てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

ドトールな人々 白いテンガロンハットの男

 

 もう1時間近く経つのに、その席には誰も座らない。

 もちろん、煩瑣いナベさんの隣だったから、常連なら避けもしただろうが、混み合う日曜日の午前中にも関わらず誰も座ろうとはしなかった。

 西島さんたち店員も不思議に思い始めた頃、そのテンガロンハットの男はやって来た。

 白いテンガロンハット、白い上下のスーツに白いシャツとタイ。そしてなぜか左右色の違うスニーカー。右足は白で左足は黒だ。まるで、フライドチキンが売りのチェーン店の店先に立っている人形にテンガロンハットを被せたような雰囲気だが、人形と違っていたのは、肌が浅黒いことと、人によって見え方の異なるその瞳、そして年齢だった。

 優しくもあり、厳しくもある。鋭くも感じ、親しげでもある。濃く深い泉のようでいながら、強い光を湛えている。宇宙に存在する元素の全てを含んでいるかのような不思議な瞳だった。

 年齢はさらに人を惑わせる。30歳前後という人もいれば、70歳はゆうに過ぎているという人もいる。若くして老成しているようでもあり、年老いていながら溌溂としてエネルギッシュのようにも見える。

 男は、ハザマ・キャンベルというネイティブアメリカン、いわゆるインディアンと称されるアメリカ先住民で、今朝早くニューヨークから成田に着いたばかりだった。

 

 キャンベルはレジでコーヒーを受け取ると、真っ直ぐにその空いていた席へと向かった。

 店員も他の客も興味津々で見ている中、その席に座ると、隣の爺さんだけは、新聞を広げているせいか全く気付いていないようだ。

 キャンベルは座るなり、じっと腕時計を見つめた。

 

 ハザマ・キャンベルがこのドトールに来た理由。それはただ一つ。地球を救うためだった。

 あと10分ほどだ。

 キャンベルには全てを見通せる能力があった。

 ほとんどの人間は気づきもしないだろう。この世が全て関連していることを。全てだ。

 ほら、今、自動ドアが開いた隙にハエが一匹、入ってきた。あのハエは、あの中年男の顔の前を飛ぶ。すると、あいつは煩げに手でハエを追い払おうとする。そのとき、手が水の入ったグラスに当たってしまい、グラスが倒れる。ちょうど、席を立とうとした隣の若い女性にその水がほんの少しかかる。中年男は申し訳ないと謝るが、その若い女性は大丈夫です、と言って店を出ていく。

 その一瞬の間が、若い女性を災難から救うのだ。

 ドアが開いた瞬間、女性の前を猛スピードで自転車が走り抜けていく。もちろん、自転車に乗る母親には急ぐ理由がある。子供が怪我をしたと幼稚園から連絡があって病院に行くところだから。ハエが飛んでこなければ、若い女性も自転車に乗った女性もとんでもない目に合ったことだろう。

 ではなぜ、ハエが飛んで来たのか。

 それは、世界の合意であり意思だ。

 世界の合意や意思がなければ、誰も、指一本たりと動かせはしないのだ。そのような分かりきった事実でさえ、この世のほとんど誰も知らないし、知ろうともしない。

 キャンベルは、腕時計を確認し、コーヒーを一口飲んだ。

 あと5分だ。

 この席が1時間も前から自分を待っていたのはもちろん分かっていた。

 隣の痩せて年老いた男が、ワタナベという名前で、時折「かあああっ」と言うのも、それを言う理由も知っている。

 煩瑣いが、しょうがない。この男がここにいるのも地球を救うために必要なのだから。

 この世界に偶然はない。何一つない。全ては必然だ。

 もし、自分が地球を救わないとしてもそれも必然だ。

 ただ救うと決めてはるばるニューヨークからここまでやってきた。

 そして間もなくその時間はやってくる。

 

 キャンベルは腕時計を見た。

 さあ、時間だ。

 あと1分。

 50秒。

 40秒。

 30秒。

 ・・・

 10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0

 そして地球は救われた。

 

 ハザマ・キャンベルは、おもむろにもう一口コーヒーを飲んだ。

 しばらくして、また腕時計を見た後、席を立ち、まだほとんど残ったままのコーヒーカップを持って、ドアに向かった。

 ドアまでの途中にある返却口に、神聖な儀式でも執り行うかのように、カップを両手で音もなく静かに置くと、再び、ドアに向かって少し歩いて立ち止まる。

 そして、レジにいる女性を見て、ウインクをした。

 確かこの女性はニシジマという名前だ。

 西島さんは微笑んで軽い会釈をし、キャンベルが微笑んだ後、振り返った。

 もちろんそうだろう。

 あのワタナベという爺さんは、自分が来たときと同じように、ただ新聞を読んでいるが、もうすぐ「かああああっ」と言う筈だ。

 

 

 

                                         了