目白蕪木「モノローグ酒場」

人は独りではない。外への旅を綴ります。

井上さんの選択

 

 俺は死んだ。

 死んだと思う。

 いや、間違いなく死んだはずだ。

 だって、医者は俺の左腕の脈を取るのを止めたし、恭子と雅美は涙ながらに大きな声で俺の名前を呼んでいるし。

 俺だって、こんなに急に自分が死ぬなんてまったく思っていなかったさ。血圧が少し高めなのと、心室不整脈とかいうトシ食うと誰でも多少はあるという軽い不整脈くらいのもので、特別どこか悪いところもなかったし、会社と秘書が煩いから、定期的に人間ドッグも受けていたんだから。

 でもまあ、俺の人生そんなに悪い人生でもなかったよな。会社では苦労もしたが、社長にもなれたし、女房や子供にも恵まれた方だろう。仕事ばっかりで、全く家族を省みもしなかったが、あいつら文句も言わず俺について来てくれた。65歳というトシは、少しばかり早いには早いが、ボケたり寝込んだりして周りに迷惑かけるよりはいいだろ。財産だってそれなりにあるから女房が困ることもないしな。あ、純子ちゃん。そうだよ。純子ちゃんがいたよ。いい女だったな。あんなに通ってさ、会社の金とはいえ、相当落としてあげたのにあの子は結局落ちなかったな。もう少しだと思ったんだけどなあ。くそ。思い出さなきゃ良かった。ま、しょうがないか。

 

 

 お?おいおい、恭子。ついさっきまで大声で泣いてたのに。なんだよ。医者がいなくなったら急に静かになったな。

「さ、雅美、行くわよ。お腹すいたでしょ」

「うん、どこ行く?」

「あそこのさ、イタリアンどう?」

「ああ、前言ってた?」

「そうそう」

「いいね、行こう行こう。でもいいの?会社の人たち来るんじゃないの?」

「朝、家出る前に秘書さんから連絡があって会議があるから午後になるって。だから少しくらい大丈夫よ。もう死んじゃってるんだから。ああ、せいせいした」

「ママ、大変だったもんね」

 嘘だろ、おい。

 愕然として目の前が暗くなるとはこのことか。いや、もう暗いか。

 そうか、そんなもんか。いざ死んじまえば冷たいもんだ。確かに、好き勝手やってきたし、仕事ばかりの人生だったけど。もうちょっと悲しんでくれてもいいんじゃないのか。くそ。会社の奴らも奴らだよ。会議だと。ふざけやがって。手の平返すにも程があるだろ。しかし死んでも腹は立つんだな。

 

 漆黒の闇だった俺の目の前になんだか明るいぼやっとした光が見えてくる。

 

 あれ?吉田?吉田じゃないか!

「井上さん、井上さんのおかげで自分の未熟さに気づかされました。本当にありがとうございました」

「えっ、どういうこと?吉田、君は死んでないだろ」

「はい、今の井上さんの世界では生きてます。でも、僕にしてくれたお返しをしたくて」

「なに?なんのことだい」

 

 俺の見ている吉田が、一瞬で切り替わるイリュージョンマジックのように、消え失せたかと思うと、全く違う映像になっている。

 

 あれは俺じゃないか。たしか、まだ部長のときの俺だ。

「では、最下位を発表する。吉田!」

 吉田が、おずおずと前に出てくる。

「また、お前か。前回は頑張ると言ってたな」

 吉田が泣き出しそうな表情ですいませんと小さく呟く。

「なに?聞こえんぞ!謝るならもっと大きな声で皆に謝れ!」

 吉田は俯いたまま肩を震わせている。

「ほら、どうした吉田!謝れ!」

 おいおい、ほんとかよ。俺ってあんなに怒ってたんだ。

 社員のざわめきに交じって囁き声が聞こえてくる。

「あれじゃ吉田が可哀そうだよ」

「だよな。あんなひどい担当させられて数字が上がるわけないよな」

「井上部長は知ってんのかね」

「知るわけないだろ。吉田を嫌ってるあのヒラメ課長の沼田さんが上手く報告してっから」

 そうか、吉田にはそんな事情があったのか。

 

 映像が目まぐるしく移り変わっていく。

 

 ん?これはうちの会社の前だな。

「吉田、元気でな」

「皆さん、大変お世話になりました」

 数人の社員に囲まれた吉田が頭を下げている。

 吉田の目は涙で濡れている。

 そうだ、そういえば、あいつ会社辞めたんだったな。

 

 お、社長じゃないか。

「井上くん、君には最年少役員としてまず余剰社員のリストラをやってもらいたい。来期は相当厳しい見通しだ。会社のために一つ頼むぞ」

「リストラ・・ですか。は、はい。頑張ります」

 そういえば、役員になったはいいが、最初の仕事がリストラだったな。嫌な仕事だったよな、全く。

 

 うわ、西田かよ・・・。

「なあ、頼むよ、井上、いや、お願いします、井上役員。今、会社を辞めてもろくな給料貰えるとこなんかないんだ。うちはまだ子供も小さいし、家のローンも残っている。それは知ってるだろう。な、頼む、頼みます、この通りだ」

「・・・すまんが、お前の期待には沿えん。会社の危機を救うと言う責任ある立場が俺にはある。親友で同期だからといってルールを曲げるわけにはいかないんだ。分かってくれ」

 辛い決断だったな、あの時は。

 

 ええっ、まさか・・あのときの・・・。

 西田が人気のない深夜のホームに佇んでいる。

 電車がすべりこんでくる。西田がふらっと歩き出す。

 おい、西田!やめろ!西田!西田!

 西田がふわっと線路に身を投げ出す。

 わああっ!西田あ!

 

 強く瞑っていた目を開けると笑顔の西田が立っている。

「西田・・・」

「井上、一言お礼が言いたくてさ。来ちゃったよ」

「お礼?」

「うん、おれは自分に負けちゃったんだよ。でもそれに気づいたのはお前のおかげだ。またやり直すよ。嫌な役回りさせて悪かったな」

「西田、本気で言ってんのか。あんな仕打ちをした俺に」

「そうだよ。おれの言ってる意味はそのうち分かるさ」

 西田が消えていく。

 西田!西田!おい、西田!ちょっと待て!まだ話したい事がたくさんあるんだよ、待ってくれ、西田!

 

 ふう、なんだよ一体、勘弁してくれよ。

 今度は銀座か。そうだ、間違いない。純子ちゃんがいる。

「いやあ、よくやってくれたね。社長。それにしても過去最高益とはな」

「期待以上のリストラ効果でした。まあ、あの井上くんが想定以上に頑張ってくれましたんで」

「井上くんか、ふふ、会社の危機を演出してやらせるとはね。君もうまく人を使うようになったもんだ」

「いえいえ、まだまだ会長の足元にも及びません。しかし、会長、彼はなかなか使えますよ」

「そうかね。では君の後任候補の一人にでも考えておくとするか」

 演出?あんなに必死になってやったリストラの理由が危機の演出だと?そういうことか。要するに役員をエサに俺を利用し、ついでに意のままに動くかどうか試したってことか・・・。

 

 結局俺は何も分かっちゃいなかったんだ・・・・・・・・・・・。

 

 映像が消えていく・・・ああ、いよいよ終わりか・・・。

 あれ?また光り出したじゃないか。

 

 

 また俺だよ、どうなってんだ?

「では最下位を発表する。吉田!」

 吉田がおずおずと前に出てくる。

「また、お前か。前回は頑張ると言ってたな」

 吉田が泣き出しそうな表情ですいませんと小さく呟く。

 

 おいおい、またかよ。これさっき見たよ。

 

「吉田。次こそ頑張れよ。期待してるからな」

 吉田が驚いて俺を見つめている。

「どうした。お前なら出来るだろう」

「はいっ!頑張ります!」

 明るい笑顔で手を振りながら席に戻る吉田に皆から大きな拍手が送られる。

 あれ?さっきと違うな。どっちが本当だったっけ。こんがらがって来たぞ。

 

 また表彰式か。

「では栄えあるナンバーワンを発表する。吉田!」

 大きな拍手とともに吉田が堂々と前に出てくる。

「吉田。よくやったな。おめでとう」

「ありがとうございます」

 鳴り止まない拍手のなか、社員の会話が聞こえる。

「すげえな、吉田。あんな担当でよくトップ取ったよな」

「いや、あいつさ。尊敬する井上さんから頑張れってみんなの前で言われたのが効いたらしいよ。それにしてもあの頑張りは半端ないよな」

「だな。井上さんもさすがだよ」

 そういえばそうだった・・かな・・。

 

 今度は社長か。これは社長室だな。

「ああ井上くん、この前のリストラの件だが、プランは決まったかね」

「社長、自分なりによくよく考えてみましたが、我が社は今、リストラをやるべきではないと思います」

「なに?君は何を言っているのか分かっているのか?」

「はい、今、会社は、社内に活気があり業績が上がっている途上にあります。こんな時にリストラをやれば、人事コスト削減によって一時的に利益は上がりますが、中長期的には社員の士気は下がり、決して良い結果にはならないと判断しました」

「判断だと?いつ、君に判断を聞いたかね!私は指示をしたんだ!」

「そうですが、会社の将来を」

「もういい!君のごたくを聞きたいわけじゃない!」

 会社に良かれと思い切って言ったつもりだったんだけどな・・・。

 

 おおっ、ペンギンがいる!旭山動物園じゃないか。

「家族水いらずで旅行なんて何年ぶり?何年どころじゃないわよね、何十年ぶり?」

「そうだなあ。そんなになるか。まだ雅美が小さい頃あれどこだっけ?」

「私はあんまり覚えてないけど」

「箱根よ、箱根。あの時も本当は北海道をドライブしようって言ってたんだけど、結局お父さん仕事入っちゃって、一泊二日で行けるとこにってなったのよ」

「そうだったかなあ。悪いことしたな」

「でも、こうやって雅美と一度来たいねって言ってた旭山動物園に来れたんだから、私嬉しいわ」

「俺も暇になったからな。これからはいつでも行けるよ」

 あれから家族で色々行ったなあ。いい思い出だよ。

 

 また西田だ。今度は何だっけ。

「井上、頼むよ。知ってるだろ、うちはまだ子供が小さいし、家のローンも残っている。これからまだ金がかかるんだ。今、会社を放り出されても50過ぎてるとろくな就職先もないんだよ」

「西田。分かってるよ。俺だって何とか力になってやりたいけど、役員降ろされた俺にはそんな力はもうないんだよ」

「でも、まだ上の方に顔が利くだろ。頼むよ。この通りだ。井上、頼む」

 困った顔してるな、俺。

 

 沼田?そうか、後任の沼田に頼みに行ったんだ。

「沼田さん、いや沼田役員。以前、役員の部下だった西田をリストラ対象から外してやってもらえませんか。あいつは50過ぎた平社員で不器用なために出世こそ逃してますが、ご存知の通り、真面目で一生懸命で、取引先や同僚たちの信頼は非常に篤い男です。それに、結婚が遅くてまだ子供が小さいし家のローンも抱えていると聞いてます。何とかお願いします」

「ああ、西田さんね。よく存じてますよ。たしか井上さんの同期でしたね」

「同期は同期ですが、それだけではありません」

「いや、いいんですよ。誰だって同期の力になってやりたいと思いますからね。じゃ、こうしましょう。西田さんをリストラ対象から外しますので、その代わりに、井上さん、あなたに辞めていただきます」

「えっ、私が」

「いや、実はですね。社長からあなたを辞めさせるように言われてるんですよ。理由はお分かりでしょう。ま、あなたも会社にしがみつくよりいいんじゃありませんか。退職金も割増になりますしね」

「・・・わかりました。私が辞めます・・・」

 うう、くそ。思い出したら腹が立って来た。

 

 ああ、純子ちゃんだ!やっぱり可愛いなあ。

「会社辞める?嘘でしょ」

「ホントだよ。まあ、色々あってさ。こうやって最後に純子ちゃんに会いに来たってわけさ」

「最後って、これからもたまには来てくれるんでしょ」

「いや流石に自分のカネでは来れないよ。これからは細々と生きて行かなくちゃならないし」

「何だ、寂しいじゃない」

「えっ、寂しい?じゃあさ、前から誘ってた、熱海。どう?行かない?やっぱりダメ?」

「・・・いいわよ」

「マジ?俺、本気にしちゃうよ」

「うん、行く」

「そうか。行ってくれるのか・・・」

「何?どうしたの?難しい顔して。嬉しくないの?」

「いや、もちろんめちゃくちゃ嬉しいよ。でもさ、何だかよく考えたら純子ちゃんと行っちゃいけないような気がしてさ」

「何よ、それ、今さら。その気にさせといて」

「・・・ごめん。俺、諦めるよ。純子ちゃん、誘っといてホントごめん」

 何だかあの時は憑き物が落ちたような変な感じだったな。結局あの店にもあれから一回も行かなかったし、今頃、純子ちゃんどうしてるかな。

 

 また会社か?これは役員会議室じゃないか。

「欠品だと!どうなってるんだ、一体!説明したまえ!」

「はい、社長。ええ・・実は、製造本部に大量の離職者が発生しまして・・製造ラインが維持できない状態となりまして・・あの」

「何でだ!何でそんなことになったんだ!」

「はあ・・申し上げにくいのですが・・リストラによる減員で製造現場が疲弊した結果かと・・」

「もういい!至急何とかしたまえ!」

 でもダメだったんだよな。急に何とかならないよ。だから俺が止めろって言ったんだよ。

 

 お、また社長だぞ。今度はなんだ。

「それで、銀行は何と言って来てるんだ」

「はい、現経営陣を刷新して欲しいと」

「ふざけるな!ここまでこの会社を成長させたのは誰だと思ってるんだ!」

「ただ、組合が同調してまして」

「組合?どう言うことだ?」

「はい、組合の吉田委員長が、会社の危機を招いたのは現経営陣による無謀なリストラが原因だと主張してまして」

「何だと。組合ごときが何を抜かす」

「ただ社長、組合だけではなくて、管理職までもがどうも同調しているようでして、銀行もそれを掴んでいるようなんです」

 まあ、あれだけ業績やら株価が落ちたらしょうがないよなあ。

 

 また俺だ。ここは・・社長室か。

「西田、頼みがある」

「何ですか、井上社長。社長には大きな恩義がありますから何でもおっしゃってください」

「他に誰もいないんだから他人行儀はよせ。俺とお前の仲だろう。まあ、いいや。単刀直入に言うぞ。お前には役員になってもらう。それでだ。取引先の信頼を取り戻すために先頭に立ってやってもらいたいんだ。もちろん俺も一緒に頑張る。どうだ」

「・・・分かった。命に替えてでもやってやる」

 まさか組合が辞める寸前だった俺を新社長にしてくれと銀行に要求するとは思っても見なかったな。でもあれからみんなよく働いて会社の業績もよくなったし。まあ、良かったよな。

 

 映像が消えてくぞ。今度こそいよいよ終わりか。

 それにしても、俺の見たのは何だったんだ。どっちが本当のことだったかさっぱり分からんが、どっちも本当のように思えるのは何でだ。まあ死んじまったんだからどっちでもいいか。それはそうと、この後俺はどうなるんだ、一体。

 

 ん?何だ?

 微かに何か聞こえる・・。

 

 この声は・・・。恭子と雅美だ。

 恭子と雅美が俺の名を呼んでいる。

 

 誰だ、俺の左腕を触ってるのは。

 

 俺は目を開けた。

 

 なんだ、ここは。

 ん?こいつは医者か、何をそんなに驚いてるんだ。

 それにしても大勢いるな。

 あれ?西田がいるぞ。吉田もいるじゃないか。

 みんな泣いているのか。

 え?秘書は何で笑っているんだ?

 

 あ、ドアの蔭に純子ちゃんがいる。

 そうか、本当は俺に惚れてたんだな。

 恭子、勘違いするなよ。俺は何もしていないんだから。

 

 

 俺はどうやら生き返ったようだ。

 それにしても死んだと思ったときのあの経験は何だったんだろう。

 最初に死んだと思った時と、生き返った時では全く違う人生を生きているようだ。

 どっちが本当の俺の人生なんだ?

 いや、どっちも本当なのかもな。

 とすると、俺は幸か不幸か、同じ人生の上で違う選択を生きたわけだ。

 たしか、最初に見た人生で吉田や西田がきっと分かるって言ってたのは、俺の選択次第で違う結果になるって意味だったのか、それとも人生は何度もやり直せるから後悔するなよって意味なのか・・・。やっぱりよく分からないな。

 だけど、不思議だな。あいつら、今も生きてるんだから。

 まあ、でもこれからの残りの人生、よくよく考えて生きていかなきゃな。

 下手に浮気でもしたらどんな結末になるか分からんからなあ。

 それとも、何度でもやり直せるなら好き勝手にやるっていうのもありだな。

 ん?待てよ。

 結局のところ俺は好きなように選択して好きなように生きてきてるって話にならないか。

 

                                       

                                      了 

みかん 第一章

 東京に出てきて初めて借りた部屋は、家賃3万円の風呂なし6畳一間だった。

 この春大学を卒業した僕だったが、晴れて就職する予定だった地元の企業がなんと卒業間際で倒産する事態に直面した。早い話が就職浪人となってしまったのだ。さすがに慌てた僕は、地元より東京の方が就職には有利だろうと判断して急遽上京したというわけだ。時間も予算も少ない僕に不動産屋が案内したのは、見るからに古い木造アパートだった。僕は、そのアパートを前に茫然としたが、もう後戻りは出来ないと自分に言い聞かせた。

 築50年を超える木造アパートというのは、いざ住んでみると驚く事ばかりだ。音が響くというレベルじゃない。僕の部屋は2階になるが、横どころか下の部屋、さらには窓を隔てた隣の家の物音までが異常に響き、電話などは話し相手の声まで聞こえそうなほど。これじゃ壁も床もないのと同じじゃないかと愚痴っても始まらない。僕はここに住まなきゃならないんだから。とにかくな大きな物音を立てて隣人に迷惑をかけないようにしなければと、テレビの音量やたまに話す電話の声はもちろん、足音なんかにも気をつけて生活していた。

 その小柄なおじいちゃんは道路からすぐの下の部屋に住んでいた。

 初めて見かけたのは、僕が買い物から帰ったときで、おじいちゃんは傍目にもきれいと言えない白い半袖の下着にこちらも白いいわゆる股引姿で座り込んで自転車の修理をしていた。こんにちはと声を掛けると、こちらを振り向いて人懐こい笑顔でぺこりと小さく頭を下げてくれた。ああ、こんなお年寄りがこういうところに住まざるを得ないのか、厳しい世の中だなとつい思ってしまう。

 ところが、世の中の厳しさは容赦なく僕にも襲い掛かってきた。就職浪人が新卒に比べて、就職に不利だというのは聞き知っていたがこれほどとは思わなかった。全く内定が貰えないのだ。ほとんどは書類選考で落とされ、何社かは1次面接まで進むが、そこまで。何より、腹立たしく情けないのは、面接官が就職浪人の僕を落伍者のような蔑んだ目で見ることだった。それは、僕が生まれて初めて味わう生の社会の厳しさだったのだが、厳しさはそこでは終わらず、さらに違う形でやってきた。

 僕の部屋は、北と南に窓があり通風はすこぶる良く日当たりも良い。4月から住み始めた僕にとって、この2か月弱の季節の良い時期は最高の部屋だった。ところがいざ暑くなってくると真夏をどう乗り切るかという問題にぶち当たる。エアコンが取り付けられないのだ。お金の問題ももちろんあったが、何とか買えても室外機を置くスペースがない。多少の暑さくらいと思っていたが完全に甘かった。真夏の日光は木造アパート全体をバーナーで熱しているかと錯覚させるほど強烈で、昼間の部屋の温度はゆうに体温を超えていてさらにそれが夜通し下がらない。しかも窓を大きく開けられない。僕の部屋のサッシ窓には網戸がなく、窓を開ければ容赦なく蚊が入ってくるのだった。

 その日も、眠ったと思えば寝苦しさで目覚め、疲れでまた眠りを繰り返していた。せっかく銭湯でさっぱりした体に大量の汗がじとっとまとわりついている。あまりに毎日続くそんな夜に加えて、就職がままならない僕のやり場のない怒りは完全に限界点を迎えていた。暑さで朦朧とする頭に浮かぶのは、封書で届く、残念ながらで始まる文字、緊張して面接室を開け、最初に見る面接官のあの目、椅子を立つときに小さく聞こえる溜息。僕が何をしたっていうんだ!内定をもらってたんだぞ!その会社が潰れたんだからどうしようもないじゃないか!

夜中何時か分からない。僕は、がばっとはね起き、

「くっそー!!!」と思わず大声で叫んでしまった。自分でも驚くくらいの声だった。 

 アパートどころか近所に響き渡っただろう。ヤバイ。そう思ったときだった、ふとあの小柄なおじいちゃんの笑顔が浮かんだ。もう70歳はゆうに超えているだろう。いや80歳台かもしれない。あのおじいちゃんもきっと寝苦しい思いをしながらも我慢して寝ていたに違いない。起こしてしまっただろうか、いやきっとそうだ。今度は罪悪感が僕を襲う。

 数日後、僕は近くのドトールにコーヒーを飲みに出かけた。夏は涼みたい客が多いせいか混んでいて、自動ドアを入ってすぐのところに、一時間以内の利用にご協力くださいと書いた立て札がある。僕はこういうのに弱い。小心者なんだろう。30分も経つと時間が気になってしまい、結局40分ほどで店を出る。他に行くあてもない僕は、途中にあるスーパーで水やお茶、缶コーヒーなどを買ってアパートに帰ると、強い日差しの中、おじいちゃんが座り込んでまた自転車を直している。僕は先日の夜を思い出す。思わず「暑いですよね、これ飲みませんか」と冷えた缶コーヒーを差し出すと、おじいちゃんは立ち上がって受け取り深々と頭を下げる。すぐ近くで見ると思っていたより小さく、日に焼けた笑顔には深い皺が刻まれている。僕はなんだか申し訳ないような気恥ずかしいような複雑な気持ちになり、ペコリと頭を下げ、そそくさと部屋に戻る。

 最近は、春の内定辞退者の穴埋めや、海外大学卒業生などを採用するために秋採用の会社も増えていて、僕は10社ほど応募したが、そこでもまた、面接で嫌な思いをした挙句、内定を得ることができずにいた。僕には何か足りないものがあるのだろうか。焦る気持ちだけが募っていくがどうしようもない。

 暑さもだいぶ和らいだ10月初旬のある日の夜だった。アルバイトを終えて帰ろうとすると、

「すぐ帰るんすか?良かったらメシでも行かないすか?みんなで行こうって言ってるんすけど」

 2歳下で大学生の伊藤君だ。みんなというのは、同じシフトで働いている男2人、女2人の計4人のことだろう。疲れていたが、せっかく誘ってくれたんだからと付き合うことにし、僕たちは、近くの安い居酒屋チェーン店の小上がりになっている座敷に落ち着いた。伊藤君は場慣れしているのか適当に注文し場を盛り上げようと一生懸命だ。僕はあまり酒が得意ではない。生ビールをちびちび飲んでいると、結構な勢いで飲んでいた伊藤君が急に大きな声で

「就職決まりました?」と言う。

「えっ」と僕が驚くと

「まあまあ、パイセン、いいじゃないすか。それでどうなんすか?教えてくださいよお」と伊藤君は急に砕けた調子になる。バイト仲間の女の子が

「就職?今頃?なんで?」と言う。

僕は思わず卑屈な笑いを浮かべてしまう。

「パイセーン。おれだっていつ就職浪人になるか分かんないすから色々教えてくださいよお」

「ええっ!就職浪人?いるんだ、いまどきそんなひと」

 先ほどの女の子がもう一人の女の子と目を見合わせる。むくむくと湧き上がる、恥ずかしさと屈辱感と怒りが混じった感情を無理やり抑え込む。

「パイセン、おれがなんで知ってるか知りたいっしょ」

 僕が答える前に、二人の女の子が乾杯の音頭のように声を合わせる。

「知りたーい」

「店長すよ、てんちょお。あいつ嫌なやろうでしょ。パイセンのことを裏で色々言ってんすよ。田舎もんだとか、使えねえから就職も無理だなとか言ってんすよ」

「もういいよ。分かったよ。伊藤君、楽しく飲もうぜ」

 僕は内心ショックを受けていたが、年上らしく余裕を見せると、伊藤君はそれでもしつこく顔を近づけ

「言わせといていいんすか、パイセン」

 息が酒臭い。女の子たちは何が可笑しいのかケラケラ笑っている。

「そんなんじゃ就職できないっすよ、パイセーン。ケケケ」

 何かが僕の中でプチっと破裂し、右手の拳で伊藤君の顔面を殴りつけ、倒れた背中を蹴り付け、仁王立ちになって、

「いい加減にしろ!この野郎、文句があるならかかってこい!」・・・。

 という空想は、僕の頭の中だけで終わった。結局、いい人なんだよな、僕は。

 何事もなく居酒屋を出てアパートに帰ると、部屋の扉の前に小さめのレジ袋が置いてある。中を確かめると、缶コーヒーが一本入っていた。僕は、ああ、おじいちゃんだなと察した。むしゃくしゃした気持ちがまだ残っていたが、部屋で飲み始めると、なんだかほっとして少しだけ温かい気持ちになれた。

 季節は秋から冬になり、僕は最後の望みをかけて1月から始まる中途採用への応募を始めていた。夏の暑さを乗り切り、楽園のような秋の涼しい日々があっという間に過ぎ去ると、極寒の冬が待っていた。コタツしかない僕の部屋は、気温が一桁台になると恐ろしく冷え込む。外にいるのと変わらないんじゃないかと思えるほどだ。板一枚のような薄い壁にはもちろん断熱材など入っているはずもないし、窓もサッシで隙間風こそないが、外気温を素通ししているのだろう。特にしんしんと底冷えがする夜がやはり辛い。くるまった布団のなかで、ふとおじいちゃんを思い出す。最近会ってないが、大丈夫だろうか。寒くないだろうか。

 数日後、実家からリンゴが送られてきた。とても一人では食べ切れないので、5つほどをバイト先に持って行き、あと5つをアパートの住人に配ろうと考えた。バイト先では嫌われている店長と大して親しくもないバイト仲間に渡し、6部屋しかないアパートの住人は、2部屋は直接渡し、2部屋は不在だったのでレジ袋にメモ書きとリンゴを入れて部屋の前に置いておいた。あと一個はおじいちゃんだ。部屋をノックすると、しばらくして、ガラっと戸が開く。

「あ、こんにちは。突然すみません。これ、実家から送ってきたんです。自分一人では食べ切れないんで良かったら食べてもらえませんか」

 おじいちゃんが僕を見て皺くちゃの笑顔を浮かべると、開いた口には歯が数本しかないのが見える。おじいちゃんはリンゴを受け取り、何度も頭を下げる。

「あの、大丈夫ですか。寒くないですか」

 思わず口をついて出た言葉に、おじいちゃんは笑顔のまま、うんうんと言うように首を振って答える。

 1月中に書類選考を突破した3社の中途採用面接をすべて終えた僕は、内定可否の通知を待っていた。そのうち1社は何となく手応えを感じ、もう1社はもしかしたらと思い、あと1社は無理を承知で受けた人気の大企業で競争倍率が半端なく、まず無理だと踏んでいた。

 翌日、コタツに入って寝転び、スマホでマンガを読んでいると、もしかしたらと思っていた企業から面接結果の通知が届いた。結果は否だった。やっぱりかと思いながらもショックだった。実質残されたのはあと1社のみだ。嫌な予感が走るのを無理やり振り払い、僕は部屋を出てドトールに行くが、コーヒーを飲みながらも、もしかすると僕みたいなタイプはどこも無理なのか、もし就職できなかったらどうしよう、一生アルバイトかなどと否定的な考えがとめどもなく脳裏を過る。結局、30分も経たずドトールを後にした僕は、寒い中とぼとぼ歩いてアパートに帰ると、部屋の前にレジ袋があり、中にはみかんが2つ入っている。

「ああ、またあのおじいちゃんだな」

 部屋でコタツに入ってみかんを食べていると、母方の祖母を思い出した。母の実家は、祖父が早くに亡くなったため困窮を極めていたが、そんななかでもまだ幼い僕が喜ぶからといって祖母が少ないお金を工面して、仕事の帰りによくみかんを買って帰ってきたらしい。その話を僕が小さい時からよく母から聞かされていたためか、僕はずっと祖母に守られているような感覚を抱いていた。

 あれは、たしか高校2年生の夏休みだった。僕は、受験勉強のための過酷な学習計画を立てて夏休みに突入したのだが、毎日ぶっ続けで12時間以上勉強していた僕は、1週間も経つと知恵熱のような症状になってしまって勉強どころではなくなってしまった。微熱があって頭が痛む。その日も、誰もいない実家の和室で午後、横になって寝ていると、家の外から子供たちの遊ぶはしゃいだ声が聞こえてくる。そんなことを思っていた時だった。いきなり体の自由が奪われ動くことができなくなった。いわゆる金縛りというのか。どうにもならない。すると枕元の襖が音もなくすっと開いた。ただ開いたと感じたのであって目を瞑っているので見たわけではないのだが。心臓がドクンと波打つ僕。開いた襖から誰かが入ってきて、僕のすぐ右横を通り、右手にあった押入れに消えた。僕の直観が、おばあちゃんだ、と告げていた。そのためか恐怖は全くなかった。

そんなことを思っていると、最も手応えを感じていた期待の会社からの合否通知が届いた。おばあちゃんに守られているとは感じていたが、神様のようにおばあちゃんに何か願い事をしたりしたことは一度もない。ただこのときばかりは、タイミングもあり、おばあちゃん、お願い、と念じながら開く。閉じていた目をそうっと目を開ける。否の文字。僕を言いようのない無力感が襲う。

「もうどうでもいいや。くそ。なんだこれ」

 翌日の夜、アルバイトから帰ると、おじいちゃんの部屋の明かりが消えている。まだ9時前だ。おかしいなと思い部屋に戻る。

 次の日はバイトも休みで予定のない僕は、ドトールに行こうと10時過ぎに部屋を出る。ふとおじいちゃんのことが気に掛かり、みかんのお礼でも言おうかと部屋をノックするがいつまで経っても出ない。いないのかと窓を見るとカーテンがない、中を覗くと家具も何もない。そういえばいつも修理している自転車も消えている。引っ越したのか。それとも何かあったのだろうか。まさか。おじいちゃんの皺くちゃだらけの笑顔と孤独死という文字が浮かんでくる。

僕は、急いで部屋に戻り、アパートを紹介してくれた不動産屋に電話すると、個人情報もありお答えできませんと言われてしまう。そう言えば大家さんの連絡先があったはずと契約関係の書類を引っ張り出し、電話をかける。僕は部屋番号と名前を名乗り、事情を話し、おじいちゃんの消息を尋ねた。

「ああ、あの人は昨日引っ越しましたよ。なんでも息子さんと同居されるとかで」

 僕はお礼を言って電話を切った。なんだかほっとして、おじいちゃん、良かったね、本当に良かったねと心で呟いていた。

 ああ、良かったあとコタツでごろんと横になったのもつかの間、僕は、地元に帰って何をしようかと考え始めていた。親はごく普通の会社員だし、起業して成功するタイプでもないし、何か特別な技術や資格や得意なことがある訳でもない。でもそんな人間はこの世にたくさんいるだろう。なんで僕だけがこんな目に合うんだろう。何か悪いことでもしたか。誰かの恨みを買うようなことをしたか。いや、やっぱりどこか僕に足りない何かがあるのだろうか、などと考えるうちだんだん腹が立ってきた。

「くそう、頭に来た。今晩は焼け食いしてやる」

 ドトールへ行く手前に気になる焼き肉店があった。就職が決まったらそこに行って思いっきり好きなだけ食べようとずっと思っていたのだ。そのための貯金もしていたくらいだ。

 よし、焼き肉行くぞと部屋を出ようとしたとき、その驚くべき知らせは届いた。それは、絶対に無理だろうと思っていたあの有名人気企業からの採用通知だった。何度も見直すが間違いない。宛名も僕あてだ。僕は何が起こったのかしばらくの間理解できず、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。宝くじの一等で何億円とかが当たったときにはこんな感じになるのだろうか。僕は思わず、

「おばあちゃん、ありがとう。おじいちゃん、ありがとう」と自分でも意味不明の感謝の言葉を呟いていた。

 3月中旬、僕はアパートを引き払い部屋を後にした。これから新しく住み始める1DKのマンションに引っ越すためだった。部屋を出て、ぎしぎし音のする階段を降り、今はもういないおじいちゃんの部屋の前で立ち止まる。もう新しい人が住んでいる。あの自転車は今頃どうなっただろう。息子さんに新しいのを買ってもらっただろうか。それとも今も修理しながら乗っているのだろうか。

道路に出ると、若い男の人と不動産屋らしき女性がアパートの僕の部屋あたりを見ながら何か話している。あの部屋に住むのだろうか。若い男の人は不安そうな表情をしている。1年前は僕も同じような表情をしていたのかもしれない。

「大丈夫、僕もそうだった、でもきっと何とかなるよ」

僕は心の中で呟き、アパートを後にして、ドトールの前を過ぎ、歩いて10分ほどの地下鉄の駅に向かった。

                                      了

 

モノローグ酒場へようこそ

不思議な酒場がある

 

様々な年代、様々な職業の人々が集い、好き好きに語り出すのだ

 

もちろん聞いているだけの人もいる

 

私がこの酒場に通い始めて40年近くになる

 

色んな話をこの耳で聞いてきた

 

笑える話もあれば泣ける話、感動する話もあれば怒れる話もある

 

人生ひとそれぞれとはよく言ったものだ

 

同じ話でもこっちから見るのとそっちやあっちから見るのとでは全く違う話に見えてくる

 

だからこそ面白い

 

話す人も聞いている人も満足して家路につく

 

ふと私が聞いた話を短くまとめて皆さんにも聞いてもらいたいと思いついた

 

10分もあれば聞いてもらえる話ばかり

 

ようこそ

 

ノローグ酒場へ

 

竜造の家出

 5月のある日、もうすぐ55歳を迎える升田竜造は妻の泰子の一言にブチ切れた。

「何度言ったら分かるんだ!俺は辞めるんだ!」

 竜造は、茶碗と端を食卓のテーブルに叩きつけ、席を立ち大きな足音を立ててダイニングルームを出ていってしまった。

 竜造は長年勤めた会社を早期退職しようとしていた。自分勝手だと怒る泰子の言い分も最もだったがもう後には引けないのだった。

 竜造は高卒で中小企業である今の会社に入り、異例ともいえる課長にまで昇進していた。竜造には人を惹きつける人間的な魅力があったし、努力も人一倍する男だった。社内では竜造の昇進を妬むどころか、本人とは関係ない社員でさえ親しみを込めて竜さんと呼ぶほどだった。

 ところが一年前、先代社長が亡くなると、経営陣は39歳の銀行マンであった一人娘の夫を次の社長に迎え入れた。

 着任した若社長は早速、銀行マンらしく利益追求を声高に叫び早期退職によって余剰人員を削減すると言い出した。

 これに猛反発した竜造は社長室に乗り込む。

「社長、私はこ苦楽を共にしてきた仲間と35年働いて来ました。その仲間を社長は希望退職で辞めさせようとしています。しかも社員が頑張って過去にない順調なときにです。これには納得できません」

 竜造の耳には、若社長のちっという舌打ちが確かに聞こえた。

「升田さん、会社は利益が全てなんですよ。それに早期退職は会社の状況が良いからこそやるんです」

「社長、私には経営の難しいことは分かりません。ただ、ずっと頑張ってきた仲間が退職すれば会社の業績に必ず影響が出ます。みんなやる気を無くします」

 若社長は冷たく言い放つ。

「そうならないようにするのが升田さんたち管理職の仕事ではありませんか」

 若社長を睨みつけ竜造が言葉を絞り出す。

「うちには9人の部下がいます。皆必死になって頑張ってくれているやつらばかりです。このうち二人を辞めさせろと言われています。私にはそんなことは出来ません」

「それなら、升田さんが代わりにお辞めになったらいかがですか。あなたなら部下二人分くらいに相当するでしょう」

 ほら来たとばかり若社長が言い放ちぷいと横を向くと、竜造の顔色はみるみる間に真っ赤になる。

「分かりました。私が辞めます。その代わり部下の二人は辞めさせません。いいですね」

 若社長は、竜造の方に向き直り

「いいでしょう。では忙しいので話はこれで」と言ってまた横を向く。

 結局、その日のうちに竜造は早期退職希望の用紙を提出したのだった。

 

 竜造の出社最終日の夕方、竜造は多くの社員の前で花束を受け取り、肩に竜造万歳と書かれた黄色のレイを掛けられた。会社の正門を出るところでは守衛から日本酒を受け取り、多くの社員や食堂の給仕、掃除婦までが竜造を見送りに来た。皆、竜造が辞める理由を薄々知っていたのだ。泣いている者も多かった。

 正門を出て駅方向に歩き始める竜造の背中に、竜さーんという声がいくつもかかり、さすがの竜造の目にも涙が浮かぶ。

 家に戻ると、最終日とあって食卓には豪勢な食事が並ぶ。最初は機嫌の良かった竜造だがまたもや泰子の一言が竜造の逆鱗に触れてしまう。

「いつから再就職するの?」

 竜造は、無言で箸を置き、ダイニングテーブルを立って部屋を出ていく。

 翌朝、泰子が手紙を見つける。竜造からだった。

「しばらく家を出る。心配はいらない。数日したら帰る。竜造」

 

 竜造は、札幌に来ていた。

 ジンギスカンで腹ごしらえした竜造が、ススキノをぶらぶらしていると細い路地の先に佳代というスナックを見つける。

「いらっしゃい」

 まだ時間が早いせいか客は誰もいない。ママは40前後のなかなか色っぽい女性である。

「どちらから?」

「ああ、東京」

「一人で?」

「うん」

「あら、何か訳アリって感じ?」

「いや、そんなんじゃないよ。会社を辞めたから骨休めにぶらっとね」

「へえ、じゃお祝い?それとも」

「お祝いだよ。だからママも飲んでよ。おれは竜造ってんだ」

「じゃあ竜ちゃんね。私は佳代」

 水割りで乾杯し気が合った二人は大いに盛り上がっていく。

「しかし、この店ヒマだねえ。ヒック。全然客が来ないじゃないか」

「最近不景気だからよ。まあ、いいじゃないの。飲みましょ」

 翌日、竜造が目覚めたのはすでに昼近くだった。

 枕元から呼び出し音が聞こえる。多少の吐き気とガンガンする頭で何とか受話器を取る。

「お客様、延長でよろしかったでしょうか」

「えんちょお?」

 竜造は、がばっと起き上がり、周囲を見渡すとどう見てもラブホテルのようだった。

「す、すぐ出ます」

 飛び起きてズボンやシャツを急いで着る。ところが、ボストンバッグがどこを探しても見当たらない。バッグには着替えとカード類が入っている。焦って部屋中を捜しまわるが見つからない。ベッドの上の足元にくしゃくしゃになったジャケットには財布とスマホが残されていた。

 混乱した頭のままホテルを後にし、近くの交番に行き紛失届を出す。

 昨晩の記憶がほとんどない。交番を出て財布を確認すると12,000円あるが、これではどうしようもない。しばらく考えた竜造はスマホで自宅にかける。

「もしもし、泰子か、おれだ」

「お父さん?ちょっと!何してんのよ!」

 二日酔いで痛む頭に泰子の大きな声が響く。

「いいから聞け」

「何言ってんのよ!勝手に飛び出して!もういいかげん」

 そこで竜造はスマホを切り電源まで落としてしまう。札幌に知り合いはいない。頭を両手でくしゃくしゃと掻きむしる。

 その後、安いビジネスホテルを探し2泊を過ごした竜造だったが、いよいよ持ち金が尽きてくる。 竜造は行くあてもなく地下街の隅に座って夜を過ごそうと考えるが、夜半になると警備員が来て追い出されてしまう。寒い街をとぼとぼと歩き出した竜造は、鍵の掛かっていない雑居ビルを見つけ2階の階段の踊り場に座り込む。

 翌朝、目覚めた竜造は、街を歩き始める。ふと見ると古びてはいるがまだまだ使えそうな毛布が一組、ビニールひもに括られてアパートの前に置いてあり竜造が近づいて触ろうとすると

「おい!おっさん」

 驚いた竜造が振り向く。

「おっさん、ここはおれの縄張りだ!」

「縄張り?」

「そうだよ、消えな!」

 竜造は逆らう気力もなくその場を立ち去り、それから丸二日間を同じように過ごす。

 翌々日の朝、さすがに精も根も尽き果てた竜造が疲れと空腹で道端に座り込んでしまう。

「おっさん、おい、おっさん!」

 この前の男だった。男は竜造を起こし肩を貸して歩き出す。

 二人は札幌駅のバスターミナル地下道通路にある階段の踊り場に着く。

「あれ、ヒデさん、どうした、その人」

「ああ、ゴンさん、この人やばそうなんで連れてきちゃった」

「へえ、珍しいね。まあいいや。ヒデさんが連れてきたんなら面倒見るしかないな。なあ、マサさん」

「そうですね。じゃあこっちに座らせたら」

 マサという50がらみの男が、段ボールを手際よく敷きヒデと呼ばれる男が竜造をそこに座らせる。

「ほい、これ」

 70前後と思われるゴンが、一切れのサンドイッチと水の入ったペットボトルを竜造に差し出すと、竜造はむさぼるように食べ水を飲む。

「ありがとうございました」

 絞り出すように竜造が言う。

「まあ、事情は後だ。今日は体を休めな」とゴンが言う。

 翌朝。竜造が起き上がると

「あんた、名前は?」とゴン。

「竜造と言います」

「そうか、じゃこれから竜さんだ。竜さん、よく聞くんだぞ。おれたちはホームレスだが、物乞いをしたり食いもん拾って生活してるわけじゃない。ゴミになるような不用品を回収して売るんだ。中にはカネになるもんがある。つまり仕事をしてるわけだ。いいか。分かったら竜さん、あんたの縄張りはここだ。今日からしっかりやってくれ。なんか見つけたらおれんとこへ持ってくるんだ」

 ボロボロになった市街図に、鉛筆で丸をつけた場所を示してゴンは言った。

 竜造はゴンに指定された自分の縄張りをうろうろ見て回るが、金になりそうなものなど見つからない。

 そろそろ薄暗くなりかけた頃、道端のブルーネットで覆われたゴミ捨て場の中に一つの段ボール箱が目に入る。何となく気になった竜造は、周囲を気にしつつ中身を確認すると20枚ほどのDVDと古いゲーム機が入っている。もしかしたら多少の金になるかもしれないと思い、竜造は段ボールを抱えてゴンの元に戻った。

 「おおっ竜さん、こりゃビギナーズラックだな。ええっと、ほいよ」

 竜造が持ってきた段ボール箱を確認したゴンはそう言って腹巻の中からがま口を取り出し100円玉10個を竜造に渡す。

「こんなになるのかい」と目を瞠る竜造。

「幸運は分け与え合わないと」

 そう言って竜造はゴンたち三人に200円ずつを渡し、メシだメシと言いながら地下街に入って行く。その後ろ姿を見てゴンが

「ヒデさん、なんで竜さんを連れてくる気になったんだい」と聞く。

「死んだ兄貴に似てたんです」とヒデがぼそっと言う。

 

 それから2週間ほど経った頃、竜造は、閉店するスナックの裏でビールケースの中からほぼ手付かずのウイスキーボトル2本を持って戻ってきた。

 その夜4人は車座になって飲み始める。酔いが回った竜造が

「そういえば、みんな元は何してたんだい」と言い出す。

「竜さん、それはご法度だよ」とマサ。

「まあ、マサさん、いいじゃないか。こうやっていい酒飲めるのも竜さんのおかげだ。大した話でもあるまい」と、ゴンが言い、自分の過去を語ると、マサやヒデもそれに続く。ゴンは建設業、マサはタクシー運転手、ヒデは床屋だった。

 それを聞いた竜造は会社を辞め家を出た経緯などを話す。

「そっか。それにしてもあれだな。竜さんの気持ちも分からんでもないが、男が意地を張った以上、奥さんの小言くらい黙って耐えんとな」

「なんだよ、ゴンさん」と竜造は気色ばむ。

「自分を犠牲にして部下を守ったのにって思ってんだろ。本音はまだ会社を辞めたくなかったんだろ。それを分かってくれない奥さんに八つ当たりしてるんだろ。んで、そんな自分に本当は一番腹立ててるんだろ。違うかい」

図星だった。黙り込む竜造。

「竜さん、すまん。飲み過ぎた。そろそろお開きにしよう」

 ゴンはそう言って紙コップなどを片付け始めた。

 その夜、竜造はゴンの言葉をずっと噛み締めていた。

 翌日、竜造は泰子に電話をかけ心配かけてすまんと言うと、竜造が会社を辞めた理由を会社の人間に聞いて知ったと泣き出してしまう。しばらく経って落ち着きを取り戻した泰子に事情を簡単に話すと、明日午前中の便で迎えに行くと言う。

 夕方、ゴンたちの元に戻った竜造が明日帰ることになったと打ち明けると、

「そうか、そりゃ良かった」と喜ぶゴンとマサ。

 ヒデは無言で目に涙を浮かべている。

 

「みんな、こんななりで帰らせるわけにはいかないだろ。明日朝一番で俺はスーツ、マサさんは靴だ、ヒデさんは見た目を頼む」

 翌朝、浮浪者同然だった竜造の見た目がそれなりになった。

「ところで竜さん、空港までの電車賃はあるのかい」とゴン。

 竜造が首を振る。すると3人が有り金を出しゴンはそれを竜造に渡す。

「これで何とか行けるだろ。竜さん、達者でな」

 竜造は涙で言葉にならない。

 

 飛び立った機内で竜造はこの二週間ほどの出来事を思い出していた。隣に座った泰子が、ふと足下を見ると竜造の履いている黒い革靴が左右で違っていることに気付き首を傾げる。

 二週間ほど経ったある日、大きな宅急便が竜造に届く。

 中には盗られたと思っていたボストンバッグと手紙が入っていた。

「竜さん、お元気かしら。あの夜はホテルに置き去りにしてごめんなさいね。でもあんまり竜さんが酔っててどうしようもなかったものだから。竜さんが取りに来ると言ってらしたので、ずっとお店でバッグを預かってたんだけど。さすがに1ヶ月も経つし申し訳ないと思いながら開けさせてもらいました。カードとか困ったでしょう。免許証に住所があったので、そちらに送らせてもらいました。でも、あの夜は本当に楽しかったわ。また来てね。佳代」

 竜造の記憶が一気に蘇った。

「何?それ?」

 泰子が覗きに来る。

 慌てて手紙を隠す竜造だった。

 

                                                                          了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪の正受庵

 それはずっとそこにあったはずだ。にもかかわらず僕は見失った。それとも何者かが持ち去ったのだろうか。僕は、自分から失われたそれをもう一度取り戻すために旅に出ようと決めた。

 

 12月中旬の火曜日、僕が乗車する北陸新幹線はくたかは10時32分に東京を発った。

 長野県の飯山市にある正受庵が本来の目的地だったが、どうせなら少し足を伸ばして、富山に住む古い友人にも会ってみようかと思い立った。20年ぶりに連絡を入れると、彼は僕の電話に驚きはしたものの喜んでくれた様子だった。仕事が終わり次第僕の泊まるホテルに駆け付けてくれるらしい。少し遅くなりますがと言われ、僕はもちろん大丈夫、風呂でも入ってのんびりしてるからと答えた。

 

 北上する車窓から僕はぼうっと冬景色を眺める。

冬雲の隙間から時折顔を覗かせる太陽の光は、夏の太陽のそれとは異なり、レーザービームのような強い単焦点の光のようだ。その眩しい光には、未来とか希望といった前向きな感情が含まれているように感じる僕は車窓のシェードを思わず引き下ろす。

 上田駅に着く頃には、山々にごく薄く均一に白粉を撒いたようになっている。すでに太陽の光はどこにもない。列車は千曲川の清流に沿って進んでいく。

 長野駅を過ぎると一面の雪景色になってくるが、なぜか豪雪地帯と言われる飯山ではまったく雪がない。空も山も町も、車窓から見えるすべてが濃いネズミ色に染まっている。これが明日訪れる飯山の町か、こじんまりしていて山が近いなと僕は思う。

 正受さん、明日必ず伺います。

 新潟県糸魚川駅に12時過ぎに着いた僕は、乗り換え時間があるので、駅近くの定食屋で軽いお昼をとる。糸魚川からは、えちごトキめき鉄道というブルーの一両列車で泊まで行く。乗客は数人。右手の車窓には、冬の寒々しい日本海が続く。泊からは、あいの風とやま鉄道に乗り換えて魚津を目指す。

魚津駅には15時前に着いた。小雪が降りしきる中を歩いて、そのままどこに立ち寄ることもなく宿に入る。古いビジネスホテルのようなところだ。

何もする気が起きない。暖房を最大にしているが、部屋がなかなか温まらない。風呂にでも入ろうとバスタブに湯を張り、熱い湯に体を沈めると、冷え切って固くなった体が弛緩するのを感じる。

僕は彼に会って何を話そうというのか。

彼と知り合ったのは30年も前だが、この20年ほどは、年賀状の交換こそすれ、電話さえしたことがない。彼はたしか僕の2つか3つ下だから、57,8歳か。お互い、いい年になったものだ、当時、夫婦同士で会っていた頃は、たしかしっかりした感じの奥さんと可愛らしい息子さんがいたな。

彼が部屋のドアをノックしたのは20時を少し回っていた。

久しぶりに見る彼は、元々白髪交じりだった髪が真っ白にはなっていたが、他に大きな変化はなかった。挨拶もそこそこに、僕たちは宿から歩いてほど近い和食屋に落ち着く。

「ホントに久しぶり」と僕。

「本当ですねえ」と彼。

 ビールで再会を祝した後、互いの近況について話す。

僕の方は、今年3月に会社を定年退職し、暇を持て余していたが、色々あって今は再就職も含めてこれからどうするか考えているのだと言うと、自営業を営んでいる彼の方は、仕事は相変わらずで良くも悪くもなく、変わったといえば、2年前に住居を黒部に移したくらいですかねと言う。ただ奥さんとは離婚こそしていないものの、この10年ほど会っていないらしい。すれ違いですと照れたように言う。

「そうか、お互い色々あるなあ」と2杯目のビールを半分ほど飲んで僕が言うと。

「そうですね」と言った後に、彼が言葉を飲み込んだのが分かった。僕は、それにあえて触れず、話題を変えた。

「休みの日なんかは何してるんだい」

「まあ、大したことはなにも。洗濯や買い物もありますし・・。あと、恥ずかしい話ですが、ときたまパチンコ屋にも行ってます」

「パチンコ?へえ、前からやってたっけ」

「いえ、でも元々ギャンブルは結構好きなんです。たまに競馬もやりますし」

「そりゃ知らなかったな。おれは全くやらないからその気持ちはなかなか分からないけど」

「ヒマつぶしってわけでもないんです。大してお金は賭けないんですが、どうやって勝とうとか推理したり考えたりするのが好きなんです。だから今年もトータル10万以内で遊んでます」

「なるほど。そりゃ賢い遊び方だね」

 そう言ってはみたものの、休日に一人寂しくパチンコを打ち、馬券を買いに行く還暦前の彼の姿が浮かび、それ以上言葉を継ぐことが出来なかった。

 その後も熱燗を酌み交わし、昔話や他愛のない話をした後、明日も仕事があるだろうから、そろそろお開きにしようかと僕が言うと、

「明日はどうされる予定ですか?」と彼が言う。

「うん、長野県の飯山に寄ろうと思ってる。ちょうど帰る途中だから」

「知り合いでも?」

「いや、正受庵っていう昔の禅僧が修行した場所があってね。一度行ってみたいと思ってたんだ」

「へえ、そうですか。で、何時に出発します?」

 僕が大体このくらいだと答えると、彼が車で迎えに来てくれると言う。悪いからと遠慮するが、彼は午前中休みを取ったからと言って聞かない。結局、9時に迎えに来てもらう事にして店を後にする。食事代は、この程度なら経費で落ちますからと、彼が全額支払ってくれた。僕たちは、駅前の交差点まで雪の中をしばらく歩き、彼はタクシーを拾うために駅へと向かい、僕は眠れないだろう夜を過ごすために宿に戻った。

 暖房をつけたままにしていたにも関わらず、部屋は相変わらず寒かった。

 酔いが残っているうちに寝てしまおうと、布団にくるまってはみるが、やはりなかなか寝付けない。海に深く潜ろうと努力しながら、海面に浮き上がってしまう新米ダイバーように浅い眠りと覚醒を繰り返す。夜中に喉の渇きを覚えて、ユニットバスの水を汲んで飲み、また床につく。僕がパチンコを打っている、チューリップの開く昔のやつだ、ふと見渡すと誰もいない、急に不安になって慌てて立ち上がり店を出ようとするところで目覚める。

 カーテンを開けると窓の外は本格的な雪になっている。昨夜のテレビのニュースでやっていた天気予報の通りだ。今年一番の寒気の到来、北陸や内陸部は大雪の恐れですと。

 9時にホテルの玄関を出ると、すでに彼が車で待機してくれていた。11時32分発のはくたかで黒部宇奈月温泉から飯山に行く予定だが、時間がたっぷりある。走り出した車の中で、彼には何か考えがあるのだろうと思っていると、生地に向かいますと言う。

「いくじ?」

「ええ、いくじです。あ、いくじなしのいくじではないです。生きるに土地の地でいくじです」

「へえ、変わった地名だね。そこに何かあるの?」

「美味しい蒲鉾があるんです。こっちでは有名なんです」

 20分程で生地蒲鉾という店の駐車場に着く。ナビで見ると店の裏がすぐ日本海だ。

 店に入ると、そこは、店というより工場のような雰囲気で、多くの人たちが忙しく立ち働いている。これ見てくださいと彼が指さす先には、さほど大きくないショーケースがあり、その中に何種類かの生地蒲鉾と思われる商品が無造作に置かれている。

 お土産にどうぞと彼に言われるまま、何種類かの蒲鉾を適当に選ぶと、割烹着のような作業着を着た女性店員が、それをレジ袋に入れてくれる。代金を払おうとすると、いや、ここは僕がお連れしたんですからと言い張って彼が払ってしまう。

 生地蒲鉾を後にした僕たちは、コーヒーでも飲もうとスマホで探した小さな喫茶店に入る。黒部宇奈月温泉駅はすぐそこだ。

「僕は生地蒲鉾が大好きなんです」と彼が言う。

「いや、ありがとう。帰ってからの楽しみができたよ」と僕。

「使ってる魚が普通の蒲鉾と違うみたいで食感がいいんです」

「そうか、やっぱり新鮮なんじゃないの、すぐ海だったし」

「いえ、魚も新鮮かもしれませんが、魚がなんと言ったっけな、違うらしいです」

 彼がコーヒーを飲みながら言う。

「本当に色々ありがとう。定年してヒマになったことだし、また来るよ」

「ぜひ来てください。いつでもいいですから」

「でもこんなに歓待されると逆に来にくいよ。今度は止めてくれよ」

「いえこのくらいしか僕に出来ることはありませんから」

 彼がそれまでの笑顔からふと真面目な表情になって言う。

 喫茶店を出て黒部宇奈月温泉駅に着いたのは、11時を回った頃だった。彼に別れを告げ、車を降りると、きれいな駅舎があり、入口の向こうにエスカレーターが見える。そこを上がったところが新幹線改札のようだ。まだ30分ある。ふと見ると左手に併設された待合所があり入ってみると温かい。コーヒーの自動販売機もあるので、そこで時間を潰すことにする。僕の他には、青いジャンパーに長靴を履いた40歳くらいの男性が一人座っている。市場で働くような恰好だ。コーヒーを買って啜っていると、その男性がスマホをかけ、大きな声で話し出す。

「動いとる、電車動いとるって」

 スマホから相手の女性の、これも負けず劣らすの大きな声がスマホから響く。

「それなら、はよ帰っておいで」

 あっと言う間に電話が終わると、彼が僕の方を見て、人懐こい笑顔を見せる。僕もその笑顔につられて、ニッコリし

「よく降りますね」と言うと

「はあ、そうですねえ、よう降ります」と朴訥に言う彼。

 僕が黙ると、

「どこまでですか」と彼が聞く。

「ああ、飯山です」

「飯山ってどこですか」

「長野県です。ここから一時間くらいです」

「はあ、そうですか」

 彼は感心したように言うと、しばらくして、また人懐こい笑顔を見せて、一礼して待合所を出ていった。ああ、新幹線に乗るわけじゃないんだ、だからあの恰好なんだと僕は納得した。

 

 黒部宇奈月温泉駅を発ち、飯山駅に着いたのは12時11分だった。

 町は一面の雪だ。昨日車窓から見た雪のない濃いネズミ色の風景は大雪の降る前触れだったのだろう。しかも降り続いていて止む気配はなさそうだ。

 とりあえず何かお腹に入れなきゃと、駅を出て雪のなかを歩き出すが、どこにも店らしきところは見当たらない。10分ほど歩いて、ようやく蕎麦屋の看板を見つける。ああ、そういえば長野は蕎麦だったなと思い出し、店に入る。

客は僕一人だ。いかにも蕎麦屋の主といった痩せた風貌の、70がらみの親父が奥の暖簾から顔を出し、いらっしゃいと言う。

僕は、折りたたみ傘をしまい、リュックを降ろし、コートとマフラーと手袋を脱ぎ、雪を軽く手で払って脇に置いて座った。木のぬくもりが漂う感じの良い店だ。20人ほどが入れる店の中央にはストーブがある。

親父がお茶とおしぼりを持ってくる。

「すごい雪だね」と僕が言うと

「今朝からだよ。ラッキーだね」と親父。本気なのか、冗談なのか分からない。

「温かいつけ汁の蕎麦はありますか」と聞くと

「ないね」と一言。

 どうしようかと思い、天つゆがあれば多少は温かいかと、壁に写真入りで大きく張ってある天ざるを注文する。

「はいよっ」と小気味よく返事をして親父が奥に引っ込む。

 しばらくして天ざるが運ばれてくる。すると親父が、

野沢菜。上手いから。取ってよ」と言ってまた奥に引っ込む。

 よく見ると、目の前にある衝立の裏に、数種類の漬物が並んでいて、好きなように食べられるようになっている。僕は、野沢菜と玉ねぎに似たよく分からない漬物を取って席に戻った。たしかに旨い。

 ふいにドアが開き、4人連れが入ってくる。二組の夫婦のようだ。僕よりいくつか上かもしれない。親父がおしぼりとお茶を持って奥から出てきて、いらっしゃいと声をかける。注文を聞いてまた僕の前を通る際、

「久しぶりに忙しいな」と僕をちらと見て、ちょっぴり嬉しそうに言う。

 注文の品を4人連れに持っていき、何やら親父はおしゃべりしている。まだ若いよ、とかなんとか。いや、もう78だよと親父の声が聞こえる。

 しばらくして、親父がまた奥へ行こうとして、僕の前で立ち止まり、

「富山から?」と聞く。

「東京から。今日は富山からだけど」

「いや、その袋がさ」

 生地蒲鉾の入ったレジ袋の印字を見たようだ。

「ああ、これ。生地蒲鉾って美味しいって蒲鉾らしいよ」

「へえ、そうかい。やっぱり富山は魚が旨かっただろ」

「うん、まあ」と僕が中途半端に答えると

「今日はなんで飯山に?」とさらに聞いてくる。

「正受庵に行こうと思って」

「ああ正受庵ね。いいよ、あそこは。一人?」

「うん、一人」

「こっち泊まるの?」

「うん、泊まる」

「どこ?」

 僕は宿の名前を告げる。

「ああ、あそこね、おれの東京の友達もね、こっち来るといつもあそこだよ」

「はあ、そうですか」

 親父はニコッと笑い、奥に消える。

 さすがに蕎麦は旨い。

 また、親父が奥から出てくる。4人連れのところに行くかと思いきや、僕のところに来る。

「蕎麦どう?」

「旨い。東京じゃこういう蕎麦は食えない。なんでだろう」

「そう、この前もね、東京の友達がね、店ごと東京に来たらどうだって言うんだよ。だけど、もうこのトシじゃ、あんな都会は無理だね。トシ食ったら田舎が一番だよ」

 ニコッと笑い、それだけ言ってまた奥に消える。

 しばらくして、今度は、蕎麦湯を持って現れ、僕のテーブルに蕎麦湯を置いて話し出す。

「女房が死んだとき、三カ月くらい何にもしたくなくてね。店も閉めようかと思ったよ」

 僕は一瞬、言葉を失う。

「それは大変でしたね。この店は何年?」

「もう45年になるかな」

「じゃ30過ぎからだ」

「そうだな」

「僕はこの春、定年退職したけど、やっぱり働くっていいよ」

「そうだな。おれも店閉めてたら、お客さんたちがいつやるんだって言ってくれてね」

「張りがあっていいね。羨ましいよ」

「まあ、そうだな」

「あ、そうだ、これ」と僕は、レジ袋から蒲鉾を一つ取り出し、親父に渡す。

「なんだ、いいのかい」

「うん、たくさんあるから。旨い蕎麦のお礼」

「悪いな、じゃこれで今晩一杯やるか」

 嬉しそうにそう言って親父はまた奥に消える。

 蕎麦湯を飲みながら、せっかく彼がお土産に買ってくれた蒲鉾を人にあげて良かったかなとの思いが過るが、たくさんあっても一人じゃ食べ切れないし、彼には正直に話そう、彼なら分かってくれるだろうと思い直した。

僕は勘定をして、また来るよと言うと、親父が待ってるよと言う。その声音はなぜか本気のように思えた。

 店を出ると、雪は止むどころか、しんしんと降り続いている。

 スマホのマップで正受庵の大体の位置は掴んでいる。ここから1キロほどだ。僕は正受庵の方角に向かって歩き出すが、急な大雪で除雪も間に合っていないのだろう。車線と歩道との区別さえつかない。くるぶしをゆうに超える雪に足を取られ歩きづらい。

 10分ほど歩くがそれらしき建物は見えてこない。雪道は思いのほか疲れ、息が上がってくる。

 ふるさと館と看板のある公営らしき建物の入り口で一休みする。傘を下ろし、手袋を脱ぎ、スマホを取り出してマップで場所を確認すると、あともう少しのようだ。

ふたたび歩き出すと、柴犬を散歩させている人とすれ違う。犬はハアハアと一生懸命、雪の中を泳ぐように歩いているが、その表情は嬉しくてたまらないように見える。

それにしてもなかなか着かない。道は合っているはずだ。正受庵は高い場所にあるのだろう、雪のせいでよく分からないが、登り傾斜になっていて、さらに息が上がってくる。

絶対に行かなくてはならない。

雪を想定して、古いブーツを引っ張りだして履いてきたが、左足の方に雪が侵入したようで、溶けた水が靴下を濡らし冷たくなってくる。

なるべく車の轍の後を歩こうと、ずっと下ばかり見て歩いていたが、ふと目を上げると、家々が建ち並ぶ少し上方に雪を被った古い建物が見える。

ああ、これだ、間違いない、もうすぐだ。

 正受庵案内図と書かれた板看板の前にようやく着いた。後で知ったのだが、その看板の右手すぐに参道の石階段があり、そこを上がればすぐ本堂だったのだが、僕は雪のせいでそれを見落としてしまう。

 左手の方から回って行くと、さらにきつい登り傾斜に加え、雪は深く膝上まで達する。一度に数歩歩き、立ち止まって息を整える。

お前は本当に来たいのか。正受さんの声が聞こえる気がする。

絶対に行きます。何としても。

ようやく一番高いところに辿り着き、庭と思しきところを抜けていくと、今度は下の方に明らかに他とは違う古そうな建物が見える。

あれが本堂だ。間違いない。もうすぐだ。

本堂の庭に面した縁側まで来ると、真田家の家紋である六文銭の図柄が入った賽銭箱が、縁側と障子の間に置いてあり、障子がその箱の幅の分だけ開いている。中を覗くと、六畳ほどの和室の奥に、仏像などを祀ったスペースがしつらえてある。

縁側に薄っすら積もった雪を手袋で払って腰掛け、リュックを脇に降ろし、しばらくの間、上がった息を整える。その後、ブーツの紐を解き、脱いだブーツの中に入った雪を掻き出す。

部屋に入って良いものかどうか、ほんの少し逡巡するが、障子が開いているのだからいいのだろうと勝手に解釈し、そっと部屋に上がり込む。

仏像などとともに、正受さんと思われる像もある。あくまで質素な草庵には、派手なものは何一つない。狭い室内には、荘厳な空気だけがピーンと張りつめている。

 

正受さんとは飯山の人が呼ぶ愛称であり、法名を恵端という禅僧である。寛永19年(1642年)に、松代城真田信之庶子として飯山城で生まれた。若い頃から武芸に秀で、飯山藩切っての使い手と言われるが、16歳で出家を志す。その際は、飯山城主松平忠倶の意に添わず叶わなかったが、仏道を諦めことなく19歳で至道庵の無難禅師の下で出家得度を果たす。師の無難禅師が入寂したのを機に、35歳となった恵端は、故郷飯山を仏道の行場と定め帰山する。そこから80歳で入滅するまで、気の遠くなるような長い年月を、ここ正受庵でたった一人修行に立ち向かう。

 恵端の残した、一日暮らしという有名な言葉がある。

「・・如何ほどの苦しみにても一日と思へば堪へ易し・・一日一日と務むれば百年千年も務め安し 何卒一生と思ふから大層なり・・」

 

 この数か月、仏道の書籍を読み漁っているうち、高名な禅僧である白隠の師が恵端であることを僕は知った。白隠臨済宗中興の祖と言われるまでになった背景には、若き日の白隠を厳しく指導した恵端の存在があった。

 恵端の禅に捧げた孤高の生涯を知るに至り、僕はどうしても正受庵に来なければならないと思うようになった。なぜ、恵端は孤独に耐え抜き、厳しい修行に立ち向かえたのか、もしかしたら何らかの答えが得られるかもしれないと思ったからだ。

 

 正座し、合掌する。

 ようやくここに来ることができました。ありがとうございました。

 そう心の中で呟いた刹那だった。僕は油断した。気づいた時には遅かった。僕の心臓のあたりがキュッと掴まれたように感じた。すると、その拍子に僕の中にあった、安全装置のような何かが外れ、それは一気に押し寄せてきた。

 涙が止まらない。僕は畳に突っ伏して泣いた。声を上げて。とんでもなく大きな声で泣いた。押し寄せる波に任せて。

 しばらく後、波が去って心が静まって来ると、どこから来たのか、今度は優しく温かい感情に包まれたように感じる。

 いつまで座っていただろう。時間の感覚が失われ、一瞬にも何時間にも感じる。

心の中の何かが、すうっと吐き出す最後の息のように空間に溶け込んでいく。

それは、これまで抱えていたものを手放した瞬間だった。

そうか。僕は何かを得よう、得ようと思ってここまで来たが、僕に必要なのは手放すことだったのか。

 

目を開けた僕は一礼をして部屋を出る。

縁側で、濡れたブーツを履き、手袋をはめ、立ち上がる。ふと、思い出し、縁側の先を見ると、ブルーのシートで覆われ、厳重に保護されているものがある。それは、正受さんが殿様から貰った石の水鉢だ。僕はそれも見たかったが叶わなかった。

また来いよ。正受さんが言ってくれているような気がした。

もちろんまた来ます。少しでも成長した僕を見てもらうために。

正受庵から、ふたたび雪の中を歩いて町に戻る。

まだ、宿に行くには早いなと思いつつ歩いていると喫茶店がある。時間もあるし、少し暖を取ろうと思って入ると、中は意外に広く、しかも黄色い壁紙のせいもあってか明るい雰囲気の店だった。奥にカウンターがあり、60代だろうか、4人ほどの主婦仲間らしきおばさんたちが座り、大きな声で楽しげにおしゃべりしている。僕は左手の4人掛けのボックス席に座る。客のおばさんたちと同年代と思しき、田舎にしてはモダンな感じのママが、カウンターを出て注文を取りにくる。

アメリカンコーヒーありますか」

「専用の豆はないんだけど、薄めていいなら」

「それでいいです。お願いします」

 しばらくすると、ママがコーヒーを持ってきて、

「これ、一本取って」と言う。

 見ると、プラスチック容器に入った6本の団子だ。3種類ある。

「ちょうど6人だから。一本取って。遠慮しないでいいから」

「はあ、ありがとうございます」と言って、僕は、餡子を避け、醤油餡のみたらし団子を取った。

 奥のカウンターの方から、何でも分けあわなきゃとか、あんたはいつもそうよねとか、旦那ともねとか、きゃっきゃっ言いながら大笑いするおばさんたちの元気な声が聞こえる。

 蕎麦屋の親父が言った、トシ取ったら田舎が一番だよという言葉が思い出され、本当にその通りだなと思う。蕎麦屋も喫茶店も初めてなのに、ずっと前からの行きつけの店のように僕には思えてくる。

 そこで小一時間を過ごし、体と心が温まった僕は、カウンターのところに行き、ママに蒲鉾を一つ渡す。それは猫の絵柄のついた小さな饅頭のような丸い蒲鉾で5つほど入ったものだった。

「え、いいの?悪いわねえ。そんなつもりじゃなかったんだけど」とママが恐縮して言う。

 ご馳走さまでしたと僕はおばさんたちにも礼を言って店を出る。

宿は喫茶店からほんのすぐのところにあり、15時少し回った頃に着く。

その宿は、本当に泊まれるのかというくらい、外目には歴史を感じさせる宿だった。入口と思われる屋号の描かれた木枠にガラスの引き戸は、強く引かないと開かない。強く引いて開けると簡単には閉まらない。中に入ると、コの字型の土間になっていて、50センチほどの段差がある畳敷きのスペースがある。うす暗く、人の気配はない。20畳近くありそうな畳敷きスペースの中央には火鉢があり、土間にはストーブが置いてあるが、どちらも火は入っておらず。気温は外となんら変わらない。

こんにちはと何度か呼びかけてみるが、何の手ごたえもない。無人に思えてくる。宿を間違えたか。ふと、思い立ち、スマホで電話をかける。目の前の柱にかかる固定電話が鳴り出す。やはり誰もいないのかと思ったとき、奥の方から人の気配がする。出てきたのは宿の主人で、僕の夕食のための買い出しに行っていたそうだ。僕は早い到着を詫び、主人は不在を詫びた。

 二階の六畳の和室に案内され、一通りの説明を受けるが、話し好きで人の良さがそのまま顔にあらわれているような主人だ。聞くと、54歳で僕より6つ下だった。

 17時半頃には風呂が沸くのでどうぞ、夕食は19時くらいでいいですかと言われる。客は僕一人らしい。何時でも構いませんと答えたが、主人が去った後で、あまり食欲のない僕は食事を軽めにして欲しいと言うのを忘れたな、後で言うかと思う。

 部屋には、すでに布団が敷いてあり、一人用の炬燵がある。炬燵に足を入れるとすでに温かく、ごろんと横になると、自分の家のように心地良い。

 強烈な眠気が訪れ、頭のどこかでまたどうせ眠れないだろうと思ったときにはすでに深い眠りに落ちていた。目を覚ますと、すでに17時だ。頭の芯の靄が晴れすっきりしている。

 17時半過ぎに主人が来て、お風呂入れますと言う。一人では贅沢なほど広い浴槽にゆったり浸かった後、部屋でぼんやりテレビを見ていると、ちょうど19時に主人がお膳を持って部屋に来た。小さな炬燵の上に置かれたお膳に料理の数々が並ぶ。しまった、少な目にとお願いするのを忘れていた。

「ご主人、実はあまり腹が減ってなくて。少な目でとお願いすれば良かったんですが」

「いえいえ、大丈夫です、大した料理もありません。残してください、残してください」

「はい、ではお言葉に甘えて。申し訳ありませんがたぶん残すと思います」

「あの、それでは、このトンカツだけは召し上がってください。この豚肉はここの特産なんです、ぜひ」

「トンカツは好きです。分かりました」

「では、私は雪掻きで一時間ばかり外に行きますけど、ゆっくりどうぞ。何かあったら声かけてください」と窓を指さして主人が言い、部屋を出ていく。

 ところが、主人の作った食事は想像以上に美味しく、思いのほか食欲が沸き、ほとんど残さず平らげてしまった。お膳はそのままでと言われていたが、僕は、食べ切れないと言ってしまったことがなぜか気恥ずかしく感じ、ほぼ空になったお膳を部屋の外に出しておいた。

 翌朝、久しぶりの心地よい熟眠感とともに目が覚めたのは8時少し前だった。顔を洗い、着替えをして階段を下りる。誰もいない。来た時のままだ。暖簾の奥に向けてお世話になりましたと大きな声をかけると、その声に気づいた主人が奥から出てきて、レジ袋に入った小ぶりのリンゴを5つ僕に渡し、

「飯山のリンゴです。お土産に持ってってください」と言う。

「何から何まで。本当にお世話になりました。来年また伺います」

 あ、と思い出し、蒲鉾の入ったレジ袋の中を見ると、蒲鉾が残り2つとなっている。僕は、一つあれば十分だなと、もう一つを取り出して主人に渡し、リンゴのレジ袋の中に一つ残った蒲鉾をレジ袋ごと丸めて入れる。

 宿を出ると、雪は降り続いているが、駅への道は除雪が進んで、いくぶん歩きやすくなっている。道の前に住む人たちが、昨晩のうちに雪掻きをしたに違いない。

 飯山駅に着き、エスカレーターで新幹線改札のある2Fに上がり、窓から飯山の町を振り返る。

 山に囲まれた小さな町。何もない町だが、大切なすべてがある町。

 新幹線に乗り込むと座席に人の姿はほとんど見られない。

 飯山を出てすぐ、お世話になった友人にお礼のメールを打つ。

「久しぶりに会えて嬉しかったよ。ご馳走になってしまい、かえって申し訳なかったです。これから東京に戻ります。ありがとうございますした」

 送信した後、ふと思い出し、再度メールを打つ。

「もしかしたら知ってたかい?」

 なかなか返信がない。仕事で忙しいのだろうと思い、車内販売でコーヒーを買い、外を見ながら飲む。ふとスマホの画面を見ると、10時を少し回ったところだ。12時前には東京に着く。

急ぐ必要はない。僕の帰りを待つ者は誰もいない。

ちょうどコーヒーを飲み終わったとき、友人から返信がある。

「こちらこそ、お会いできて良かったです。楽しいひとときでした。またぜひ遊びに来てください。お待ちしています」

「追伸 実は知っていました。先月、○○さんから聞きました」

 そうか、あのとき言葉を飲み込んだのはやはりそうだったか。

 しばらくして、またメールが来る。

「心よりお悔やみ申し上げます。直接お伝えできず申し訳ありません」

 メールをしばらく見つめていた僕は顔を上げ外を見る。

 厚い雪雲の切れ間から一筋の光が山の斜面を射していて灰色とのコントラストが美しい。

 まもなく軽井沢とアナウンスが聞こえる。

 

                                      了