てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

ドトールな人々 祓う男


 その顔色の悪い痩せた細面の男は、ドトールの二階に上がり、街中を見下ろせる窓側の一人席に座った。手に持っていた黒い小型のバッグは窓に持たせかけ、コーヒーを載せたトレーを置き、袋を破いて濡れナプキンを取り出すと、小さく震える両手を何度も几帳面に拭った。
 大きな深呼吸を、ゆっくりと一つ行うと、バッグからセブンスターとライターを取り出してテーブルに置く。徐に立ち上がると、喫煙ルームに向かった。
男は、小磯慎也といった。
 夕方ドトールに立ち寄り、タバコを一本喫い、コーヒーを飲んで気持ちを落ち着けてから出勤するのが小磯のいつものルーティンだった。
 小磯は普段はタバコを喫わない。いやでも高揚する神経を落ち着かせるためだけに喫うのだ。本来ならマリファナが最も適しているらしいのだが、やむを得ずタバコで代用している。
 喫煙ルームから戻った小磯は、もう一枚取ってあった濡れナプキンで、両手をしっかりと拭い、コーヒーを一口啜ると、バッグからクリアファイルを取り出す。ファイルには、これから向かう家の詳細な資料が綴じてある。
 小磯は資料を見る前に、目を閉じた。
 心してかからなければ。
 そう思い、視界に広がる暗闇の奥に焦点を合わせ、自分の内側を見つめる。
 よし。何とかいける。大丈夫だ。
 三十八歳の小磯が生命保険会社を辞め、世の中のほとんどの人が知ることのない今の会社員になって既に十年あまり経つ。亡くなってまで強い思念をこの世に残すほどの負のエネルギーを祓うのは、自分の持つ精神エネルギーを全て使い果たすほどの重労働であり、若い頃と違い、最近は疲労が抜けにくくなっているのを小磯は感じていた。
 そっと目を開け、窓の外を見る。多くの人々が行き交い賑わう街の風景はいつもと変わらない。皆、それぞれの意思と目的を持ってどこかに向かっている。
 おばあちゃん、俺、これからどうしたらいいだろう。
 心で祖母を呼ぶが何も起こらない。

 小磯に祓う能力の存在を教えたのは、ことのほか小磯を可愛がってくれた祖母の千枝だった。小学六年生で祖母の葬儀に参列した際、泣きじゃくった後に疲れて眠ってしまった小磯の意識下に千枝が現れた。
「慎ちゃん、悲しむ必要はないのよ、おばあちゃんは、ずっとあなたを見守っているし、心で呼べばすぐ駆けつけるからね。それと、よく聞いて。あなたには特別な力があってね、その力は、悲しいとか辛いとかって気持ちを楽にさせてあげられるの。大きくなったらその力が分かるから、その時はおばあちゃんの言ったことを思い出してね」
 千枝の言った通り、社会人になって数年した時、亡くなった先輩の葬儀で小磯はその能力を知った。
 焼香する人々の上で浮いている先輩が小磯の心の目に見えた時に、小磯は心底驚いたが、不思議と恐怖は感じなかった。それよりも、若くして家族を残してこの世を去る哀しみが、強烈な波動となって小磯の心を締め付けた。
 小磯はごく自然に、先輩に話しかけた。
「先輩の気持ちはよく分かります。本当に残念で心残りでしょうね」
 浮いていた先輩は話しかけられたことに驚いたようだった。
「はい、僕には見えていますし、先輩の気持ちがダイレクトに伝わってきます。僕は、先輩のその気持ちをしっかりご家族に伝えます。そして先輩がいつまでも見守っているので心配はいらないということも」
 すると、先輩の悲哀の表情がみるみる間に柔和な表情へと変わっていき、そのまま消えて行った。
 葬儀の後、駅に向かう小磯に女性が声をかけてきた。
「小磯さんですね。少々お話をさせていただけませんか」
 女性は、小磯をある会社にスカウトした。
「池の表面に小石を投げると、生み出された波はどこかにぶつかるまで消えません。この相対的な世界では、必ず正と負のエネルギーが釣り合って存在していますが、何かの要因で負のエネルギーが優勢になると、経済は停滞し、ひどい場合には戦争やテロにつながります。そして、その負のエネルギーとは人間の生み出す思念に他なりません。この影響の強さを理解している世界の富裕層が少なからずおられ、この会社は彼らの寄付で運営されています」
 女性の説明を聞いて、小磯はこれこそ自分がやるべき仕事だと直観し、転職を決意した。
 
取り出した資料を見始めた矢先、一つ離れた席の客が、スマホにかかってきた電話で話し始めた。
小磯は資料を閉じ、客の方をちらっと見る。三十代くらいの会社員のようだ。
はあと一つ、聞こえよがしに大きな溜息をつくと、それに気づいた客が、そそくさと席を立ち階段を降りていく。
それを見て小さく首を振り、また目を閉じる。
どうした。こんな些細なことでイラついてどうする。
しかし、小磯には分かっていた。長年、祓ってきた負のエネルギーによって、自分自身が少しずつ影響を受けていて、例えばそれは、入れ替えをしていないプールの水が徐々に濁るようなものだった。
そろそろ辞めどきなのかな。
今日の仕事が終わったら、今後のことを真剣に考えよう。
目を開け、小磯は立ち上がった。
 
 竹田家は、不動産業で莫大な資産を築いただけあって、都内でも有数の高級住宅地の一角にあった。
 大きな木組みの門の前には、白い手袋をした葬儀の案内人と思しき男性が立っている。
「小磯と申します」
「お聞きしております。どうぞこちらへ」
 案内に従って、門を入っていくと、敷地は驚くほど広く、何百、いや何千坪あるのだろうか、白く瀟洒な洋風の邸宅がまず目に入る。その邸宅を右手に見ながら、よく手入れされた洋風庭園の脇道を進んでいくと、左手前方に小ぶりな和風の建物が見えてくる。
 この平屋か、故人が幽閉されていたところは。
 男性に礼を言い、上り框で靴を脱いでいると、品の良さそうな五十歳ほどの女性がやってくる。
「本日はありがとうございます。故人の妹で喪主の竹田タエと申します」
「小磯と申します。この度はご愁傷さまでした」
「どうぞこちらへ」
 八畳ほどの座敷に、簡素ではあるが、それなりに立派な祭壇がしつらえてある。敷いてある参列
者用の座布団は六枚ほどで、小磯は末席に着座した。
 優しげな微笑みを浮かべて遺影にある当主の竹田義雄は、この豪壮な屋敷の片隅で一人、家族に
も看取られず餓死同然の非業の死を遂げていた。
「差し支えなければ、なぜ私どもに?」
「はい、それが・・」
 兄の苦境を知っていながら、もっと何かしてやれなかっただろうかと自分を責め続ける日々だったが、ある時、母の言葉を思い出し、小磯の会社に連絡を取ったという。
「御社のことは、生前、母から聞いておりました。父の葬儀の際にもお願いしたと。ただその際はうまく行かず、いつかまた同じようなことがきっと起こるからその時は必ず連絡するようにと」
「そうでしたか。承知しました。お役に立てるよう精一杯務めさせていただきます」
 しばらくすると、義雄の夫人の玲子と長女の理恵、そして長男の圭一と思しき三人が訪れ着座した。どの顔もしょうがなく来てやったとばかりの不満気な表情を浮かべていたが、特に夫人は、末席に座る小磯を見下すように一瞥した後、深々と頭を下げるタエに憎々しげな視線を投げつけた。
 ほどなくして訪れた法主が読経を始め、合図とともに焼香も始まった。
 小磯は、もう一度、バッグからファイルを取り出し、義雄の写真をじっと見つめた後、そっと目を閉じ、視界の奥にある漆黒のスクリーンにフォーカスした。
 その刹那、意識が跳んだ。
 目を閉じてはいるが、その跳んだ意識の中では、目を開くことができる。
 そこには、宙を漂う義雄の姿があり、案の定、ついこの前まで家族だった、夫人や息子を憤怒の表情で睨んで・・いない?
 そこに怒りの色はなく、哀しみと憐みの入り交じった複雑な表情に小磯には映った。
 そうか、義雄は自分を辛い目に合わせた夫人や子供たちを恨んではいないのか。
「竹田義雄さん」
 小磯が声をかけると、義雄は驚いた表情を浮かべる。
「妹のタエさんに依頼されて参りました。さぞ無念だったことでしょう」
 義雄は哀しげな表情で首を振る。自分が悪かったとでも言いたげだ。
「義雄さん、安心してください。あなたのことはタエさんやご家族だけでなく、私どもも決して忘れません。あなたの深い愛情は決して消えることはありません」
 義雄は、嬉しそうに涙を浮かべながら消えていった。
 少し拍子抜けした小磯だったが、疲れることもなく、すんなり終わった仕事に、まずはほっと胸を撫で下ろした。
 葬儀が終わり、タエに報告をしようと小磯がその場に残っていると、後片付けをしているタエに夫人の玲子が声を掛けた。
「タエさん、お願いもしていないのに色々ご苦労様でした。ところで葬儀費用はいかほど?」
「いえ・・それはもう」
「いらないとおっしゃる?」
「はい、こちらでやりますので」
「そう。後からごねられても困りますからね。それとこの際ですからお伝えしておきたいことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「あなたに主人の遺産をお渡しするつもりはございません。彼の面倒を見ていたのは私ですから」
「そんな・・もちろんそんなものを戴くつもりはございません」
「本当?おばさん、何か下心があってこんなことやってるんじゃないの?」
 長男の圭一が横から口を出すと長女の理恵も続ける。
「下心って。私たちパパにはほとほと迷惑掛けられたの、おばさま、知ってらっしゃるでしょ。会社は乗っ取られるわ、そのせいで私の縁談はダメになるわ、死に方が死に方だったから、警察からは不審死で何度も呼び出されるわ、何にも手を打ってないから相続税は莫大だわ、もういい加減にしてって感じなんだから」
 タエは正座し俯いたままだ。前で重ねた両手が微かに震えている。
それにしても、このような場で言うことか、義雄もこんな風に毎日責められた挙句、この狭い家に幽閉されたのだろうか。
「まあ、いいじゃん。保険金が・・」
 玲子が素早く視線を送ると、圭一は慌てて口をつぐんだ。
 保険金?まさか、計算づくで義雄さんを追い詰めたのか?
 小磯がそう思った時、タエの纏う空気が一変する。
 なんだ?
 タエが顔を上げる。先ほどまでとは別人のような表情だ。視線は焦点が合わず、口元には笑みが浮かんでいる。
「おい、俺の金を返せ」
 タエの口から野太い男の声が漏れ出た。
 小磯は思わず、目を瞑り、タエの姿を思い浮かべ意識を集中した。
 タエの上、天井あたりに黒い影があり、とんでもない負のエネルギーを感じる。まるでブラックホールのように、周囲のものを飲み込もうかとしているようだ。
 義雄の父で先代当主の伊知郎だ。小磯は直観した。
 タエが母親から聞いていたように、伊知郎が亡くなった時も祓ったがうまく行かなかったと、小磯も会社の資料から知っていた。
 なるほど、伊知郎の思念が祓えなかったのは、兄を想うタエの思念に同化していたからか。
「俺の金を返せ」
「は?何言ってんの」
 理恵が吐き捨てるように言うと、黒い影が一気に部屋全体を覆った。
「タエさん!タエさん!」
 小磯が必死に声を掛けるが、自分の意識を失ったタエには届かない。かと言って、どうやって伊知郎の思念にアクセスすれば良いか、小磯には検討もつかない。
「竹田伊知郎さん!聞こえますか!伊知郎さん!」
 黒い影に向かって呼びかけるが何の手応えもない。
「おい、俺の金を返せ」
「大丈夫かよ、おばさん」
 圭一がタエに近寄ると、タエがその頬を右手で軽く触れた・・ように見えた。その刹那、圭一の体が重力に逆らうような動きで人の身長ほどに宙に舞ったかと思えば、今度は上から強力な力で押さえ付けられたかのように猛スピードで畳に叩きつけられた。何かが潰れるような嫌な音がし、衝撃で圭一は血を吐いて失神した。
 玲子と理恵の悲鳴が響く。
 黒い影はさらにどす黒さを増し、小磯の視界はどんどん奪われていく。
 もう駄目だ。おばあちゃん!
 小磯はパニックに陥った。
 どれほど経っただろう、数秒にも数時間にも思える。
 小磯がそっと心の目を開けると、なんとそこには消えたはずの義雄がいた。義雄は、タエを庇うかのように頭上にいて、ある方向を見つめている。そちらに視点を移すと、黒い影の中に、人のような姿が浮かび上がる。
 あれが伊知郎か。
「父さん、もう止めてください」
 義雄が懇願するように言う。
「義雄、邪魔するな」
「お願いです。父さん」
「俺が苦労して得た金だ。あいつらに好きなようにはさせん」
「その通りです。全部、私が悪いのです。父さんの期待に応えられなかった私が悪いのです」
「義雄、お前は本気で言っているのか。それでも俺の息子か。悔しくないのか、恥ずかしくはないのか。俺が誰のために金を残したと思っているのだ」
「分かっています、分かっています。悔しいです。恥ずかしいです。でも」
「もういい!でしゃばるな!」
 伊知郎の周囲を取り巻く黒い影は、全てを飲み込まんとばかりに再び勢いを増すと、タエがすっと立ち上がり、圭一の側で、オロオロするばかりの玲子の背中に近寄ると、タエの上を浮遊していた義雄が、玲子の背中に覆い被さった。
「おい、どういうつもりだ。どけ」
「父さん、父さんが何と言おうが、これは僕の大切な家族です。どれだけひどい家族でも家族なんです」
「家族だと。何を抜かす。こんな奴らが家族と言えるか。いいからどけ」
「いえ、どきません」
「ふん、お前、俺の言うことが聞けんのか」
「・・聞けません。これだけは聞けません。お願いします。お願いします」
「・・・まさか、お前」
 鬼気迫る表情で必死に哀願する義雄を伊知郎はじっと見つめる。
「・・・そうだったのか。お前というやつは・・・」
黒い影がすうっと引くと、明瞭な姿となった伊知郎が、義雄に近寄りその肩を抱いた。
「父さん、ありがとうございます」
 伊知郎は、優しげな微笑みを浮かべてうんうんと頷き、二人は消えていった。そしてその消えた二人の後にもう一人の姿が浮かび上がった。
「おばあちゃん!」
 祖母の千枝が、そこにいた。
 そうか、消えた義雄さんを連れてきてくれたんだね。ありがとう。
 千枝もまた微笑みながら消えていった。
 小磯が目を開けると、玲子の傍でタエがぐったりと横たわっている。
「タエさん、タエさん、大丈夫ですか」
 タエは小磯の呼びかけにうっすらと目を開けた。

 一ヶ月後、仕事のない週末に小磯はドトールに来ていた。
 いつもの二階の窓側に席に座り、ゆったりとコーヒーを愉しみながら、竹田家の仕事を思い出していた。
 事件の数日後、タエと会った際に、新たな事実を小磯は聞かされた。先代当主の竹田伊知郎は、強い金への思念を残して亡くなったと聞いていたが、それには明確な理由があった。
「父がそこまでお金に執着するようになったのは兄のためだと思います」
「義雄さんの?どういうことですか」
「父は事業を兄に継がせようととても厳しく育てましたが、いつ頃からか諦めたようで、ちょうどそのあたりからです。父がお金にこだわるようになったのは」
「と言うことは」
「兄に少しでも多くの資産を残してやりたかったのだと思います」
「なるほど」
「父は、自分とは正反対の兄を実はとても愛していました。兄に商才はありませんでしたが、とても純粋な精神の持ち主で、誰にでも優しく寛容な兄を父は陰で認めていました」
「お兄さんを心配するがあまりに・・」
「ええ、玲子さんも最初はいい奥さんだったんです。でも、だんだんお金にこだわるようになって・・。父は気づいていました」
「それでタエさんに・・ですか」
 多分とタエは頷いた。
 その後、再びタエから連絡があり、長男の圭一は、脊椎損傷で下半身不随となり、ショックを受けた玲子も精神を病んで入院し、広い邸宅には、長女の理恵が一人寂しく暮らしていると聞いた。
 家族か。残された彼らは、これからどんな人生を歩むのだろう。
 そして小磯はあることに気づき愕然とする。
 もしかすると、義雄は自分の保険金目当てなど、全てを知っていて、それでもあえて受け入れて死んでいったのではないか、いや、きっとそうに違いない。それほどの義雄の愛だったのだ。父や家族の期待に応えられなかった分、自分の身をもって死で応えようとしたのだ。そしてそれを立派にやり遂げた。最後の最後、伊知郎はそれを知ったからこそ許したのだ。
義雄の無償の愛がきっとこれからの彼らを守り、支えていくだろう、そしていつか彼らも義雄の愛を知るだろうという確信が小磯にはあった。同時に、自分に対する祖母の深い愛を小磯は想った。すると感謝の念とともに、体の底から大きなエネルギーが沸き起こるのを感じた。
分かってるよ、おばあちゃん、この仕事、もう少し続けるよ。
 まだまだこの歳になっても知らないことばかりだしね。
 隣の席に座る客のスマホが大きな音楽を鳴らし、はいはい、私です、と女性が大声で言った。
 やれやれ。ま、いいか。
 小磯は苦笑いして、残っていたコーヒーを飲み干すと、カップを持って席を立った。