てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

 

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。

 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。

 年がら年中、履物は雪駄だ。

 本人には黙っているが、寅さんの真似に違いない。それはそれで本人が好きでやっているのだから構わないのだが、せめて二人でデパートなど街に買い物に出かける時くらいはやめて欲しいとも思っている。しかし、それを口にすれば、うるせえと罵声が飛んでくるのが関の山だし、それよりも何よりも、意外にもナイーブな勝男の心が傷つくのを知っているからこそハルコさんは言わないのだ。

 よくまあ飽きもせず毎日、毎日、ドトールだかに行くものだと常々思っているが、長い時だと半日は留守にしてくれるので、その間、羽を伸ばせるハルコさんにとってはそのドトールという喫茶店はありがたい存在でもある。

 その日、勝男を送り出したハルコさんは、一度私も行ってみようかしらと、ふと思い立ち、買い物ついでに駅まで出て、ドトールの自動ドアを開けて中を覗き込んだ。

「いらっしゃいませー」

 声を掛けられて一瞬迷ったハルコさんだったが、意を決してレジに立ってはみたものの、何をどう注文して良いのかわからない。

「いらっしゃいませー」

 他の客が自分の後ろに並んでしまう。

「あ、薄めのコーヒーでお願いします」

アメリカンでよろしいですか」

「はい」

「サイズはいかがしましょうか」

「普通で」

「Mでよろしいですか」

「はい」

 代金を払い、コーヒーを受け取ると、キョロキョロと辺りを伺いながら奥の方に歩いて行く。

 いたいた。あれに間違いない。

 奥に並んだ席の左端に、新聞を大きく広げている客がいる。ハルコさんは、気付かれないように右手前の少し奥まった席に座ると、いきなり、かあああっといつもの声が聞こえてくる。

 やってる、やってる。まったく恥ずかしいったらありゃしない。

コーヒー飲んだら気付かれないうちにさっさと帰らなきゃ。

んん、意外に美味しいじゃない、このコーヒー。

ハルコさんは勝男の様子を伺いながらも、しばらくコーヒーを愉しんでいると、

「こら!電話はやめんか!」

 いきなり勝男の怒声が響き渡った。

 その声に反応した隣のスーツを着た会社員らしき男が、携帯電話を持ったまま慌てて席を立って外に出て行った。

 はあ。相変わらずだわ、あの人。

 ハルコさんはため息をついた。

 

 ハルコさんこと、旧姓、近藤春子とナベさんこと渡辺勝男は社員三十人ほどの印刷会社に勤める同僚だった。小さな会社ゆえに、家族同然のように社員は仲が良く、給料は安くても皆楽しく生き生きと働いていた。

「もうすぐだな」

「ああ、そうだな。お前んとこ何する?」

「そりゃ言えないよ」

「なんだよ、いいじゃないか、教えろよ」

 年に一度の社員旅行が近づくと、あちらこちらでこんな会話がなされる。五つある職場が競い合って出し物をするのが恒例になっているからだ。しかも毎年、優勝した職場には、社長のポケットマネーから高価な賞品が供されるため、仕事そっちのけで皆本気になる。

 春子の職場では、春子が山本リンダに扮し、当時、ヒットした『こまっちゃうな』をお色気たっぷりに踊って歌う寸劇を準備していた。他の男たちは歌う春子に花を差し出すも、順番に振られていくというどうでも良い振り付けで、成否の全ては春子のお色気に掛かっていた。

 春子は上司の発案で決まったこの出し物が嫌で嫌でしょうがなかった。なにしろ、歌いながらストリッパーさながら、一枚ずつ脱いでいき、最後には当時まだ珍しかったビキニ姿になるのだから。

 それでも恥ずかしさを押し隠して笑顔でやり切った春子は、拍手喝采の中を宴会場から部屋へと飛ぶように駆け戻り、濃い化粧を落とし、服に着替え、そうっと何食わぬ顔でまた宴会場へと戻った。

「おお、春子ちゃん、こっち、こっち」

 赤ら顔でご機嫌な様子の社長が、春子を呼んでいる。

 あ、やっぱり見つかった。

 日頃は社員思いで、人の良い男なのだが、酒が過ぎると、目を付けた女性社員を隣に侍らせ、卑猥な下ネタを言い、体を触り、ひどい場合には口説き始めるというワンマン社長にありがちなタイプでもあった。とはいえ、社長の指名では無視するわけにもいかず、春子は社長の隣に座った。

「いやあ、良かったよ。ささ、まあ一杯」

 社長はコップを春子に持たせビールを注ぐ。

「それにしても春子ちゃんは着痩せするタイプなんだねえ。なかなか立派な、なあ」

 社長は両手を胸に持っていき、周りの社員に同意を求めるが、皆、さすがに視線を外したり、曖昧に頷いたりしている。

「しかし、あれ、ビキニっていうの。あれ、いいねえ。まだ下に着けてるの」

「いえ、もう着替えてきました」

「なんだ、もったいない。近くで見たかったな、なあ」

 またも周りに同意を求めると、脇を固める幹部社員たちは、口々にそうですね、私も見たいですなどと調子の良い相槌を打つ。

「なあ、春子ちゃん、もう一度、あのビキニ姿を見せてくれないかなあ」

「いえ、それはちょっと」

「見るだけだからさ。いいだろ」

 嫌がる春子に気づかないのか、それとも自分の言うことは絶対だと思い込んでいるのか、社長はしつこく何度も春子に迫る。それでも春子が困惑の表情を浮かべていると、ニヤけた社長が春子に顔を寄せ耳打ちする。

「嫌ならおっぱい触らせてくれる?ね、ちょっとだけでいいから」

 春子はとうとう観念して、着替えに行こうと席を立とうとしたそのときだった。

「うわっ」

 勝男が後ろに立って、社長の禿げ上がった頭にビールを流しかけている。

 おい、やめんかと、周りの人間に勝男は取り押さえられた。

 

 いい歳して変に正義感ぶっちゃって。ほんと、あの時のまんま。

 しばらくすると、携帯を持って出て行ったサラリーマンの男が戻ってきて、勝男に頭を下げる。

「ま、いいや。気をつけるんだな」

 自分だってうるさいくせに。

「ナベさん、あんまり他のお客さんイジメちゃダメよ」

 テーブルを拭きにやってきた女性店員が、勝男に声をかける。

「お、西島ちゃん、違うよ。俺はちょっと、なあ」

 さっき怒鳴られた隣のサラリーマンが慌てて頷く。

「悪い人じゃないので、許して上げてくださいね」

西島という女性店員はサラリーマンにそう声をかけると、にこやかな笑顔のままレジの方に戻っていく。勝男はその後ろ姿を嬉しそうに見ている。

へえ、私には見せないくせに、今でもあんなニヤけた顔するんだ。

 そういうことか、なるほど。楽しみがあったのね。よしよし。

 勝男に気取られないよう、そっとドトールを後にし、その夜の食卓で満を持してハルコさんは切り出した。

「よくまあ毎日毎日、ドトールとかに行くわね。飽きないの」

「なんだよ、急に。悪いのか」

「悪いなんて言ってないでしょうよ。飽きないのかって聞いただけよ」

「飽きて嫌んなったら行かねえよ」

「ということは、何か楽しみがあるってことね」

「ねえよ、楽しみなんて」

「だって、コーヒー飲むだけなら、うちで十分でしょ。少ない年金工面して行くんだからそれなりに楽しみでもないと、ねえ」

「新聞読みに行ってるだけだよ」

「うちでも読めるじゃない」

「散歩だよ、散歩」

「散歩ねえ」

 ハルコさんの訝るような目つきに勝男は思わず目を逸らしてご飯をかき込む。

「綺麗な女の人がいるとかさ」

「ぐっ」

 勝男がご飯を喉に詰まらせ、ひどく咳き込んだので、笑いを堪えてハルコさんが背中をさする。

「ほらね、図星だからそうなるのよ」

 

 数日後、勝男が突然、古い同僚のツルタさんを連れて帰ってきた。

「あらあ、ツルタさん、お久しぶり。何年?何十年?」

「どうも、ハルコちゃん、あ、もうちゃんじゃないな。でも変わんないねえ」

「まあまあどうぞ上がって」

「おい、酒、酒」

「こんな昼間っから飲むの?」

「うるせえ、外で飲むよりいいだろ。なあツルタ」

「いや、俺は別に外でも」

「いいから、いいから」

「悪いね、ハルコちゃん」

「でも大したものないのよ、前もって聞いてれば良かったんだけどねえ」

「いや、ほんと。気にしないでいいから」

 ハルコさんは、まだ半分ほど残っている日本酒の一升瓶と、コップを二つ、そして、漬物やかまぼこなどあり合わせのつまみをいくつか座卓に用意した。

 若い頃なら五合の酒などあっという間に飲み干しただろうが、二人とも八十の齢を迎えようかという高齢もあって、一合の酒に小一時間もかかっている。つまみにもほとんど手をつけず、やることもないハルコさんは、座卓の端でワイドショーを見ながら、二人の昔話を聞くともなしに聞いている。

「そういえば、おい、キミちゃん、亡くなったってよ」

「ええっ、ほんと?いつ?」

「もう十年になるよ。子宮がんでさ」

「そう。いい子だったのに・・残念ね。じゃそれからツルタさん一人で?」

「うん、息子たちも出てったからね」

「それじゃ色々不自由で大変でしょうよ」

「さすがにもう慣れたよ」

「若い嫁さんでも貰うつもりじゃねえのか、けけ」

 勝男がまぜっ返す。

「やめなさいよ。くだらない冗談ばっかり言って。ねえツルタさん」

 ハルコさんが嗜めると、それを取りなすようにツルタさんが話題を変える。

「だけどナベよ、さっきの話だけどよ、よく定年してから今まで仕事もせず遊んで来れたもんだな」

「ん?まあな。かあああっ」

 えっ?仕事もせず遊んできた?

 思わずハルコさんは勝男を見るが、わざとなのか、たまたまなのか、勝男は顔を背けている。

 

 勝男が五十五歳で会社を定年退職してから、二十五年、二人が結婚してからだと半世紀が経とうとしているが、結婚してから今までずっと生活は楽ではなかった。

 何しろ、勝男は出世とは無縁の安月給のくせに、奢ってやると会社の同僚や後輩たちを連れて飲

み歩き、時には家にまで連れてきてはご馳走する。金がないと聞くと、帰りのタクシー代まで出し

てやる念の入れようだ。本人は、ナベさん、ナベさんと慕われて上機嫌だが、家計を預かるハルコ

さんはたまったもんじゃない。

 勝男の頼みで、ハルコさんは結婚を機に会社を辞めてしまっていたから、収入は勝男の少ない月

給以外になく、最初のうちこそ貯金を取り崩したりしながら、何とかやり繰りしていたが、勝男の

金遣いの荒さは半端なく、巷間いうところの、宵越しの金は持たないというやつで、いくら渡して

も毎晩のように飲み歩いてあっという間に使い果たしてしまう。

 勝男の派手な飲み歩きが始まったのは、結婚十年ほど経ってからだったため、子供が授からない

ことが遠因かもしれないと思っていたハルコさんは、よく調べもせず、自分に原因があると思い込

み、少しでも家計の足しになればと近所のスーパーで働き始めた。

 そんなハルコさんの苦労を知ってか知らずか、勝男はあいも変わらず飲み歩いて散財する生活を

送り、それは結局定年退職まで続いた。

 ところが勝男が会社を辞めてまもなく、ハルコさんの実家を不幸が襲った。

 八十二歳の高齢ながら小さな電気店を営んでいたハルコさんの父親が、悪どい投資話に騙され、

預貯金どころか、家も店も差し押さえられる羽目に陥ったのだ。

「三千万?そんなにあるのか」

「御免なさい」

 ハルコさんは、泣く泣く勝男に親の窮状を話した。

「よし、わかった」

 そう言った勝男は、酒をキッパリ止めると、すぐさま肉体労働の仕事を探し、働き始めた。ハル

コさんの父親の借金を返済し終わったのは、まだ肺がんを患う一昨年のことで、都合丸二十三年か

かった。その間、職を転々としながらも、勝男は一切文句や愚痴を言わず懸命に働いた。

 

「だってさ、ハルコさんだってすぐ会社辞めちまったし、こう言っちゃなんだけど、年金だってそ

う多くないだろ。それに確かナベは結構、金遣い荒かっただろ。まあ、そういう俺も随分奢っても

らった口だけどさ」

 勝男はそれには答えず、相変わらずそっぽを向いて酒をちびちび嘗めている。

「私よ、私。内助の功って言うでしょ」

「あ、そうか。ハルコちゃん、なんか仕事してたのか」

「そういうこと」

「けっ、ナベ、お前はカミさんにだけは恵まれてるなあ」

 ツルタさんは、コップに僅かに残った酒を煽ると、一升瓶を掴んで勝男のコップと自分のコップ

に半分ほど注いだ。

「でもな、ナベ。俺が言うのも何だが、お前はよく頑張ったよ。お前は一切来ないが、今でも会社

の集まりで会うとお前の話で盛り上がるんだ。そうそう、ハルコちゃん、こいつの武勇伝知って

る?」

「武勇伝?私が知ってるのは、あの社内旅行で社長にビールかけたことくらいだけど」

「やっぱり。ナベ、お前言ってないんだな」

「うるせえ、ツルタ、余計なこと言うな」

「ま、いいじゃないか。時効だろ」

「ツルタ、やめろって言ってんだろ」

 酔いが回り始めているツルタさんは、勝男にお構いなしに語り始めた。

「ハルコさん、そうだな、あれは俺たちが三十半ば過ぎたくらいの時だから、ハルコさんが会社辞めてちょうど十年くらいか。あのナベがビールかけたタコ社長がさ、会社を追われたんだよ」

「え?どういうこと?」

 当時は、高度成長期真っ只中で、独自で会社を大きくしたい社長派と、大手印刷会社との対等合

併を密かに進める専務派が対立し、結局、人の良い社長が足元を掬われる形で会社を辞めざるを得

なくなった。

 専務が新たに社長となり、合併を進めようとしていたが、ほとんどの社員は反対していた。なぜ

なら対等合併とは名ばかりで、実際には会社に残れる社員は専務派の僅かしかないと判明したから

だった。

「そこで立ち上がったのがナベだ」

 勝男は新社長の合併を阻止しようと組合を組織すべく奔走した。

「それで?」

「組合はできなかった。なあ、ナベ。あんなにカネ使って頑張ったのにな」

 ツルタさんはしんみりと言い、勝男は顰めっ面をして酒を嘗めている。

「じゃあ会社は?」

「ハルコちゃん、会社の名前変わってないだろ」

「ということは」

「そう。合併もできなかったんだよ。向こうが諦めたんだ。ナベのおかげで」

 ハルコさんが思わず勝男を見る。

「ナベがさ、向こうの会社に乗り込んだんだよ。で、社長に土下座して合併をやめてくれ、やめてくれなきゃここで死ぬって啖呵切ったんだよ。そしたらさ、向こうの社長もさすが大したもんで、分かった、手を引くって。まるでヤクザ映画だよ」

「それ本当なの?」

「もちろん本当だよ、そういう時代だったんだろうね。ただこれを知ってるのはもう何人もこの世に残ってないけど」

「余計なことを言いやがって。かあああっ」

「会社も社員も救われたまではいいが、ナベは結局社長に睨まれてクビにこそならなかっただけ

で、ずっと冷や飯食わされてさ」

 勝男はじっと手元のコップ酒を睨んでいる。

「確かに、あの後働きたくなかった気持ちも俺には分かるよ。あんだけ辛い思いしたんだもんな。なあ、ハルコちゃん、こんなわがままな男だけどさ、許してやってくれよ」

 ハルコさんは、涙が溢れ出て止まらなくなった。

「あれ、ごめん。ハルコちゃん、俺、なんか悪いこと言っちゃったかな」

「そうだ、ツルタ、てめえのせいだ。まあ、いいや、ほら、飲め」

 勝男はツルタのコップに酒をなみなみと注いだ。

                                         了