ドトールな人々 孤独(ひとり)、心のスキマ
七海はずっとスマホを見続ける。
心のどこか奥の方で、やめろ、という囁きが声のような、音のような、はたまたイメージのような感覚で微かに意識されるが、やめられない。
どれだけ画面を見続けたとしても、誰からもメールもラインも来ないことは分かっている。
たとえ、うまい具合に、千紗や圭介や真未から来たとしても、嬉しくもないし、既読はつけないし、もちろんすぐ返信するつもりもない。
いつからだろう。
見かけの友人は山ほどいる。
けれど、心のスキマは埋まらない。
親は口を開けばあなたを思って言っていると何かの呪文のように言う。
私を思っている?
私の何を思っているの?
私を本当に思っているなら私の心のスキマを埋めてみてよ。
スマホで世界とつながっているけど、私がつながっている実感などどこにもない。
宙ぶらりん。
落ちないのはなぜ?
本当に楽しいことは長く続かない。
つながったと思ってもいつかそれは消え失せる怖さ。
不安?
どうせ自分なんてと言う思い。
そのくせ愛されたい、大切にされたい。
愛してくれさえすれば、大切にしてくれさえすれば、私もそうする。
待っている。ただただ只管に。
心は叫ぶ。
喉の奥の、奥の、奥の方から。
自分でも想像できないほどの甲高い音で。
血の涙を流しながら。
ここまでノートに書いたとき、七海の足元にスプーンがやってきた。まるで「こんにちは」
とでも言うように。
隣のおばあちゃんが落としたのだ。
その時点ですでに予感はあった。
七海が体を折り曲げてスプーンを拾い上げ、おばあちゃんに渡すと、予感通り
「ありがとうございます」と会釈をして受け取り、
「よくお見かけしますね。学生さんですか」と言った。
「はい、高校生です」
「ああ、そうでしたか。大変ですね」
何が大変なのだろう。
勉強か、スポーツか、はたまた恋愛か。たぶん勉強のことだろう。
作り笑いを浮かべて曖昧に肯く。
隣でコーヒーを飲むおばあちゃんはなぜいつもあんなにニコニコしているのか。何がそんなに楽しいのだろう。いつも独りで来ているということは、旦那はもとより家族もいないのかもしれない。寂しくないのか。辛くないのか。それとも何か嬉しいことが待っているのだろうか。
おばあちゃんは足が悪い。膝が悪いせいかゆっくりしか歩けないし、腰も少し曲がっている。でもニコニコしている。
あいつもこいつもどいつも何を信じてここにいる?
そのキラキラした瞳はどこから来る?
お前が信じ続けるものはなんだ?
それを信じ続けられる根拠はなんだ?
ずるずると学校に行きずるずると家に帰る。
私を本当に待ち受けるのは何だ。
誰か教えてください。
私はどこにいる。
どの時点にいるのだ。
どの時点からどの時点に行こうとしているのだ。
なんのために?
それは一体誰の意志だ?
昏すぎて歩けない。
重すぎて歩けない。
遠すぎて歩けない。
ずるずると学校に行きずるずると家に帰る。
いつ心のスキマは埋まるのか。
誰か教えてください。
誰か教えてください。
誰か教えてください。
お願いだから。
待っている。ただただ只管に。
心は叫ぶ。
喉の奥の、奥の、奥の方から。
自分でも想像できないほどの甲高い音で。
血の涙を流しながら。
「あのね」とおばあちゃんが言った。
七海がノートから目を上げると、おばあちゃんの皺だらけの手には、真新しいアイフォンが握られている。
「これね、娘に勧められて買ったんですけど使い方がよく分からなくて」
おばあちゃんがニコニコして言う。
「こんな歳でと思ったんですよ。でも遠くに住んでいる娘がひ孫の顔が見られるって言うんです」
七海は、スマホを受け取ったものの、思案する。
何から教えてあげたらいいのか。
「本当に御免なさい。誰も聞ける人がいないものですから」
そう言われても困った。
まず、電話か。
七海は、スマホの連絡先画面を開くと、たぶん前のガラケーに入っていたと思われる名前が出てきた。なんと3件しかない。
「娘さんの電話番号はどれですか?」
「ああ、その一番下のマリエさんて書いてるところです。あと、孫はその上のちいちゃんです」
「ここをこう指で」
「あ、御免なさい。ラインで電話をかける方法は分かるんです。でも顔が見えなくて」
ラインで電話は出来るんだ。
「じゃ私とやってみましょうか。いいですか」
「はい、お願いします」
七海は、スマホを操作してラインの友達登録をし、おばあちゃんのスマホに電話をかけた。
「もしもし」
通話が繋がったところで、七海が、
「このビデオ通話というところを押すと・・・ほら」
「あら、こんなに簡単だったの。びっくり」
「でも、ライン電話が出来るの、すごいです。うちの毋なんて何度教えても覚えるまで大変だったから」
「ひとりだと大概のことは何でも自分で出来るようになるのよ」
なるほど。そうかもしれない。
「でも本当にありがとう。ナナさん、助かったわ」
ナナさん?あ、そうか。
ラインの登録名はナナだった。
数日後の夜、七海が自分の部屋で、ベッドに寝転がってスマホを見ていると、ラインが入る。
シオノカオルコ???
すぐあのおばあちゃんだと閃いたが、七海は何かが頭の片隅に引っかかった。
「この前は本当にありがとうございました。ナナさんさえ良ければ、今度またドトールでお会いしませんか。私は大体、あの時間にドトールにおります。お礼にカフエラッテか何かご馳走させてください。シオノ」
見たことのない動物キャラクターが何度もお辞儀をするスタンプが貼られている。
「ありがとうございます。週末また行くと思います。七海」
あれ?返信しちゃった。
週末の午後、ドトールに行き、レジで注文する前に客席を覗くと、シオノさんはすでにいて、七海を待っていたのだろう、すぐ気づいた。
「あら、嬉しい。いらしてくださったのね、あ、飲み物はまだよね。ホットのカフエラッテで良かったかしら」
「あ、はい。ありがとうございます」
本当はアイスが飲みたいけど。
前の座席に座って待っていると、しばらくして、シオノさんがホットのカフエラッテを持って戻る。
「お待たせ、この前はありがとう」
「いえ、たいしたことじゃないのに、なんかすいません」
「たいしたことなのよ、年寄りに取っては。それにね、ライン友達が一人増えてそれも私にとってはとっても嬉しいのよ」
ライン友達?友達になったつもりはないけど、ま、いいか。
「孫のちいちゃんはね、26歳なのね。で、そのちいちゃんにこの前赤ちゃんができたの。女の子でね。私も仕事で忙しいから中々会いに行けなくて」
仕事?仕事してるんだ。孫が26歳ってことは・・・もう結構いい歳じゃん。
「あのう、連絡先の一番上にあった、ミツオさんって方は旦那さんですか」
「あ、そうそう。本当はもう消さなきゃいけないんだけどね」
やっぱり。聞かなきゃよかった。
「高校生って大変でしょ。色々と」
「はい、まあ」
「そうよねえ。時代が時代だものねえ。そうだ、ね、これから、たまにここで会って話を聞かせてくれない?もし、迷惑じゃなかったらだけど」
げっ。だるいじゃん。
七海が答えに窮していると、
「もし、嫌なら全然構わないから。はっきり言ってね」
そんなはっきり嫌ですなんて言えないじゃん。これからもここで顔合わせるかもしれないのに。んー。どうしよう。
「長くなければ」
言っちゃった。ついつい外ヅラの良さが出ちゃう。
その日から、ほぼ毎週末の午後、ドトールで二人は会い、最初のうちは30分ほどを共に過ごし、その時間は徐々に長くなっていった。
シオノさんは自分のことはほとんど話すことはなく、七海に様々な質問をし、ただただ聞いて、それを小さな手帳にメモしていた。
「学校って面白い?」
「面白くないのはなぜだと思う?」
「友達とは何して遊ぶの?」
「どんな話するの?」
「なぜ話さないの?」
「将来は何になりたい?」
「それはどうして?」
「なぜそう思うの?」
七海は最初のうちこそ、言葉を探しつつ、探しつつ、慎重に口数少なく答えていたが、何度かやり取りをするうちに、慣れたのか、どんどん饒舌になっていった。
七海はシオノさんに会うのが楽しみになっている自分に気づいた。
同時に、とげとげしかった自分の心が何か優しい膜で覆われたような感じがしていた。
「ナナさん、長い間ありがとう。すごく助かったわ」
シオノさんはそう言いつつ小さな手帳を閉じた。
助かった?そう言えばこのやり取りは何のためだったの?
一瞬そう思った七海だったが、それは寂しさでかき消された。
「もうこれは今日で終わりなんですか?」
「そうね。もう終わりにしましょう。十分でしょ」
十分?何が?
「前から聞きたいと思っていたんですけど、聞いていいですか?」
「何?もちろんなんでも聞いて」
「一人きりで寂しくないですか?」
「寂しいわよ」
「ですよね」
「友達とか話し相手とか欲しいと思いませんか」
「あなたがいるじゃない」
「私、ですか?」
「そうよ。あなたが一人いてくれるだけで私には十分よ」
その時、七海のスマホが鳴った。
「ちょっとすいません」
七海はシオノさんにそう言って、スマホを見ると、千紗からのラインだった。
「なにしてり?わたしいまメンヘラなり。かまちょ」
七海は一瞬考え、返信する。
「いま友達とドトールにいて大切な話してる。ごめんね。また今度聞くからね」
スマホを閉じて七海が言う。
「シオノさん、これからもドトールに来ますか?」
「もちろん。だって大好きだもの。他に行きたいところもないしね」
「私も来ます。その時お話ししませんか。まだ話したいことたくさんあるんです」
「そうなの?実は私もなのよ」
二人は笑った。
それから半年ほど経った。
七海は、受験勉強のための参考書を買いに書店に来ていた。
いくつかを選び、レジに並んでいるとき、店員の後ろの壁に貼ってあるポスターが目に入った。そこには、脚本家塩野薫子の処女小説『孤独(ひとり)、心のスキマ』と大きな文字で書かれている。
えっ、塩野薫子?思い出した。あの大ヒットドラマを書いた人だ。
七海は、新刊本が平積みされているコーナーに行き、その本を手に取った。パラパラと最後の方からめくり、著者あとがきを流し読む。
・・・
待っている。ただただ只管に。
心は叫ぶ。
喉の奥の、奥の、奥の方から。
自分でも想像できないほどの甲高い音で。
血の涙を流しながら。
この文章は、この物語を書く発端になった女子高生が書いていたものです。私は、たまたまカフェで隣り合わせた彼女が書いていた、魂の叫びのようなこの文章を、隣の席から盗み読んで、ショックを受けました。
私の心を代弁していたからです。
・・・
幸いにも彼女と私は心を通わせ、これからも友人としてお付き合いしていけそうです。
その友人はナナさんと言います。ナナさん、勝手に文章載せてゴメンなさい。
心の友であるナナさんに、この本を捧げます。
七海の瞳から涙がこぼれ落ち、そのページに落ちた。
七海は本を閉じ、参考書の上に重ね持ち、レジに向かった。
了