てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

ドトールな人々 読む人

時折、コーヒーを一口飲みながら、ずっと、静かに文庫本を読んでいる。

 喧騒の店内で、彼女の周りだけが、あたかも静寂に満たされた緩やかな時間が流れているようだと、櫻井亘(わたる)は改めて思った。

 彼女をこのドトールで初めて見たちょうど一年前の記憶が蘇る。

 あの日も、五月晴れの爽やかな風が吹く気持ちの良い日だった。

 昨日のことのようにはっきりと覚えている。

 それは、亘がひどい失恋をした翌日だったからだ。

 

 5年余りも付き合い、亘が本気で結婚を意識し始めた頃だった。

きっと裕子も同じ気持ちだろうと思っていたが、破局はいきなり訪れた。

やはりこのドトールのこの席で、5月下旬に27回目の誕生日を迎える裕子に、プレゼントは何がいいか聞いた時だった。

亘は何を裕子がリクエストするにせよ、エンゲージリングと一緒に渡そうと決めていた。

「ごめんなさい」

 亘には咄嗟には言葉の意味が分からなかった。

「好きな人ができたの」

 なんの予兆もなかった。

 あまりに多くの疑問があり過ぎたし、小さな己のプライドが邪魔をして、何一つ裕子に理由を聞けなかった。

 裕子はもう一度、ごめんなさいと小さく言って、店からも亘からも去っていった。

 亘の心に開いた穴を、5月だというのに、晩秋を思わせる、乾いた冷たい風が吹き抜けた。

 落ち込むというのでもない。悲しいというのでもない。あえて表現するなら虚しいというべきか。亘には、自分の味わっている気持ちが何であるのか、自分自身にさえ、うまく説明できなかった。

 亘は翌日もドトールに来た。

 他に行きたいところもやりたいことも逢いたい人もいなかったからだ。

 亘はコーヒーを受け取り、一番奥の端の席に座る。

 コーヒーを一口飲むが、味がよく分からない。

 僕はここで何をしているのだろう。

 しばらくして、若いママが、ベビーカーと二人の幼い子供を連れてやって来た。壁際にあった二人がけの丸テーブルをくっつけ、空いたスペースにベビーカーを置き、二人の子供を椅子に座らせた。

「ママ、取ってくるから。いい?ちょっとだけ待っててよ」

 子供たちに言い置いて、レジに向かった。

二人の幼な子はママがいなくなって心細くなったのか、少し緊張気味の様子で、ちょこんと座ってママが戻るのを待っていた。

 しばらくして、ママがトレーに飲み物やら食べ物をいくつか載せて戻ってくると、ママが戻った喜びと好きな飲み物などを見た歓びで、おとなしかった子供たちが大騒ぎになる。

「静かにして!」

「何度言ったら分かるの!」

 ママが嗜めるが、二人は全く言うことを聞こうとせず、椅子から降りてテーブルの回りを、歓声を上げながら追いかけっこのごとく走り回り始める。

「いい加減にしなさい!」

 周囲を構うことなく何度も大声で叱りつける若いママに、子供が騒ぐのはしょうがないと最初は我慢していた客たちも、さすがに何人かが席を立つ。

 亘は、いつもなら気になったであろう、その親子が発する騒音が、ただ耳を通過するのに任せていた。それは、まるで動画をミュートで見ているようだった。

 その刹那、親子の隣にいる彼女に気づいた。

 本当に最初からそこにいたのかと思えてしまうほど存在感がなく、いきなりその場に現れたかのようだ。

 いや、違う。あまりにも空気に溶け込んでいただけだ。

 なぜなら、彼女に気づいた後は、その存在感に圧倒され、亘は自分自身も現実世界へと引き戻され、親子の騒がしい声が急に耳に響いてきたからだ。

 これほどの喧騒の中で、彼女のいる空間だけが静寂に包まれている。

 この店には何度も通っているのに、気づかなかった。いつも来ていた女性だろうか。それとも最近になってからか。

 よほど、本が好きなのか、ずっと文庫本を読んでいる。一語一語噛み締めているかのように、視線がゆっくりと上下に動く。口元にはほんの微かな笑みを浮かべ、無意識だと思われるが、時折、長い黒髪の先を細く長い指でいじる。何を熱心に読んでいるのだろう。布製のようなカバーがかかっていて分からないが、もしかすると詩集かもしれない。

 そうか。気づかなかったのは、彼女が本に彼女の全存在を没入させていたせいだ。

 彼女の意識の全ては今見えている彼女にはなく、意図的ではないにせよ、ありとあらゆる気配を消し去ってしまっていたのだ。

 ところがそこに彼女がいるとこちらが認識した瞬間、今度は、目が離せないほどの圧倒的な存在感を感じる。

 亘は強く興味を惹かれた。いや、惹きつけられてしまった。

 

 あ、またいる。

 それからも休日になると、何度かドトールに行く亘は、店に入るとすぐに彼女の姿を探してしまう。彼女が決して亘を見ることはなかったが、彼女の持つ不思議な魅力に触れるだけで亘は十分だった。

 秋の気配が色濃くなり、街に乾いて冷たい風が吹いて、色づいた葉が舞い落ちる季節になった頃、彼女は現れた時と同じように突然消えてしまい、ドトールで彼女を見かけることもなくなった。皮肉なことに、すでに亘の心に開いていた穴は気づかぬ間に塞がり、風が吹き抜けはしなくなっていた。

亘はその時、自分が彼女に抱く感情が本物の恋であると知った。

彼女がいなくなって感じた切なさや寂しさは、裕子に別れを告げられたときに感じた虚無感とは異なり、抗いようのない現実そのものだった。

彼女に逢いたい。

息苦しいほどの想いが日毎に募っていったが、気持ちとは裏腹に彼女がドトールに現れることはなかった。

冬を過ぎ、桜が咲き乱れる季節になっても彼女は現れはしなかったが、それでも亘は諦めることなく、ずっとドトールに通い続けた。

 

五月晴れの爽やかな風が吹き抜ける日の午後だった。

彼女はそこに現れていた。

以前のように、緩やかに流れる時間のなか、静寂を纏って文庫本を読んでいた。

亘は彼女の空間を邪魔しないよう細心の注意を払って隣の席に座り、しばらく待って、高鳴る鼓動を抑えるため深呼吸を一つした。

「失礼ですが何の本を読んでいるのですか?」

 彼女の返事はない。それどころかこちらを見ようともしなかった。

「失礼ですが何の本を読んでいるのですか?」

 亘は明らかに声のトーンを上げて聞こえるように言った、つもりだったが、やはり彼女の視線は本に注がれたままで微動だにしない。

 亘は自分が無視されたように感じた。

 話しかけないで欲しい。あなたには興味がない。私の邪魔をしないで。

 そう言われている気がした。

 亘は自分が勝手に恋して、勝手に逢いたくなって、勝手にずっと今まで想い続けてドトールに通っていたことが、情けなくて、悲しくて、恥ずかしくなって、膝の上に置いた両の拳を強く握りしめた。

 どれだけ時間がかかっただろう。

帰ろう、そしてもうドトールに来るのはやめようと、ようやく気持ちを切り替えた時、彼女がすっと席を立った。

 入り口に向かって歩きかけた彼女のどこかから、ハンカチがふわっと舞い落ちた。

 あ、と亘は思ったが、通路席に座っていた親娘と思われる二人連れのうち、母親の方が、足元に落ちたそのハンカチを拾い、彼女に声を掛けた。

「落ちましたよ」

 彼女がその声に気づくことなく歩いていくと、母親は、脇に立て掛けてあった杖を持って席を立つ。少しぽっちゃりした感じの娘が、お母さん、私行くからと言うが、母親は、もう一度、落ちましたよと言いつつ杖をつき、右足を少し引きずりながら彼女の後を追う。

 その様子に気づいた女性店員が、さっとカウンターから出てきて、中年女性に何かを言ってハンカチを受け取り、ドアの手前で彼女の肩をトントンと叩くと、彼女が振り返った。

 女性店員を見た彼女は、目を大きく見開き、両手を体の前で交差させお辞儀するような仕草をし、ハンカチを受け取って、また丁寧なお辞儀をして店を後にしていった。

 

 ひどく落ち込んで家に帰った亘は、夕食を食べる食欲もなく、風呂に入ってただ見るともなく天井を見つめていた。

 はあと大きくため息をひとつつき、バシャっと両手で顔にお湯をかけたときに閃いた。

 慌ただしく風呂を出て、ろくに体も拭かず、パンツだけ履いて部屋に行き、ノートパソコンを開くと、ユーチューブにそれはあった。

 彼女のした仕草は、間違いなく、ありがとうございますという手話だった。

 亘は、彼女がまた消えてしまう前に手話を覚えなきゃと思った。