てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

凪の時間

 

 人事発令のあった日から酒の量が増えていた。

 三月上旬のその日も、会社を後にして最寄りの駅に降り、南口にある居酒屋で飲んだが、そのまま家に帰る気にもなれず、飲み屋の連なる表通りから一本入った路地をぶらぶら歩き、ネオンが幾つか点った三階建ての細長いビルにふらっと入り、階段を上がった。

 店名にもなっている、恵子というママが、うちは明朗会計だから安心して飲んでいってと言った。たまたま入ったカウンターだけのスナックだが、店内は思いのほか広く、ゆったりしていて、居心地は悪くなかった。平日のまだ早い時間だからか、客は入口付近に座る初老の男一人しかおらず、私はカウンターの中程に座り、ハイボールを注文した。

「なんておっしゃるの」

「ああ、私、井上」

「井上さんね、よろしく。お仕事の帰り?」

「うん」

「ご自宅はこっち?」

「うん、北口だけど」

「あらそう。あっちは閑静な住宅街でいいわよね」

「まあ、そうかな」

「タバコは?」

「止めたんだ」

 ママと当たり障りのない話をしつつ、ハイボールを三杯ほど飲んだ私はようやく気分が良くなり、リモコンで歌を探していると、ドアが開いて三十半ばくらいの女が入ってきた。常連らしく、ママは、あら、早いわねと言ったが、女は無言のまま私の後ろを通ってカウンターの奥に座った。二曲目を歌い終わり、女と視線が交錯すると、酒で緩んでいたロックが容易く外れた。

「歌いませんか」 

女は、答える代わりに、タバコを揉み消し、視線を外した。

 しばらくして、初老の男が私の好きな演歌を歌い始めた。私がデュエット気分でマイクを持って歌い始めると、やめなよ、と女の声が微かに耳に届き、歌いながら目を向けると、

「やめなって」

 私はマイクをオフにしてカウンターに置いた。その捨て猫のような荒んだ目をした女が由香だった。

 

 その夜も酒のおかげで寝付きは良かったが、中途覚醒するのは分かっていた。

 誰も目覚めたいとは思わない、深として夜でもなく朝でもなく、世界で自分だけが目覚めていると思うあの時間。

 枕元のスタンドライトを点け、隣のベッドでこちらを背にして寝ている妻を起こさないよう足音を忍ばせて真っ暗な台所に行き、水を二口ほど飲んだ後、したいわけでもない小便をチロチロ絞り出し、再びそっとベッドに横になり、スタンドライトを消して目を閉じる。ひどく眠いが頭の芯が醒めてしまっていて眠れないことは分かっているので、ただ横になり時間が過ぎるのを待つ。

 六時に家を出て、会社にはいつものように七時ちょうどに着いた。エレベーターを十五階で降りると、ドア脇のセンサーに社員証をかざしてフロアに入る。ポツンと島から離れたデスクに行き、酒と睡眠不足で鈍く重い頭と躰を椅子にぐったり預け、パソコンの電源を入れる。長年の習慣で、無用で無駄なメールチェックとアウトルック確認をしてしまう。

 八時近くになると、多くの社員が出社して、そこここで挨拶の声が聞こえ、フロアは活気づいてくる。ついこの前まで部下だった人間たちが、そこに私がいないかのように挨拶し合い、笑い、通り過ぎる。九時前には、やれ会議だ、打ち合わせだ、出張だと人は減っていき、フロアは閑散とする。十二時近くなると、また騒がしくなり、昼食に出て行くと静かになり、十三時前に再びガヤガヤとし、十三時にはまた会議などでフロアは静けさを取り戻す。夕方になればまたフロアは喧騒で包まれてくるが、その頃には、私はエレベーターホールでボタンを押しているのだ。

 そんな風に会社の一日が回っていたことを、三十年あまり過ぎた今、私は初めて知ったのだが、そんなことを知ることになるとは思いも寄らなかった。自分は会社にとって重要で必要な人材だと信じていたが、それは私の単なる思い込みに過ぎないと気付くのにそれほど時間はかからなかった。

 

 次の日も『恵子』に行った。やはり初老の男だけが入り口付近のカウンターに座っていた。

 由香が現れた時、私はすでに結構飲んでいて、彼女を特に気にすることもなく歌を入れ、前奏が始まると、立って歌おうとスツールから立ち上がった。座んなよと声が聞こえ、由香がこちらを見ているのが目の端に映ったが私は無視した。歌い終わって由香を見ると、あの荒んだ目と合った。

「いくつ」

「ん」

「いくつ」

「五十五だ」

「うそ」

「うそじゃない」

「うそだ」

「そういうお前はいくつだ」

「四十一」

「ひと回りも下か」

「うそでしょ」

「しつこいな。本当だったらここの払い持つか」

 由香は頷き、私はスツールを立って由香のところまで行き、財布に入れてある免許証を取り出した。

「ほんとだ」

「約束だ、払えよ」

 私は、ハイボール二杯と数曲を歌って店を後にしたが、由香に払わせることはしなかった。

 

 あの内示の日、私は昇格するとばかり思っていた。ところが、担当役員から言い渡されたのは、子会社への転籍だった。しかもその会社は長野にあった。役員は、向こうから優秀な人材が欲しいと要望されてねと苦しい言い訳を繰り返し、処遇はそれなりにと伝えてあるからと言った。慰めるつもりだったのか、飲みに誘われたが、私はそれを適当な理由で断った。元気のない私に、何かあったのかと尋ねる妻にも、何も言わなかった。

 

『恵子』に通い始めて十日ほど経った頃、遅い時間にやってきた由香は、珍しく私に絡むこともなくウイスキーをロックで煽るように飲んでいたが、しばらくして気づいた時にはカウンターに突っ伏していた。

 他の客たちが去り、私も帰ろうとしたがなんとなく由香が気になった。

「彼女、大丈夫? 起こそうか」

「そのうち起きるでしょ」

「店、何時まで?」

「一応十二時までだけど、由香ちゃんが起きるまでは付き合わなきゃしょうがないわね」

「じゃ、もう少し付き合うよ」

「いいの?明日仕事じゃないの」

「うん、いいんだ」

「悪いわね」

 ママは、これは奢りと言って水割りを私の前に置いた後、ドアに鍵をかけ、有線の音楽を切って私の隣に座った。ママは、栃木生まれで、東京に出てきて訛りで苦労したことや、店を開いた経緯などをぽつぽつ語り、それを聞くともなしに聞いていたが、そのうち話すこともなくなり、私はちびちびと水割りを舐めるように飲み、ママは足を組んでタバコをふかしていた。

 すると、由香が顔を上げたかと思うといきなり吐いた。あっと思う間も無く今度はスツールから転げ落ちた。ママが床で仰向けになった由香のもとに駆け寄り、大丈夫、由香ちゃんと声を掛けるが、由香は何やら訳の分からない言葉を発している。

「駄目だ、腰が抜けちゃってる。井上さん、お願いなんだけど、この子の部屋、この裏のなんとかっていう白いマンションなのよ。連れてってもらえる? 私じゃ階段も下ろせないし。ね、お願い。井上さんなら安心だし」

「まあ、いいけど、部屋も分からないし、鍵もないよ」

 そう言うと、ママは由香のバッグを探って鍵と免許証を見つけた。

 私は、由香を肩で抱えて階段を下り、店のビルの裏手に回ったところに建つ、瀟洒なマンションの五階の部屋に運び入れた。電灯のスイッチを探り当てると、そこは意外にもモノトーンでまとめられたセンスの良い清潔な雰囲気の部屋だった。ベッドまで運ぼうかとも思ったが、なんとなく憚られたため、リビングのソファに由香を寝かせた。

 髪は茶髪で脂っ気がなくバサバサしているが、よくよく見ると、顔立ちは悪くないし、多少ぽっちゃりはしているものの肉感的な体型と相まって、あの捨て猫のような目と刺々しい口調さえ無ければそこそこいい女と言ってもおかしくはない。

 女として由香を見ている自分に気づき、その考えを振り払って帰ろうとした矢先、ドアの鍵をどうしたものか、はたと困ってしまった。後で思えば、ドアはオートロックだし、そのまま置いて出てくれば良かったのだが、その時は全く思いつかなかった。すでに午前三時近くなっていて、疲れ果ててもいた私は、とりあえず少しだけ休もうとソファを背にして床に座り込むと、そのまま眠り込んでしまった。

 翌朝、由香の悲鳴で目が覚めた私は、自分がどこにいるのかすぐには分からず、状況を理解するのにしばらくかかった。部屋の隅でびくつく由香に、私が経緯を説明すると、由香は、神妙な面持ちでごめんなさいと何度も謝った。酒の抜けた由香は別人のようだった。

「本当にごめんなさい。何かお礼をさせてください」

「いや、そんなのはいいよ。私はママに頼まれただけだから」

「いえ、それでは申し訳ないので」と余りにもしおらしく言う由香に可笑しくなり、

「じゃあ、たまにはここに来ていいかい。もちろん君のいない時にだけど」

 と、悪戯心を起こした私は、冗談まじりに言った。

 由香は一瞬、戸惑ったが、驚くことに、いいですよと言った。いや、冗談だよと私は手を振ったが、部屋の物にはテレビ以外、一切触れない、ゴミになるものを持ち込まない、居て良い場所はリビングとトイレだけという条件を守ってくださいと言って、由香は私に合鍵をくれた。

 

 翌日の午後、会社でこれといって仕事のない私は、適当に抜け出し、由香の部屋に行った。よく知らない独身の女の部屋にいるのは、中学生の頃、親父のタバコを盗んで、隠れて吸った時のような罪悪感を伴う感覚と、誰も知らない私だけの秘密の空間のような気がして心が不思議と高揚した。

 テレビを見たり、雑誌を読んだりして数時間を過ごし、部屋を後にして『恵子』に行った。その日も、遅くに由香がやって来たが、私とは目も合わせようとはせず、私もあえて彼女に話しかけようともしなかった。

 

 子会社への転籍のことを妻にいつ話そうか私は悩んでいた。それまでの順風満帆だった会社人生で、自分がこの歳でそんな処遇を受けるとは自分自身が信じられない思いだったし、それを言葉にして妻に言う勇気がどうしても湧いてこなかったのだ。

 妻にはこの春の人事で役員待遇に昇格するかもしれないと言ってあった。今更ながら、そんなことを口走ってしまった自分が後悔されるが、どうしようもない。

 東京から長野までは二時間弱、ドアツードアで三時間といったところか。もちろん通える距離ではないし、趣味や交友関係を充実させている妻についてきて欲しいとも言えない。

 五十歳半ばで初の単身赴任か。しかも全く初めての土地で、全く知らない会社、全く知らない上司や部下と一からの仕事だ。考えれば考えるほど私の気持ちは萎えた。

 

 ある日、私のいる時間に由香が帰宅した。どこで飲んできたのか泥酔した由香は、ソファに寝転んでタバコに火を点け、天井に向かって狼煙のごとく煙を吐き出したかと思うと、

「もう帰る時間でしょ。いつまでいる気?」と酒で濁った虚な視線で言った。

 私は、思わず腕時計を見て、ああ、もうこんな時間かと呟いた。

「奥さんが待っているんだから早く帰んなよ」

 そうだなと立ち上がると、

「ったく。ひとのうち、勝手に上がり込んでるんだから、たまには気利かせてワインでも買ってきたら」と由香が言った。

「ああ、今度買ってくるよ」

「安物はだめだからね」

「高いワインなんか買えない」

「どうしてよ」

「金がないから」

「あんた、いっつも偉そうにしてるくせにそんなに金ないの」

「私がいつ偉そうにした」

「最初っからあんたは偉そうだった。どうせ会社でも偉そうにしてんでしょ」

会社という言葉が私の癇に障った。

「お前にそんなことを言われる筋合いはない。知ったふうな口を聞くな」

「会社でも邪魔者扱いされて出世できないんじゃないの」

思わず動揺して目が泳いだ。

「ふん、図星なんだ。あんたみたいな男は用済みなのよ。いい? 会社にとっていらない人間なの」

「そうだよ。その通りだ。お前の言う通りだよ」

「へっ、開き直っちゃって。本当にそう思うんならいっそ死んじゃえば」

「それもいいかもな。お前の言う通り、仕事もない、金もない、ただ生きてるだけの男だからな。由香、殺してくれるか」

「なんで私があんたみたいな男、殺さなきゃならないのよ。勝手に自分で死ねば」

そうだなと私は自嘲気味に笑って言った。

「ったく。このジジイ、話になんない」

 そう言って火のついたタバコが飛んできた。私はそれを拾って灰皿で揉み消し、じゃあと言ってリビングを出て玄関に向かった。背中から、帰れ、ジジイという由香の声が聞こえた。

 それでも私は、不思議と由香の部屋に行くのを止める気が起きなかった。ひと回りも年下の女の、酔った戯言をまともに聞く必要もないと思っていたし、何より由香の辛辣な言葉はなぜか私には心地良かったからだ。

 

 ある日、いつものように由香の部屋で過ごしていて、テレビでも見ようとリモコンを探しているうち壁際の白のチェストが気になった。その中に何があるのか知りたくなった。ある種、由香という一風変わった女に対する純粋な興味が湧いた。もし、触れたことが知れれば由香は激怒するだろう。そう思ったが、興味が勝った。

 引き出しは五段あり、上から順に開けていった。四段目までは、領収書や請求書やマンションの契約書、薬箱や裁縫道具、テレビや冷蔵庫などの取扱説明書、乾電池、ドライバーセットなどのちょっとした工具、雑誌などが綺麗に整頓されていた。一番下の五段目には、写真立てとA4のノートがあった。

 写真に写っていたのは、由香と由香よりは明らかに年上の見知らぬ男だった。ノートの表表紙には何も書かれておらず、さすがに由香の秘密を覗き見るようで一瞬、躊躇ったが、やはり興味が上回った。表表紙をめくると、そこには、死にたいと、いつもの由香のイメージからは想像もつかない、小さく丁寧な文字で綴ってあった。単に酒を飲んで感傷的に走り書きしたのではないと、その几帳面な文字は物語っていた。そこにかえって由香の心の奥が垣間見えたように思った。

 私には次のページをめくる勇気はなく、それをそっと閉じて、注意深く元の形のまま置き、引き出しを閉めた。やはり、見なければよかったと私は後悔した。

 今日は早めに帰ろうと思っていたら、由香が帰宅した。由香は明らかに酔っていたが、その表情から珍しく機嫌は良さそうだった。

「あら、まだいたの」

「あ、いや。もう帰るよ」

「せっかく来たんだからもうちょっとゆっくりしていきなよ。まだ時間あるんでしょ」

「ああ、まあな。じゃもうちょっとだけ」

 由香はキッチンに行き、冷蔵庫からワインボトルとグラスを持ってきた。私たちは、乾杯し、由香は並々と入ったグラスを一気に飲み干すと、注いでよと言った。私がワインを由香のグラスに注ぐと由香はそれも一気に飲み干し、今度は自分で注いだ。そして、タバコに火をつけ、深く吸い込んでから煙を天井に向けて吐き出した。

「ああ、おいしい。どう?」

「ああ、うまいよ」

「じゃもっと飲みなさいよ。ほら」

 私は、グラスを開け、由香はそこになみなみとワインを注いだ。

「何かいいことでもあったのか」

「別に」

 あっと言う間にボトル一本が空くと、由香はさらに冷蔵庫から違う白ワインをもう一本持ってきて同じようなペースでぐいぐい飲み始めた。

「おいおい、大丈夫か」

「あんたさ、なんでここに来るのよ」

 とろんとした焦点の合わない目で由香が聞く。

「なんでって、お前が来ていいって言ったからだよ」

 いきなり由香がケラケラ笑い出した。

「全く理由になってないし。まあ、いいわ。ところで、あんたの奥さんていくつ」

「三つ下だから、五十二だな」

「今でもセックスしてんの」

「バカ言うな。するわけないだろ」

 私は虚をつかれたように慌てた。妻とはもう何年も没交渉だった。

「なんでバカなの。男と女じゃない。それに愛し合って結婚したんでしょ」

「まあそうだが」

「出来ないの、それともさせてもらえないの」

 どうして、こいつはこんなに人の弱点をピンポイントで突いてくるのか。由香はまたもケラケラと笑った後、驚くべきことを言い始めた。

「わたしとセックスしたい?」

「なに」

「させてあげてもいいよ。お願いするなら」

「あほくさ」

 正直なところ私の心臓は鼓動を早めていた。それまでも由香を何度も女として見ていたし、時には性的な妄想をしたことさえあった。

「ここに来てわたしを思ってオナニーでもしてんじゃないの」

「頭おかしいんじゃないのか」

 由香は、またケラケラと笑い、ワインを煽ると、タバコをガラスの灰皿で揉み消し、もう一本、火をつけ、ソファに寝転んだ。タバコを大きく吸い込んで、天井に向けて煙を吐き出すとおもむろに言った。

「で、どうするのよ」

「何を」

「わたしにお願いするの、しないの」

「バカか。するわけないだろ」

 由香は天井を見つめたまま黙り込んだ。指に挟んだタバコの灰が長くなっていく。

「あんたはね、人を見下してんの。わかる?」

「……」

「自分では気づいてないだけ」

「……だとしたらなんだ」

「なんでもない。そういう救いようのない人間てこと」

「私に言えた義理か!お前だって大して変わらないだろ。私に八つ当たりするな!」

 自分を抑えられず言葉が迸った。

「ふん、あんたのためを思って聞いてあげたのがわかんないの。大体、わたしが一回りも上のジジイと好き好んでセックスするとでも思ってんの」

「どうせセックスしてくれる男がいなくて欲求不満なんだろ」

 今にも泣き出しそうに由香の表情が歪んだ。言ってはいけない言葉だと気づいたが遅かった。

「うるさい!このジジイ!」

 私は黙って、バッグを持って玄関まで行き、ドアを開けようとして思い出し、ポケットから鍵を取り出してシューズクローゼットの上に置いた。リビングの方から、もう二度と来るな、という由香の大声が響いた。

その日から由香の部屋に行くことはなく、『恵子』からも足が遠のいた。

 

 ある夜、私は全てを妻に告げた。長野の子会社に転籍になることはもちろん、自分が思うほど自分は会社から評価はされていなかったことや、それを妙なプライドが邪魔をして今まで言えないでいたことなどを。

 妻は、一瞬、憐れむような視線を浮かべたが、あら、そうだったの、それじゃ、これから大変だわねと何気ないように言った。

 私はその妻の言葉に感謝し、自分がなんとなく自由になれた気がした。

 

 ある日、ふと、思い立ち、『恵子』のドアを押した。

「あらあ、久しぶりじゃないの」

 ママが満面の笑みで迎えてくれた。私は長野への転勤の話をし、挨拶がてら寄ったと話した。

「そういえば、最近、由香ちゃんって来てる?」

「それがね。引っ越したのよ」

「引っ越した?」

「色々あったからね、あの子も。それから来てないわ」

「色々って?」

「ほら、よくあるでしょ、上司との道ならぬ恋ってやつ」

 脳裏にあの写真とノートが浮かんだ。

 あの日、由香は珍しく妙に上機嫌で楽しそうに見えたが、本当は寂しくて、そんな気持ちを紛らわせたくて私を揶揄ったのかもしれない。私がセックスさせてくれよと遊び半分でお願いしてあげれば、いい歳して本気にするなジジイと私を罵倒し、ワインをしこたま飲んで、最後は酔っ払ってソファで眠ったかもしれない。

 私は無性に由香に会いたくなったが、その後、粘って二十三時過ぎまで待ってはいたものの由香は現れず、さすがに今日はもう来ないだろうと椅子から立ち上がったところにドアが開いた。由香だった。

「あら、今日は珍しい。久しぶりの人ばっかり」とママが言った。

 由香は、私の後ろを通って、いつもの奥のカウンターに座った。ママが水割りセットと灰皿を由香の前に置き、

「部屋は落ち着いた?」と聞いた。

 うんと素直に答えた由香は随分印象が変わっていた。肩まであった茶髪が黒くショートになり、化粧も薄い。タバコも吸っていない。ママと話す視線が、あの捨て猫のような荒んだ目ではない。何気なく眺めていると、目が合った。一瞬ドキッとし、それが言葉となって出た。

「久しぶり。元気そうだな」

「ふん、あんたなんかに心配される筋合いはないよ」

 由香は視線を外し、水割りを煽った。なぜか私は嬉しかった。

 しばらくして店を後にし、夜道を歩き始めた私の熱った頬を、三月のまだ冷たい風が心地良く撫でた。

 

 

                                    

 了

                                    

岸部

 

 岸部は40歳をいくつか過ぎ、そろそろ結婚を諦めようかと思う頃に、沙耶香に出会った。

 元々、結婚願望が強い方ではなかったが、信州の実家で一人暮らす母親に、初孫の顔を見せてやりたい気持ちは心のどこかに常にあった。すでに嫁いで十年以上になる姉に子供はなかった。

 彼はいわゆる恋愛体質からはほど遠く、人を好きになる能力があるとすれば、自分では10点満点中、せいぜい2点かよくて3点くらいだろうと思っていたが、その理由を、父の愛情を知らずに育ったせいではないかと漠然と思っていた。

 システムエンジニアという仕事は、クライアントとの面倒な交渉を含めて、岸部の性分というか、喜怒哀楽を表に出すことなく的確に物事を処理できる彼みたいな男には向いていたのだが、女性との出会いという点では、平日の残業はもちろんのこと、土日の出勤も多く、就職してからというものそんな機会はほとんどなかった。

 残業を終え、夜遅くマンションに帰って缶ビールを飲みながら、パソコンでYouTubeを見ていて、ふと思いつき、何度か出会い系サイトに登録しようとしたものの最後は思い止まり、またある時は、結婚相談所にでも行ってみようかとパンフレットをいくつか取り寄せたりもしたが、それも結局は、ゴミ箱に捨てられた。

 沙耶香は岸部より一回りほど下で、春の異動で大宮のオフィスから、岸部のいる新宿オフィスへと移ってきた女性だった。取り立てて可愛いとか美人というほどではなかったが、常に笑顔の絶えない明るく朗らかな女性で、すぐ誰とでも打ち解け、ずっと前からそこにいたかのような思いをオフィスの誰もに抱かせた。

 ある大手のクライアントの仕事で同じチームになり、ミーティングを重ねるうちに、ごく自然に会話を交わすようになり、チームの飲み会がきっかけで、二人は食事に行くようになった。

「今日も課長に叱られちゃった」

 新宿駅からほど近い居酒屋で、沙耶香は言った。言うほど気にしてはいないことが岸部には分かっていた。いつものことだったからだ。岸部が黙っていると、

「あれ。慰めてくれないの」

「いや、そういうわけじゃないよ。でも、そんなに気にしてないでしょ」

「ひどーい。それじゃまるで私が鈍感みたいじゃない」

 その通りだよ、という言葉が過ぎるが、もちろん岸部は、

「いや、それは沙耶香の良いところだからさ」

 と言った。彼女は不満げに口を尖らせた後、すぐ笑顔に戻って、ま、いいかと言い、焼き鳥の串を、箸で皿の上にバラし始めた。

「ほら、この方が食べやすいでしょ」

 岸部は、焼き鳥を串からバラして食べるのが好きではなかった。せっかく串に刺さったものは、串のまま口で引き抜くようにして食べてこそ旨いように思うし、ちまちまと外すのは貧乏臭いような気がするのだ。大して高いものじゃなし、同じ串を食べたければ別に注文すれば良いだろうと思う。しかし彼は口には出さない。小さいことを気にする男だと沙耶香に見られたくなかった。

 沙耶香は一事が万事、全てにおいて世話を焼きたがるような女性で、相手がどう思っているかは彼女には関係ないように思われた。自分がやりたいからやる、ただそれだけに見えた。

 彼女のそのような性格は、時として仕事の上では、良くない結果となって現れてしまう。

 ある日、クライアントの一人であるK企画のSから岸部に会いたいと連絡が入った。長年、付き合っている男で、岸部とは仕事上の信頼関係がある。

 待ち合わせのカフェで、しばらく待っていると、

「やあ、岸部さん、お待たせしました」

 そう言って、Sがやってきた。

「いえ、どうしたんですか。急に」

 Sは、ブレンドコーヒーを注文した後、

「お忙しいでしょうから手短に申し上げますが。岸部さんとも古い付き合いですし」

 と、言いにくそうに目を伏せ、口元を歪ませる。一瞬、何か大きなミスを犯したかと嫌な予感が掠めた。

「なんでしょう。そんなにおっしゃりにくいことですか」

「いや、実はですねえ。お宅の女性、確か加藤さんでしたか」

 沙耶香のことかと岸部は思い、言葉の先が読めるような気がした。

「気が利くのはいいんですが、こう、なんというか、こちらの要望とは違っていると言いますか」

 Sはそう言ってコーヒーを一口啜った。飲みたくないと思える飲み方だった。朝から何杯も飲んでいるのかもしれない。

 結局、Sは1時間近く、沙耶香の仕事のやり方から始まり、今の自分の処遇についてまで不満を述べ、それじゃ、またと言って店を出て行った。沙耶香の話は大したクレームではないと思ったが、岸部には、Sの言っている意味がよく分かった。痒いところを掻いてはくれず、その周りを強く掻くのだ。彼女に決して悪気はなく、それどころか良かれと思って一生懸命なのだが、それだけにまた都合が悪かった。

 それ以降、岸部は何かにつけ沙耶香のサポートをした。特に重要なクライアントや仕事は振らないように手を回しもした。そういうことにも沙耶香は全く気が付いてないようだった。

 

 夏になり、二人は旅行に出かけた。

 言い出したのは沙耶香で、河口湖に行きたいと言った。岸部は少しばかり逡巡した。男女が旅行に行くのはそれなりの関係になってからだろうと思ったが、二人はたまに食事をする同僚というだけで、その範囲を超えてはいなかったからだ。それでも結局、行くことにしたのは、押しの強い沙耶香にきっぱりと断ることも、その理由も見当たらなかったからに過ぎない。それに、岸部の女性経験は極端に少なく、まともに付き合ったことさえなかったから、沙耶香がどういう思いで自分を旅行に誘ったのかも判断がつかないままで、要は流れに身を任せてしまったのだ。

 岸部はレンタカーを借りた。今、流行りのカーシェアで、マンションの近くの駐車場にあるのを以前から知っていた。試しにやってみると、申し込みから、実際に借りて返すまで全てがスマホで事足りることに彼は驚いた。

 当日、彼は沙耶香のマンションに迎えに行き、首都高速から中央道に入り、河口湖方面へと向かった。快晴の土曜日で高速は渋滞気味ではあったが、急ぐ旅でもなく、岸部はのんびりと左車線を走った。

「こんな気持ちのいい日にドライブできるなんて最高。ね、来て良かったでしょ」

「そうだね」

 確かに沙耶香の言う通り、雲一つない紺碧の空に濃い緑を見ているだけで、岸部は爽快な心持ちになった。旅行などいつ行ったかすぐには思い出せないし、何年かぶりの車の運転さえも新鮮だった。

 河口湖インターチェンジで高速を降りた岸部たちは、少し離れてはいるが、前から見てみたいと思っていたという沙耶香のリクエストで、忍野八海鳴沢氷穴を巡り、ホテルに着いたのは夕方だった。

 沙耶香の予約した河口湖畔のホテルは、思いのほか小ぶりで、お洒落で、清潔だった。ツインベッドの部屋は、白を基調として明るく、大きな窓からは河口湖が一望できた。

 岸部には沙耶香に対する性的な欲求があるにはあったが、それはそれほど強くはなく、そのようなことがあってもなくてもいいくらいに思っていた。

 建物に比して河口湖に面した芝生の庭は広く、彼女は、そこでディナーができるのが最高なのよと言った。前に来たことがあるような口振りだったが、岸部は聞き流した。

 庭からの富士山は岸部の思っていた富士山とは違っていた。彼は、新幹線の窓外から見える雪化粧をした優しげな富士山を富士山とイメージしていたが、今、目の前に在る夏の富士山は、荒々しく、人を寄せつけないほどの絶対的な威圧感を放っている。それはまさしく霊峰富士であり、仰ぎ見るとは、こういうことを言うのだなと岸部は思った。

何席か設てある白いテーブルの多くは、若いカップルばかりだった。旅雑誌とかSNS、もしくはテレビででも紹介されたのを見て来るのだろう。岸部は、蚊が嫌いで気になっていたが、全く出なかった。

 料理はイタリアンのフルコースで、仕事の関係で何度か行った東京の有名店のそれと特に大きく変わると思えなかったが、パスタだけは初めて食べるものだった。

「これは何というパスタですか」

 飲み物を持ってきたウエイターに岸部は聞いた。

ポルチーニ茸のクリームソース、トリュフ仕立てでございます」

「あ、いえ、料理の種類ではなくて、パスタの種類のことなんですが」

「失礼しました。そちらは、キタッラと申します。元々はイタリア語でギターという意味だそうで、このパスタを作る道具がギターに似ていることから名付けられたそうです」

 へえ、そうなんだ、すごーいと沙耶香が大袈裟に言った。

「キタッラですか、ありがとうございます。初めて食べた感じがしたもので」

 岸部がそう言うと、

「特徴的な歯切れの良い食感があります。四角いんですね、形が」

 なるほどそれでなのかと岸部は納得した。

 陽の残る時間に始まった食事も、デザートが供される頃には、河口湖は闇に沈んでいた。代わりに、そこここで柔らかな赤いキャンドルライトが灯され、庭は幻想的な雰囲気を醸し出している。

 先ほどのウエイターが、コーヒーを持ってきて、

「よろしければ、バーのご用意が出来ますが」

 と言った。

 沙耶香に聞くと、行ってみたいと言うので、岸部はお願いした。

 そのバーは、庭からホテルに入る通路から折れたところに、入り口があったが、店名やバーを示す表示は何もなく、言われなければ全く気づかないだろうと岸部は思った。ドアを開けると、階段があり、それを地下へと降りると、まるでわざと隠されているかのようにそのバーはあった。

 岸部は重厚な扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 ダークスーツに身を固めた初老のバーテンダーだった。短く刈り込まれ、後方に撫で付けられた清潔感のある白髪に、同じく刈り揃えられた白い顎髭が似合っている。目の縁に刻まれた深い皺が、人生経験の豊富さとそこからくるであろう慈愛を感じさせた。

 他に客はおらず、バーテンダーに促されるまま、岸部と沙耶香は10席にも満たないカウンターの中ほどに腰掛けた。

「何をお飲みになりますか」

 岸部はスコッチのハイボール、沙耶香はアルコールの強くない甘めのカクテルを頼んだ。

写真でしか見たことはないが、何となく目の前のバーテンダーに面影が似ているせいか、岸部はふと、亡き父を想った。自分が一歳の頃に亡くなったという父を岸部は知らないが、生きていればこんな感じなのかもしれないと思ったりした。

「こちらは随分と古いというか、歴史を感じさせますね」

 岸部が、調度類を眺めて言った。

「ええ、そうなんです。上物は建て替えたんですが、ここはそのままでしてね」

 バーテンダーは飲み物を作りながら答えた。ああ、そのせいでこの場所が分かりにくくなっているのかと岸部は妙に納得をした。

「元々は江ノ島につながる洞窟だったらしいです」

「あ、それ、私、聞いたことがある。本当だったんですね」

 嬉しそうに沙耶香が言うと、

「いや、残念ながら真偽のほどは定かではありません。洞窟というのは色んな世界につながっていますからね。どうですか、少し冷んやりしませんか。全く冷房は入れてないんですよ」

 そう言われれば、外に比べ随分と涼しい。

「でも洞窟なんてなんか素敵。こんなバーがあるなんて知らなかったな」

 またしても沙耶香が思わせぶりなことを言う。いや、全くそんなつもりはないのかもしれないと岸部は思い、たとえ誰かと過去にこのホテルを訪れたことがあったとしても、それを詮索するのは、この場合少し違うように感じた。

「この辺りは、富士山信仰などもあって、他にも様々な伝説や神話が残っているんですよ」

 バーテンダーが言うと、

「そうなんですか、私、聞きたーい」

 早くも少し酔いが回っているのか、沙耶香が甘えた声で無邪気に答える。

「そうですね。では折角ですので・・一つだけ。富士山の神様は、木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)という美しい女性の神様なのですが、ある時、天照大神の孫にあたる邇邇芸命ニニギノミコト)という神様から見染められて、結婚を申し込まれたのです。それを喜んだ木花咲耶姫のお父さんは、姉である岩永姫(イワナガヒメ)も一緒に、嫁に出すのです。岩永姫は永遠の命を持つ神でした。ところが岩永姫の外見は妹とは真逆だったために、邇邇芸命は、美しい木花咲耶姫だけを嫁にし、岩永姫を送り返してしまいました。お父さんはそれに怒り、その子孫は永遠の命を与えられないようにしてしまいました。木花咲耶姫の曾孫が、初代天皇神武天皇なのですが、そのために人間は限りある生命になってしまったとのことです」

「へえ、そんな不思議な伝説があるんですね。だから富士山はあんなに美しいのでしょうか」

 沙耶香が感心したように言う。

「そうかもしれませんね。ちなみに桜の語源は、木花咲耶姫から来ていると言われています。確かに儚く美しい桜の花とイメージが被るのでしょう」

「なんかロマンチック」

「少し柄にもなく喋り過ぎました。今夜は、お二人にとって大切な夜でしょうから、どうか、今、この時間を大切になさってください。差し支えなければですが、お二人はご夫婦でらっしゃいますか、それとも・・」

 岸部が答えに窮すると、沙耶香がすかさず、

「友達以上恋人未満なんです。私たち」

「なるほど。幸せになっていかれる途上というわけですね。羨ましい限りです。今夜がお二人にとって特別な夜になるよう心より祈っております。どうぞごゆっくりお過ごしください」

 幸せになる途上という言葉に、沙耶香は、はにかんだように俯いた。

 バーテンダーはプロらしく、それ以上、立ち入った話をすることはなかった。

 その夜、岸部と沙耶香はごく自然な流れで結ばれた。

こんなふうにして男女は結ばれ、結婚するものなのか、そうすると自分も沙耶香と結婚することになるのかもしれないなと、岸部は漠然と思った。

 

 河口湖旅行から戻ると、会社の同僚の前でも恋人然として親しげに振る舞う沙耶香とは裏腹に、岸部はいかにも気のないような、そっけない態度を取った。それは、彼からすると、深い関係になったがゆえの、ある種の責任感、もしくは怖れからの逃避のような感覚だったが、それが何に起因するものかは彼にもよく分からなかった。

二週間ばかり経った日の夜、そろそろ寝ようかという矢先、沙耶香から電話が入った。

「もしもし」

 何も聞こえない。

「もしもし」

 くぐもった声が微かに聞こえる。泣いているようだ。

「どうしたの」

 仕事で大きなミスでもして課長にこっぴどく叱られたのだろうか。

「・・ごめんなさい」

 それきり言葉にならず、啜り泣く声がする。

 しばらくして落ち着いた沙耶香の話はこうだった。

 一年ほど前に別れた前の男から、借りていた金を返すからと言われ、その言葉を信じてホテルまで行ったが、結局、金は戻らなかった。沙耶香はそう説明した。彼女は何度もごめんなさいと言った。岸部は、大丈夫、忘れよう、僕も忘れるからと言ったが、そう言っておきながら、一体何が大丈夫なのか、自分自身への論理的な説明は何も出来なかった。

そもそも沙耶香は、なぜホテルまで行ったのか。彼女は、借りていた金を返すから来てくれと呼び出されたと言った。そう言ったが、一年前に別れたとはいえ、付き合う女性から遊ぶ金を借りるような男の待つホテルの一室に行くことがどういう意味があり、どのような結果をもたらす可能性があるか分からぬはずはあるまい。日を追うごとに下衆で嫌な考えが次から次へとやってきた。

岸部は、沙耶香に誘われるまま、食事や映画には行ったが、それ以上の関係を再び持とうとはしなかった。かと言って別れを切り出すこともしなかった。それが中途半端だと自分でも分かっていた、分かってはいたが、自分でもどうしようもなかった。

そんなある日、

「岸部さん、忘れるって言ったけど、本当はまだ私のことを責めているんでしょ」

 と、拗ねた口調で沙耶香は言った。岸部は答えなかった。

「やっぱり。言いたいことがあるなら全部言って。そんな風に黙ってられたら余計に辛いから」

 それでも岸部は何も言わない。何かを口に出せば、抱いてきた疑念の数々が堰を切ったように流れ出すと分かっていたし、それはそのまま沙耶香との関係の終わりを意味していたからだ。

「私は全部正直に話したの。これだけは信じて欲しい」

「分かってる。いつまでも変に引き摺っている僕が悪いんだ」

 沙耶香が嘘を上手につけるようなタイプではなく、いわゆる天然キャラで、多分、男に呼び出された時も、何の疑いも抱かなかっただろうと岸部は頭では分かっていた。ただ、今はその無知な純粋さと鈍感な天真爛漫さが口惜しく、憎かった。

岸部は彼女への愛が本物ならそんな小さな過ちは忘れられるはずだと思った。それが出来ないのは自分の心が矮小だからだ、要は彼女を丸ごと信じて受け入れられない自分が悪いのだ。そう思うようにして彼女を責める自分と折り合いをつけるしか彼には方法がなかった。

 それでも夏が秋めいていくに従い、沙耶香へのわだかまりは徐々に薄れていき、彼は今の宙ぶらりんのままの沙耶香との関係をきちんとするために、結婚を前提に付き合うことを考え始めた。岸部の気持ちはようやく前向きになり、彼は、少しでも早く喜ばせ、安心させようと、信州で一人暮らす母親に電話をした。

「本当に本当なの?」

 そう言って、母は電話口で泣いた。よほど嬉しかったのか、それとも自分のことをそれほど心配していたのか、あるいはその両方か、いずれにしろ母の反応は岸部の予想を裏切った。

「近いうちに彼女を連れて挨拶に行くから」

「うん、うん、分かった。いつでもいいからね。待ってる」

 電話を切ろうとして、岸部はふと思いついた。

「そういえば、死んだ親父って、母さんにはどうやってプロポーズしたんだっけ」

「何、急に。どうしたの」

「いや、なんとなくさ」

「お父さんは真面目というか、奥手でね。ずっとはっきりしなくて、最後は、母さんのお母さん、つまりあんたのおばあちゃんがね、うちの娘をいつまでほっとくつもり、そのうち婆さんになっちゃうじゃないのって言ったのよ。そうしたら、お父さん、慌てて、結婚しますって。笑えるでしょ。だからプロポーズなんかなかったの」

 そうか、僕はやはり親父の息子なんだと岸部はなぜかほっとした。

「親父は母さんを愛してた?」

「また、今日はどうしたの」

「いいから」

「亡くなる少し前にね、ありがとう、愛してると言ったの。それから、遅過ぎたけどごめんと謝った。でも、生きてたら今でも言ってないかも」

 やっぱり親父の息子だ。間違いない。

「僕が結婚するって言ったら親父はなんて言ったと思う?」

「お父さんが?」

「うん」

「なんて言っただろうねえ。きっと言いたいことは山ほどあったと思うけど」

「喜んでくれたかな」

「当たり前でしょ。どれほどあんたのことを気にかけてたか・・」

 そう言ってまた母は泣き出した。

 

 岸部が、今日あたり沙耶香に話そうと思っていたところへ、逆に沙耶香から食事に誘われた。店は、いつもの新宿西口の居酒屋ではなく、代官山の洒落たフレンチレストランだった。

 他愛もないお喋りをし、食事を終えたところで、岸部が話を切り出そうとすると、沙耶香が、バッグから封筒を取り出し、

「これ」

 と言って岸部に渡した。

 それは産婦人科病院から発行された妊娠届出書だった。彼は言葉を失った。

「驚いた?」

「あ、ああ、もちろん。驚いたよ」

 高揚した表情の沙耶香は、岸部の子だと信じきっているようで、次の彼の言葉を期待して待っていた。何を期待しているのか彼には分かったが、これからのことを考えなきゃねと言うのが岸部には精一杯だった。

 沙耶香と別れてマンションに帰る岸部の頭は混乱していた。まさかと思った。確かにあの河口湖の夜には、避妊をしていない。そんな準備もしていなかった。そうなることを想定して準備しようかとも思った。しかし、いざそうなった時に、沙耶香にそのつもりだったと思われたくなかったのだ。

 自分の子か、それとも・・。なぜ沙耶香は、ああも無邪気に僕の子だと思い込んでいるのか。まさか女の直感とでもいうのか、それともそれなりの根拠があるのか。たった一つの質問をすれば良いだけだが、それがどうしても岸部には出来ない。その質問をして答えを得れば、納得が得られるかもしれないが、沙耶香を疑った事実は消えず、これ以上、彼女に情けない自分の姿を晒したくはなかったし、そんな自分を嫌いになりたくはなかった。

 岸部の心は右へ左へと散り散りに乱れ、今後どうすべきか、彼女に対してどういう態度を取るのか、全く結論を出せず、進むことも戻ることもできなくなった。会社で彼女の顔を見ることさえ苦痛になった。夜、眠れなくなり、食欲も失せた。ひと月ほどすると仕事にも影響が出てきてしまい、上司の勧めで療養休暇を取った。沙耶香がひどく心配したが、君も知っての通り、システムエンジニア特有の長年のストレスのせいだ、医者からはしばらく休めば良くなると言われているからと嘘をついた。

 岸部は、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で何日も鬱々と過ごした。スマホは電源を落として部屋の隅に放ってあった。毎日のように、ドアがノックされ、ビニール袋に入ったパンや飲み物や果物が置かれていた。時には、心配しているので連絡が欲しいという趣旨の手紙が添えてあり、もちろん沙耶香だったが、彼は、連絡を取る気にはどうしてもなれなかった。

 岸部にはこんな悩みを相談できる相手が誰もいなかった。大学時代の友人や、会社の同僚の何人かの顔は浮かんだが、腹を割って打ち明けられる間柄でもない。ふと、父がいたらと思った時、あのバーテンダーの顔が浮かび、いても立ってもいられず、スマホの電源を入れ、ホテルに予約を入れると、身支度を整え、着替えをバッグに詰め込み、マンションを出て最寄り駅に向かった。

 新宿駅からJR中央線に乗り、大月駅富士急行線に乗り換えた。平日の車内に人は少なく、岸

部は空いている席に腰を下ろした。車窓に流れる淡く雪化粧をした穏やかな富士山や、赤や黄色に

色づき始めた山々の景色が岸部の目に映ったが、それを彼が楽しむことはなかった。

 終点の河口湖駅は、閑散としていて、すでに陽は傾きかけていた。タクシーを探したが、どこにも見当たらない。やむなく岸部は河口湖の方へと向かって歩き始めた。

 彼は記憶を頼りに疲れた足取りでとぼとぼ歩き、ホテルに着いた頃には、すでにとっぷりと日が暮れていた。朝から何も食べていなかったが、空腹は感じなかった。

「岸部様、お待ちしておりました」

 チェックインカウンターの男が言った。沙耶香と来た時に、パスタの話をしたウエイターだった。小さなホテルだからかと岸部は思った。

「バーに行きたいのですが」

 岸部が言うと、

「そうでしょうとも。どうぞ、すでに開いております」

 男は、部屋のカードキーを渡しながらそう言った。

 岸部は、庭へ出る通路を進み、途中を曲がってしばらく行った先のドアを開け、地下への階段を降りた。

 重い扉を開けると、

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。確か夏にお越しいただきましたね」

 あの時のバーテンダーだった。

 客は他に誰もおらず、岸部は彼の真向かいに腰掛けた。

「何をお飲みになりますか」

「スコッチのダブルをストレートでお願いします」

「承知しました」

 一口飲むと喉から胃にかけて焼けつくような熱さを感じる。しばらくして、ほんのりとした酔いがやってきて、固まっていた何かが解けるようだった。

 岸部は初めて気づいたが、店内に音楽はなく、静寂だけがあった。ちょうどいいと彼は思った。

 二杯目を飲み終えた時、彼は口を開いた。

「実は聞いていただきたいことがあって来たんです」

「私でよろしければ」

 バーテンダーはグラスを拭きながら言った。

 岸部は何もかも全てを話した。事実とその事実に対して自分が思っている全て。そして、その結果、自分ではどうしようもない身動きの取れない状況にあり、このままでは自分がどうにかなってしまいそうであることなどを。さらに、彼は気づいていながら認めようとしなかった心の内側までも語った。

「僕は自分が傷つくのが嫌だったんです。だから逃げていたんです。彼女を受け止めるのが怖かったのかもしれません。というより彼女の愛を信じられなかったんだと思います」

バーテンダーは慈愛のこもった眼差しを浮かべ、ただ聞いていた。話し終わると、店はまた静寂に包まれた。

「私に何かお役に立てることがあるといいのですが・・」

 バーテンダーが悲しそうな表情を浮かべて重い口を開いた。

「いえ、いいんです。聞いていただけただけで十分なんです」

 そう言って、岸部は、三杯目のスコッチに口をつけた。心の全てを曝け出した解放感からか、すでに相当、酔いが回り始めていた。

「こんなことを申し上げてなんなのですが・・。お客さまはその女性をご自分が傷つくほどに深く愛していらっしゃるのですね」

 バーテンダーのその言葉に、岸部は戸惑った。言われて初めて、彼自身、気づきもしなかった心の奥深くに隠された思いに触れたような気がした。それが何かをもっと探ろうとしたが、酔いがそれを許さなかった。頭の芯がぼやけてしまっていた。

「ああ、そう言えば、夏に来られた時に、富士山の神様である木花咲耶姫の話をしましたね。あの話には続きがあるのです」

 バーテンダーが語り始めた。

木花咲耶姫は、見染められた邇邇芸命との一夜の契りで、子を身籠もるのですが、たった一夜の契りでそんなはずはないと言われてしまいます。木花咲耶姫は、あなたの子でないなら私と子は焼かれて死ぬでしょうと言って火を放つのです。そして、その火の中で、三人の男の子を無事、産んだという話です」

 その話の意味を岸部はしばらく考えたが、やはり酔いのせいか何も浮かばなかった。

岸部は、残っていたスコッチを煽って言った。

「ありがとうございます。少し、飲み過ぎてしまいました。そろそろ寝みます」

 椅子から立ちかけて足元がふらついた。

 重い扉を開けた岸部の背中に、どうぞお幸せに、ずっと見守っていますと、そう聞こえたが空耳のようにも思った。

 岸部は、よろける足取りで部屋に入り、そのままベッドに倒れ込んだ。

 その夜、岸部は、もぞもぞとした感触に目を覚ました。横向きに寝ている背中の方からベッドの中に誰かが入ってきたようだった。ほんのりと鼻先を掠める匂いは沙耶香のものだった。

しなやかな手が彼の上腹部あたりに回される。背中にぴったりと体が押しつけられ、柔らかな乳房の感触を感じたその刹那、下腹部から頭頂部にかけて抗い難い性の欲望が岸部を貫いた。

 それは性的な欲求を出発点としたが、それを超えてただ沙耶香と一つになりたいという欲望にまで昇華した。彼はその欲望に全てを委ねた。何も考えられなかった。ただ感覚だけがあった。それは思考を持たないたった一つの細胞のようだった。

 その後、彼は深い眠りに落ち、また目覚めた。

 顔がひどく熱い。部屋は炎に包まれていた。炎がゆらめいて、その中に人がいるのが見えた。沙耶香だ。助けなくてはと、起き上がって炎に飛び込もうとした刹那だった。

 目の前に笑顔の沙耶香がいた。

 ほらと言って、赤ん坊を手渡された。

 岸部はその子を受け取って自分の胸に抱いた。可愛らしい子だった。すやすやと眠っている。何か温かいものがやってきて岸部を包み込んだ。

 岸部は恥も外聞もなく大声で泣いた。

 岸部の心は叫んでいた。僕は沙耶香を愛している。深く愛している。

同時に、岸部の心の奥深くにあった沙耶香に対する疑いやわだかまり、自分を苛む思いなどが全て剥がれ落ちていくのを感じた。

 ひとしきり泣くと、また深い眠りに落ちた。

 そして彼は、目覚めた。

シーツが涙で濡れている。

夜が明ける寸前の柔らかな光によって部屋の中の何もかもが青みがかって見える。

 何日間も眠っていたような気がした。

 岸部は、顔を洗い、着替えてロビーに行き、チェックアウトをした。出てきた男は、あのウエイターではなかった。タクシーを呼んでもらい、河口湖駅に行った。

 河口湖駅の後方に聳え立つ富士山は、岸部が夏に見た荒々しいものではなかった。それは、白く冠雪し、全てを受け入れるかのような優しげな女性の姿に思えた。

 岸部は、駅のホームでベンチに座り電車を待つ。

彼の腕には、赤ん坊を抱いた感触があった。そこには重みだけでなく温かな体温までもが残っていて、岸部はそれを愛おしく感じた。

電車に乗った。

 早朝の電車は空いていて、岸部は適当に座った。朝の陽射しが山々を照らし始めている。

 しばらくすると、彼は強い空腹を感じ、新宿に着いたら何か食べようと思った。そしてその後、沙耶香に連絡をしようとも思った。

 窓外に流れる景色は、赤や黄色に色づいた目にも鮮やかな紅葉の山々が続く。

 その景色は、時間とともに、家々が連なる街の風景へとうつり変わっていく。

 電車は少しずつ混み始め、駅を経るごとにビジネスマンや、学生たちが次から次へと乗り込んでくる。

 新宿に近づく頃には、岸部の周りは人で溢れ返っていた。

 

 翌年の春、岸部と沙耶香は結婚し、しばらくして女の子が生まれた。

 さらに2年余りが過ぎ、夏になると、岸部と沙耶香は、三人であの河口湖のホテルに行こうと思い立った。

 岸部はホテルに電話して、予約を入れた。

 3年ほど前にお世話になった者ですが、地下のバーにおられたバーテンダーさんはまだ変わりなくいらっしゃいますかと聞くと、フロント係と思われる男性は、

「バー・・でしょうか。少々お待ちください」

 と答え、保留音の軽快な音楽が鳴る。

「お電話代わりました。わたくし、支配人をしておりますNと申します。当ホテルには現在、バーはございませんで、はい。相当昔にはあったやに聞いておりますが、詳しい者がすでに辞めてしまっておりまして、はい。ええ、ぜひ、お待ちしております」

  

                                          了

ペットの男

 

タワーマンションに住むような人間は本物の金持ちじゃないのよ」

 情事の後、詩織は言った。

「どうして?」

 無性にタバコが吸いたいのを堪えていた亮平は、どうでもいい話だとは思いながらもそう聞いた。

「見下ろすことに快感を覚えるのは劣等感の裏返しなの」

「別に見下ろすというより、夜景が綺麗だとか、遠くの山々が見えるとか、そういう人もいるんじゃないの」

「高いところに住むかどうかという選択肢というか、価値観の問題よ」

 亮平にはよく理解できなかったが、それ以上何かを言うのは避けた方がいいと判断した。それに何よりとにかくタバコが吸いたかった。

 竹下亮平と佐野詩織は、その日、南青山のKというレセプションホールで行われた、30代限定の婚活パーティーで知り合った。

 男性10万円という高額な参加費は、都内で開業医をしているYが支払った。Yは、亮平の高校時代からの遊び友達で、異なる大学に進学してからも、卒業して異なる仕事に就いてからも、友人の少ないYは付き合いの良い亮平に定期的に連絡をしてきた。

 迎えに来てくれたタクシーに乗り込むと、

「悪いな、亮平、付き合わせて」

「いや、どうせ暇だったし構わないよ」

「じゃ、向かってください」

 Yは運転手に向かって言った。

 車は、青山通りから表参道を東に折れ、根津美術館手前で南に入って行った。

 そのレセプションホールはいわゆるアートスタジオのような広々した空間で、入り口に掲示されたポスターは、彫刻や絵画の個展や写真展などが開催予定であるとアナウンスしていた。

 ロビーから螺旋階段を上がると、正面には受付が用意されていて、黒服の男女二人が慇懃な態度で迎える。

 会場の入り口でウエルカムドリンクを持った黒服の男女がいて、亮平は、スパークリングワインを手に取って会場に入った。開始まで15分ほど余裕があるせいか、参加者は多くはなく、男性が4、5人、女性が3人ほどだった。

 腕時計で時間を確認した亮平は、Yに目配せし、グラスをテーブルに置くと会場を出た。受付の男性に、喫煙はと聞くとロビー横に喫煙ルームがありますと言う。

 螺旋階段を下り、ロビーを横切って目立たない場所にある喫煙ルームに入った亮平は、立て続けに3本吸った。

 会場に戻ると、ちょうどパーティーが始まり、おきまりの一対一の自己紹介タイムがスタートした。

 女性が座っているところに、男性がやってきては10分ほどで順次交代していく。

 女性は6人だった。

 亮平を見た女性たちは、舞い上がり、自分がいかに才女で、ピアノやバイオリンが出来、英語に堪能で、料理が上手で、子供好きで、家庭を切り盛りする才覚に溢れているかを熱く語った。しかし、それは、亮平の自己紹介が始まるまでだった。平凡な自己紹介が終わると彼女たちの亮平への興味は冷め、あからさまに次に向かいたがり、そわそわするのだった。

 亮平は、3人が終わる頃にはもうタバコが喫いたくてそればかりを考えていた。

 5人目の女性の時だった。

「あなたの興味は女性じゃなさそうね」

 名乗りもせずいきなり言われ、亮平は返す言葉に窮した。

「いいのよ。別に。でもお金には興味があるでしょ」

 その一言で亮平は、タバコに持って行かれていた意識がその女性に向いた。

 女性は佐野詩織と言った。歳は、亮平より3つ上で38歳。高級インテリアの輸入販売をしていて、銀座を始め都内のしかるべき場所に店舗をいくつも持つ経営者だった。

「このすぐ近くにもあるわよ」

 涼しい顔で詩織は言った。

 詩織は、特別美人ではなかったが、化粧映えのする派手な目鼻立ちと、ボディラインを強調したドレスに身を包んだ豊満な体は、いかにも男好きのする女性だった。

「後でゆっくりとお話ししましょう」

 一対一のコーナーが終わり休憩となるや否や、亮平は喫煙ルームに駆け込んだ。

 亮平がタバコを覚えたのは高校生の頃で、父親のハイライトを一本盗んでおき、親のいない時に吸ったのが最初だった。友人たちは初めてのタバコはむせてしまって吸えたもんじゃないと言ったが亮平は違っていた。こんな旨いものがあるのかと思った。亮平のタバコ好きは社会人になっても変わらず、一日二箱のタバコを吸い続けていた。

 休憩を挟んで、会場に設えてある止まり木や、ソフア、バーカウンターなどで、気になる相手と会話するフリータイムとなった。

 亮平は、会場の隅で、ちびちびと白ワインを嘗めていた。

 詩織の周りには、数人の男たちが取り囲んでいたが、彼女は、亮平を見つけると彼らを押し退けるようにして、一直線に、しかし優雅な足取りで彼の元へとやってきた。

「あら、お一人なのね」

「まあ、そうですね。場違いですから」

「場違い? 私にはそう見えないけれど」

「そうですか。しかし、貴方も含めてこのパーティーの参加者は、それなりのステータスの人ばかりでしょう。僕は違いますから」

 詩織はさも愉快そうに笑った。

「面白いことおっしゃるのね。まあ、いいわ。とにかくここを出ましょう。疲れたし、落ち着いたところに行きたいわ」

 そう言うと、詩織は踵を返し、会場出口へと向かった。亮平はどうしたらいいのか、逡巡したが、有無を言わせないような詩織の言葉と態度に、追いかけるようにして出口へと向かい、その途中でYを目で追ったが見当たらず、そのまま会場から出た。

 螺旋階段を降りると、詩織が待っていた。彼女はパーティーの受付にいた黒服の男性に何やら囁き、男性は頷いてどこかに電話を掛けた。

 亮平は身の置き場のないような思いで、その場に突っ立っていた。

 しばらくして、会場前に、車がやってきた。

「さあ、乗りましょ」

 詩織に促され、運転手が開ける後部座席に亮平は乗り込んだ。

 初めて乗る車だった。

「これは何という車ですか」

ベントレーよ。イギリスの車」

「どちらまでお送りしましょうか」

 運転手が言った。

「うちでいいわ」

「承知しました」

 車は流れるように走り出し、10分ほど走って、広尾にある瀟洒な低層マンションの地下にある車止めに入って行った。

 車を降りると、

「佐野様、お帰りなさいませ」

 とコンシェルジュが言い、観音開きの荘重なドアが重々しく開く。

 奥のエレベーターに乗り込み、詩織がカードキーをかざす。フロアを示すような表示はない。エレベーターの扉が開くと、そこは、玄関前の踊り場になっている。他の部屋は見当たらないので、フロア全体が詩織の占有となっているようだった。

「どうぞ、入って」

 10畳はあろうかという玄関を抜け、大人二人がゆうにすれ違えるほどの廊下を進み、いくつかの部屋のドアを通り過ぎてリビングに入ると、そこは50畳ほどもある広大な空間が広がっていて、明らかに高級そうな黒革の大型ソファセットが2脚に、ぼんやりと光るスタンドライトが所々に配置され、壁際にはバーカウンター、大きな窓のそばには、人の背丈ほどもある大型の観葉植物がいくつか置かれている。キッチンは見当たらない。

 さすがにインテリアの輸入販売をしているだけあって、まるで、外国の映画やドラマで見るセレブが暮らす部屋のようだった。

「どうぞ、適当に掛けて。くつろいでくれていいわよ。飲み物は何がいいかしら」

 そう言われて、亮平は喉が渇いていることに初めて気づいた。彼はビールを頼んだ。

 3人がけのソファの両端に亮平と詩織は腰掛け、ビールと赤ワインで乾杯をした。

「私がなぜ今日、貴方を選び、ここに連れてきたかを教えてあげる」

 彼女は、そう言ってソファに深く身体を預け、赤ワインを一口啜った。

 詩織の顧客は、様々な業界の本物の金持ちばかりであって、彼ら彼女らは、基本、お金でモノの価値を判断しない。例えば、あるインテリアを詩織が100万と言えば、100万であり、1億と言えば1億になるだけのことである。そのような価値観の人々は、自分の持つ価値観には徹底的に拘り、金に糸目はつけず決して妥協はしない。

 彼らのなかには、多くはないが同じ価値観の人がいて数人のグルーピングが形成され、そこでは独特の遊びというか愉しみ方が存在すると詩織は言った。

「貴方には私のペットになってもらいたいのよ」

「ペット……」

「貴方と契約したいの。3年で3千万。それでどう?」

おっしゃっている意味がよく分かりませんと、亮平が正直に言うと、

「貴方はダイヤの原石だと私は思ってるの。私のグループの集まりに連れて行きたいのよ。自慢したいの。皆、それなりの男性を連れてくるけれど、きっと貴方が一番になるわ」

「その集まりに一緒に行くだけですか? それとも他にも何かあるのですか?」

 詩織は、赤ワインを飲み干し、妖艶な笑みを浮かべた。

「もちろん、それだけじゃないわ。貴方はペットなんだから。この意味分かるわよね。主人である私が望めばいつでも貴方はそれに応えなければならない。でも、それ以外は全て自由よ。他の女と遊ぶのも、どこで何をするのも構わない」

 逡巡する亮平に、

「少し時間をあげる。それに、試してみないと判断もつかないわよね」

 詩織はそう言うと、身体を起こし、亮平の手を取った。

 ベッドでの詩織は、見かけと違い品の良い淑女のようで、亮平を驚かせ、さらに、その身体は若い女性にはない成熟した女の魅力があった。

「どう? 少しは考えはまとまったかしら」

 情事の後、うつ伏せの詩織は、亮平に顔を向けて言った。

「僕には仕事があります。急な呼び出しとかには応えられないかもしれません」

 仰向けの亮平は天井を見たまま言った。

「仕事ねえ。じゃあ契約金を倍の6千万にするから仕事を辞めてここに住みなさい。それならいいでしょ」

 1ヶ月後、亮平は、再び詩織のマンションを訪れた。

 リビングには、詩織の他に、パリッとしたスーツで身を包んだ50代と思しき男性がいた。

「顧問弁護士よ。契約はいい加減にはできないから」

 顧問弁護士は、アタッシェケースから書類を取り出し、一部を亮平に渡すと説明を始めた。それは詩織に聞いていた内容と同じであったが、さらに違約金という項目が付加されていた。亮平が、定められた内容に違反すると、契約金の6千万はそっくりそのまま返金せねばならない。

「それともう一つ。特約を付けたいのよ」

 詩織がそう言うと、顧問弁護士がさらに書類を一部亮平に手渡した。

「契約期間の間は、タバコを吸わないこと。貴方がヘビースモーカーなのは匂いで分かってる。私は他人が吸うタバコにどうしても我慢できないの。いい? 絶対にタバコを吸わないこと。私の前だけじゃなく、どこででもよ。それが守れれば、別に1千万払うわ。でも、もし一本でも吸ったら、違約金として全額返してもらうけど」

 急に言われた新たな提案に、亮平はどうすべきか迷った。大好きなタバコを止めるのは簡単ではない。しかし、すでに会社の上司には、退職する旨を伝え、不動産屋にも部屋の退去を申し出てしまっている。それに、亮平の頭には金の計算があった。

契約違反さえしなければ、3年間で、7千万もの金を手にすることができる。こんな大金を掴めるチャンスはまずない。仕事はまた探せばいいし、セレブの集まりに行って、たまに詩織の相手をするだけだ。タバコが吸えないのは何よりも辛いが、それも7千万のためだと思って3年我慢すればいい。

「タバコのことですが、匂わない対策を徹底してもいけませんか」

 ダメもとで亮平が言うと、

「ふふ。どうしても吸いたいのね。ただ厳密に言うと、匂いじゃないのよ。貴方にはタバコをやめて欲しいの。これは分かってくれないかもしれないけれど、私の価値観なの。だから1千万払うのよ。まあ、どうしても嫌ならこの話は無かったことにさせていただくわ」

交渉で詩織に勝てるとは思えず、結局、亮平は契約書にサインした。

 

詩織のセレブグループの集まりにやってくるのは、6人で、詳しくは明かされなかったが、身につけているジュエリーや時計はもちろんのこと、別荘や高級車をはじめとしてプライベートジェットからクルーザーなどの所有物から付き合いのある政財界や芸能界、あるいはプロスポーツ界の人々の名前に至るまで、言葉の端々からは、相当なレベルのステータスにある女性たち、もしくはその夫の妻であることを窺わせた。

彼女たちは、全員、ペットの男たちを連れてきていた。

ペットは、20代前半から40代後半くらいまで年齢層は様々で、日本人のみならず、白人が二人に黒人も一人いた。共通していたのは、その誰もが、単なるファッション雑誌の表紙を飾るようないい男というだけではなく、立ち居振る舞いから場に適応した豊富な話題まで、個性的であり、かつ洗練されているように亮平の目には映った。

初めて、亮平がペットとして参加した夜、それは、グループのうちの一人の別宅でのことだったが、頭のてっぺんからつま先まで、容赦なく品定めする女たちの無言の視線に晒された。

それはほんの短い時間だったが、亮平は、その視線に、生まれて初めて、言い知れぬ無力感と屈辱を味わった。まるで本当にペットショップに売られてきた子犬のように自分を感じた。

見た目は可愛いらしいけど、それだけね。中身は何もないわ。

女たちの視線はそう言っていた。

亮平はその場を逃げ出したくなり、同時に無性にタバコが吸いたくなったが、これも大金のためだと何度も自分に言い聞かせた。

詩織の一方の要求は、週に2度ほどだったが、求められるときには、何度も求められ、辟易しながらもやはり金のためだと言い聞かせた。

とはいえ、日中は特に何もやることがなく、日がな一日、詩織の広大なマンションの一室でテレビやスマホでユーチューブを見たり、買ってきた雑誌を読んだりして過ごした。

 初めの頃は、会社に行かなくて良い解放感や、部屋にある高級な食べ物や飲み物を好きなように味わえる贅沢もあって、それなりに楽しんでいた亮平だったが、そんな生活に飽きが来ると、途端にタバコで頭が一杯になり、吸えないと思うと、余計に吸いたくなる衝動に駆られてしまう。亮平は、自分がおかしくなりそうになり、なんとか気を紛らわせようと考えた。

「ジムに行こうと思うんだ」

 ある夜、亮平は詩織に言った。昼間、疲れてしまえば、夜はその疲れで眠ってしまい、タバコのことを思い出さなくて済むと思ったのだ。

「あら、いいじゃない。知り合いのジムがあるからそこへ行ったら」

 亮平は、広尾駅からほど近いビルにあるジムに通うようになった。

 3ヶ月ほど経って、身体つきが精悍さを増してくると、敏感なセレブ女たちの亮平を見る目が変わってきた。亮平のひ弱そうだった首や肩、胸周りに筋肉がつき、それは、ワイシャツのサイズが変わったことでも分かった。

 亮平はそれに気を良くして少しばかり自信を持つと、時間だけはふんだんにある彼は、その時間を利用してあのセレブ女たちを見返そうと思い立った。

 カルチャースクールに通い、歴史から音楽、絵画に文学と様々な講座を次から次へと受講し、図書館に行って、関連図書を読み漁り、さらにユーチューブで投資の勉強も始めた。セレブ女たちが必ずする話題の一つは、株やFX、暗号資産など投資の話だったからだ。

「S商事の株が上がりそうだってある人が言うんだけどどう思う?」

 グループの集まりで、一人の女が言った。他の女たちが首を傾げる。

 亮平は、スマホを素早く見て、

「S商事は、ファンダメンタルも強いですし、ここ最近の出来高も増加しています。移動平均線の長期も短期もじりじり上げてきていますね。株に絶対はありませんが、買いに適した時期ではあると思います」

 そう言うと、亮平を見る皆の表情が驚きに変わる。

 さらには、社交ダンスまで習いに行ったがそれにも理由があった。

「いつか社交ダンス始めようと思ってるのよ」

 セレブグループの集まりで、6人の中でも最も資産家であろうと思われる40台半ばのMという女が言った。

「あら、いいわね」

 他のセレブ女たちの何人かも同調した。

「でも、ちょっと街のクラブへ素人同然に行くなんて恥ずかしいじゃない」

「そうよね。でもそれなら誰かに来てもらってマンツーマンで教えて貰えば」

「うちのが嫌がるのよ」

 そんな会話を亮平は耳にしていた。

「社交ダンスに行こうと思ってるんだけど」

 ある夜、詩織に言うと、

「社交ダンス? どうして?」

 珍しく理由を聞いてくる。

「大学に社交ダンス部があってさ、友達がやってて大会に見学とか行ったことがあってね、実際見てみると結構凄いんだよ。一度やってみたいとは思ってたんだけど、今までなかなか機会がなかったから」

 亮平は適当な言い訳をした。

訝しげな目つきで亮平を見た詩織だったが、結局は、いいわよ、行ったらと言った。

 ジムで鍛えていたせいもあってか、社交ダンスクラブに行き始めた亮平は、すぐにそこそこ踊れるようになった。教師は驚き、かつそこに来ている多くの女性を虜にしてしまい、誰もが亮平とパートナーを組みたがった。

 セレブグループの集まりのほとんどは、女たちの自宅か別宅、あるいは一流ホテルで行われていたが、その日は、赤坂のホテルで行われた後、一人が飲み足りないと言い出し、赤坂でも有名なC倶楽部という会員制のラウンジに行くことになった。

 そこは、正面に生バンド、中央にダンスフロアがあり、周りを取り囲むように、ボックス席が設えてあった。

 6人の妖艶な女とモデル雑誌から抜け出たような6人のペットが現れると、他の客たちの視線は彼らに釘付けとなった。

 12人は、最も大きなボックス席を陣取り、店で最も高価とされるシャンパンのサロン・ヴィンテージを3本開けさせた。女たちはすでに結構酔っていて、女子学生のようにはしゃぎ、ペットの膝に座る者や、目を盗んで短いキスをする者もいた。詩織はそんな女たちを自分は違うと言わんばかりの侮蔑するような表情で眺めていた。

 それまでのジャズバラードから一転して、バンドが、ラ・ブルサ・アルスを演奏し始めると、

「踊りませんか」

 亮平は、立ち上がり、Mに手を差し出した。皆の興味津々の視線が集まる。

「え? 私? 私は無理よ」

「僕が教えて差し上げますから。行きましょう」

 ラ・ブルサ・アルスは社交ダンスの一つである、チャチャチャで使われる代表的な曲だった。

 中央のホールでは、ダンスに心得があると思われる数組の中年の男女が、足をよろつかせながら踊っている。

 Mの手を引いた亮平は、基本のステップを簡単に教え、曲に合わせて踊り始めた。

 リズムに合わせた亮平の腰が怪しげにくねり、足は軽やかにステップを踏んだ。

「どうです。馴れれば意外に簡単でしょう」

 10分ほど踊り、Mの背中に手を添えた亮平がそう言いつつボックス席に戻ると、セレブ女たちの羨望の眼差しに迎えられた。詩織だけは、勝ち誇ったような満足気な表情を浮かべていた。

 

 3年間の契約期間が無事終了し、詩織との約束通り、亮平は7千万円を手にした。

「やっぱり私の見立ては間違ってはいなかったわね。それで提案なんだけど契約を延長したいの。あと、3年。1億払うわ。どうかしら?」

 詩織はそう言った。

 亮平は、ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。

「僕のこれからの3年間の価値が1億ですか」

 そう言って、亮平は深く吸い込んだタバコの煙を、詩織の顔に吹きかけた。詩織はその煙を手で払い、苛ついた表情で、

「いくらならいいのよ。はっきり言って」

「それは僕が言うことじゃありません。貴方の価値観で貴方が決めることでしょう。それが本物のお金持ちなんですよね」

 詩織の顔はみるみる紅潮していく。

「じゃあ1億5千万払うわ。それなら文句ないでしょ」

 亮平はそれには答えず、タバコを咥えたまま、詩織の部屋を後にした。

 

 翌月、開かれたセレブグループの集まりに、亮平は参加した。

 Mのペットとして。

           

                     了  

豆御飯(改稿版)

豆御飯                           

 

 

 日曜日の昼過ぎの駄菓子屋は子供たちで一杯だった。

 その店は、家の近所の駄菓子屋よりも広く、種類も豊富に健吾には見えた。

「おばちゃん、これいくら」

「それは10円だよ」

「じゃこっちは」

「それは20円だね」

 子供たちの声に、小上がりの座布団に座ったおばちゃんが答える。

 子供たちは、持っているお金と欲しい駄菓子を天秤にかけて考えている。

 そのうち思い思いの駄菓子を片手に、もう一方の小さな手で小銭をおばちゃんに渡す。お釣りがあると、おばちゃんは、足元にある書類ケースのようなところを開け、3円とか5円を、また子供たちの手に戻す。

 健吾は、親戚のおばあちゃんに貰ってきた500円玉を右手に握り、左手は妹の小さな手を握っていた。知らない店に来て健吾は少し緊張していた。いつもの駄菓子屋なら友達ばかりなのに、知らない子たちばかりだと思った。

「おにいちゃん、これがいい」

 と妹が言った。

 妹が指差したのは、見たことのない駄菓子だった。早く買って帰りたい健吾は、それを取って、おばちゃんに聞くと、50円だよと答えた。健吾は、もう一つ取って、500円をおばちゃんに渡して、400円お釣りを貰った。どこからか、いいなあという声が聞こえた。

 おばちゃんは、それを寄越しと言った。健吾が渡すと、片手で持てるようにと二つとも小さなビニール袋に入れてくれた。それを持って帰ろうとすると、店の出口に、とうせんぼをするように何人かの男の子がいた。5年生か6年生か、3年生の健吾より大きく高学年の子に見えた。健吾は、嫌な感じがしたが、妹の手を引いて間をすり抜けるように出ようとした。

 店の外に出たと思ったとき、お尻の辺りを後ろから蹴られた。痛くはなかったが、健吾は、怖くなった。そして、振り返るとケンカになるような気がして、振り返らなかった。妹を守らなきゃと思った。

 おばあちゃんの家に着いた健吾は、ずっと不機嫌だった。買ってきた駄菓子を妹が食べたいと言っても、まだ駄目と言って食べさせなかった。自分もなんとなく食べたくなかった。心配したおばあちゃんが気にかけて、どうしたのと聞いても、むくれて何も答えなかった。健吾たちのために買ってくれていた玩具も、晩御飯に連れていってくれた大好きな寿司屋にも、健吾の機嫌は直らず、翌日、両親が迎えに来た時も健吾はむくれていた。おばあちゃんはどうしたんだろうねえと言った。

 帰りの車の中で、健吾は、ずっと自分が負けたんじゃない、妹を守ろうとして我慢しただけだと自分に言い聞かせていた。それでも、お尻を蹴られた時の恐かった気持ちを思い出すと、やっぱり自分が負けたんだと思って嫌になった。そんな気持ちになったのは初めてだった。

 家に帰ると、母親が機嫌を直そうと思ってか、健吾の大好きな豆御飯を作ると言った。それで健吾は少し気分が良くなった。ずっとむくれていてバツの悪い思いのあった健吾は、母親を手伝おうと台所に行った。母親に言われるまま、えんどう豆をサヤから出して透明のボウルに入れた。残ったサヤは、生ごみ入れに捨てた。母親は、炊飯器に米を入れて研ぎ、ほら、ここに少しお酒を入れると美味しくなるんだよと言った。それから健吾の剥いたえんどう豆をボウルから炊飯器に入れ、塩を振って、蓋をした。

 しばらくすると父親が帰ってきて、

「お、今日は豆御飯か」

 と言い、

「健吾のおへそがね、直るようにね」

 と母親が笑った。

豆御飯を食べて満足した健吾は、リュックに入れてあった駄菓子を出して、ビニール袋を破り妹と仲良く食べた。

 

 中学校に上がると、健吾は剣道部に入った。これと言った理由もなく、ただなんとなく入った。強いて言えば、たまたま見たテレビ番組で、お笑い芸人が剣道をやっている姿を見て、そのギャップに驚き、凛々しく見えたせいかもしれない。そのくらいの軽い気持ちだった。

 大人ほどに見える3年生の先輩に命じられ、体育館の横の小部屋に行き、棚に並んだ面や、胴や小手と、持つところが擦り切れた竹刀を持って、体育館に入ると、新入部員の1年生2人はまず正座をさせられた。

 クラブの顧問をやっている先生は、剣道は礼に始まり礼に終わる、体でなく心を鍛えるものだと言い、いかに剣道が人生で大切なことを教えてくれるかを語った。話を聞いているうち、すぐ健吾の足は痺れてきた。頭の中は、早く話が終わって欲しいという思いで一杯になっていた。健吾は違うことを考えようと思った。出てきたのは豆御飯だった。なぜご飯を炊く前に、お酒を足すのがいいのかを考えた。お酒を足すと豆がふっくらとすると確か、母親は言ったが、なぜ酒で豆がふっくらするのか健吾には分からなかった。父親が酒を飲むと、顔が赤くなって上機嫌になるので、豆も同じようになるのかと思ったりした。

 顧問の先生の剣道の話が終わったと思ったら、今度は、主将が出てきて、防具の付け方のレクチャーが始まった。それも何とか我慢して、ようやく正座から解放され、痺れる足をさすり、さすり、実際に防具を付けてみたが、被った面のあまりの臭さに驚いた。古い汗が染み付き、すえたような、台所の生ごみが捨ててある所のような、なんとも言えない匂いがした。健吾は剣道部に入ったことをもう後悔していた。やっぱり美術部に入れば良かったと思った。小さい頃からずっと絵を描くのが好きだった。絵を描いていると時間を忘れたし、皆が健吾の絵を見て褒めてくれた。母親と行った日本橋高島屋で、たまたまやっていた絵画コンクールで絵を描いた。それは、リンゴと食器が台の上に置いてあって、それをその場でデッサンするのだが、健吾は、母親がいるのも忘れ何時間もかけて描いた。それは見事に選に選ばれた。健吾は、飾られている間、何度も自分の絵を見に高島屋に連れて行ってもらった。

 防具を付け終わると、竹刀を持つことなく、その格好のまま、体育館の壁際をぐるっとウサギ跳びをさせられた。一周も満足に出来なかった。途中で止まると、先輩が来て竹刀で床を何度も叩いた。結局、3周させられ、健吾たち1年生2人は、それだけでヘトヘトになった。その後、竹刀を持って素振りを300回して練習は終わった。

 来る日も来る日も臭い防具を付け、ウサギ跳びと素振りばかりやらされた。学校に行くのが嫌で嫌でしょうがなかったが、それでも何とか健吾は耐えた。剣道はすでに嫌いになっていたし、強くなろうなどとは、これっぽっちも思っていなかったが、先輩が怖かったのだ。

 蒸し暑い梅雨の時期になると、さらに面の匂いがひどくなった。

 その日も、滴り落ちる汗で体育館の床を濡らしながらウサギ跳びを終えた健吾たちに、

「よし、今日から打ち込みだ。竹刀を持って集まれ」

 主将が言った。

 健吾たちは、先輩と相対して、互いに面や胴、小手を打ち合う稽古を始めた。

 竹刀で打たれるのが、これほど痛いものかと健吾は思った。面も頭のてっぺんに目が眩むほどの衝撃が走るが、特に小手は思わず竹刀を落としてしまいそうになる。さらに胴は、上手く防具を捉えてくれればいいが、時折、カバーされていない脇の下あたりに入ると、その激痛にしゃがみ込んでしまうほどだった。先輩は思い切って打ち込んでこいと言った。健吾も打ち込むが、それは弱々しいもので、もっと強く打てと叱られた。健吾には打てなかった。そういう気持ちというか、憎くもない相手を打つには何かが自分には不足していた。打ち込みが終わると、面を取った先輩はにやにやして言った。

「お前みたいな弱々しい新入生は初めてだよ」

 なぜかこの言葉で健吾は先輩が怖くなくなった。

 

 健吾は、夏休み前に剣道部を辞めた。職員室に顧問の先生を訪ねて、辞めさせてくださいと言うと、先生はあっさり、ああ、そう、分かったと言った。叱られたり、説教されるんじゃないかと身構えていた健吾は、ほっとした。

 辞めたことを母親にも父親にも言わなかった。いずれは分かると思ったが、それはその時でいいと思った。一緒に入ったもう一人の同級生は辞めなかった。その生徒は蓮くんといって、健吾よりもずいぶん小柄で、長い竹刀に振り回されているような感じでとても続かないだろうと思っていたが、蓮くんは、頑張って先輩みたいに強くなるんだと言った。その気持ちが健吾には全く理解できなかった。先輩が強いとは思わなかったし、とても強くなれるとは思えなかったからだ。やっぱり辞めて良かったと思ったが、辞めてからしばらくすると、健吾は、自分が情けなく思えてきた。自分に負けたような気がしたし、嫌なことから逃げたような気がしてきた。その後ろめたいような気持ちが、親に辞めたと言えない理由だとその時気づいた。

学校で、剣道部の先輩に会うと、睨み付けられたりして嫌だったがそれも少しの間だったし、そのうち段々と忘れてしまった。

 2年生になると、クラスも変わり、友達も増えて少しずつ中学生活が楽しくなってきて、好きな女の子も出来た。違うクラスだったので、たまに見かける姿を遠くから眺めるだけだったが、それでも健吾には十分満足だった。それなのに修学旅行で友達に話してしまったから、それからは、彼女を見かけると、一緒にいた友達がわざとらしく囃し立て、そのせいで、彼女に伝わったようだった。なぜか彼女とよく目が合うようになったからだった。それまで彼女が自分を見ることはなかったのに、廊下などですれ違うときに、不思議と目が合った。行き過ぎて、振り返ると、彼女の友達が自分の方を見て、何やらはしゃいで彼女に囁いているようなこともあった。そんな時、健吾は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。

 秋の運動会の練習をしていた日、喉が乾いた健吾は水飲み場に行った。残暑の残る9月のひどく暑い日だった。

 すでに多くの生徒がいて5つある水飲み場の順番待ちをしていた。健吾も待っていた。

「横入りはやめろよ」

 と隣の列で待っていた男の子の声が聞こえた。見ると蓮くんだった。後から来た生徒が、蓮くんの前に割り込んだのだ。でも割り込んだその生徒はニヤニヤしていたので、最初健吾は二人は友達同士で、冗談でやったのかなと思った。ところが、蓮くんが、割り込んだ生徒の体操着を引っ張って無理やりどかそうとしたものだから、その生徒が蓮くんを突き飛ばした。健吾は、あっと思った。蓮くんは、後ろに倒れ込んで尻もちをつくと泣き始めてしまった。健吾は、それを見て可哀想に思った。酷いことをすると思った。割り込んだ生徒を見ると、またニヤニヤしていた。不意に健吾は激しい怒りを感じて、思わずその割り込んだ生徒の顔を右手で殴りつけた。殴られた生徒は顔を庇うような仕草をし、頬を手で押えて蹲ってしまった。すぐ周りが騒がしくなって、先生たちが何人かやってきた。

 職員室で事情を聞かれ、先生から連絡を受けた母親がやってきた。健吾が殴った生徒の母親もやってきて、健吾の母親は、二人に一生懸命謝った。母親に促され健吾も謝ったが、悪いことをしたとは全く思っていなかった。自分は正しいことをしたと思った。さらに言えば、殴って自分はあの悪いことをした生徒に勝ったのだと誇らしささえ感じていた。

 家に帰ると、母親は、何も言わず豆御飯を作ってくれた。仕事から帰ってきて事情を聞いた父親も、健吾には何も言わなかった。いいとも悪いとも言わなかった。ただ、そうかと言った。

 翌日の学校では仲の良い友達が、

「やったな、健吾。すごいじゃん。一発ノックアウトって天心かよ。カッコ良すぎるだろ。でも俺、健吾の友達でよかったあ」

と言った。

「そんなことないよ。先生にも親にもめちゃくちゃ叱られて大変だったんだよ」

 なぜかそう言った方がいいと健吾は思った。

登校してきたヤンキーっぽい生徒が、健吾を見て目を伏せた。心なしか女の子たちも、そういう目で自分を見ているように健吾は感じて、なんとなく気分が良かった。

 

 健吾に殴られた男の子は、優斗といった。

 あの水飲み場で、優斗は、並んでいる蓮を見つけた。後ろからそっと近寄って、いきなり横入りした。こんな小さな嫌がらせのようなちょっかいはいつものことだったが、みんなの前だったせいか、珍しく蓮が声を荒げた。どうせ大したことはできないだろうとたかを括っていたが、蓮が体操着を引っ張ってきたので押し倒してやると、やっぱりメソメソ泣き始めた。

 その時、いきなりゴンと言う音とともに左頬に衝撃があった。強い痛みがすぐ後からやってきた。誰かに殴られたと気付いたが、また殴られるのが怖くて、思わず頬を押さえて蹲った。何が起こったかよく理解できないまま、優斗は先生に連れられて職員室に行った。先生には、自分は何もしていないのに、いきなり知らない生徒に殴られたと言った。しばらくすると母親がやってきて、先生たちにすごい剣幕で捲し立て始めた。

「どうしてうちの優斗が殴られたんです?一体、優斗が何をしたって言うんですか?きちんと説明してください!」

 先生は一生懸命何かを説明しようとしていたが、母親の怒りは収まらなかった。そこへ、優斗を殴った生徒とその母親がやってきて、自分と母親に謝った。見たことのある生徒だった。優斗はなぜ自分や蓮と何の関わりもないはずのこの生徒は自分をいきなり殴ったのだろうと思った。そして、この前、読んだ本に書いてあったことは本当だったのかもしれないと思い始めた。

 図書館で借りたその本は、前世とか生まれ変わりについて書かれていて、オカルト好きの優斗の興味を引いた。そこには因果応報とあり、人は何か良いことも、悪いことも、そのしたことの結果は、様々な予期しない形で必ず自分に返ってくると書いてあった。へえ、そうなのかと思い、優斗はそれらしきことが過去になかったか考えてみたが、何も思い当たらずそれきり忘れていた。

 ところが、あの水飲み場で、この知らない生徒にいきなり殴られたことは、因果応報ではなかったかと思ったのだ。そうとも考えないと説明がつかなかった。盗み見るように顔をよく見てみるが、いきなり知らない人間を殴りつけるような生徒にはとても見えない。どちらかと言うと、真面目で大人しい感じがする。蓮にしてきた数々のことが、巡り巡ってこの生徒を通じて自分に返ってきたのかもしれないと考えた。優斗は、蓮とは友達だと思っていたが、ちょっとしたことですぐおどおどする蓮を揶揄ったりするのが楽しかったし、体が小さくて体育も苦手だった蓮は、クラスの女子たちでさえ馬鹿にしたりしていたので、それを特に悪いことだとも思ってはいなかった。

 優斗は、自分の母親が殴った生徒の母親に激しく言い募るのを、もう止めて欲しいと頼んだ。先

生にも本当のことを言った。自分が蓮の前に横入りして、怒った蓮を押し倒したのだと。それを聞

いた母親の怒りがようやく収まった。

 翌日、学校に行った優斗は、教室に一人座る蓮の前の席に座った。そして言った。

「昨日はごめん。本当にごめん。もうこれから蓮が嫌がることは絶対にしないから」

蓮は半分信じていないような顔で優斗を見ていたが、最後は笑ってわかったと言った。

優斗はほっとして、窓側の自分の席に戻った。何人かの友達がやってきて、そのうちの一人が、

「殴ったやつにやり返すんだろ、優斗」

 と言った。

「ああ、そのうちな」

優斗は曖昧な返事で誤魔化した。授業のチャイムが鳴り、生徒たちは自分の席に戻って行った。

窓から外を見ると今にも雨が降り出しそうな曇天になっていて校庭には誰もいない。とんでもなく暑かった昨日と違って、いきなり秋がやってきたような肌寒い日になっていた。

優斗は、一人、自分のしたこととその帰結について再び思いを巡らしていた。

考えれば考えるほどとんでもない宇宙の秘密を知ってしまったような気がしていた。この世は恐ろしいと思った。小さな頃から甘やかされ、ずっと我儘ばかり言ってもちゃんと生きてこれたのが不思議なくらいに思える。もっと酷いことにならなくて良かったとも思った。とはいえ、知ってしまった以上、これからどうやって生きていくかに思いをさらに巡らした。

 

 健吾は、蓮くんが気になっていた。剣道部で上級生に打ち込まれ、ボロボロになりながらも必死に頑張っていた蓮くんが、尻もち着いたくらいであんなに簡単に泣いてしまったことが驚きだったし、もしかしたらあの生徒にずっといじめられているのかもしれないと思った。もしそうなら、強い自分がなんとかしてやらねばくらいに思った。

 一時限目が終わると、健吾は、蓮くんのクラスを見に行った。ドアのところからそれとなく覗くと蓮くんは思いのほか元気そうで、何やら楽しげに他の生徒と話していた。ほっとした健吾は、自分の教室に戻ろうとして気付いた。自分の殴ったあの生徒が、窓際で一人寂しげに何やら考え込んでいる姿に。その縮こまったような姿を見て、健吾は、初めて自分のやったことを理解した。弱い者いじめをしたと思った。心の底から本当に御免なさいと謝りたくなった。誇らしいと思った自分が恥ずかしくなった。

 教室に戻った健吾は、その後、ずっと自分に殴られた生徒の気持ちを考えていた。

午後から降り出した雨は、学校が終わる頃には本格的な冷たい雨となっていたが、傘を持って来ていない健吾は、濡れるのも構わず家路についた。

 

 

 

 

                                         了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリガー

 僕の紙飛行機が輪っかをくぐったその瞬間、地鳴りのような大歓声が起こった。その場に何百人もいたせいかもしれない。

 隊長は痛いほど僕の背中を叩き、第十六団十五人ほどの仲間たちは、皆、手を叩き小躍りして喜んでいた。たかだか十メートルほど先の、ロープで括られた直径三十センチほどの輪っかを、手作りの紙飛行機で通すゲームだった。富士山の麓の朝霧高原に全国のボーイスカウトカブスカウトたちが一堂に集まった四年に一度のジャンボリーと呼ばれる大会に初めて参加した時のことだ。

 見渡す限りの広い場所に、テントが無数に張られていた。僕にとってあんなに楽しかった思い出は他にはない。唯一人輪っか通しを成功させた僕は一躍スターのようになり、僕の元には聞いたこともない土地の子供たちが集い、せがまれてバッチやワッペン、フラッグなどを交換したりした。初めて聞く方言がわからず何度も聞き返した。近くに自衛隊の基地もあって戦車に乗せてもらったりもした。誰もが無邪気に笑っていた。夕方になると、飯盒でご飯を炊き、手分けしてカレーを作った。炊き上がった米は水が少なかったせいか、火にかけていた時間が長かったせいか、固く、所々焦げていたが、とんでもなくおいしかった。

 食べ終わると、隊長の指示で、広場の真ん中に集まった。中央には、巨大なキャンプファイアー用に、木々が山と組まれ、その周りを何周にも取り囲むようにして、僕たちスカウトの子供たちは座った。すでに日は山の影に落ち、辺りは薄暗く、少し離れた同じ隊の仲間の顔も判然とはしなかった。八月とはいえ高原の肌寒さを感じながらも我慢して座っていると、誰かの号令が遠くに聞こえてちらちらと赤い火が見えた。すると、それはみるみる間に空に届かんばかりの大きな火柱となり、僕たちの顔を赤く熱く照らした。誰の顔も光り輝いて見えた。漆黒へと向かう空と山に対し、その大きな火柱だけが生き物のようにうねり、パチパチと音を立て、火の粉を舞上げて、見ろ、俺は生きてるぞと叫んでいるかのようだった。

 しばらくして誰かが歌を歌い始め、だんだんそれは大きな合唱になった。何曲も何曲も歌った。僕の知らない歌もあったが、合わせて歌った。最初、とても小さな声しか出なかったが、最後には喉が潰れんばかりに声を張り上げていた。前の方では、隊長が、隣を見ると青山くんが、僕と同じようにこれ以上ないくらい大きく口を開けていた。

 

 この年の春、それは僕が小学三年生のことなのだが、僕がカブスカウトに入団したのは母の智子の勧めだった。

「絶対、楽しいわよ。お母さんが保証する」

 僕は気乗りしなかったが母は行けば楽しいのだから行った方がいいと何度も言った。僕にはなんとなく母の気持ちは分かっていた。誰かの紹介で家に挨拶に来た吉田とかいう議員さんやPTAの役員会に出て初めて会う校長先生とも、臆せず親しげに話すような社交的な母と違い、あまり外に出て友達とも遊ばず、どちらかと言えば引っ込み思案で、家で絵を描いていたりするのが好きな僕が心配だったのだ。積極性に欠けると思っていたに違いない。母の口から男の子なんだからという言葉をよく聞いたから多分そうだと思う。あるいは父の満男のようになって欲しくないと思っていたのかもしれない。

 でも僕はこう思っていた。

 自分はお母さんみたいにすぐ誰とでもペラペラとお喋りしたりはしないが、クラスでは手をあげて発言もするし、休み時間には校庭でみんなと遊ぶし、確かに運動神経とかはいい方ではないけれど、かといって足立くんみたいにとんでもなく悪いわけじゃない。僕は僕だと思っているだけで、それはお父さんがいつもお風呂で僕に言っていることだ。でも、たぶんそれをお母さんに言ってもきっと分かってはくれないだろう。僕がカブスカウトに行くのは僕のためだと思っているだろうし、お母さんは自分の思い通りにならないと気が済まない性格だから。

「お父さん、お母さんが行けって言うけど、カブスカウト行った方がいいかな」

 バスタブに浸かり、僕は父に聞いてみた。

「和也は和也なんだから。誰がなんと言おうと和也が決めたらいいさ」

 父は、両手でお湯を掬い顔にかけ言った。いつもの、そして予想通りの答えだった。それ以上何かを父が言うことはないと僕は知っていた。父は無口で、大人しくて、でも優しくて、母とは正反対のようだと思っていたが、母と違って僕のことはよく分かってくれていると思っていた。僕はそんな父が大好きだった。

「そうだよね。僕は僕だもんね」

 風呂を出た僕は早速、母にカブスカウトには行かないと言った。

「いいの?青山くんも行ってるらしいわよ」

 母は僕の返事を予期していたかのようにすぐさま言った。そして、その返答は僕に刺さった。青山くんは僕の一番の仲良しで、少し前に転校してしまっていた。友達の少ない僕は寂しい思いをしていて青山くんに会いたいとずっと思っていたのだ。

「本当に青山くんに会える?」

「同じ団だから会えるわよ」

「うん、分かった。行くよ」

 こうして母の思い通りに僕はカブスカウトに行くことになった。

 

 カブスカウトの入隊式では、みんなの前で挨拶したり、誓いの言葉を言わされたりした。僕はいくつかあるその言葉を一生懸命覚えた。保護者と一緒に大きな声で言わねばならないとされていたから、一週間も前から何度も母と練習を繰り返した。それでも僕はとても緊張し、所々突っかかったり、詰まったりしたものの何とか言い終えた。

「よく頑張って覚えたね。おめでとう。ようこそ和也くん、これからは仲間だ」

 それまで厳しい顔をしていた隊長が微笑んで言った。隊の仲間たちが集まってきて、口々におめでとうとか、これから一緒に頑張ろうねとか、握手したり肩や背中を叩かれたりした。青山くんは最後にやって来て、ちょっとはにかんでいた。

「和也くん、これからまた一緒だね」

「うん、そうだね」

 僕もなんだか照れ臭いような気持ちだった。

 カブスカウトの行事は毎週のようにあって、街頭で募金活動をしたり、集まってロープの結び方を覚えたり、時には近場にハイキングに行ったりした。僕は何より青山くんに会えるのが楽しみで嬉々として出かけた。

 8月初旬の楽しかった富士山ジャンボリーが終わり、夏休みも後半に入ると、恒例の山登りキャンプが企画されていた。母は、やっぱり僕に行かせたかったのだろう。何度もきっと楽しいから行ってきたらと言うが、体力や運動能力に自信のない僕は、気乗りせず愚図愚図していた。

「青山くんも行くらしいわよ」

 母は言い、僕は悩んだ。本音は、青山くんの家に遊びに行くか、こっちに来てもらって二人でゲームをしたり、絵を描いたりして遊びたかったからだ。

 僕は青山くんに電話してみた。

「青山くん、今度の山登り行くの?」

「うーん。和也くんはどうする?」

「青山くんが行くなら行こうかなと思ってるけど・・」

「僕も和也くんが行くなら行ってもいいけど・・どうする?」

「どうしようか」

「・・じゃあ、山登りから帰ったら、僕んちで遊ぶ?」

「うん、そうだね。そうしよう」

 僕は電話を切って、母に山登りに行くことを伝え、帰ったら青山くんの家で遊ぶから車で連れてってと言った。結局のところ母の思い通りになったわけだ。

 

 八月下旬、山登りに参加した僕たち隊の子供たちは、副隊長の運転するマイクロバスに乗り込んで親たちに見送られ長野に向けて出発した。

 キャンプ場でテントを張り、その晩を寝袋で寝た僕たちは、翌朝早く起き出し、近くの冷たく綺麗なせせらぎで顔を洗い、飯盒炊爨で炊いたおにぎりを持って山に向かった。山といっても、子供の足で片道三時間程度の道のりだから、それほどのものでもないと隊長は言っていた。ところが、いざ登り始めてみると、足を取られやすい川や滑りやすい岩場、身を屈めてロープに捕まって登る急峻な場所などがあったりして、決して歩きやすくはない。

 僕は、とにかく必死になって皆について行った。遅れないことだけを考えていた。足元だけを見ていた。汗が額から顔や首にかけて流れ落ち、時々目に入って痛かった。喉が渇いて水が飲みたかったが我慢した。そうやって頑張っているとなんだか楽しくなってきた。自分にも登れそうな気がしてきて余裕が出たのか、皆の顔や足取りや景色さえ見られるようになった。

 登り始めて二時間ほど経った頃、少し広くなっている森の木陰で休憩となった。皆、赤く上気した顔に玉のような汗をかいている。めいめいで持ってきた水筒をごくごくと美味しそうに飲み、お菓子などを食べた。草むらに入って用をたす子もいた。僕は青山くんと並んで座り、持ってきたお菓子を青山くんにあげようとしたが、青山くんはいらないと言った。

「青山くん、大丈夫?」

 青山くんは、うんと言ったが、顔色が悪く、具合が悪そうだった。

「疲れたの?」

 青山くんは首を振った。青山くんは手をお腹に当てていた。僕はきっとお腹が痛いに違いないと思った。でも青山くんは言い出せないのだ。代わりに自分が隊長に言おうかと思った。自分もお腹が痛くなった時はいつもそうだったからよく分かる。授業中でもよく我慢していた。家に帰ってお母さんに言うと、そう言う時は正直に言うの、絶対がまんしては駄目、恥ずかしくなんかないんだからと言われたのを思い出した。でも、青山くんはきっと恥ずかしいから言えないのだ。僕はどうしてあげたらいいかわからなかった。

「おーい。そろそろ出発するぞ」

 隊長の大きな声が響いた。

「いいか。ここから頂上までは少しきつくなるぞ。どうしても疲れて登れない、もう止めたいというならここで止めてもいいぞ。どうだ。誰かいるか」

 僕はほとんど反射的に手を挙げた。

「ん。ああ、一人いたか。和也くんか。本当に止めるのか」

 僕は頷いた。

「ん。聞こえないぞ」

 僕は、はい、止めますと目を瞑って大きな声で答えた。

「そうか。わかった。では、ここから元の道を戻っていい。和也くん、テントで待ってなさい」

 隊長の声は心なしか冷たく響いた。

「どうだ。他にはいないか。いないな。よし。副隊長、すまんがよろしく頼む」

 僕は、水筒やお菓子をリュックサックに詰めながら、青山くんの方をちらちらと見た。青山くんが僕も止めますと言うとばかり思っていた。でも、青山くんは何も言わず地面を見ていた。

 僕はリュックを背負い、副隊長の後をついて歩き始めた。みんなが自分を見ているのが分かった。

「おーい。いいか、みんな。あんなふうにはなるなよ」

 しばらく歩くと隊長の声が背中の方から聞こえた。僕はなんだかとても惨めなやるせない気持ちになった。歩きながら副隊長は、大丈夫か、そんなに疲れたのかと心配してくれ、僕はただ黙って頷いた。

 テントに着くと、僕は一人、何時間もずっと皆の帰りを待っていた。青山くんが戻ってくるかもしれないと思って何度もテントから山の方を覗いたりもした。時々、副隊長が様子を見に来てくれた。気分はどうと聞かれ、大丈夫ですと答えた。せっかく朝作ったおにぎりも家から持ってきたお気に入りのお菓子も食べたいと思わなかった。

 夕方になって肌寒くなった頃、わいわいと遠くから声が聞こえてきた。テントから飛び出すと、戻ってきた皆は、誰もがやり切った満足げな眩しい顔をしていた。青山くんも同じだった。隊長は副隊長と何やら話した後、僕を一瞥し、和也くん、大丈夫かいと言い、僕が大丈夫ですと小さく答えると、すぐ行ってしまった。その後、また飯盒でご飯を炊き、バーベキューをした。僕は黙々と作業し、出来た料理を口に運んだが、誰もが別人になってしまったのか、自分が透明人間にでもなったのか、誰一人話しかけてはこず、今までとは違う世界にでもいるような感じがしていた。

 食事の後片付けを終えると、皆で前日集めた木材を組み上げ、キャンプファイヤーをして歌を歌った。口は動かしたが多分声はほとんど出ていなかったと思う。隣に座る青山くんに何度も声をかけようかと思ったが、その度に青山くんが僕を避けているように感じてどうしても声をかけられない。帰りのマイクロバスでも青山くんは僕の隣に座らず、僕の隣には誰も座らなかった。わいわい騒ぐ声が聞こえる車中で、僕はずっと窓の外だけを眺めていた。

 夕方、集合場所に到着すると、父兄に対し隊長の無事戻りましたという報告があり、それが終わって解散となったスカウトの子供たちは歓声を上げながら、迎えに来ていたそれぞれの父兄の元に駆け寄って行った。母と青山くんのお母さんも並んで待っていた。青山くんは最後まで僕を見ようとはせず、母親の手を引っ張るようにして帰って行った。

 車に乗り込むなり僕は言った。

「お母さん、僕、カブスカウトやめる。それから青山くんちにも行かない」

 母は驚き、何があったのかと聞いたが、僕は何も答えず、ただ前だけを見ていた。僕は何かにとても怒っていたが、同じくらい悲しく今にも泣き出しそうだった。

 家に戻ってから母は何度も僕にカブスカウトをやめる理由を尋ねた。僕は答えなかった。自分でも何をどう答えていいのかよく分からなかった。僕は僕だと心の中でずっと自分に言い聞かせていた。

 そんな僕に郷を煮やしたのか母は言った。

「どうせ青山くんと喧嘩でもしただけでしょ。友達増えたってあんなに楽しそうだったじゃない。山登りだって嫌がってたけど行ってみたら出来たんだから。まだ一年も行ってないのにやめるなんてもったいないわよ。ね、お母さんが青山くんのお母さんに仲直りするように言ってあげるから」

 不意に込み上げてきた涙が流れるのを堪えた僕は母に怒鳴るように言った。

「僕はやめるって決めたんだ!」

 母は一瞬たじろいでから、呆れたような顔をして何も言わなくなった。そばにいた父はただ黙っていた。その後、カブスカウトを退団した僕は、青山くんと一度も会うことはなかった。青山くんから連絡が来ることもなかった。

 

 

 無我夢中で走っているうちに、いつの間にか大人になり、僕は今、サンフランシスコ郊外に居を構え、シリコンバレーで働く毎日を送っている。

 家庭を持ち、娘が生まれ、仕事にも多少なりとも余裕が生まれたせいか、家でくつろぐふとした瞬間に、あのカブスカウトの出来事を思い出すようになった。

 思えば、あの日以降、思い当たる理由もなく、僕は来る日も来る日も猛勉強をするようになった。それまでの成績が嘘のように伸びていった。

 僕の変化は勉強に留まらなかった。

 引っ込み思案だった僕が、児童会役員選挙に立候補し、全校生徒の前でスピーチまでした。

 なぜ立候補したのか今もって説明できない。

 東大では、情報工学研究に没頭する一方、多くの女性とも付き合った。

 大学院を卒業すると、就職を勧める母の反対を押し切って、世界を二年ほど放浪し、その際にインドのリシケシュで知り合ったアメリカ人研究者に誘われる形で、アメリカに渡り、彼が立ち上げたITベンチャーの共同経営者となった。

 

 あれは僕にとってどんな意味があったのだろう。

 隊長はどんなつもりであの言葉を言ったのか。皆や青山くんが僕を避けたのはなぜか。そして僕は、なぜ誰にも何も言えなかったのか。

 僕はこう思った。

 隊長はそれほど疲れているふうでもないのに山を降りると言った僕が情けないと思い、皆の士気に関わると思ってあの言葉を言った。それでみんなは隊長から僕と同じように見られたくなくて僕を避けるようになった。青山くんは、自分の代わりに僕が手を挙げたことは分かったが、やはり恥ずかしくて言い出せなかった。それが隊長の言葉で僕が悪者みたいになってしまい、さらに心の重荷となって、僕をまともに見られなくなった。子供のことだ。きっとそうだろう。

 では、僕はどうなのか。

 青山くんに一緒に山を降りようとなぜ言わなかったのか。隊長の言葉が背中に聞こえた時、なぜ振り返って、違います、僕は元気ですと言えなかったのか。

 ここで、もしかすると僕は僕だという思いに拘泥していたせいではないかと思い当たった。僕は恥ずかしいと思う青山くんを気遣ったように見せて、実は青山くんは恥ずかしくとも自分で言うべきだという未熟で硬直した考えがどこか心の内にあったように思えるのだ。

 それに、衝動的とはいえ、やはり僕は僕として手を挙げてしまった以上、それを誰になんと言われようと甘んじて受け入れるしかないと思ったからこそ隊長に抗議も出来なかったのではないか。

 これらの思いは僕の心を萎えさせたが、一縷の救いは、手を挙げた衝動そのものに隠された思いや嘘はなかったと思えたことだった。

 それにしてもあの後、僕が自分でも信じられないほど変化したのはなぜなのか。

 今まで何度となく思いを巡らしてきたが、やはり分からない。あれが僕の人生を大きく転回させるトリガーになったのは間違いないと思うのだが・・。

 待てよ。もしかしたら僕の中にはいくつかの種のようなものがあり、一定の条件の下と何かのトリガーでそのうちのどれかが発芽したのではないか。

 

 父は、ごく普通のサラリーマンで無口で大人しく誠実な人柄だったが、出世することなく定年退職した。今思えば、母が近所の仲の良い主婦を何人かパートで雇い、いきなりカフェを開いたのも父の稼ぐ収入だけでは心許ないと思ったからだろう。母にはその才覚があった。臆せず誰とでも快活に話し、すぐ友達になった。お節介で人の世話をよく焼いた。後で聞いた話だが、カフェを開く資金や、場所なども知り合いのコネをうまく使ってあっと言う間に手配したらしい。

 今やそのカフェは店舗を増やし、抱えるパートやアルバイトは数十人もいて母は一端の経営者だ。父は母のカフェを手伝わされているが、無口なのは相変わらずで、客あしらいに長けている母にすればそれが不満のようだが、従業員の面倒なシフトをあれこれ考え、主婦や若い子たちの複雑な人間関係や店への愚痴(多くは母への不満だろう)を黙って聞いてくれる父が便利とも思っているようだ。

 父にしてみれば、主客が逆転したような生活が面白いはずはないと思うのだが、僕には、強引な母に文句一つ言わず、黙って人の話を聞き、皿やカップを洗い、電卓で売上伝票の計算を黙々とこなす父の姿が目に浮かぶ。そして今は分かる。それは弱さでなく父の真の強さだと。

 

 僕は、父と母から知らず知らずのうちに多くを学んでいたのだろう。

 それは、僕の中にあった種の一つが発芽する条件となり、理由は分からないが、カブスカウトでの出来事はそれを発芽させるトリガーとなったように思える。

そうとでも考えないと僕にはとても説明がつかない。

 ただ、よく考えてみると、トリガーになったのは、あの衝動そのものだ。

 隊長に「山を降りたい者は手を上げろ」と言われたあの刹那、僕の中に生じた衝動は少なくとも考えではなかった。

 

 あの衝動はどこからやってきたのか。

 やはり分からない。分からないが、人生を大きく転回させるトリガーは、いつもあのようにしてやってくるのかもしれない。

                      

ちゃちゃ 改稿版

                            

 パパは、クリスマスの日の夜、今度は札幌だよと言った。そして、一月十日が会社の発表だから、引っ越しはその後だねと続けた。

 私は中学一年生、二人の妹は小学四年生と一年生だった。

 登校最後の日、いざ前に立ってみると、クラスのみんなの顔がまともに見られなくて、あれも言ってやる、これも言ってやると決めていた話は何一つ出来ないまま、声が小さくなるにつれて、顔もだんだん下を向いてしまった。吉田美幸先生は、転校するのが寂しいのだろうと勘違いして、優しく私の肩を抱いてくれた。

 引っ越しの日、朝から妹たちの大の仲良しの朋美ちゃんや加奈ちゃんがやって来て、二人はずっと泣いていた。私は泣かなかった。

 ママとパパは、強くなったね、さすがお姉ちゃんと褒めてくれた。

 でもそれは違う。二度目の転校だったし、もう中学生だし、お姉ちゃんだけど、それは違う。悲しくなかったから泣かなかっただけだ。

 本当のことを知っていたのはちゃちゃだけ。ちゃちゃは、聞き上手で、余計なことは言わず、ときには優しく慰めてくれる最高の相談相手だったから。ちゃちゃ、私、不安で不安でしょうがないよ。そう思いながら顔を近づけると、ちゃちゃは、きっと大丈夫だよ、と私の鼻をちろっと舐めてくれた。

 

ちゃちゃは、五年前にこっちに引っ越してすぐの頃、パパが拾ってきたメスの三毛ネコだった。

冷たい雨の降る夜、道端で佇む子ネコが、車のヘッドライトに一瞬映し出され、一旦は通り過ぎたが、やっぱり戻って拾ってきてしまったと、ネコの嫌いなパパは言い訳するように言った。

大のネコ好きのママは、しょうがないわねと言いながら、想定外に飼うことになった子ネコをタオルケットにくるんでその濡れた小さな体を優しく拭いていた。私たち姉妹は当時大好きだった、赤ずきんちゃちゃという漫画から、ちゃちゃと名付けた。

私たち姉妹とちゃちゃは一緒に大きくなっていった。

ちゃちゃは大きくなってもとても憶病で、外に出してあげてもすぐ帰って来るし、他のネコが庭に現れようものなら、あっと言う間に二階の部屋の片隅に逃げ隠れてしまうくらいだった。

パパは、あんな小さなときに、親と引き離されて、捨てられて、冷たい雨の中で寂しく泣いていたから憶病になっちゃったんだよと言った。

でも、ちゃちゃはとても優しかった。当時パパは仕事が忙しく、いつも疲れた顔をしていて、そのせいか、よくママと口喧嘩をした。そんなとき、必ずちゃちゃはそっと動いてパパとママの間に座っていたのを私は知っていた。ちゃちゃは仲裁しているつもりだったのだ。なぜなら、私と妹が喧嘩したときもいつもそうだったから。

 

札幌へ行く日、ケージに入れられたちゃちゃはぐったりしていた。

憶病なちゃちゃは、乗り物が大嫌いだったから、動物病院で麻酔の注射をしてもらって運んだけど、もしかしたらそのまま死んじゃうんじゃないかと、私たちは心配で心配でしょうがなくて、新千歳空港で、ちゃちゃが生きていたのを見た時は、思わず泣いてしまった。

札幌に着くと大雪で、引っ越し屋さんが、新しい家に荷物を入れるのも大変そうだった。私と妹たちは、雪が珍しくて庭に積もった雪をかけ合ったりして遊んでいた。

ちゃちゃがいなくなったのはその引っ越しの最中だった。

大きな荷物は、庭から入れるために窓を開けたり閉めたりしていたので、気付かぬうちにそこから逃げたのかもしれないとママは言った。パパはそのうち帰ってくるよと言ったし、私たちも臆病なちゃちゃのことだからそうだよねと、それほど心配していなかったけど、その夜どころか次の日もちゃちゃは帰ってこなかった。ママは私がもっと気をつけていたらと泣いた。私たちの前で、あんなに泣くママを見たのは初めてだった。

そういえば、夜、喉が乾いて水を飲みに階段を降りていったとき、ママが、ちゃちゃを膝に乗せて、泣きながら何か話しかけている姿を見たことがあった。きっとママも、ちゃちゃに助けてもらっていたんだ。

動物病院の先生は、最初の一週間くらいは、半径二百メートルくらいのどこかに隠れていると思うが、それ以上過ぎるとどこかもっと遠くに行ってしまうかもしれないし、この雪なので餌がないと死んでしまうかもしれないと言った。それを聞いたママは、パパに、パソコンでちゃちゃの名前と写真と連絡先を入れたチラシを作ってもらい、私とママは、近所の家や食品スーパーやラーメン屋、美容院からガソリンスタンドなどのお店まで、ちゃちゃのようなネコを見かけたら連絡をくださいとチラシを配って回った。

夜は夜で、ママとパパと私は、厚着をして長靴を履いて、懐中電灯を持って雪のなかを捜して回った。でも、姿どころか、どこのネコかも分からない雪の中の足跡くらいしか見つけることができなかった。

北海道特有の長い冬休みが終わり、札幌の新しい学校へ行く日が近づいていたけど、私は、ちゃちゃがいないことが寂しくて、悲しくて、不安で不安でしょうがなくて、とても学校に行く勇気が持てなかった。

ちゃちゃがいなくなって六日目の夜、ママは玄関に布団を持ってきて寝ると言い出した。それまでも、いつちゃちゃが帰ってきてもいいようにと、玄関ドアはずっと開けっ放しだったし、灯りも点けっぱなしだった。

札幌の家は、冷気が入らないように玄関は二重ドアになっていて、内側の扉はガラスの引き戸になっていたから、ママは、玄関で寝ていればちゃちゃが帰ってきてもすぐ気づけるでしょと当然のように言った。パパはずっと寝不足と心労で疲れているママが心配で、心配で、さすがにそれは止めろよ、体に悪いよと半分怒りながら何度も止めたけど、ママは頑として聞かなかった。あんなに強いママを見るのも初めてだった。

ママの執念の思いが天に通じたのか、ちゃちゃは、翌日の朝、ひょっこり帰ってきた。

私たちはママの歓喜の叫びを聞いて、まさかと思い、二階の部屋から転げ落ちるように階段を駆け下りると、そこには痩せて一回り小さくなったちゃちゃがいた。ちゃちゃを見た私が泣き出したので、妹たちもつられるように泣き出した。

ママは毛布を持ってきて、ちゃちゃをくるんで抱き、寒かったね、お腹すいたねと何度も言いながら優しく撫でた。

ママからの電話でちゃちゃが戻ったと知ったパパは、それこそ飛ぶように仕事から帰ってきて、

ちゃちゃを大きな手で優しく抱いて、ママと同じように、寒かったな、ごめんなと何度も言って撫でていた。パパは私たちにずっと顔を背けていたからきっと泣いていたのだと思う。

ちゃちゃが帰ってきた喜びと、明日から始まる学校が楽しみでしょうがない妹たちは、風呂を出た後、きゃあきゃあとハイテンションで家の中を駆け回っていた。妹たちの甲高い声にびくともせず、居間のソファの上で気持ち良く寝ているちゃちゃに、「お前、憶病だけど強いやつだな」とパパが言った。

 夜、ベッドに入ってはみたものの、翌日の初めての学校が心配で、なかなか寝付けない私のところに、ちゃちゃがそっとやって来た。

 

翌日朝、私は、雪のなかを歩いて新しい学校に登校した。担任の先生に連れられて、教室に向かった。だんだん気持ち悪くなって吐き気が襲ってきた。

ドアが開いて、クラスのみんなの前に立ったけど、私の目の前に見えるのは、自分の真っ白い上履きだけだった。

先生が私を紹介してくれた。

私は思い切って顔を上げた。大きく息を吸い込んで、ちゃちゃに言われた通り、胸を張ってクラスのみんなを正面から見て、大きな声でお早うございますと挨拶した。そして、自分の好きなアイドルと好きな食べものと家族と、ちゃちゃが行方不明になった話をすると、みんなが大きな拍手をしてくれた。

席に着くと、隣の女の子が、「うちにもネコいるよ」と、嬉しそうに話しかけてきた。

                                         

 

  了

竜造の家出 改稿版

 

 裏口のドアが開いてコンビニの店員が出てきた。

 まずい。竜造は慌てて、ゴミ箱の蓋を閉めてその場を離れた。

 今日も何も食えずか。夕闇迫る五月下旬の札幌の、寒々とした冷気の中を、とぼとぼといつもの雑居ビルに辿り着き、二階の階段の新聞紙を敷き詰めた踊り場に座り込む。

 もう丸二日、水ばかりで何も食べていない。空腹と疲れと寒さで麻痺しかかった頭で、竜造は思う。何でこんなことになってしまったのだろうと。

 

 もうすぐ五十六歳になる升田竜造は高卒で中小企業である今の会社に入り、異例ともいえる部長にまで昇進していた。先代社長に可愛がられたおかげもあったが、竜造には人を惹きつける人間的な魅力があったし、何より人一倍努力する男だった。竜造には、苦楽を共にする三十人ほどの部下がいて、給料こそ決して高くはなかったが、社員たちはアットホームな雰囲気のなかで、愛社精神を持って楽しく一生懸命働いていた。

 ところが一年前、先代社長が六十四歳で急逝すると、社内の雰囲気は一変する。メインバンクにいた三十九歳の娘婿が社長になったからだ。若社長は、利益を声高に叫び、コストカットを強力に押し進めたに止まらず、余剰人員を削減すると言い出した。

 これには竜造もさすがに我慢ならず社長室に乗り込んだ。竜造のモットーは、先代社長から教えられた、何事も正面からぶつかれ、だった。

「社長、私は三十七年間、この会社で働いてきました。ご存じではないでしょうが、その間、会社も今ほどいい時ばかりではありませんでした。業績不振で給料が払われず、何ヶ月も遅れた時も、みんなと歯を食いしばって頑張ってきました。その仲間を社長は余剰人員とおっしゃって辞めさせようとしています。しかも会社が過去にないほど順調なときにです。これには到底、納得できません」

 竜造には、若社長のちっという舌打ちが確かに聞こえた。

「升田さん、いいですか。会社は利益が全てなのですよ。それに人員整理は会社の状況が良いからこそやるのです」

「社長、私には経営の難しいことは分かりません。ただ、ずっと共に頑張ってきた仲間が辞めれば会社の業績に必ず影響が出ます。残った連中もやる気を無くします。長く勤めている私にはわかります。考え直していただけませんか」

「そうならないようにするのが升田さんたち管理職の仕事ではありませんか」

 冷たく言い放つ若社長を睨みつけ、竜造が言葉を絞り出す。

「うちには三十人の部下がいます。皆必死になって頑張ってくれている者ばかりです。このうち最低三人を辞めさせろと言われています。私にはそんなことは出来ません」

 しばらく考え込んだ後、口元を緩ませ、若社長は言った。

「それなら、升田さんが代わりにお辞めになったらいかがですか。あなたなら部下三人分くらいには相当するでしょう」

 竜造の顔色はみるみる間に真っ赤になっていく。

「分かりました。私が辞めます。その代わり部下の三人は辞めさせません。いいですね」

 竜造は怒りのあまり、若社長の口車に乗ってしまった。

「いいでしょう。では忙しいので」

 若社長は、話は終わったとばかり、デスクの上の書類に目を落とした。社長室を出た竜造は、自分のデスクに戻るなり、早期希望退職希望の用紙に記入し、人事課長の元に行った。

「りゅ、竜さん、これ」

「間違いなく出したからな。あと、俺んところは誰も辞めさせないって社長と約束してきたから。いいな。それと、これは誰にも言うなよ」

「わ、わかりました」

 竜造の迫力に気圧された人事課長は、何が起こっているのか分からないまま、用紙を受け取った

 家に帰った後、妻の泰子に話すと、案の定、恭子はヒステリックになった。

「お父さん、いくらなんでも自分勝手すぎるでしょ!どうして前もって相談してくれないのよ」

「うるさい!辞めるって言ったら俺は辞めるんだ!」

 竜造は、湯呑み茶碗を食卓のテーブルに叩きつけるように置くと、大きな足音を立ててダイニングルームを出ていった。

 竜造の出社最終日の夕方、竜造は多くの社員の前で花束と記念品を受け取り、竜造万歳と書かれた黄色のレイを掛けられ照れ臭そうに頭を掻く。会社の正門を出るところで、顔馴染みの守衛のシゲさんから声をかけられた。

「竜さん、今日で最後だって」

「うん、シゲさん、長い間お世話になったね」

「これ、持ってってくれ」

 シゲさんが、詰所の奥の方から紙袋を持ってきて、竜造に渡す。

「何かあった時にと思ってとっておいた酒だ。旨いぞ」

 シゲさんの目に涙が光っていた。

「ありがとよ。大切に飲ませてもらうよ。シゲさん、あんまり飲み過ぎるなよ。体、大切にな」

 その時だった。社屋から多くの社員や食堂の給仕、掃除婦までが出てきて竜造を取り囲んだ。多くの者がハンカチやらティッシュやらを目に当てながら。

「ありがとう。本当に長い間、ありがとう。みんな頑張れよ」

皆に最後の別れを告げ、正門を出て駅方向に歩き始める竜造の背中に、竜さーんという声がいくつもかかり、さすがの竜造の目にも涙が滲んだ。

電車の中で、黄色いレイを襷掛けした竜造は放心していた。これで良かったのだろうかという思いが離れない。

 家に戻ると、最終日とあって食卓には泰子が腕によりをかけた豪勢な食事が並んでいた。

「長い間、お疲れ様でした」

泰子がビールを注ぐ。

「うん、ありがとう」

 そう言ってビールを一口飲むが、竜造の表情は冴えない。せっかくの料理にも箸が進まず、目はどこか虚ろで、心ここにあらずという状態だ。

「聞いてないの?」

「ん?なんだっけ」

「だから。これからどうするの?」

「どうするって、今日辞めてきたんだぞ。まだそんなこと考えてるわけないだろ」

「だって困るじゃない」

「何が」

「何がって、この家のローンだって残ってるし。浩一にも仕送りしなきゃならないし」

「わかってるよ」

「本当にわかってるの」

「何が言いたいんだ」

 竜造がイラついた表情に変わっていく。

「やっぱり辞めない方が良かったんじゃない」

 恭子の一言に、竜造は、無言で箸を置き、ダイニングテーブルを立って部屋を出ていく。

 早朝、まだ暗い中をそっと起き出した竜造は、居間に行き、便箋を取り出して綴った。

「しばらく家を出る。心配はいらない。数日したら帰る。竜造」

 それをダイニングテーブルの上に置き、泰子が風呂に入っている間に、用意しておいたボストンバッグを持って家を出た。

 

 竜造は、辞めてから泰子と来るつもりだった札幌に来ていた。五月の札幌がこんなに寒いとは知らず、ジャケットの襟を立てて、大通り公園を歩き、時計台を見て、北大のポプラ並木を散策した。夕方になって、ススキノで、ジンギスカンで腹ごしらえし、店を出てぶらぶらしていると、細い路地の先に佳代という小さなスナックを見つけた。まだホテルに帰るには早いと思い、一杯だけ飲んでいくかとドアを押し開けた。

「いらっしゃい」

 まだ時間が早いせいか客は誰もいない。ママは四十前後だろうか、色白のなかなか艶っぽい女性だった。カウンターに座って、ウイスキーの水割りを注文する。

「どちらから?」

「ああ、東京」

「一人で?」

「うん」

「あら、何か訳アリって感じ?」

「いや、そんなんじゃないよ。会社を辞めたから骨休めにぶらっとね」

「へえ、じゃお祝い?それとも」

「お祝いだよ。だからママも飲んでよ。おれは竜造ってんだ」

「じゃあ竜ちゃんね。私は佳代」

 水割りで乾杯した二人は、夜が更けるとともに大いに盛り上がっていった。

「しかし、この店ヒマだねえ。ヒック。全然客が来ないじゃないか」

「最近不景気だからよ。まあ、いいじゃないの。飲みましょ」

 翌日、竜造が目覚めたのはすでに昼近くだった。枕元から呼び出し音が聞こえる。吐き気とガンガンする頭で何とか受話器を取る。

「お客様、延長でよろしかったでしょうか」

「えんちょお?」

 竜造は、がばっと起き上がり、周囲を見渡すとどう見てもラブホテルのようだ。

「す、すぐ出ます」

 飛び起きてズボンやシャツを急いで着る。ところが、ボストンバッグがどこを探しても見当たらない。バッグには着替えと銀行やクレジットのカード類、運転免許証まで入っている。焦って部屋中を捜しまわるが見つからない。ベッドの上のくしゃくしゃになったジャケットには、財布とスマホが残されていた。混乱した頭のまま、六千円を払ってホテルを後にし、近くの交番に行った。

「ああ、やられたね。いい女だったんでしょ」

「まあ、はい」

「すぐカードは止めた方がいいですよ」

 色白のいい女としか覚えていない。名前も場所も全く記憶にない。交番を出て、財布をもう一度確認すると一万二千円あるが、これではどうしようもない。しばらく考えた竜造は泰子に電話をした。

「もしもし、泰子か、おれだ」

「お父さん?ちょっと!何してんのよ!」

 二日酔いで痛む頭に泰子の大きな声が響く。

「うるさい。いいから聞け」

「何言ってんのよ!勝手に飛び出して!もういいかげん」

 頭に来た竜造はスマホを切った。ふと思い立ち、同僚で親友の岸本に電話を入れる。

「岸本か、俺だ」

「ああ、竜さんか、どうした」

「ちょっと女房と揉めてな。今、札幌にいるんだ」

「札幌?なんでまた」

「まあ、事情はまた今度。それより、数日したら帰るつもりだが、もしそれより長くなるようなら、女房には大丈夫だ、元気にしてるから心配するなと伝えてくれないか。ああ、それとカードを失くしたから、すぐ止めるようにと」

 岸本にはそう言ったものの、札幌に知り合いはいない。頭を両手でくしゃくしゃと掻きむしって、くそ、なるようになれと呟いた。

その後、安いビジネスホテルを探し、コンビニで食いつないで二泊を過ごした竜造だったが、とうとう持ち金が尽きてしまう。泰子に電話して、迎えに来てもらおうという考えが過ぎるが、妙な男の意地が邪魔をして、どうしても頼む気になれない。

行くあてもなく、暖かい駅地下街で夜を過ごそうと座っていると、夜半になって警備員が来て追い出されてしまう。寒い街をとぼとぼと歩き出した竜造は、鍵の掛かっていない古びた雑居ビルを見つけ、二階の階段の踊り場にへたり込んだ。幸い、店舗も潰れているのか、人気もなく、トイレもあって水だけは飲めた。

翌日も、食べ物を求めて街をうろつくが、どうしようもない。とうとう、竜造は、コンビニの裏手に回り、賞味期限切れの食べ物でも捨ててないかと、ゴミ箱を漁ろうとしたところへ、裏口のドアが開いて店員が出てきてしまった。

 俺はこれからどうしたらいいんだ。雑居ビルの階段の踊り場で竜造は思った。

 

次の日の朝、街をうろつき始めたものの、さすがに精も根も尽き果てた竜造は、疲れと空腹で道端に座り込んでしまった。もう寒さも感じなくなっていた。俺は死ぬのかと思った。

「おっさん、おい、おっさん!」

 竜造が顔を上げると、三十半ばのその男は、竜造を抱えるように立たせ、肩を貸して歩き始めた。

「どこ行くんだ」

「まあ、いいから」

 着いたのは、札幌駅バスターミナル脇の地下道入り口だった。

「あれ、ヒデさん、どうした、その人」

「ああ、ゴンさん、この人やばそうなんで連れてきちゃった」

「へえ、珍しいね。まあいいや。ヒデさんが連れてきたんなら面倒見るしかないな。なあ、マサさん」

「そうですね。じゃあこっちに座らせたら」

 五十がらみのマサが指差した、厚手の段ボールが敷いてあるところに、ヒデにつかまるようにして竜造は座った。

「ほい、これ。あんまり慌てて食うなよ」

 七十前後と思われるゴンが、コンビニのサンドイッチと水の入ったペットボトルを竜造に差し出すと、竜造はむさぼるように食べ水を飲む。

「ありがとうございました」

 絞り出すように竜造が言う。

「まあ、事情は後だ。また腹が減ったらヒデさんに言いな。今日はよく体を休めなよ」

 腹が満たされた竜造は、新聞紙にくるまって死んだように眠った。

 翌朝、竜造が目を覚ますと、ゴンたち三人はすでに何やら相談している。

「おお、起きたか、あんた、名前は?」

 ゴンが言う。

「竜造と言います」

「そうか、じゃこれから竜さんだ。竜さん、よく聞くんだぞ。おれたちはホームレスだが、物乞いをしたり、食いもん拾って生活してるわけじゃない。ゴミにされるような不用品を回収して売るんだ。中にはカネになるもんがある。つまり仕事をしてるわけだ。いいか。分かったら竜さん、あんたの縄張りはここだ。自分の食い扶持は自分で稼ぐんだぞ 。誰も助けちゃくれないからな。なんか見つけたらおれんとこへ持ってくるんだ」

ボロボロになった市街図に、鉛筆で丸をつけた場所を示してゴンは言った。

 竜造はゴンに指定された自分の縄張りをうろうろ見て回るが、金になりそうなものなど見つからない。そろそろ薄暗くなりかけた頃、道端のブルーネットで覆われたゴミ捨て場の中に一つの段ボール箱が目に入る。何となく気になった竜造は、周囲を気にしつつ中身を確認すると二十枚ほどのDVDと古いゲーム機が入っている。もしかしたら多少の金になるかもしれないと思い、竜造は段ボールを抱えてゴンの元に戻った。

「おおっ竜さん、こりゃビギナーズラックだな。ええっと、ほいよ」

 段ボール箱を確認したゴンは、そう言って腹巻の中からがま口を取り出し、百円玉十個を竜造に渡す。

「こんなになるのかい」

両手で受け取った竜造は目を瞠る。

「ああ、DVDは大したことないが、古いゲーム機は結構いい金になるんだ」

 竜造は、ゴンとマサに二百円、ヒデには三百円を渡した。

「何これ、いいのか竜さん」

 驚いたヒデに、竜造が微笑む。

「世話になったし、幸運は分け与えないと」

 残りは三百円だったが、今の竜造にとってはとんでもない大金だった。

 それから数日、札幌に来て十日が経とうとしていた。

 竜造は、閉店するスナックの裏で、ビールケースの中にあったほぼ手付かずのウイスキーボトル二本を持ってゴンたちの元に戻った。

「お、竜さん、また当てたな。こりゃいい酒だ。開けてない方は、五百円だ。開いてる方は金にはならんが」

「じゃみんなで飲もう」

 四人は適当なつまみを持ち寄り、車座になって飲み始めた。久しぶりの酒に酔いが回った竜造が聞く。

「そういえば、みんな元は何してたんだい」

「竜さん、それはご法度だよ」

 マサがすかさず言う。

「まあ、マサさん、こうやっていい酒飲めるのも竜さんのおかげだ。大した話でもあるまい。竜さん、俺は小さな建設会社をやってたんだ。酒とギャンブルでダメにしたんだが」

「俺は、タクシーの運転手だよ。客と喧嘩してクビだ」

 マサが言うと、ヒデは、床屋だと言ったが、辞めた理由は言わなかった。

「へえ、色々なんだな」

「そういう竜さんはどうなんだ。本当は帰る場所があるんだろ」

 ゴンに言われ、竜造は会社を辞め、家を出た経緯を話した。

「そっか。それにしてもあれだな。俺も偉そうに言えた義理でもないが、男が意地張った以上、奥さんの小言くらい黙って耐えんとな」

「なんだよ、ゴンさん。そんな言い方ないだろ。自分だってギャンブルで会社駄目にしたくせに。奥さんだってどうせ泣かしたんだろ」

酔った竜造が気色ばむと、ゴンが竜造を見据える。

「その通りだよ。でもな。いいか、竜さん。自分を犠牲にして部下を守ったのにって思ってんだろ。本音はまだ会社を辞めたくなかったんだろ。それを分かってくれない奥さんに八つ当たりしてるんだろ。んで、そんな自分に本当は一番腹立ててるんだろ。違うかい」

 竜造には何も言い返せなかった。

「甘いんだよ。そんな程度で家を出たなんて」

 ゴンに続いてマサも言う。

「ゴンさん、マサさん、そこまで言わなくても」

「いや、ヒデさん、マサさんの言う通りだ。この男は甘っちょろいんだよ。俺たちみたいに別に地獄を見たわけじゃない。たかが女房に愚痴られたくらいで、札幌まで来て、スナックでいい気持ちで酔っ払った挙句がこれだって。笑わせるぜ」

 竜造は怒りで震えるが、やはり何も言い返せず黙って俯いている。

「女房にでも電話して、とっとと帰れってんだ」

 マサが言うと、竜造は立ち上がって、無言でその場を立ち去った。恥ずかしさと怒りが収まらず、夜の街を一晩中歩いた。疲れ果てて、大通公園のベンチで座っていると、朝日が差し込んでくる。

スマホショップが開くのを待って、充電をし、泰子に電話をかけた。

「心配かけてすまん。俺が悪かった」

 電話口で泣く泰子が落ち着くのを待って、事情をかいつまんで話すと、恭子も岸本から聞いて、会社を辞めた事情を知ったと謝った。

 夕方、竜造は、ゴンたちの元へと戻った。

「俺が間違ってました。帰ります。お世話になりました」

「へえ、そうかい。ま、それがいいだろう。じゃ、元気でな」

 ゴンは冷たく言い放った。

「いつ帰るんだい」

 ヒデが心配そうに尋ねる。

「明日の昼の便で。ヒデさん、本当に世話になったね。ありがとう」

 竜造は、雑居ビルの階段の踊り場で一晩を過ごし、少しずつ貯めていたお金をはたいて、新千歳空港まで行った。まだ、泰子が到着するまで二時間ほどある。到着口近くのベンチで座っていると、竜さんと声がした。

「あれ、ヒデさん。どうした」

「これ」

 ヒデは、紙袋を竜造に手渡した。中を見ると、新品ではないが、パリッとしたスーツと革靴が一足入っている。

「何だい、これ」

「ゴンさんがあのなりじゃ恥ずかしいだろうから持っていってやれって」

 竜造は全てを理解した。ゴンとマサは、俺に気づかせるために、あえてあのような言い方をしたのだと。竜造は涙が溢れて止まらなくなった。

ヒデは、トイレで伸びた髪や髭の手入れまでしてくれ、名残惜しそうに帰っていった。

 定刻になって、到着口から泰子と岸本が出てきた。泰子は、竜造を見るなり駆け寄って泣き出し、竜造は泰子の肩をぽんぽんと叩いた。

「何だ、お前まで来たのか」

「来たのかはないだろ。俺だって随分心配してたんだぞ」

「そうだな、すまん」

「それにしても、奥さんから聞いてた話と違って、意外にこざっぱりしているじゃないか。本当にホームレス同然の、飲まず食わずだったのか。そんなに大変だったようには見えないな」

「まあ、追々、飲んだ時にでも話すよ」

 飛び立った飛行機の窓から北海道を見下ろし、竜造は改めてゴンたちに感謝していた。

「竜さん、それ」

 隣に座っている岸本が、何やら竜造の足元を見ている。視線を下に落とした竜造が、よく見ると、黒い革靴が左右で色も形も僅かに違っている。

「ああ、これか。札幌のホームレスの間で流行ってるんだ」

 竜造はそう言って笑った。

 

 家に戻った竜造が、ハローワークに通い始めて二週間ほど経った頃、竜造あてに大きな段ボールが届いた。差出人は、札幌市南区の藤崎佳代となっている。

「お父さん、札幌からなんか荷物が届いたわよ」

 泰子が抱えて居間に持ってきた。

「なんだ。藤崎佳代?誰だろう」

 竜造が、段ボールを開けると、盗まれたと思っていたボストンバッグが入っていた。開けてみると、着替えやカードなどがそのままになっている。脇の方には封筒があり、中には一枚の便箋と名刺が入っていた。

「竜さん、お元気かしら。あの夜はホテルに置き去りにしてごめんなさいね。でもあんまり竜さんが酔ってて、どうしようもなかったものだから。竜さんが取りに来ると言ってらしたので、ずっとお店でバッグを預かってはいたのよ。でもさすがに1ヶ月近くも経つし、申し訳ないと思いながら開けさせてもらいました。カードとか困ったでしょう。免許証に住所があったので、そちらにお送りしますね。でも、あの夜は本当に楽しかったわ。また来てね。佳代♡」

 名刺のスナック佳代の文字を見て、竜造の記憶が一気に蘇った。

「何?それ?」

 泰子が覗きに来ると、慌てて手紙を隠す竜造だった。

                                     了