹たちの大の仲良しの朋美ちゃんや加奈ちゃんがやって来て、二人はずっと泣いていた。私は泣かなかった。

 ママとパパは、強くなったね、さすがお姉ちゃんと褒めてくれた。

 でもそれは違う。二度目の転校だったし、もう中学生だし、お姉ちゃんだけど、それは違う。悲しくなかったから泣かなかっただけだ。

 本当のことを知っていたのはちゃちゃだけ。ちゃちゃは、聞き上手で、余計なことは言わず、ときには優しく慰めてくれる最高の相談相手だったから。ちゃちゃ、私、不安で不安でしょうがないよ。そう思いながら顔を近づけると、ちゃちゃは、きっと大丈夫だよ、と私の鼻をちろっと舐めてくれた。

 

ちゃちゃは、五年前にこっちに引っ越してすぐの頃、パパが拾ってきたメスの三毛ネコだった。

冷たい雨の降る夜、道端で佇む子ネコが、車のヘッドライトに一瞬映し出され、一旦は通り過ぎたが、やっぱり戻って拾ってきてしまったと、ネコの嫌いなパパは言い訳するように言った。

大のネコ好きのママは、しょうがないわねと言いながら、想定外に飼うことになった子ネコをタオルケットにくるんでその濡れた小さな体を優しく拭いていた。私たち姉妹は当時大好きだった、赤ずきんちゃちゃという漫画から、ちゃちゃと名付けた。

私たち姉妹とちゃちゃは一緒に大きくなっていった。

ちゃちゃは大きくなってもとても憶病で、外に出してあげてもすぐ帰って来るし、他のネコが庭に現れようものなら、あっと言う間に二階の部屋の片隅に逃げ隠れてしまうくらいだった。

パパは、あんな小さなときに、親と引き離されて、捨てられて、冷たい雨の中で寂しく泣いていたから憶病になっちゃったんだよと言った。

でも、ちゃちゃはとても優しかった。当時パパは仕事が忙しく、いつも疲れた顔をしていて、そのせいか、よくママと口喧嘩をした。そんなとき、必ずちゃちゃはそっと動いてパパとママの間に座っていたのを私は知っていた。ちゃちゃは仲裁しているつもりだったのだ。なぜなら、私と妹が喧嘩したときもいつもそうだったから。

 

札幌へ行く日、ケージに入れられたちゃちゃはぐったりしていた。

憶病なちゃちゃは、乗り物が大嫌いだったから、動物病院で麻酔の注射をしてもらって運んだけど、もしかしたらそのまま死んじゃうんじゃないかと、私たちは心配で心配でしょうがなくて、新千歳空港で、ちゃちゃが生きていたのを見た時は、思わず泣いてしまった。

札幌に着くと大雪で、引っ越し屋さんが、新しい家に荷物を入れるのも大変そうだった。私と妹たちは、雪が珍しくて庭に積もった雪をかけ合ったりして遊んでいた。

ちゃちゃがいなくなったのはその引っ越しの最中だった。

大きな荷物は、庭から入れるために窓を開けたり閉めたりしていたので、気付かぬうちにそこから逃げたのかもしれないとママは言った。パパはそのうち帰ってくるよと言ったし、私たちも臆病なちゃちゃのことだからそうだよねと、それほど心配していなかったけど、その夜どころか次の日もちゃちゃは帰ってこなかった。ママは私がもっと気をつけていたらと泣いた。私たちの前で、あんなに泣くママを見たのは初めてだった。

そういえば、夜、喉が乾いて水を飲みに階段を降りていったとき、ママが、ちゃちゃを膝に乗せて、泣きながら何か話しかけている姿を見たことがあった。きっとママも、ちゃちゃに助けてもらっていたんだ。

動物病院の先生は、最初の一週間くらいは、半径二百メートルくらいのどこかに隠れていると思うが、それ以上過ぎるとどこかもっと遠くに行ってしまうかもしれないし、この雪なので餌がないと死んでしまうかもしれないと言った。それを聞いたママは、パパに、パソコンでちゃちゃの名前と写真と連絡先を入れたチラシを作ってもらい、私とママは、近所の家や食品スーパーやラーメン屋、美容院からガソリンスタンドなどのお店まで、ちゃちゃのようなネコを見かけたら連絡をくださいとチラシを配って回った。

夜は夜で、ママとパパと私は、厚着をして長靴を履いて、懐中電灯を持って雪のなかを捜して回った。でも、姿どころか、どこのネコかも分からない雪の中の足跡くらいしか見つけることができなかった。

北海道特有の長い冬休みが終わり、札幌の新しい学校へ行く日が近づいていたけど、私は、ちゃちゃがいないことが寂しくて、悲しくて、不安で不安でしょうがなくて、とても学校に行く勇気が持てなかった。

ちゃちゃがいなくなって六日目の夜、ママは玄関に布団を持ってきて寝ると言い出した。それまでも、いつちゃちゃが帰ってきてもいいようにと、玄関ドアはずっと開けっ放しだったし、灯りも点けっぱなしだった。

札幌の家は、冷気が入らないように玄関は二重ドアになっていて、内側の扉はガラスの引き戸になっていたから、ママは、玄関で寝ていればちゃちゃが帰ってきてもすぐ気づけるでしょと当然のように言った。パパはずっと寝不足と心労で疲れているママが心配で、心配で、さすがにそれは止めろよ、体に悪いよと半分怒りながら何度も止めたけど、ママは頑として聞かなかった。あんなに強いママを見るのも初めてだった。

ママの執念の思いが天に通じたのか、ちゃちゃは、翌日の朝、ひょっこり帰ってきた。

私たちはママの歓喜の叫びを聞いて、まさかと思い、二階の部屋から転げ落ちるように階段を駆け下りると、そこには痩せて一回り小さくなったちゃちゃがいた。ちゃちゃを見た私が泣き出したので、妹たちもつられるように泣き出した。

ママは毛布を持ってきて、ちゃちゃをくるんで抱き、寒かったね、お腹すいたねと何度も言いながら優しく撫でた。

ママからの電話でちゃちゃが戻ったと知ったパパは、それこそ飛ぶように仕事から帰ってきて、

ちゃちゃを大きな手で優しく抱いて、ママと同じように、寒かったな、ごめんなと何度も言って撫でていた。パパは私たちにずっと顔を背けていたからきっと泣いていたのだと思う。

ちゃちゃが帰ってきた喜びと、明日から始まる学校が楽しみでしょうがない妹たちは、風呂を出た後、きゃあきゃあとハイテンションで家の中を駆け回っていた。妹たちの甲高い声にびくともせず、居間のソファの上で気持ち良く寝ているちゃちゃに、「お前、憶病だけど強いやつだな」とパパが言った。

 夜、ベッドに入ってはみたものの、翌日の初めての学校が心配で、なかなか寝付けない私のところに、ちゃちゃがそっとやって来た。

 

翌日朝、私は、雪のなかを歩いて新しい学校に登校した。担任の先生に連れられて、教室に向かった。だんだん気持ち悪くなって吐き気が襲ってきた。

ドアが開いて、クラスのみんなの前に立ったけど、私の目の前に見えるのは、自分の真っ白い上履きだけだった。

先生が私を紹介してくれた。

私は思い切って顔を上げた。大きく息を吸い込んで、ちゃちゃに言われた通り、胸を張ってクラスのみんなを正面から見て、大きな声でお早うございますと挨拶した。そして、自分の好きなアイドルと好きな食べものと家族と、ちゃちゃが行方不明になった話をすると、みんなが大きな拍手をしてくれた。

席に着くと、隣の女の子が、「うちにもネコいるよ」と、嬉しそうに話しかけてきた。

                                         

 

  了

竜造の家出 改稿版

 

 裏口のドアが開いてコンビニの店員が出てきた。

 まずい。竜造は慌てて、ゴミ箱の蓋を閉めてその場を離れた。

 今日も何も食えずか。夕闇迫る五月下旬の札幌の、寒々とした冷気の中を、とぼとぼといつもの雑居ビルに辿り着き、二階の階段の新聞紙を敷き詰めた踊り場に座り込む。

 もう丸二日、水ばかりで何も食べていない。空腹と疲れと寒さで麻痺しかかった頭で、竜造は思う。何でこんなことになってしまったのだろうと。

 

 もうすぐ五十六歳になる升田竜造は高卒で中小企業である今の会社に入り、異例ともいえる部長にまで昇進していた。先代社長に可愛がられたおかげもあったが、竜造には人を惹きつける人間的な魅力があったし、何より人一倍努力する男だった。竜造には、苦楽を共にする三十人ほどの部下がいて、給料こそ決して高くはなかったが、社員たちはアットホームな雰囲気のなかで、愛社精神を持って楽しく一生懸命働いていた。

 ところが一年前、先代社長が六十四歳で急逝すると、社内の雰囲気は一変する。メインバンクにいた三十九歳の娘婿が社長になったからだ。若社長は、利益を声高に叫び、コストカットを強力に押し進めたに止まらず、余剰人員を削減すると言い出した。

 これには竜造もさすがに我慢ならず社長室に乗り込んだ。竜造のモットーは、先代社長から教えられた、何事も正面からぶつかれ、だった。

「社長、私は三十七年間、この会社で働いてきました。ご存じではないでしょうが、その間、会社も今ほどいい時ばかりではありませんでした。業績不振で給料が払われず、何ヶ月も遅れた時も、みんなと歯を食いしばって頑張ってきました。その仲間を社長は余剰人員とおっしゃって辞めさせようとしています。しかも会社が過去にないほど順調なときにです。これには到底、納得できません」

 竜造には、若社長のちっという舌打ちが確かに聞こえた。

「升田さん、いいですか。会社は利益が全てなのですよ。それに人員整理は会社の状況が良いからこそやるのです」

「社長、私には経営の難しいことは分かりません。ただ、ずっと共に頑張ってきた仲間が辞めれば会社の業績に必ず影響が出ます。残った連中もやる気を無くします。長く勤めている私にはわかります。考え直していただけませんか」

「そうならないようにするのが升田さんたち管理職の仕事ではありませんか」

 冷たく言い放つ若社長を睨みつけ、竜造が言葉を絞り出す。

「うちには三十人の部下がいます。皆必死になって頑張ってくれている者ばかりです。このうち最低三人を辞めさせろと言われています。私にはそんなことは出来ません」

 しばらく考え込んだ後、口元を緩ませ、若社長は言った。

「それなら、升田さんが代わりにお辞めになったらいかがですか。あなたなら部下三人分くらいには相当するでしょう」

 竜造の顔色はみるみる間に真っ赤になっていく。

「分かりました。私が辞めます。その代わり部下の三人は辞めさせません。いいですね」

 竜造は怒りのあまり、若社長の口車に乗ってしまった。

「いいでしょう。では忙しいので」

 若社長は、話は終わったとばかり、デスクの上の書類に目を落とした。社長室を出た竜造は、自分のデスクに戻るなり、早期希望退職希望の用紙に記入し、人事課長の元に行った。

「りゅ、竜さん、これ」

「間違いなく出したからな。あと、俺んところは誰も辞めさせないって社長と約束してきたから。いいな。それと、これは誰にも言うなよ」

「わ、わかりました」

 竜造の迫力に気圧された人事課長は、何が起こっているのか分からないまま、用紙を受け取った

 家に帰った後、妻の泰子に話すと、案の定、恭子はヒステリックになった。

「お父さん、いくらなんでも自分勝手すぎるでしょ!どうして前もって相談してくれないのよ」

「うるさい!辞めるって言ったら俺は辞めるんだ!」

 竜造は、湯呑み茶碗を食卓のテーブルに叩きつけるように置くと、大きな足音を立ててダイニングルームを出ていった。

 竜造の出社最終日の夕方、竜造は多くの社員の前で花束と記念品を受け取り、竜造万歳と書かれた黄色のレイを掛けられ照れ臭そうに頭を掻く。会社の正門を出るところで、顔馴染みの守衛のシゲさんから声をかけられた。

「竜さん、今日で最後だって」

「うん、シゲさん、長い間お世話になったね」

「これ、持ってってくれ」

 シゲさんが、詰所の奥の方から紙袋を持ってきて、竜造に渡す。

「何かあった時にと思ってとっておいた酒だ。旨いぞ」

 シゲさんの目に涙が光っていた。

「ありがとよ。大切に飲ませてもらうよ。シゲさん、あんまり飲み過ぎるなよ。体、大切にな」

 その時だった。社屋から多くの社員や食堂の給仕、掃除婦までが出てきて竜造を取り囲んだ。多くの者がハンカチやらティッシュやらを目に当てながら。

「ありがとう。本当に長い間、ありがとう。みんな頑張れよ」

皆に最後の別れを告げ、正門を出て駅方向に歩き始める竜造の背中に、竜さーんという声がいくつもかかり、さすがの竜造の目にも涙が滲んだ。

電車の中で、黄色いレイを襷掛けした竜造は放心していた。これで良かったのだろうかという思いが離れない。

 家に戻ると、最終日とあって食卓には泰子が腕によりをかけた豪勢な食事が並んでいた。

「長い間、お疲れ様でした」

泰子がビールを注ぐ。

「うん、ありがとう」

 そう言ってビールを一口飲むが、竜造の表情は冴えない。せっかくの料理にも箸が進まず、目はどこか虚ろで、心ここにあらずという状態だ。

「聞いてないの?」

「ん?なんだっけ」

「だから。これからどうするの?」

「どうするって、今日辞めてきたんだぞ。まだそんなこと考えてるわけないだろ」

「だって困るじゃない」

「何が」

「何がって、この家のローンだって残ってるし。浩一にも仕送りしなきゃならないし」

「わかってるよ」

「本当にわかってるの」

「何が言いたいんだ」

 竜造がイラついた表情に変わっていく。

「やっぱり辞めない方が良かったんじゃない」

 恭子の一言に、竜造は、無言で箸を置き、ダイニングテーブルを立って部屋を出ていく。

 早朝、まだ暗い中をそっと起き出した竜造は、居間に行き、便箋を取り出して綴った。

「しばらく家を出る。心配はいらない。数日したら帰る。竜造」

 それをダイニングテーブルの上に置き、泰子が風呂に入っている間に、用意しておいたボストンバッグを持って家を出た。

 

 竜造は、辞めてから泰子と来るつもりだった札幌に来ていた。五月の札幌がこんなに寒いとは知らず、ジャケットの襟を立てて、大通り公園を歩き、時計台を見て、北大のポプラ並木を散策した。夕方になって、ススキノで、ジンギスカンで腹ごしらえし、店を出てぶらぶらしていると、細い路地の先に佳代という小さなスナックを見つけた。まだホテルに帰るには早いと思い、一杯だけ飲んでいくかとドアを押し開けた。

「いらっしゃい」

 まだ時間が早いせいか客は誰もいない。ママは四十前後だろうか、色白のなかなか艶っぽい女性だった。カウンターに座って、ウイスキーの水割りを注文する。

「どちらから?」

「ああ、東京」

「一人で?」

「うん」

「あら、何か訳アリって感じ?」

「いや、そんなんじゃないよ。会社を辞めたから骨休めにぶらっとね」

「へえ、じゃお祝い?それとも」

「お祝いだよ。だからママも飲んでよ。おれは竜造ってんだ」

「じゃあ竜ちゃんね。私は佳代」

 水割りで乾杯した二人は、夜が更けるとともに大いに盛り上がっていった。

「しかし、この店ヒマだねえ。ヒック。全然客が来ないじゃないか」

「最近不景気だからよ。まあ、いいじゃないの。飲みましょ」

 翌日、竜造が目覚めたのはすでに昼近くだった。枕元から呼び出し音が聞こえる。吐き気とガンガンする頭で何とか受話器を取る。

「お客様、延長でよろしかったでしょうか」

「えんちょお?」

 竜造は、がばっと起き上がり、周囲を見渡すとどう見てもラブホテルのようだ。

「す、すぐ出ます」

 飛び起きてズボンやシャツを急いで着る。ところが、ボストンバッグがどこを探しても見当たらない。バッグには着替えと銀行やクレジットのカード類、運転免許証まで入っている。焦って部屋中を捜しまわるが見つからない。ベッドの上のくしゃくしゃになったジャケットには、財布とスマホが残されていた。混乱した頭のまま、六千円を払ってホテルを後にし、近くの交番に行った。

「ああ、やられたね。いい女だったんでしょ」

「まあ、はい」

「すぐカードは止めた方がいいですよ」

 色白のいい女としか覚えていない。名前も場所も全く記憶にない。交番を出て、財布をもう一度確認すると一万二千円あるが、これではどうしようもない。しばらく考えた竜造は泰子に電話をした。

「もしもし、泰子か、おれだ」

「お父さん?ちょっと!何してんのよ!」

 二日酔いで痛む頭に泰子の大きな声が響く。

「うるさい。いいから聞け」

「何言ってんのよ!勝手に飛び出して!もういいかげん」

 頭に来た竜造はスマホを切った。ふと思い立ち、同僚で親友の岸本に電話を入れる。

「岸本か、俺だ」

「ああ、竜さんか、どうした」

「ちょっと女房と揉めてな。今、札幌にいるんだ」

「札幌?なんでまた」

「まあ、事情はまた今度。それより、数日したら帰るつもりだが、もしそれより長くなるようなら、女房には大丈夫だ、元気にしてるから心配するなと伝えてくれないか。ああ、それとカードを失くしたから、すぐ止めるようにと」

 岸本にはそう言ったものの、札幌に知り合いはいない。頭を両手でくしゃくしゃと掻きむしって、くそ、なるようになれと呟いた。

その後、安いビジネスホテルを探し、コンビニで食いつないで二泊を過ごした竜造だったが、とうとう持ち金が尽きてしまう。泰子に電話して、迎えに来てもらおうという考えが過ぎるが、妙な男の意地が邪魔をして、どうしても頼む気になれない。

行くあてもなく、暖かい駅地下街で夜を過ごそうと座っていると、夜半になって警備員が来て追い出されてしまう。寒い街をとぼとぼと歩き出した竜造は、鍵の掛かっていない古びた雑居ビルを見つけ、二階の階段の踊り場にへたり込んだ。幸い、店舗も潰れているのか、人気もなく、トイレもあって水だけは飲めた。

翌日も、食べ物を求めて街をうろつくが、どうしようもない。とうとう、竜造は、コンビニの裏手に回り、賞味期限切れの食べ物でも捨ててないかと、ゴミ箱を漁ろうとしたところへ、裏口のドアが開いて店員が出てきてしまった。

 俺はこれからどうしたらいいんだ。雑居ビルの階段の踊り場で竜造は思った。

 

次の日の朝、街をうろつき始めたものの、さすがに精も根も尽き果てた竜造は、疲れと空腹で道端に座り込んでしまった。もう寒さも感じなくなっていた。俺は死ぬのかと思った。

「おっさん、おい、おっさん!」

 竜造が顔を上げると、三十半ばのその男は、竜造を抱えるように立たせ、肩を貸して歩き始めた。

「どこ行くんだ」

「まあ、いいから」

 着いたのは、札幌駅バスターミナル脇の地下道入り口だった。

「あれ、ヒデさん、どうした、その人」

「ああ、ゴンさん、この人やばそうなんで連れてきちゃった」

「へえ、珍しいね。まあいいや。ヒデさんが連れてきたんなら面倒見るしかないな。なあ、マサさん」

「そうですね。じゃあこっちに座らせたら」

 五十がらみのマサが指差した、厚手の段ボールが敷いてあるところに、ヒデにつかまるようにして竜造は座った。

「ほい、これ。あんまり慌てて食うなよ」

 七十前後と思われるゴンが、コンビニのサンドイッチと水の入ったペットボトルを竜造に差し出すと、竜造はむさぼるように食べ水を飲む。

「ありがとうございました」

 絞り出すように竜造が言う。

「まあ、事情は後だ。また腹が減ったらヒデさんに言いな。今日はよく体を休めなよ」

 腹が満たされた竜造は、新聞紙にくるまって死んだように眠った。

 翌朝、竜造が目を覚ますと、ゴンたち三人はすでに何やら相談している。

「おお、起きたか、あんた、名前は?」

 ゴンが言う。

「竜造と言います」

「そうか、じゃこれから竜さんだ。竜さん、よく聞くんだぞ。おれたちはホームレスだが、物乞いをしたり、食いもん拾って生活してるわけじゃない。ゴミにされるような不用品を回収して売るんだ。中にはカネになるもんがある。つまり仕事をしてるわけだ。いいか。分かったら竜さん、あんたの縄張りはここだ。自分の食い扶持は自分で稼ぐんだぞ 。誰も助けちゃくれないからな。なんか見つけたらおれんとこへ持ってくるんだ」

ボロボロになった市街図に、鉛筆で丸をつけた場所を示してゴンは言った。

 竜造はゴンに指定された自分の縄張りをうろうろ見て回るが、金になりそうなものなど見つからない。そろそろ薄暗くなりかけた頃、道端のブルーネットで覆われたゴミ捨て場の中に一つの段ボール箱が目に入る。何となく気になった竜造は、周囲を気にしつつ中身を確認すると二十枚ほどのDVDと古いゲーム機が入っている。もしかしたら多少の金になるかもしれないと思い、竜造は段ボールを抱えてゴンの元に戻った。

「おおっ竜さん、こりゃビギナーズラックだな。ええっと、ほいよ」

 段ボール箱を確認したゴンは、そう言って腹巻の中からがま口を取り出し、百円玉十個を竜造に渡す。

「こんなになるのかい」

両手で受け取った竜造は目を瞠る。

「ああ、DVDは大したことないが、古いゲーム機は結構いい金になるんだ」

 竜造は、ゴンとマサに二百円、ヒデには三百円を渡した。

「何これ、いいのか竜さん」

 驚いたヒデに、竜造が微笑む。

「世話になったし、幸運は分け与えないと」

 残りは三百円だったが、今の竜造にとってはとんでもない大金だった。

 それから数日、札幌に来て十日が経とうとしていた。

 竜造は、閉店するスナックの裏で、ビールケースの中にあったほぼ手付かずのウイスキーボトル二本を持ってゴンたちの元に戻った。

「お、竜さん、また当てたな。こりゃいい酒だ。開けてない方は、五百円だ。開いてる方は金にはならんが」

「じゃみんなで飲もう」

 四人は適当なつまみを持ち寄り、車座になって飲み始めた。久しぶりの酒に酔いが回った竜造が聞く。

「そういえば、みんな元は何してたんだい」

「竜さん、それはご法度だよ」

 マサがすかさず言う。

「まあ、マサさん、こうやっていい酒飲めるのも竜さんのおかげだ。大した話でもあるまい。竜さん、俺は小さな建設会社をやってたんだ。酒とギャンブルでダメにしたんだが」

「俺は、タクシーの運転手だよ。客と喧嘩してクビだ」

 マサが言うと、ヒデは、床屋だと言ったが、辞めた理由は言わなかった。

「へえ、色々なんだな」

「そういう竜さんはどうなんだ。本当は帰る場所があるんだろ」

 ゴンに言われ、竜造は会社を辞め、家を出た経緯を話した。

「そっか。それにしてもあれだな。俺も偉そうに言えた義理でもないが、男が意地張った以上、奥さんの小言くらい黙って耐えんとな」

「なんだよ、ゴンさん。そんな言い方ないだろ。自分だってギャンブルで会社駄目にしたくせに。奥さんだってどうせ泣かしたんだろ」

酔った竜造が気色ばむと、ゴンが竜造を見据える。

「その通りだよ。でもな。いいか、竜さん。自分を犠牲にして部下を守ったのにって思ってんだろ。本音はまだ会社を辞めたくなかったんだろ。それを分かってくれない奥さんに八つ当たりしてるんだろ。んで、そんな自分に本当は一番腹立ててるんだろ。違うかい」

 竜造には何も言い返せなかった。

「甘いんだよ。そんな程度で家を出たなんて」

 ゴンに続いてマサも言う。

「ゴンさん、マサさん、そこまで言わなくても」

「いや、ヒデさん、マサさんの言う通りだ。この男は甘っちょろいんだよ。俺たちみたいに別に地獄を見たわけじゃない。たかが女房に愚痴られたくらいで、札幌まで来て、スナックでいい気持ちで酔っ払った挙句がこれだって。笑わせるぜ」

 竜造は怒りで震えるが、やはり何も言い返せず黙って俯いている。

「女房にでも電話して、とっとと帰れってんだ」

 マサが言うと、竜造は立ち上がって、無言でその場を立ち去った。恥ずかしさと怒りが収まらず、夜の街を一晩中歩いた。疲れ果てて、大通公園のベンチで座っていると、朝日が差し込んでくる。

スマホショップが開くのを待って、充電をし、泰子に電話をかけた。

「心配かけてすまん。俺が悪かった」

 電話口で泣く泰子が落ち着くのを待って、事情をかいつまんで話すと、恭子も岸本から聞いて、会社を辞めた事情を知ったと謝った。

 夕方、竜造は、ゴンたちの元へと戻った。

「俺が間違ってました。帰ります。お世話になりました」

「へえ、そうかい。ま、それがいいだろう。じゃ、元気でな」

 ゴンは冷たく言い放った。

「いつ帰るんだい」

 ヒデが心配そうに尋ねる。

「明日の昼の便で。ヒデさん、本当に世話になったね。ありがとう」

 竜造は、雑居ビルの階段の踊り場で一晩を過ごし、少しずつ貯めていたお金をはたいて、新千歳空港まで行った。まだ、泰子が到着するまで二時間ほどある。到着口近くのベンチで座っていると、竜さんと声がした。

「あれ、ヒデさん。どうした」

「これ」

 ヒデは、紙袋を竜造に手渡した。中を見ると、新品ではないが、パリッとしたスーツと革靴が一足入っている。

「何だい、これ」

「ゴンさんがあのなりじゃ恥ずかしいだろうから持っていってやれって」

 竜造は全てを理解した。ゴンとマサは、俺に気づかせるために、あえてあのような言い方をしたのだと。竜造は涙が溢れて止まらなくなった。

ヒデは、トイレで伸びた髪や髭の手入れまでしてくれ、名残惜しそうに帰っていった。

 定刻になって、到着口から泰子と岸本が出てきた。泰子は、竜造を見るなり駆け寄って泣き出し、竜造は泰子の肩をぽんぽんと叩いた。

「何だ、お前まで来たのか」

「来たのかはないだろ。俺だって随分心配してたんだぞ」

「そうだな、すまん」

「それにしても、奥さんから聞いてた話と違って、意外にこざっぱりしているじゃないか。本当にホームレス同然の、飲まず食わずだったのか。そんなに大変だったようには見えないな」

「まあ、追々、飲んだ時にでも話すよ」

 飛び立った飛行機の窓から北海道を見下ろし、竜造は改めてゴンたちに感謝していた。

「竜さん、それ」

 隣に座っている岸本が、何やら竜造の足元を見ている。視線を下に落とした竜造が、よく見ると、黒い革靴が左右で色も形も僅かに違っている。

「ああ、これか。札幌のホームレスの間で流行ってるんだ」

 竜造はそう言って笑った。

 

 家に戻った竜造が、ハローワークに通い始めて二週間ほど経った頃、竜造あてに大きな段ボールが届いた。差出人は、札幌市南区の藤崎佳代となっている。

「お父さん、札幌からなんか荷物が届いたわよ」

 泰子が抱えて居間に持ってきた。

「なんだ。藤崎佳代?誰だろう」

 竜造が、段ボールを開けると、盗まれたと思っていたボストンバッグが入っていた。開けてみると、着替えやカードなどがそのままになっている。脇の方には封筒があり、中には一枚の便箋と名刺が入っていた。

「竜さん、お元気かしら。あの夜はホテルに置き去りにしてごめんなさいね。でもあんまり竜さんが酔ってて、どうしようもなかったものだから。竜さんが取りに来ると言ってらしたので、ずっとお店でバッグを預かってはいたのよ。でもさすがに1ヶ月近くも経つし、申し訳ないと思いながら開けさせてもらいました。カードとか困ったでしょう。免許証に住所があったので、そちらにお送りしますね。でも、あの夜は本当に楽しかったわ。また来てね。佳代♡」

 名刺のスナック佳代の文字を見て、竜造の記憶が一気に蘇った。

「何?それ?」

 泰子が覗きに来ると、慌てて手紙を隠す竜造だった。

                                     了

 

 

 

ドトールな人々 光る

 

みづきが初めて、文芸サークルの部室に現れた日を僕は一生忘れないだろう。

 そこにいた男子の目が全員釘付けにされた。文字通り釘で打ちつけられたかのように、しばらくの間、誰も動けなかった。単にかわいいとか美しいというのではない。今から思えば、圧倒的な存在感を放っていたからだ。彼女がそこにいる。紛れもなくいる。一度認識したなら、もう目を離せない。よくオーラを纏っているとか放っているという表現があるが、もしかするとあれがそうなのかもしれない。

 僕とみづきは同じ大学の四回生と一回生で、みづきが今春、入学してから文芸サークルで知り合い、付き合い始めてそろそろ三ヶ月になる。僕にとって、みづきと出会い、しかも付き合えたのは奇跡に近いのではなく、まさしく奇跡そのものだった。今でも、みづきと共にいるときには、何度もこれは現実だろうかと疑うくらいだ。

みづきは、それこそ星の数ほどいる男の中から、なぜか僕を選んだ。選んだのはみづきで、告白したのは僕だ。みづきは僕が告白するように誘導した。妙な言い方に聞こえるだろうが、そうとしか思えない。なぜなら、今も時折見せる、僕をうっとりと見つめるその瞳は、恋心を抱いた男の子のサッカーボールを追いかける姿を、教室の窓から見つめているような純度の高い憧れの光を帯びていたからだった。

 あの蠱惑的とも言える視線に抗える男など、この世に存在しないだろう。男たちからの激しい嫉妬や、僕を選んだことへの女どものあからさまな嘲笑を感じることも多々あったが、多分僕は全世界を敵に回したとしても彼女に告白したことを後悔はしなかったに違いない。

 なぜ、彼女いない歴二十二年の、何の取り柄もない退屈な僕をみづきは選んだのか。何度も僕は彼女に尋ねようとしたが、その度に思い止まった。何か大きな勘違いをしていて、あるはずのないものを僕に見ているとしたら、それを知るのが怖かった。いつか、ああごめんなさい、私の勘違いだったと言われるのが何より怖かったのだ。

 ところが、日を追うごとに僕が不安に思うのとは裏腹に、彼女の態度は変わるどころか、以前にも増して僕に対して情熱的に振る舞うようになり、キスもセックスも、まるで挨拶でもするかのような気軽さで、僕らの上を短期間に、しかもごく自然な形で通り過ぎていった。

 これほど人を愛し、欲することがあるだろうか。僕らは、ほとんど毎日のように会っていたにも関わらず、彼女が隣にいない時間が何より僕には辛く耐え難かった。

 

 八月初旬の茹だるような夏の午後、僕らはいつものように駅前のドトールで、アイス豆乳ラテを飲んでいた。

 あ、まただ。

 トレーを持ってやってきた、高校生らしきカップルの男の子の方が、みづきを見て動きを止め、見入っている。まるでうっかりメデューサの瞳を見てしまい、石になったかのように。女の子がそれに気づいて袖を引っ張って連れて行こうとするが、なかなか男の子は動こうとしない。いや、動けないのだ。

 いつものことだが、中学生だろうが、後期高齢者だろうが、みづきを見た男たちの多くは、必ず一度ならず、二度、三度とみづきを見る。そして、その後、必ず僕を見るのだ。その視線は、最初が驚きで次に羨望、そして嫉妬、最後にみづきへの憐みと必ず同じ順番でやってきた。渋谷や原宿では、いつもスカウトに声を掛けられたし(僕が隣にいてもだ)、さりげなくスマホで撮る者さえいたが、みづきは全く気にしていない素振りで、段々と僕も慣れっこになっていった。

「健吾くん、作品どう?捗ってる?」

 顧問の中嶋たえこ先生から出されていた夏休みの作品テーマはファンタジーだったが、今まで読んでこなかったジャンルで、もちろん創作したこともなかった。

「いや、なかなか。みづきはどうなの?今回もパス?」

「今度は出すつもり。面白そうなテーマ見つけたし」

「へえ、どんなの」

「この前、理学部の友達に聞いたんだけど、北アメリカに生息するHoturisってホタルのメスはね、他の種類のメスホタルの発光を真似して、それに寄ってきたオスを捕食するんだって。すごくない?しかもいろんな種類の光を真似できるんだよ」

「へえ。すごいって言えばすごいけど、残酷な話だね」

「残酷?どうして?」

「だってオスが喜んで近寄ったら食べられちゃうんだよ」

「でもメスがそれで光り輝くなら本望じゃない?」

「光り輝く?メスはオスを餌として食べるんじゃないの?」

「あ、たぶんホタルはね。人間の場合はオスの出す光を自分のものにして、もっと光り輝くためにそうするの」

「なるほど、そういう話を考えてるってことか。いわゆるファンタジックホラーだね」

「うん、そう・・かな」

「でもさ、早めに仕上げて何回か改稿した方がいいよ。最初書いたのをそのまま出すと絶対、先生に叱られるから。見抜かれるんだよね、なぜか」

 先輩ヅラしてそう言いつつ、ふと、窓外に視線を移すと、信号待ちをする白いポルシェが目に入った。

「そうだ。僕もさ、前からちょっと書いてみたかった話があるんだよね」

「なになに?教えて教えて」

 僕はアイス豆乳ラテを一口飲んでからゆっくり語り始めた。

 

 初めてその奇妙な少女に会ったのは、僕が高校の時の夏休みだから、ちょうど今頃だったと思う。時給がいいからという理由だけで、初めてマネキンという販売宣伝員のバイトに登録し、埼玉のK市にあるその店に派遣された僕は、最寄りの駅から歩いて十五分と聞いていたところ、道を間違えたのか、田んぼばかりの道は、グーグルマップも正確性を欠くのか分からないが、店まで結局四十分近くを要した。

 更衣室でエプロン姿に着替え、宣伝する商品、これは今もテレビで宣伝しているスープだったが、店長に指示された場所で、買い物客に試飲してもらい、気に入れば買ってもらうマネキンの仕事を始めた。

 用意した試飲分も大量に残り、もちろんそれに比例して大して売れもせずお昼を迎え、食事をどうしようかと思案しているところに、その少女はやって来た。

「仕事終わったら、裏に来て」

 え?と問い返すと、もう一度言った。

「仕事終ったら、裏に来て」

 僕が返事する間もなく、少女は去って行った。

 十八時過ぎに仕事が終わって、片付けを終え、さあ、帰ろうかとした時にその少女を思い出し、なんとなく気になった僕は、スーパーの裏に回ってみると、薄暗い非常階段の踊り場にいた少女を見つけた。少女は僕を見て踊り場から降りてきた。

「一緒に来て」

「どこに?」

「こっち」

 少女は、非常階段脇の壁に立て掛けてあった自転車を押して歩き始めた。僕はと言えば、少女の有無を言わさない口調のせいか、心のどこかに多少の興味があったためか、自分でもよく分からない感情のまま、少女について行くことにした。

 両側に田んぼが広がる畦道を、十分ほど歩いただろうか。僕は、駅とは反対方向なのがずっと気になっていた。

「どこまでいくの?」

「あそこ、見えるでしょ」

 高台に木々に囲まれた家がぼんやり見える。遠目にも分かるほど相当大きな家のようだ。あそこまで行くのか、どうしようと逡巡した時、少女が短く叫んだ。

「あっ、お兄ちゃんだ。逃げて」

 少女の視点の先、それは今きた道だったが、車のライトが二つ浮かび上がっている。ちょっと待ってと言おうと振り向くと、少女はすでに自転車で去っていく。一人取り残された僕は、なすすべもなく立ちすくんでいると、白い乗用車が目の前に止まった。パワーウインドーが下りる間、心臓が高鳴るのが自分でも分かった。

「今の女の子のお知り合いですか」

 ところが、現れたのはイケメンな若い男性で、しかも丁寧な言葉遣いだったので僕はほっとした。

「いえ、初めてで。今日スーパーのバイトで来たんです。そこで会って、行こうと言われて」

「そうですか。私はあの子の兄ですが、妹に近づかないでいただけますか」

「あ、はい」

 男性は軽くお辞儀をすると、パワーウインドーが上がりきらないうちに、走り去っていった。その特徴的な後ろ姿で、車が白いポルシェだとその時僕は初めて気づいた。一人取り残された僕には、夕暮れ迫る田んぼだらけの畦道と、白いポルシェの取り合わせがあまりにも奇妙で、まるで現実感がなかった。一体、今のは何だったんだろう。僕の頭は混乱したまま、来た道を引き返し家路に着いた。電車の中でも想像しうる限りの想像を働かせたが、もちろん何も結論めいたものは引き出せなかった。

 翌日は、日曜日だったせいか、朝から客が多く、思いのほかマネキンの仕事も順調で、すっかり少女のことを忘れていたが、お昼になるとまたしてもどこからか彼女は現れた。

「仕事終ったら、裏に来て」

「いや、ちょ」

 僕の言葉が終わらないうちに少女は人混みに消えた。

 仕事は二日間の予定だったので、後片付けを終えた僕は、店長に挨拶して外に出たところで、またしても少女が気にかかった。もう会うこともない、今日で最後だしという思いと、やはり心のどこかに真相を知りたいと言う気持ちもあったと思う。足は駅の方角ではなく、スーパーの裏に向いた。

 見上げると、少女はやはり非常階段の踊り場にいて、僕を見つけ手招きをする。階段を上り、踊り場についた僕は、初めて少女を真正面から捉えた。

十四、五歳くらいだろうか。どちらかと言えば色白だが、どこにでもあるような顔。全く特徴を言い表せない。いわゆる美人でもブスでもない。襟の付いた白っぽい半袖のワンピースを身に付けている。よく見ると、所々汗染みのような汚れがあり、何日も洗濯していないかのようだ。靴も元は白だったのかもしれないが、薄汚れて灰色に変色している。

「これ読んで」

 少女は、小さな封筒を差し出した。いわゆる洋形封筒と呼ばれるタイプで、誕生日カードやクリスマスカードを入れる類のものだ。ただ、これも所々が汚れたり、皺が寄っていたりした。さらに、おや?と思ったのは、庭いじりでもしたのか、少女の指が土で汚れ、その爪の間に、赤黒っぽいものがはさまっていたことだった。

 少女の兄の端正な顔立ちが過って、受け取るかどうか少し逡巡したが、逆に断る方が面倒のような気もして、僕がそれを手に取ると、少女はすぐさま非常階段を下り、自転車に乗って昨日歩いた田んぼの方に去って行った。

 家に帰って手紙を開くと、幼児が見よう見まねで何かを書いたような文字が並んでいたが、何が書いてあるのかさっぱり読めなかった。

 そしてその少女とはそれっきりとなった。

 

「ね、面白くない?さっきあそこの交差点に白いポルシェが停まっていたから思い出したんだ。でもどんな話にしたらいいか、まだこれからだけどね」

 僕が少しはにかんだように言うと、みづきの僕を見る視線がいつもよりさらに強いものになっていて、僕はその強烈な光の中に溶け込んでしまいそうなほどだった。

「あの頃はまだ少ししか光をもらってなかったからね。しかも虫とかカエルだし。それに白いポルシェだけど、今はもうないよ」

「え?どういう意味?」

「お兄ちゃんにも光をもらったから」

「・・・」

「あの手紙にはね。あなたの大きな大きな光をください。おうちで待ってますって書いてあったの。でも良かった。もう、ずっと会えないかと思っていたから」

 心から安堵したようにそう言うと、みづきは、氷のほとんど残っていないアイス豆乳ラテのストローをずずっと吸った。その音は、やけに大きく僕の耳に響いた。

 

 

                                          了

                     

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

 

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。

 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。

 年がら年中、履物は雪駄だ。

 本人には黙っているが、寅さんの真似に違いない。それはそれで本人が好きでやっているのだから構わないのだが、せめて二人でデパートなど街に買い物に出かける時くらいはやめて欲しいとも思っている。しかし、それを口にすれば、うるせえと罵声が飛んでくるのが関の山だし、それよりも何よりも、意外にもナイーブな勝男の心が傷つくのを知っているからこそハルコさんは言わないのだ。

 よくまあ飽きもせず毎日、毎日、ドトールだかに行くものだと常々思っているが、長い時だと半日は留守にしてくれるので、その間、羽を伸ばせるハルコさんにとってはそのドトールという喫茶店はありがたい存在でもある。

 その日、勝男を送り出したハルコさんは、一度私も行ってみようかしらと、ふと思い立ち、買い物ついでに駅まで出て、ドトールの自動ドアを開けて中を覗き込んだ。

「いらっしゃいませー」

 声を掛けられて一瞬迷ったハルコさんだったが、意を決してレジに立ってはみたものの、何をどう注文して良いのかわからない。

「いらっしゃいませー」

 他の客が自分の後ろに並んでしまう。

「あ、薄めのコーヒーでお願いします」

アメリカンでよろしいですか」

「はい」

「サイズはいかがしましょうか」

「普通で」

「Mでよろしいですか」

「はい」

 代金を払い、コーヒーを受け取ると、キョロキョロと辺りを伺いながら奥の方に歩いて行く。

 いたいた。あれに間違いない。

 奥に並んだ席の左端に、新聞を大きく広げている客がいる。ハルコさんは、気付かれないように右手前の少し奥まった席に座ると、いきなり、かあああっといつもの声が聞こえてくる。

 やってる、やってる。まったく恥ずかしいったらありゃしない。

コーヒー飲んだら気付かれないうちにさっさと帰らなきゃ。

んん、意外に美味しいじゃない、このコーヒー。

ハルコさんは勝男の様子を伺いながらも、しばらくコーヒーを愉しんでいると、

「こら!電話はやめんか!」

 いきなり勝男の怒声が響き渡った。

 その声に反応した隣のスーツを着た会社員らしき男が、携帯電話を持ったまま慌てて席を立って外に出て行った。

 はあ。相変わらずだわ、あの人。

 ハルコさんはため息をついた。

 

 ハルコさんこと、旧姓、近藤春子とナベさんこと渡辺勝男は社員三十人ほどの印刷会社に勤める同僚だった。小さな会社ゆえに、家族同然のように社員は仲が良く、給料は安くても皆楽しく生き生きと働いていた。

「もうすぐだな」

「ああ、そうだな。お前んとこ何する?」

「そりゃ言えないよ」

「なんだよ、いいじゃないか、教えろよ」

 年に一度の社員旅行が近づくと、あちらこちらでこんな会話がなされる。五つある職場が競い合って出し物をするのが恒例になっているからだ。しかも毎年、優勝した職場には、社長のポケットマネーから高価な賞品が供されるため、仕事そっちのけで皆本気になる。

 春子の職場では、春子が山本リンダに扮し、当時、ヒットした『こまっちゃうな』をお色気たっぷりに踊って歌う寸劇を準備していた。他の男たちは歌う春子に花を差し出すも、順番に振られていくというどうでも良い振り付けで、成否の全ては春子のお色気に掛かっていた。

 春子は上司の発案で決まったこの出し物が嫌で嫌でしょうがなかった。なにしろ、歌いながらストリッパーさながら、一枚ずつ脱いでいき、最後には当時まだ珍しかったビキニ姿になるのだから。

 それでも恥ずかしさを押し隠して笑顔でやり切った春子は、拍手喝采の中を宴会場から部屋へと飛ぶように駆け戻り、濃い化粧を落とし、服に着替え、そうっと何食わぬ顔でまた宴会場へと戻った。

「おお、春子ちゃん、こっち、こっち」

 赤ら顔でご機嫌な様子の社長が、春子を呼んでいる。

 あ、やっぱり見つかった。

 日頃は社員思いで、人の良い男なのだが、酒が過ぎると、目を付けた女性社員を隣に侍らせ、卑猥な下ネタを言い、体を触り、ひどい場合には口説き始めるというワンマン社長にありがちなタイプでもあった。とはいえ、社長の指名では無視するわけにもいかず、春子は社長の隣に座った。

「いやあ、良かったよ。ささ、まあ一杯」

 社長はコップを春子に持たせビールを注ぐ。

「それにしても春子ちゃんは着痩せするタイプなんだねえ。なかなか立派な、なあ」

 社長は両手を胸に持っていき、周りの社員に同意を求めるが、皆、さすがに視線を外したり、曖昧に頷いたりしている。

「しかし、あれ、ビキニっていうの。あれ、いいねえ。まだ下に着けてるの」

「いえ、もう着替えてきました」

「なんだ、もったいない。近くで見たかったな、なあ」

 またも周りに同意を求めると、脇を固める幹部社員たちは、口々にそうですね、私も見たいですなどと調子の良い相槌を打つ。

「なあ、春子ちゃん、もう一度、あのビキニ姿を見せてくれないかなあ」

「いえ、それはちょっと」

「見るだけだからさ。いいだろ」

 嫌がる春子に気づかないのか、それとも自分の言うことは絶対だと思い込んでいるのか、社長はしつこく何度も春子に迫る。それでも春子が困惑の表情を浮かべていると、ニヤけた社長が春子に顔を寄せ耳打ちする。

「嫌ならおっぱい触らせてくれる?ね、ちょっとだけでいいから」

 春子はとうとう観念して、着替えに行こうと席を立とうとしたそのときだった。

「うわっ」

 勝男が後ろに立って、社長の禿げ上がった頭にビールを流しかけている。

 おい、やめんかと、周りの人間に勝男は取り押さえられた。

 

 いい歳して変に正義感ぶっちゃって。ほんと、あの時のまんま。

 しばらくすると、携帯を持って出て行ったサラリーマンの男が戻ってきて、勝男に頭を下げる。

「ま、いいや。気をつけるんだな」

 自分だってうるさいくせに。

「ナベさん、あんまり他のお客さんイジメちゃダメよ」

 テーブルを拭きにやってきた女性店員が、勝男に声をかける。

「お、西島ちゃん、違うよ。俺はちょっと、なあ」

 さっき怒鳴られた隣のサラリーマンが慌てて頷く。

「悪い人じゃないので、許して上げてくださいね」

西島という女性店員はサラリーマンにそう声をかけると、にこやかな笑顔のままレジの方に戻っていく。勝男はその後ろ姿を嬉しそうに見ている。

へえ、私には見せないくせに、今でもあんなニヤけた顔するんだ。

 そういうことか、なるほど。楽しみがあったのね。よしよし。

 勝男に気取られないよう、そっとドトールを後にし、その夜の食卓で満を持してハルコさんは切り出した。

「よくまあ毎日毎日、ドトールとかに行くわね。飽きないの」

「なんだよ、急に。悪いのか」

「悪いなんて言ってないでしょうよ。飽きないのかって聞いただけよ」

「飽きて嫌んなったら行かねえよ」

「ということは、何か楽しみがあるってことね」

「ねえよ、楽しみなんて」

「だって、コーヒー飲むだけなら、うちで十分でしょ。少ない年金工面して行くんだからそれなりに楽しみでもないと、ねえ」

「新聞読みに行ってるだけだよ」

「うちでも読めるじゃない」

「散歩だよ、散歩」

「散歩ねえ」

 ハルコさんの訝るような目つきに勝男は思わず目を逸らしてご飯をかき込む。

「綺麗な女の人がいるとかさ」

「ぐっ」

 勝男がご飯を喉に詰まらせ、ひどく咳き込んだので、笑いを堪えてハルコさんが背中をさする。

「ほらね、図星だからそうなるのよ」

 

 数日後、勝男が突然、古い同僚のツルタさんを連れて帰ってきた。

「あらあ、ツルタさん、お久しぶり。何年?何十年?」

「どうも、ハルコちゃん、あ、もうちゃんじゃないな。でも変わんないねえ」

「まあまあどうぞ上がって」

「おい、酒、酒」

「こんな昼間っから飲むの?」

「うるせえ、外で飲むよりいいだろ。なあツルタ」

「いや、俺は別に外でも」

「いいから、いいから」

「悪いね、ハルコちゃん」

「でも大したものないのよ、前もって聞いてれば良かったんだけどねえ」

「いや、ほんと。気にしないでいいから」

 ハルコさんは、まだ半分ほど残っている日本酒の一升瓶と、コップを二つ、そして、漬物やかまぼこなどあり合わせのつまみをいくつか座卓に用意した。

 若い頃なら五合の酒などあっという間に飲み干しただろうが、二人とも八十の齢を迎えようかという高齢もあって、一合の酒に小一時間もかかっている。つまみにもほとんど手をつけず、やることもないハルコさんは、座卓の端でワイドショーを見ながら、二人の昔話を聞くともなしに聞いている。

「そういえば、おい、キミちゃん、亡くなったってよ」

「ええっ、ほんと?いつ?」

「もう十年になるよ。子宮がんでさ」

「そう。いい子だったのに・・残念ね。じゃそれからツルタさん一人で?」

「うん、息子たちも出てったからね」

「それじゃ色々不自由で大変でしょうよ」

「さすがにもう慣れたよ」

「若い嫁さんでも貰うつもりじゃねえのか、けけ」

 勝男がまぜっ返す。

「やめなさいよ。くだらない冗談ばっかり言って。ねえツルタさん」

 ハルコさんが嗜めると、それを取りなすようにツルタさんが話題を変える。

「だけどナベよ、さっきの話だけどよ、よく定年してから今まで仕事もせず遊んで来れたもんだな」

「ん?まあな。かあああっ」

 えっ?仕事もせず遊んできた?

 思わずハルコさんは勝男を見るが、わざとなのか、たまたまなのか、勝男は顔を背けている。

 

 勝男が五十五歳で会社を定年退職してから、二十五年、二人が結婚してからだと半世紀が経とうとしているが、結婚してから今までずっと生活は楽ではなかった。

 何しろ、勝男は出世とは無縁の安月給のくせに、奢ってやると会社の同僚や後輩たちを連れて飲

み歩き、時には家にまで連れてきてはご馳走する。金がないと聞くと、帰りのタクシー代まで出し

てやる念の入れようだ。本人は、ナベさん、ナベさんと慕われて上機嫌だが、家計を預かるハルコ

さんはたまったもんじゃない。

 勝男の頼みで、ハルコさんは結婚を機に会社を辞めてしまっていたから、収入は勝男の少ない月

給以外になく、最初のうちこそ貯金を取り崩したりしながら、何とかやり繰りしていたが、勝男の

金遣いの荒さは半端なく、巷間いうところの、宵越しの金は持たないというやつで、いくら渡して

も毎晩のように飲み歩いてあっという間に使い果たしてしまう。

 勝男の派手な飲み歩きが始まったのは、結婚十年ほど経ってからだったため、子供が授からない

ことが遠因かもしれないと思っていたハルコさんは、よく調べもせず、自分に原因があると思い込

み、少しでも家計の足しになればと近所のスーパーで働き始めた。

 そんなハルコさんの苦労を知ってか知らずか、勝男はあいも変わらず飲み歩いて散財する生活を

送り、それは結局定年退職まで続いた。

 ところが勝男が会社を辞めてまもなく、ハルコさんの実家を不幸が襲った。

 八十二歳の高齢ながら小さな電気店を営んでいたハルコさんの父親が、悪どい投資話に騙され、

預貯金どころか、家も店も差し押さえられる羽目に陥ったのだ。

「三千万?そんなにあるのか」

「御免なさい」

 ハルコさんは、泣く泣く勝男に親の窮状を話した。

「よし、わかった」

 そう言った勝男は、酒をキッパリ止めると、すぐさま肉体労働の仕事を探し、働き始めた。ハル

コさんの父親の借金を返済し終わったのは、まだ肺がんを患う一昨年のことで、都合丸二十三年か

かった。その間、職を転々としながらも、勝男は一切文句や愚痴を言わず懸命に働いた。

 

「だってさ、ハルコさんだってすぐ会社辞めちまったし、こう言っちゃなんだけど、年金だってそ

う多くないだろ。それに確かナベは結構、金遣い荒かっただろ。まあ、そういう俺も随分奢っても

らった口だけどさ」

 勝男はそれには答えず、相変わらずそっぽを向いて酒をちびちび嘗めている。

「私よ、私。内助の功って言うでしょ」

「あ、そうか。ハルコちゃん、なんか仕事してたのか」

「そういうこと」

「けっ、ナベ、お前はカミさんにだけは恵まれてるなあ」

 ツルタさんは、コップに僅かに残った酒を煽ると、一升瓶を掴んで勝男のコップと自分のコップ

に半分ほど注いだ。

「でもな、ナベ。俺が言うのも何だが、お前はよく頑張ったよ。お前は一切来ないが、今でも会社

の集まりで会うとお前の話で盛り上がるんだ。そうそう、ハルコちゃん、こいつの武勇伝知って

る?」

「武勇伝?私が知ってるのは、あの社内旅行で社長にビールかけたことくらいだけど」

「やっぱり。ナベ、お前言ってないんだな」

「うるせえ、ツルタ、余計なこと言うな」

「ま、いいじゃないか。時効だろ」

「ツルタ、やめろって言ってんだろ」

 酔いが回り始めているツルタさんは、勝男にお構いなしに語り始めた。

「ハルコさん、そうだな、あれは俺たちが三十半ば過ぎたくらいの時だから、ハルコさんが会社辞めてちょうど十年くらいか。あのナベがビールかけたタコ社長がさ、会社を追われたんだよ」

「え?どういうこと?」

 当時は、高度成長期真っ只中で、独自で会社を大きくしたい社長派と、大手印刷会社との対等合

併を密かに進める専務派が対立し、結局、人の良い社長が足元を掬われる形で会社を辞めざるを得

なくなった。

 専務が新たに社長となり、合併を進めようとしていたが、ほとんどの社員は反対していた。なぜ

なら対等合併とは名ばかりで、実際には会社に残れる社員は専務派の僅かしかないと判明したから

だった。

「そこで立ち上がったのがナベだ」

 勝男は新社長の合併を阻止しようと組合を組織すべく奔走した。

「それで?」

「組合はできなかった。なあ、ナベ。あんなにカネ使って頑張ったのにな」

 ツルタさんはしんみりと言い、勝男は顰めっ面をして酒を嘗めている。

「じゃあ会社は?」

「ハルコちゃん、会社の名前変わってないだろ」

「ということは」

「そう。合併もできなかったんだよ。向こうが諦めたんだ。ナベのおかげで」

 ハルコさんが思わず勝男を見る。

「ナベがさ、向こうの会社に乗り込んだんだよ。で、社長に土下座して合併をやめてくれ、やめてくれなきゃここで死ぬって啖呵切ったんだよ。そしたらさ、向こうの社長もさすが大したもんで、分かった、手を引くって。まるでヤクザ映画だよ」

「それ本当なの?」

「もちろん本当だよ、そういう時代だったんだろうね。ただこれを知ってるのはもう何人もこの世に残ってないけど」

「余計なことを言いやがって。かあああっ」

「会社も社員も救われたまではいいが、ナベは結局社長に睨まれてクビにこそならなかっただけ

で、ずっと冷や飯食わされてさ」

 勝男はじっと手元のコップ酒を睨んでいる。

「確かに、あの後働きたくなかった気持ちも俺には分かるよ。あんだけ辛い思いしたんだもんな。なあ、ハルコちゃん、こんなわがままな男だけどさ、許してやってくれよ」

 ハルコさんは、涙が溢れ出て止まらなくなった。

「あれ、ごめん。ハルコちゃん、俺、なんか悪いこと言っちゃったかな」

「そうだ、ツルタ、てめえのせいだ。まあ、いいや、ほら、飲め」

 勝男はツルタのコップに酒をなみなみと注いだ。

                                         了

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

 

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。

 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。

 年がら年中、履物は雪駄だ。

 本人には黙っているが、寅さんの真似に違いない。それはそれで本人が好きでやっているのだから構わないのだが、せめて二人でデパートなど街に買い物に出かける時くらいはやめて欲しいとも思っている。しかし、それを口にすれば、うるせえと罵声が飛んでくるのが関の山だし、それよりも何よりも、意外にもナイーブな勝男の心が傷つくのを知っているからこそハルコさんは言わないのだ。

 よくまあ飽きもせず毎日、毎日、ドトールだかに行くものだと常々思っているが、長い時だと半日は留守にしてくれるので、その間、羽を伸ばせるハルコさんにとってはそのドトールという喫茶店はありがたい存在でもある。

 その日、勝男を送り出したハルコさんは、一度私も行ってみようかしらと、ふと思い立ち、買い物ついでに駅まで出て、ドトールの自動ドアを開けて中を覗き込んだ。

「いらっしゃいませー」

 声を掛けられて一瞬迷ったハルコさんだったが、意を決してレジに立ってはみたものの、何をどう注文して良いのかわからない。

「いらっしゃいませー」

 他の客が自分の後ろに並んでしまう。

「あ、薄めのコーヒーでお願いします」

アメリカンでよろしいですか」

「はい」

「サイズはいかがしましょうか」

「普通で」

「Mでよろしいですか」

「はい」

 代金を払い、コーヒーを受け取ると、キョロキョロと辺りを伺いながら奥の方に歩いて行く。

 いたいた。あれに間違いない。

 奥に並んだ席の左端に、新聞を大きく広げている客がいる。ハルコさんは、気付かれないように右手前の少し奥まった席に座ると、いきなり、かあああっといつもの声が聞こえてくる。

 やってる、やってる。まったく恥ずかしいったらありゃしない。

コーヒー飲んだら気付かれないうちにさっさと帰らなきゃ。

んん、意外に美味しいじゃない、このコーヒー。

ハルコさんは勝男の様子を伺いながらも、しばらくコーヒーを愉しんでいると、

「こら!電話はやめんか!」

 いきなり勝男の怒声が響き渡った。

 その声に反応した隣のスーツを着た会社員らしき男が、携帯電話を持ったまま慌てて席を立って外に出て行った。

 はあ。相変わらずだわ、あの人。

 ハルコさんはため息をついた。

 

 ハルコさんこと、旧姓、近藤春子とナベさんこと渡辺勝男は社員三十人ほどの印刷会社に勤める同僚だった。小さな会社ゆえに、家族同然のように社員は仲が良く、給料は安くても皆楽しく生き生きと働いていた。

「もうすぐだな」

「ああ、そうだな。お前んとこ何する?」

「そりゃ言えないよ」

「なんだよ、いいじゃないか、教えろよ」

 年に一度の社員旅行が近づくと、あちらこちらでこんな会話がなされる。五つある職場が競い合って出し物をするのが恒例になっているからだ。しかも毎年、優勝した職場には、社長のポケットマネーから高価な賞品が供されるため、仕事そっちのけで皆本気になる。

 春子の職場では、春子が山本リンダに扮し、当時、ヒットした『こまっちゃうな』をお色気たっぷりに踊って歌う寸劇を準備していた。他の男たちは歌う春子に花を差し出すも、順番に振られていくというどうでも良い振り付けで、成否の全ては春子のお色気に掛かっていた。

 春子は上司の発案で決まったこの出し物が嫌で嫌でしょうがなかった。なにしろ、歌いながらストリッパーさながら、一枚ずつ脱いでいき、最後には当時まだ珍しかったビキニ姿になるのだから。

 それでも恥ずかしさを押し隠して笑顔でやり切った春子は、拍手喝采の中を宴会場から部屋へと飛ぶように駆け戻り、濃い化粧を落とし、服に着替え、そうっと何食わぬ顔でまた宴会場へと戻った。

「おお、春子ちゃん、こっち、こっち」

 赤ら顔でご機嫌な様子の社長が、春子を呼んでいる。

 あ、やっぱり見つかった。

 日頃は社員思いで、人の良い男なのだが、酒が過ぎると、目を付けた女性社員を隣に侍らせ、卑猥な下ネタを言い、体を触り、ひどい場合には口説き始めるというワンマン社長にありがちなタイプでもあった。とはいえ、社長の指名では無視するわけにもいかず、春子は社長の隣に座った。

「いやあ、良かったよ。ささ、まあ一杯」

 社長はコップを春子に持たせビールを注ぐ。

「それにしても春子ちゃんは着痩せするタイプなんだねえ。なかなか立派な、なあ」

 社長は両手を胸に持っていき、周りの社員に同意を求めるが、皆、さすがに視線を外したり、曖昧に頷いたりしている。

「しかし、あれ、ビキニっていうの。あれ、いいねえ。まだ下に着けてるの」

「いえ、もう着替えてきました」

「なんだ、もったいない。近くで見たかったな、なあ」

 またも周りに同意を求めると、脇を固める幹部社員たちは、口々にそうですね、私も見たいですなどと調子の良い相槌を打つ。

「なあ、春子ちゃん、もう一度、あのビキニ姿を見せてくれないかなあ」

「いえ、それはちょっと」

「見るだけだからさ。いいだろ」

 嫌がる春子に気づかないのか、それとも自分の言うことは絶対だと思い込んでいるのか、社長はしつこく何度も春子に迫る。それでも春子が困惑の表情を浮かべていると、ニヤけた社長が春子に顔を寄せ耳打ちする。

「嫌ならおっぱい触らせてくれる?ね、ちょっとだけでいいから」

 春子はとうとう観念して、着替えに行こうと席を立とうとしたそのときだった。

「うわっ」

 勝男が後ろに立って、社長の禿げ上がった頭にビールを流しかけている。

 おい、やめんかと、周りの人間に勝男は取り押さえられた。

 

 いい歳して変に正義感ぶっちゃって。ほんと、あの時のまんま。

 しばらくすると、携帯を持って出て行ったサラリーマンの男が戻ってきて、勝男に頭を下げる。

「ま、いいや。気をつけるんだな」

 自分だってうるさいくせに。

「ナベさん、あんまり他のお客さんイジメちゃダメよ」

 テーブルを拭きにやってきた女性店員が、勝男に声をかける。

「お、西島ちゃん、違うよ。俺はちょっと、なあ」

 さっき怒鳴られた隣のサラリーマンが慌てて頷く。

「悪い人じゃないので、許して上げてくださいね」

西島という女性店員はサラリーマンにそう声をかけると、にこやかな笑顔のままレジの方に戻っていく。勝男はその後ろ姿を嬉しそうに見ている。

へえ、私には見せないくせに、今でもあんなニヤけた顔するんだ。

 そういうことか、なるほど。楽しみがあったのね。よしよし。

 勝男に気取られないよう、そっとドトールを後にし、その夜の食卓で満を持してハルコさんは切り出した。

「よくまあ毎日毎日、ドトールとかに行くわね。飽きないの」

「なんだよ、急に。悪いのか」

「悪いなんて言ってないでしょうよ。飽きないのかって聞いただけよ」

「飽きて嫌んなったら行かねえよ」

「ということは、何か楽しみがあるってことね」

「ねえよ、楽しみなんて」

「だって、コーヒー飲むだけなら、うちで十分でしょ。少ない年金工面して行くんだからそれなりに楽しみでもないと、ねえ」

「新聞読みに行ってるだけだよ」

「うちでも読めるじゃない」

「散歩だよ、散歩」

「散歩ねえ」

 ハルコさんの訝るような目つきに勝男は思わず目を逸らしてご飯をかき込む。

「綺麗な女の人がいるとかさ」

「ぐっ」

 勝男がご飯を喉に詰まらせ、ひどく咳き込んだので、笑いを堪えてハルコさんが背中をさする。

「ほらね、図星だからそうなるのよ」

 

 数日後、勝男が突然、古い同僚のツルタさんを連れて帰ってきた。

「あらあ、ツルタさん、お久しぶり。何年?何十年?」

「どうも、ハルコちゃん、あ、もうちゃんじゃないな。でも変わんないねえ」

「まあまあどうぞ上がって」

「おい、酒、酒」

「こんな昼間っから飲むの?」

「うるせえ、外で飲むよりいいだろ。なあツルタ」

「いや、俺は別に外でも」

「いいから、いいから」

「悪いね、ハルコちゃん」

「でも大したものないのよ、前もって聞いてれば良かったんだけどねえ」

「いや、ほんと。気にしないでいいから」

 ハルコさんは、まだ半分ほど残っている日本酒の一升瓶と、コップを二つ、そして、漬物やかまぼこなどあり合わせのつまみをいくつか座卓に用意した。

 若い頃なら五合の酒などあっという間に飲み干しただろうが、二人とも八十の齢を迎えようかという高齢もあって、一合の酒に小一時間もかかっている。つまみにもほとんど手をつけず、やることもないハルコさんは、座卓の端でワイドショーを見ながら、二人の昔話を聞くともなしに聞いている。

「そういえば、おい、キミちゃん、亡くなったってよ」

「ええっ、ほんと?いつ?」

「もう十年になるよ。子宮がんでさ」

「そう。いい子だったのに・・残念ね。じゃそれからツルタさん一人で?」

「うん、息子たちも出てったからね」

「それじゃ色々不自由で大変でしょうよ」

「さすがにもう慣れたよ」

「若い嫁さんでも貰うつもりじゃねえのか、けけ」

 勝男がまぜっ返す。

「やめなさいよ。くだらない冗談ばっかり言って。ねえツルタさん」

 ハルコさんが嗜めると、それを取りなすようにツルタさんが話題を変える。

「だけどナベよ、さっきの話だけどよ、よく定年してから今まで仕事もせず遊んで来れたもんだな」

「ん?まあな。かあああっ」

 えっ?仕事もせず遊んできた?

 思わずハルコさんは勝男を見るが、わざとなのか、たまたまなのか、勝男は顔を背けている。

 

 勝男が五十五歳で会社を定年退職してから、二十五年、二人が結婚してからだと半世紀が経とうとしているが、結婚してから今までずっと生活は楽ではなかった。

 何しろ、勝男は出世とは無縁の安月給のくせに、奢ってやると会社の同僚や後輩たちを連れて飲

み歩き、時には家にまで連れてきてはご馳走する。金がないと聞くと、帰りのタクシー代まで出し

てやる念の入れようだ。本人は、ナベさん、ナベさんと慕われて上機嫌だが、家計を預かるハルコ

さんはたまったもんじゃない。

 勝男の頼みで、ハルコさんは結婚を機に会社を辞めてしまっていたから、収入は勝男の少ない月

給以外になく、最初のうちこそ貯金を取り崩したりしながら、何とかやり繰りしていたが、勝男の

金遣いの荒さは半端なく、巷間いうところの、宵越しの金は持たないというやつで、いくら渡して

も毎晩のように飲み歩いてあっという間に使い果たしてしまう。

 勝男の派手な飲み歩きが始まったのは、結婚十年ほど経ってからだったため、子供が授からない

ことが遠因かもしれないと思っていたハルコさんは、よく調べもせず、自分に原因があると思い込

み、少しでも家計の足しになればと近所のスーパーで働き始めた。

 そんなハルコさんの苦労を知ってか知らずか、勝男はあいも変わらず飲み歩いて散財する生活を

送り、それは結局定年退職まで続いた。

 ところが勝男が会社を辞めてまもなく、ハルコさんの実家を不幸が襲った。

 八十二歳の高齢ながら小さな電気店を営んでいたハルコさんの父親が、悪どい投資話に騙され、

預貯金どころか、家も店も差し押さえられる羽目に陥ったのだ。

「三千万?そんなにあるのか」

「御免なさい」

 ハルコさんは、泣く泣く勝男に親の窮状を話した。

「よし、わかった」

 そう言った勝男は、酒をキッパリ止めると、すぐさま肉体労働の仕事を探し、働き始めた。ハル

コさんの父親の借金を返済し終わったのは、まだ肺がんを患う一昨年のことで、都合丸二十三年か

かった。その間、職を転々としながらも、勝男は一切文句や愚痴を言わず懸命に働いた。

 

「だってさ、ハルコさんだってすぐ会社辞めちまったし、こう言っちゃなんだけど、年金だってそ

う多くないだろ。それに確かナベは結構、金遣い荒かっただろ。まあ、そういう俺も随分奢っても

らった口だけどさ」

 勝男はそれには答えず、相変わらずそっぽを向いて酒をちびちび嘗めている。

「私よ、私。内助の功って言うでしょ」

「あ、そうか。ハルコちゃん、なんか仕事してたのか」

「そういうこと」

「けっ、ナベ、お前はカミさんにだけは恵まれてるなあ」

 ツルタさんは、コップに僅かに残った酒を煽ると、一升瓶を掴んで勝男のコップと自分のコップ

に半分ほど注いだ。

「でもな、ナベ。俺が言うのも何だが、お前はよく頑張ったよ。お前は一切来ないが、今でも会社

の集まりで会うとお前の話で盛り上がるんだ。そうそう、ハルコちゃん、こいつの武勇伝知って

る?」

「武勇伝?私が知ってるのは、あの社内旅行で社長にビールかけたことくらいだけど」

「やっぱり。ナベ、お前言ってないんだな」

「うるせえ、ツルタ、余計なこと言うな」

「ま、いいじゃないか。時効だろ」

「ツルタ、やめろって言ってんだろ」

 酔いが回り始めているツルタさんは、勝男にお構いなしに語り始めた。

「ハルコさん、そうだな、あれは俺たちが三十半ば過ぎたくらいの時だから、ハルコさんが会社辞めてちょうど十年くらいか。あのナベがビールかけたタコ社長がさ、会社を追われたんだよ」

「え?どういうこと?」

 当時は、高度成長期真っ只中で、独自で会社を大きくしたい社長派と、大手印刷会社との対等合

併を密かに進める専務派が対立し、結局、人の良い社長が足元を掬われる形で会社を辞めざるを得

なくなった。

 専務が新たに社長となり、合併を進めようとしていたが、ほとんどの社員は反対していた。なぜ

なら対等合併とは名ばかりで、実際には会社に残れる社員は専務派の僅かしかないと判明したから

だった。

「そこで立ち上がったのがナベだ」

 勝男は新社長の合併を阻止しようと組合を組織すべく奔走した。

「それで?」

「組合はできなかった。なあ、ナベ。あんなにカネ使って頑張ったのにな」

 ツルタさんはしんみりと言い、勝男は顰めっ面をして酒を嘗めている。

「じゃあ会社は?」

「ハルコちゃん、会社の名前変わってないだろ」

「ということは」

「そう。合併もできなかったんだよ。向こうが諦めたんだ。ナベのおかげで」

 ハルコさんが思わず勝男を見る。

「ナベがさ、向こうの会社に乗り込んだんだよ。で、社長に土下座して合併をやめてくれ、やめてくれなきゃここで死ぬって啖呵切ったんだよ。そしたらさ、向こうの社長もさすが大したもんで、分かった、手を引くって。まるでヤクザ映画だよ」

「それ本当なの?」

「もちろん本当だよ、そういう時代だったんだろうね。ただこれを知ってるのはもう何人もこの世に残ってないけど」

「余計なことを言いやがって。かあああっ」

「会社も社員も救われたまではいいが、ナベは結局社長に睨まれてクビにこそならなかっただけ

で、ずっと冷や飯食わされてさ」

 勝男はじっと手元のコップ酒を睨んでいる。

「確かに、あの後働きたくなかった気持ちも俺には分かるよ。あんだけ辛い思いしたんだもんな。なあ、ハルコちゃん、こんなわがままな男だけどさ、許してやってくれよ」

 ハルコさんは、涙が溢れ出て止まらなくなった。

「あれ、ごめん。ハルコちゃん、俺、なんか悪いこと言っちゃったかな」

「そうだ、ツルタ、てめえのせいだ。まあ、いいや、ほら、飲め」

 勝男はツルタのコップに酒をなみなみと注いだ。

                                         了