ドトールな人々 マッチングアプリ
平日はほぼ毎日訪れる倉田百合子のドトール滞在時間は短い。
長くてもせいぜい10分、短いと5分を切ることもある。
ギリギリまで寝ていたい百合子が、出勤前の慌ただしい時間に寄るのだからしょうがないと言えばしょうがない。
母親が入院してから、朝食はドトールになった。
午前8時6分の電車に乗るためには、ドトールを何としても7時50分には出ないと間に合わない。午前7時半開店とほぼ同時に入り、いつも同じモーニングセットを注文する。
食いしん坊の百合子にとって朝食は必須で、もし抜いたり食べられなかったりすると、午前11時には空腹感で仕事が手につかなくなってしまう。
小さい頃からずっとそうだった。
とにかくよく食べた。
1年前に亡くなった父の正男は、百合子同様、相撲取りと間違われてもおかしくないくらい体格がよく大食いだったから父方の遺伝かもしれない。
美味しそうに食べる正男と百合子のために母の豊子は毎日一生懸命料理を拵えた。
豊子は正男が亡くなってからは、心の寂しさを埋めるかのように、ますます百合子のために料理の腕をふるった。
百合子には豊子の気持ちが痛いほど分かっていた。
だから一生懸命食べた。
会社の付き合いで夕食を食べて帰ってからも食べた。
時には豊子に背を向けて泣きながら食べた。
正男はとても優しい父だった。
叱られた記憶は一度もない。無口だがいつもニコニコしていた。
豊子とも大の仲良しで喧嘩しているところを百合子は見たこともない。せいぜいテレビ番組で揉めるくらいで、その時はいつも正男が豊子に譲った。見たくもない韓国ドラマをじっと我慢して見ていた正男の姿が浮かんでくる。
テレビを見ていた百合子や正男が、出てきた料理を見て、美味しそうだねと言うと、レシピなど知りようもない豊子が、自分なりに工夫して必ず作ってくれた。そしてそれはいつも美味しかった。
食事は愛だ。
母の食事に慣れていた百合子は、ファストフードやコンビニ弁当などを食べると体が拒否反応を示す。友人と同じものを食べて、吐きそうになったことさえある。その友人は美味しいと言って食べているにも関わらず。
豊子は冷凍食品や加工食品を一切料理に使わなかった。
料理をするところを見ていると、いつも食材を、可愛い生き物にでも触れるように、優しく繊細に、そして大切に扱った。
包丁を入れるときでさえ、あたかも痛くないようにと心を込めているようだった。
学校へ持って行く華やかで大盛りの弁当は、友人たちから羨ましがられ、いつも百合子の自慢だった。
百合子が短大を卒業して今の会社に勤め始めてから、すでに20年が過ぎた。
顔立ちは決して悪くなく、どちらかと言えば可愛い方と言ってもおかしくない。若い頃は多少標準体重を上回っていても、愛嬌がありいつもニコニコしているぽっちゃり型の百合子は会社の人気者で、同僚や少し上の先輩社員に、付き合って欲しいと言われたことも何度もある。
高校時代のことだ。百合子は一つ年上のバレー部の先輩に本気で恋をした。当時、熱狂するほど大好きだったアイドルに似ていたのが今思えば大きな理由だった。
恋のライバルが数多い中、意を決して告白すると、
「いいよ」
すんなりOKされ、舞い上がった。
初めてのデートはお決まりの映画となり、百合子は先輩に喜んでもらえるかもと、手作り弁当を作ろうと考えた。映画を観た後に、どこか公園のベンチで仲良く一緒に食べる二人の姿を思い描き、胸ははちきれんばかりに膨らんだ。
百合子は、朝早くに起き出し、豊子に手伝ってもらいながら一生懸命弁当を作った。
映画を観終わると二人は移動して公園に行き、木陰のベンチに腰を下ろした百合子は、早速、母譲りの自慢の弁当を開けた。
その途端、先輩の表情が変わるのが百合子には分かった。
最初は、あまりに美味しそうで驚いたのだろうと思っていた。
二口ほど食べた先輩から、
「オレ、いつもメシの後、コーヒー飲むんだよ。コンビニでもなんでもいいからどっかで買ってきてくんないかな」と言われ、百合子は、分かった、食べて待っていてねと言い置き、公園を出て探したコンビニでコーヒーを2つ買って戻ると、先輩の弁当はすでに空になっていた。
先輩は、美味しかったよと言ってコーヒーを飲んだ。
百合子も自分の弁当を急いで食べ、コーヒーを飲んだ。
さあ、帰ろうかと公園を出ようとしたとき、先輩が空になったコーヒーカップを持て余しているのに気づいた百合子が、
「それ、捨ててくるね」と、さっと先輩の手から取って、先程のベンチの近くにあったゴミカゴに捨てに走った。
何気なく中を見た百合子は絶句した。
ゴミカゴには、精魂込めて作った自分の弁当の中身が元あった形のまま捨ててあった。
先輩には何も言えず、家に帰って泣いた。
母ほど上手に作れないのはわかってるよ。
それにしても、捨てることはないでしょ。
嘘までついて。
百合子の心に怒りが宿った。母親の料理がバカにされたような悔しさもあった。
翌日、いつものようにバレー部の練習で汗を流す先輩を、陽が暮れかかった校門で待っていると、
「お待たせ」と爽やかな笑顔で先輩がやってくる。
二人、肩を並べて歩くが、いつもと違い表情が硬く言葉少ない百合子に、
「どうした、なんか嫌なことでもあった?」と先輩が聞いてくる。
「昨日のお弁当のことなんだけど」
百合子は先輩の目を真っ直ぐ見て言った。
一瞬、先輩の目が泳ぐ。
「いや、あれは」
「嘘はやめて」
百合子のピシッと言ったその一言に先輩の顔色が変わった。
「じゃ、言ってやるよ。お前みたいなデブと付き合ってやってるだけでもありがたいと思え。それをあんなクソまずい弁当を、しかもこっちは相撲取りでもねえのにとんでもない量作ってきやがって。太っちまうだろうが」
それっきりだった。
そしてそれが百合子のトラウマになってしまい、どうしても男と付き合う気にはなれなかった。
会社には、3つ下の山下聡美という後輩がいる。
容姿が対照的だったのがかえって良かったのかもしれない。
聡美は、どれだけ食べても太らない体質らしく、背が高く痩せギスで細面の、特に目が少しきつい印象を与える顔立ちだったのだが、歳が近いことや、食べ物の好みが似ていることなどもあって、聡美の入社以来、百合子はずっと仲良くしていた。
そして、その関係は、歳を経るごとに増えてくる、男性社員や若い女性社員からの、疎んじるような視線を共にかいくぐってきた、いわば戦友でもあった。
「絶対、絶対、絶対頑張って定年退職まで一緒にいようね」
二人は、食事や飲みに行くたびに、何度も何度も同じ約束を交わしていた。
夕方、聡美からラインが入った。
「急だけど、今晩空いてる?」
「もちろん!どうせ一人だから予定は真っ白!」
仕事を終えた二人は、いつものイタメシ屋で待ち合わせた。
最初から聡美はなんだかモジモジしている。
そのうち言うだろうと百合子は思っていたが、いつまで経っても言い出さない。百合子の話は上の空で聞いている。ワインはいつもの2倍のスピードで飲み干す。
「何よ。言いたいことがあるんでしょ。遠慮しないで言いなさいよ」
どうせ、いつもの仕事の愚痴だろう。
最近、聡美の上司が代わって、今度のは前にもまして嫌味なやつだと言っていた。
よほどやられたか。
聡美はまだモジモジしている。
「もう!いい加減にしなよ」
さすがに怒った口調で百合子が言うと、
「実はね・・・」
そこまで言ってまた黙り込む。
「あのねえ、聡美」
「分かった、ちゃんと言うから」
そう言って大きく息を吐き出し、
「実はね・・・結婚することになった」
百合子は聡美が何を言ったのか全く理解できなかった。
しばらく沈黙の時間が流れる。
「嘘でしょ」
ようやく百合子が言葉を絞り出す。
「ごめんね。ホントごめん」
聡美は泣き出しそうな表情でそう言う。
冷静さを取り戻した百合子がきちんと話を聞くと、3ヶ月ほど前、遊び半分でやってみたマッチングアプリで知り合った男と、何度かラインでやり取りをした後、思い切って会ってみると、すぐ打ち解けたらしい。相手は48歳で奥さんとは死別、子供はいない、会社を経営し、資産はそれなりにあるが、一人で老後を迎えるのは不安になって出会いを求めたと言う。
「それで仕事はどうするのよ」
「子供が欲しいから・・・。彼も辞めてくれって言うし」
結婚は、夏までにはしたい。会社はキリの良くない4月末で辞めると消え入るような声で聡美は言った。
キリの良くないって?と百合子が聞くと、嫌味ったらしい上司に少しでもやり返したいと言う。
4月末ってことは、あと3ヶ月だ。
5月から私一人?嘘でしょ。あんな連中と一人で戦えるわけないじゃない。まだ定年まで20年近くあるのよ。
聡美の結婚を祝ってあげなくてはと頭では思いながら心はそれに付いていけない。
「おめでと」
ぎこちない笑顔で言って聡美と別れた後、豊子のいない暗い家に一人帰る百合子の足取りは重かった。
週末、百合子は病院に行くが、豊子の様子に変化はなかった。
脳内出血を起こした豊子は、命は取り留めたものの、医師からは、意識が戻る保証はないと言われていた。
正男が亡くなり、豊子がこんな状態になって、今また、聡美が自分から去っていく。
豊子の手を握った百合子の手の甲にポタポタと大きな雨粒のような涙が落ちた。
病院からの帰りに、夕食の買い物をし、ドトールに寄ってスマホを見ながらコーヒーを飲んでいて、ふと思い立ち、マッチングアプリとやらを調べてみる。
「アメリカでは結婚したカップルの約30パーセントがマッチングアプリで出会っている」
「日本でもマッチングアプリの利用経験者は、20歳から49歳までの50パーセントにものぼる」
「恋人や結婚相手をマッチングアプリで探すのは当たり前の時代」
へえ、そうなんだ。あの聡美がやってみようと思うくらいだから、確かにそうなのかもしれない。
男に対しては、ずっと心を閉ざしてきた。それを後悔してはいない。
そう思いつつも、寂しさと一抹の不安がないまぜになって弱くなった心のせいか、誰でもいいから頼りたくなったせいか、百合子の指はマッチングアプリをダウンロードしていた。
待ち合わせは、男に指定された駅の改札だった。
会ってみると、メールで見るより精悍で、年齢の割には若々しい感じがした。
男の行きつけだという焼鳥屋に行き、焼酎のお茶割りを飲みながら話をすると。妙に気が合う。
男は、中垣道夫と言い、49歳で独身、仕事一筋で生きてきたため、恋愛の機会を逃したと言って笑った。身構えていた自分の心が解きほぐされ、温かいもので満たされて行くように百合子は感じた。
2度目のデートの時、百合子は正直に告白した。
「とにかく食べるのが好きなの。だからこんなに太っちゃって」
「全然。太ってなんていないよ。それに僕は、女性が美味しそうに食べる姿は大好きだよ」
中垣は優しく言った後、じゃ僕もと自分の身の上話をした。
東北の田舎に、高齢の母親が一人で暮らしていて、毎月仕送りをしていること、呼び寄せようと思ったが、頑として動こうとしないこと、会社から独立して仕事を始めようと思っていること、その場合、支えてくれる人が欲しいと思っていることなどを朴訥と語った。
それを聞いた百合子も、一年前に父が亡くなり、母も病気で入院していること、自分一人きりになりそうで寂しく不安に思っていることなどを話すと、中垣は真摯な表情で相槌を打ち、大変だったね、と言った。
3度目のデートでの食事中だった。
「百合子さん、僕と結婚を前提にしたお付き合いをしてもらえませんか」
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
百合子は頭を下げた。
食事の後、中垣はさりげなくホテルに誘ってきたが、百合子はもうしばらく時間が欲しいとやんわり断った。
心のどこかにまだ残る男に対する微かな抵抗感に加えて、ブヨブヨの自分の裸が見られることへの羞恥心もあった。
家に帰る電車の中で、お互いもういい歳なのだから、思い切ってホテルに行った方が良かったかな、ちょっと面倒臭い女だと思われてしまったかも、と百合子は少し後悔していた。
その後、中垣と全く連絡が取れなくなった。
何度、ラインしても電話しても返信どころか既読さえつかない。
最初は、この前ホテルを断ったのが気を悪くさせたのだろうか、それとも何か他にまずいことでも言ってしまっただろうかと気に病んだが、どう考えてもおかしい。
病気にでもなったか、事故にでも合ったのだろうか。
住んでいる場所は大まかなもので、正確な住所はまだ聞いていない。
どうしたらいいだろうと思い悩んでみたもののとりあえずどうしようもない。
聡美の様子がおかしい。
聡美が退社するまで残り2ヶ月を切っていた。
やはり結婚に踏み出すのも、長く勤めていた会社を辞めるのも、心が複雑に揺れ動くのだろうと百合子は思い、
「今晩どう?久しぶりに行かない?」とラインを送るとすぐ返信がある。
「ありがとう。じゃ、6時にいつものところで。本当にありがとう」
本当にありがとう?
だいぶ精神やられてるな。しょうがないか。
イタメシ屋に行くと、聡美が待っていた。
表情が暗い。何やら思い詰めている。細い聡美がさらに細くなったように見える。
「どうしたの?大丈夫?まさかのマリッジブルーってやつ?」
百合子が席に着くなり言うと、聡美はテーブルに突っ伏していきなり泣き始めた。
「ちょっと、どうしたのよ」
店員が心配そうにチラチラと見ている。
しばらく聡美が落ち着くのを待つ。
「あのね・・・」
しゃくり上げて言葉にならない。
またしばらく待っていると、ようやく平静を取り戻した聡美がポツポツと話し始めた。
「騙されたの・・・」
「騙された?」
「うん、結婚詐欺だった」
「けっこんさぎぃ!」
百合子は思わず大声で聞き返してしまい、他の客が何事かとこっちを見る。
「ごめん、ごめん、聡美、どう言うこと?」
「だから、お金目当てだったの」
「お金取られたの?」
「・・・うん」
「いくら?」
「500万」
「ごひゃくまん!」
またも大声になり、他の客に見られる。
「それでどうしたのよ」
「警察に捕まった。他にも被害者がいて」
「くうう。やられたね。お金は戻りそうなの?」
聡美は首を横に振る。
「警察が言うには難しいだろうって」
「と言うことは・・・仕事はどうすんのよ」
「・・・続ける」
「続けるって、聡美、あの嫌味な上司にもう辞めるって言っちゃってんじゃないの?」
「まだ言ってない。ギリギリまで待って、言ってやろうと思ってたから。嫌がらせで」
「なるほど。それは不幸中の幸いだったね。嫌味な上司に感謝しなきゃ」
「もう、あいつ、絶対許せない」
聡美が鋭い視線で一点を見つめて言う。ただでさえきつい表情が、深く昏い恨みの色を帯び、昔見たホラー映画の主人公のようだ。
「だよねー。でも、まだそのくらいで済んで良かったんじゃない。高級車をぶつけて全損させたと思えばさ」
本当は分かってるよ、聡美。
お金じゃなくて、その気にさせた男とさせられた自分が悔しいんだよね。
私もあの時そうだったんだよ。
聡美の目にみるみるうちにまた涙が溜まっていく。
「あ、そうそう。その男の写真ってあるの?あったら見せてよ。どんな男か見てみたいわ」
聡美が、スマホを取り出し、指先でなぞった後、百合子に渡す。
「ああっ!」
今度の声が一番大きく、店中がこっちを見る。
その男は、あの中垣だった。
「どうしたの?」
聡美の問いかけに、百合子は泣きながら笑うしかなかった。
その夜を境にして、百合子と聡美は、仲の良い先輩後輩から本物の親友であり戦友になった。
そして新たな約束を交わした。
「どちらかが幸せになるなら心からおめでとうと言う」
「絶対に隠し事はしない」
「万一結婚しても仕事は辞めず、最後の最後まで力を合わせて戦い抜く」
その後まもなくして、豊子は意識を取り戻したが、右半身に強い麻痺が残り、転院して1ヶ月ほど厳しいリハビリ生活を強いられた。
百合子も折に触れ、豊子の元に通い励まし続けた。
「お母さん、よく頑張ってますよ」
リハビリ担当の理学療法士が笑顔で百合子に言うと、ついさっきまで辛い表情をしていた豊子の顔がパッと明るくなる。
40歳前後だろうか。仕事柄なのか無骨な感じの人だが、それにしても豊子のこの表情はなんだろう。家では全く見せたことのない女の顔ではないか。
爽やかな五月晴れの週末、百合子は退院した豊子と二人でドトールに行った。
右半身に軽い麻痺の残る豊子は、杖を付いて右足を引きずるようにしていた。折悪く、1階は満席で、百合子が寄り添うように豊子を支え、二階への階段を上がろうとした時だった。
「ここ、どうぞ」
声のする方を見ると、高校生らしき男女が立ち上がってこっちを見ている。
席を譲ってくれるようだ。
男の子がテーブルの上の本やノートを掻き込むようにリュックに乱暴に突っ込み、女の子はトレーにカップや皿を乗せて片付けると、ペコリと頭を下げて店を出て行った。
百合子は、良かったねと言って、豊子を座らせ、レジにモーニングセットを取りに行った。
「お母さんが入院している間は、毎朝、ここでこれ食べてたんだよ」
「そう、ごめんね。でも、これ美味しいね」
「それにしてもお母さん、お父さんみたいな男の人っていないね」
「そりゃそうよ。私が選んだんだから」
へえ、選んだと言うのは初めて聞いた。
「お母さん、選ぶって言うのはね、たくさん候補があるってことだよ」
「だってお母さん、モテたもの」
百合子の目が点になった。
「何よ。私だってまだまだ捨てたもんじゃないわよ」
凄い。正男の死からも病気からも完全に立ち直ってる。
「参りました」
百合子が頭を下げる。
「あ、そう言えば百合子。私のリハビリ担当してくれてた河野さん、覚えてる?」
「ああ、あの人河野さんって言うの。覚えてるよ」
「あんたのこと気に入ってたみたい。今度会ってみたら。あの人まだ独身だし、悪い人じゃないからちょうどいいんじゃない」
「あ、そう。ふーん」
来週にでも聡美には早めに言っておかなきゃ。
それと豊子が包丁をふるえない今のうちに体重を落とさないとね。
いずれにしても、しばらく二人の朝食はドトールになりそうだと百合子は思った。
ドトールな人々 結婚指輪
本田雄一は、週末になると必ずと言っていいほどドトールに行くようになった。
娘の子育てがあらかた終わり、自由な時間が出来たためだったが、本当の理由は、ネームプレートに西島とあるその女性が自分を覚えてくれたせいだった。
レジカウンターの前に雄一が立つと、彼女は黙ってレジを打ち、クレジットカードの差込口に、カードを入れてくださいと表示され。カードを挿入すると今度は、ほんの数秒ほどでカードをお取りくださいと表示される。雄一がカードを抜くのとほぼ同時に、ブラックのアメリカンコーヒーMが彼女から手渡されレシートは処分される。
ほんのたまに目が合うと、雄一は年甲斐もなく中学生のようにドキッとしてしまう。
30歳の半ばだろうか。それとも落ち着いて見えるだけでもっと若いのかもしれない。
左手に指輪はなさそうだが、仕事柄外していることもありうる。
カードの抜き差しもコーヒーの受け取りも右手だから、左手の結婚指輪に彼女は気づいてないはずだ。
真夏のうだるような暑さが続いていた。
その日も朝から30度をゆうに超える、とんでもなく暑い日だった。
いつものように家で昼食を食べた後、雄一がドトールに行くと、涼を求める客で入り口からはみ出るほど混んでいる。
レジはアルバイトらしき若い女の子で、西島さんは奥の方で何やら忙しなく立ち働いていた。
並んで待っていると、
「1時間以内のご利用に協力お願い申し上げます」と書かれた立て看板が目に入る。
コーヒーを受け取り、何とか一つ席を見つけて座った。
スマホでSNSニュースを見ていると、ラインが入る。娘の遥だった。
「今晩、美咲んちで勉強することになったから」
またか。最近、週末になると友達の家で受験勉強するとか言って泊まりに行く。
「晩ごはんいらない。あと、泊まってくるから」
やっぱり。我が娘を疑うつもりはないが、年頃だけに気にもなってくる。心なしか化粧も濃くなっているようだし。
スマホで、女子高生、外泊と入れてググって見ると、事前に親に言うならそこまで心配しなくても良さそうなことが書いてある。ただ、気になるなら泊まる先の電話番号を聞いてみて、きちんと言うようなら行かせる、そうでないなら行かせないともある。
こういうとき、奈緒子ならどうしただろう。気が強いあいつのことだ。遥が何と言おうがダメなものはダメとか言って一切取り合わないのかもしれない。
どうしようか。聞くだけ聞いてみるか。
「美咲さんの家の電話番号を念のために教えてくれる?」
さらに付け加える。
「何かあったら心配だから」
「もしかして疑ってる?」
ほぼ同時に返信がきて雄一ははたと困った。
「いや違うよ。心配だから」
「何が心配なの?勉強するんだよ」
ダメだ。勝てそうもない。
「わかった。じゃ美咲さんの家に着いたら、無事着いたと連絡入れてくれればいいから」
弱い。それじゃダメでしょと奈緒子に言われそうだ。
遥からの返信は、よく知らないキャラクターがOKと言っているスタンプだった。
雄一が、ふうと一息つきコーヒーを飲もうと手を伸ばしたときだった。
「あのう、1時間以内のご利用にご協力をお願いします」
目の前に男性店員が立っている。
一瞬、自分に言われたかと思った雄一だが、店員の視線は、隣の高校生らしき男女に向いている。彼らは、参考書やノートを開いて勉強していて、すでに滞在時間が長いのだろう。
男の子が、はい、すいませんと、慌てて片付け始めると、男性店員がいなくなるのを見計らい、女の子が小声で男の子に言う。
「まだ大丈夫だって。今度来たらで」
男の子は、ホント?と、一旦、片付けた本やノートをまたテーブルに開く。
その様子に、雄一は、会社ではダイバーシティとかジェンダーレスとか言っているが、この世代は多様性どころかジェンダー逆転しているのではないのかと思ったりする。
15分ほど経ち、先程の男性店員がまたやってきた。
「1時間以内のご利用をお願いしているのですが」
強めの口調に苛立ったのか、女の子が男性店員を睨みつけ逆ギレした。
「分かってるって!出るって言ってるでしょ!」
混雑した店内の客たちが驚いて見守るなかを、女の子は堂々と、男の子は伏目がちにおどおどと、店を後にした。
やっぱり逆転している。間違いない。
その後、家に戻り夜遅くまで待っていた雄一だったが、結局、遥からの連絡はなかった。
翌、日曜日、やはり朝から快晴で気温がぐんぐん上昇する。
さすがに心配になり、遥にラインをすると少し経って既読がつくが返信はない。
いくら相手が父親だからって返信くらい寄越せよなと一人毒づく。
「ああ、疲れた」
用意した昼食も食べずに待っていると、夕方になってようやく遥が帰ってきた。
何か言おうとする前に、シャワー浴びて一眠りすると言ってさっさと風呂場に行く。
夜、起きてきた遥に、晩ごはんどうすると聞くと、焼肉が食べたいと言う。
昔、家族3人でよく言った人気の店に車で行くと、すでに駐車場は一杯で、駐めるだけで20分ほど、さらに店も1時間待ちだと言う。
「腹減ったろ、どうする?」
「うーん。もう口が焼肉になってるしなあ」
「じゃ頑張って待つか」
「うん、待とう」
遥はさっきまで寝ていたためか、それほど腹も減ってないようだが、昼食抜きの雄一は腹ペコで、何でもいいから食べたいというのが本音だった。
結局、1時間以上待たされ、席に着いたのは午後9時近かった。
日曜日のせいか、家族連れが多く店はまだ混み合っている。店員もバタバタと忙しそうた。
腹が減っていることに加えて車で来ているのでビールも飲めない。とにかく何か食べたい雄一は、メニューをさっと見て、店員を呼ぶ注文のボタンを押す。
5分ほど待つが、店員の来る様子がない。もう一度ボタンを強めに押す。
「もう来るよ」
遥がのんびりした口調で言うが、イライラが募ってくる。
さらに5分ほど待たされ、ようやくアルバイトらしき若い男性がやってきた。
「はい、どうぞ」
さっさと注文しろとばかり無愛想に言う。
お待たせしましたの一言もないのか。
イラッとする雄一だが、押さえ込み、いくつか注文をする。
ところが、またも10分近く待たされた挙句やってきた女性店員が、皿をガチャガチャと乱暴にテーブルに並べていく。
ん?僕も遥も大好きなハラミを頼んだはずだが、何だろう、違う赤みの肉のようだ。
「ハラミを頼んだけど。これ、違うよね」
「はい?」
「いや、だから。これハラミじゃないでしょ」
「注文受けたの私じゃないから・・・」
「君じゃなくても違うものは違うんだ!さっさと替えて来い!」
雄一の頭の中で女性店員と昨日の女子高生とが重なり、カッとなってつい怒鳴ってしまった。
女性店員は、すいませんと小声で言って肉の皿を持って走って行った。
「パパ、最低」
頬杖ついた遥が雄一を蔑むように言った。
「ごめん。ついカッとしてしまった」
しばらくして先程の女性店員と店長が二人でやってきて謝罪し、雄一は、僕の方こそ声を荒げて申し訳なかったと謝った。
雄一は、昨日のドトールでのこと、返信をくれなかった遥に不満を持っていたこと、腹が減ってイライラしていたこと、さっきの彼女がドトールの女子高生とイメージが重なったことなどを正直に話した。
「私もごめんなさい。パパに甘えてた。でも嘘はついてない。ずっと美咲と勉強してたから」
「うん、そうか」
「でも、その女子高生はひどいね」
「遥だったらどう?」
「どうって、絶対するわけないじゃん。だってバチ当たりたくないもん」
「バチ?」
「ママがよく言ってたもん。人に迷惑かけたり心配かけたりしたら絶対バチが当たるって。さっきのもパパを心配させたバチが私に当たったんだよ」
「へえ」
バチか。あっという間に大人になったと思ったが、まだまだ子供なんだな。
奈緒子、遥は素直に育っているぞ。心配いらないよ。
「パパは再婚しないの?」
食事の途中で遥が急に言い出す。
「な、なんだ?」
「もうそろそろいいんじゃない?私、平気だよ。きっとママだって許してくれるよ」
「そんなこと言ったって、相手がいなきゃどうしようもないだろ」
そう言いながら、西島さんの優しげな笑顔が浮かぶ。
その夜、雄一と遥は、美味しい焼肉を腹一杯食べ、楽しい時間を過ごした。
会計すると、ハラミ一人前の代金が値引きされていた。
次の土曜日もやはり朝から蒸し暑い日だった。
夕方、ドトールに行くと、またもやレジに多くの客が並んでいて、シフトのせいか、今日も西島さんは奥にいる。
席に座って、何気なく店内を見渡すと、いるいる、またもやあの高校生カップルが。ちょうど、またあの男性店員が彼らに声を掛けている。
よくまあ毎回、毎回、懲りないものだと思った矢先だった。
「こら!いい加減にせんか!とっとと出てけ!」
店内に怒号が響き渡った。
高校生カップルの隣に座って新聞を読んでいたお年寄りがいきなり彼らを怒鳴りつけたのだ。
その有無を言わせない余りの迫力に、2人は一瞬固まったあと、男の子は、すいません、すいませんと言いながらオロオロと本などを片づけ出し、女の子は泣き出してしまう。
え?バチが当たったのか?
「ワタナベさん、ダメでしょ。怒鳴っちゃ」
西島さんが駆けつけてきて、女の子を落ち着かせようと背中をさすり始めた。
「すまん。ちょっと声が大きすぎたか」
ワタナベさんは、申し訳なさそうにかすかに残った白髪頭を掻いている。
「ワタナベさん、店のことを思ってでしょうけど、やり過ぎはバチが当たりますよ」
悪戯をした幼い子供を優しく嗜めているような言い方だ。
西島さんが、そばにいた女性店員に指示して二人をスタッフルームに連れて行かせ、客を見回して言った。
「皆さま、お騒がせして申し訳ございませんでした。どうぞ、引き続きごゆっくりなさってくださいませ」
「お、いけねえ。俺ももうすぐ1時間だ。バチが当たらねえうちに帰るとするか。じゃな」
そう言うと、ワタナベさんはそそくさと店を出て行った。
翌日の日曜日、朝10時前にドトールを覗くとレジに西島さんがいた。
よし。
西島さんはいつものように、雄一の顔を見ると何も言わないでアメリカンコーヒーMを渡す。
すかさず、雄一がいつもは貰わないレシートを下さいと言うと、
「あ、はい」と、少し怪訝な表情をする西島さんの前で、家から持ってきたボールペンでレシートの裏に、走り書きをする。
「もし良かったら連絡ください。本田雄一○○○-○○○○-○○○○」
レシートを押さえる雄一の左手に指輪はない。家に置いてきたからだ。
さっとレシートを二つに折り、西島さんに渡す。
席に座って、ドキドキが収まらないままコーヒーを飲んでいると、スマホが鳴った。見るとショートメッセージだ。
「今度の日曜日は休みです。西島」
やった!
「かあああっ」と何だかよくわからない声だか音が聞こえてきたが、スマホを見つめ続ける雄一には全く気にならなかった。
ドトールな人々 ナベさん
もちろん暇になったからだ。
他に行くところがないし、やることもない。
昨年6月に定年退職してから、1年近くが経とうとしているが、この数ヶ月はほぼ毎日だ。
孝の会社の同期の10人に9人はシニア雇用とかいう、給料が半分以下になるが65歳まで働けるっていう仕組みに乗っかって会社にしがみついている。
しがみついているって言うのは少しばかり言い過ぎかもしれない。事情があって辞められない者もいるからだ。ただ、孝から言わせれば、ほとんどの同期は単にやることがないという理由で会社に残っている。
スパッと辞めた孝からすると、そんな彼らに腹が立つ。
たまに彼らと飲んだりすると、いま何やってんだ?暇だろう、どう時間潰してんの?が、挨拶代わりだ。そのうち、会社がああだ、こうだって、孝の知りようもない話を得意げにし始める。
辞めた当初は、やりたくもないつまらない仕事して、そこそこのカネを有り難く貰えればそれでいいって、なんとも情けない奴らだと思っていた孝だった。
それが、まさか一年も経たないうちに一生懸命ハローワークに通って再就職先を探すなんて、孝自身思ってもいなかった。
会社からの開放感を感じていたのは、せいぜい失業保険を貰っている間だけで、そのうち、時間が有り余るようになると、社会から取り残されるような恐怖感を感じるようになる。お前は何の役にも立たない人間だと言われているようにも思えてくる。
会社なんぞに未練はない。それだけははっきり言える。しかし、40年近くを転勤族で過ごして仕事しかして来なかった孝には、これといった趣味もなければ、東京に友人と言える付き合いもない。
で、結局は時間を持て余して鬱々とする姿をカミさんに見られたくなくて、その目を避けるように家を出る。行く場所はハローワークかドトールだがどこに行くとは言わない。カミさんも何かを察しているのか、どこに行くのと孝には聞かない。
なんとも情けないがそれが今の孝だった。
いつ、そのじいさんに気づいたか、孝は覚えていない。
80歳前後だろうか、いつも一番奥の左手の壁際に座っているそのじいさんは、新聞を広げていて、5分に1回は大きな音で「かあああっ」とやる。
最初はなんだろうと思った。喉に絡んだ痰を吐き出すときのような音だ。ただ、音はするが痰をどこかに吐き出すことはしない。
気になるのは俺だけか。そう思った孝は周りを見るが、不思議と気にしている様子はない。
あまりに繰り返すその音にイライラし、2階に上がろうかと何度も思うが、孝は2階があまり好きではなかった。
以前、1階が混んでいて止むを得ず2階に行ったことがあるが、すぐ近くにある喫煙ルームにいればいいものを、吸う時だけ行く者が結構いて、戻ってくるたびにタバコ臭い匂いを撒き散らすのに辟易したからだ。
どっちが嫌かの選択になるが、結局は「かあああっ」を我慢する。
ドトールには他にも困った客がいて、それは、保険屋とか株屋の類だった。
彼らは、大体30半ばの男と20後半の女のセットで来て、本来、二人掛けの机を2つくっつけ四人席にし、客を呼んで事務所がわりに使い始める。
その日も待ち合わせの客が来るまでの間なのか、男はそこそこの声でずっと携帯で何やら話し、女はパチパチと耳障りな音を立ててパソコンを叩いていたのだが、彼らが不幸だったのは、隣にあのじいさんがいたことだった。
じいさんはいつものように、「かあああっ」と定期的に繰り返しつつ新聞を読んでいたのだが、話し続ける隣の男の携帯電話にさすがに業を煮やしたのか、
「こら!電話はやめんか!」と大声で男を一喝した。
電話をしていた男は、じいさんの余りの剣幕に、即座にすいませんと謝り、そそくさと逃げるように電話を持って店を出て行き、女の方は素早くパソコンを閉じた。
孝は、心の中で快哉を叫んでいた。
やるなあ、じいさん。自分を棚に上げて。
毒を以て毒を制すとはこのことか。
数日後のドトールは結構混み合っていた。
うわ、じいさんの隣しか空いてないのか。しょうがない。2階に行くか。
孝が、階段に向かうと、ちょうどレジで後ろにいた女性が先に上がっていく。嫌な予感がする。
案の定だった。その女性で2階もちょうど満席になってしまった。
覚悟を決め、じいさんの隣にもぐり込む。文字通りもぐり込むのだ。なぜなら新聞を広げているからだった。
時折響く「かあああっ」にビクッとしながら、スマホ片手にコーヒーを啜っていると、一人の小柄なじいさんがやってきて、
「よう」と言って、じいさんの前に座った。
「おう、ツルタ、久しぶりだな」とじいさんが新聞をたたみながら答える。
二人は古い友人なのか、会うのは久しぶりのようだった。
「ナベ、元気だったか」
じいさんはナベと言うのか、つまりワタナベか。
「まあな。何とかこうやって生きてるよ」
「しかし、ナベ、お前会社やめてからこっち、俺たちの集まりにも来ないで何やってたんだ」
「ん?そうだな。やりたいことやって、見たいもん見て。まあ、今は、見ての通りブーラブラだ。かあああっ」
「結局仕事もせずじまいか」
「そんなもんするわけねえだろ」
「たく。お前は変わらないな」
「そう言うお前はどうなんだ、ツルタ」
「55で定年した後は70まで嘱託で勤めたよ」
「てことは、9年前まで働いてたってわけだ。大したもんだ。面白かったか」
「面白いわけないだろう。仕事なんだから」
「へえ。面白くもないのに70まで働いてたのか。へえ。ご苦労さんなこった」
「みんなそうやってしょうがなく働いてんだよ」
「で?今何やってんだ?」
「何って、何にもしてないよ。暇してるよ」
「じゃ一緒じゃねえか。バカ」
思わず孝は吹き出しそうになった。掛け合い漫才か落語を聞いているようだ。
「だから昔っから俺が言ってたろう。どうしても食うに困るんなら我儘言ってらんねえ。どんな仕事もやるさ。でもな。そうじゃなきゃ残り少ねえ人生、死んだように送ってどうする。いいか。人生ってのは人が生きるって書くんだぞ。かあああっ」
ナベさんの分かったような分からないような話にツルタさんが急にしんみりする。
「悔しいがお前の言う通りだったよ。やっと女房を旅行にでも連れてってやろうかって矢先に死んじまったからな」
「なに!キミちゃん、死んだのか?いつ?」
「もう10年になるよ。俺が仕事辞める前の年だから」
「そうかあ。そりゃ残念だったな」
「子宮がんでな、見つかった時は手遅れだ。旅行どころじゃないよ。何とか延命治療ってんでやったんだが、苦しいばっかでさ、可哀想だったよ」
「9年も前だとそうかもな。今は随分がん治療も良くなってるみてえだが」
「何だ、詳しいような口ぶりだな」
「俺も、ほら、去年、やってっから」
ナベさんが自分の胸を指さす。
「何?肺がんか?」
「ああ。でもこの通りピンピンだ。やっぱり仕事なんかせずに好きなことやってたのが良かったんだな。かあああっ」
「何だ、さっきから。痰でも絡むのか」
「いや、肺切るまではずっと痰が絡んでたんだが」
「違うのか、じゃ今のは何だ」
「そん時の癖だ。直んねえ」
癖!あれは癖だったのか。しかも肺がんの時の。
「そういえば、ハルコさん、どうしてる?元気か?」
「ああ、おかげでな。もう80だってのに週3日ばかり働いてるよ」
「働いてる?どこで?」
「掃除婦ってやつだ。体動かしてるのがいいんだってよ」
「へえ、そりゃ大したもんだな」
「何が大したもんなんだよ」
「ナベ、今は人生100年時代なんだぞ。まだあと20年もあるんだぞ」
「そんなもん、俺の知ったこっちゃねえ。世間が勝手に言ってるだけだろうが」
「何にもやることないんだろ。不安にならないのか」
「あれからこっち、ずっとやることなんかねえよ。だけど、こうやって生きてるじゃねえか。何が問題なんだよ。たく、お前は昔っから先、先ばっかし心配してやがって。かあああっ」
そこへ、店員の女性がやってきて、孝の隣の客が帰った後のテーブルを拭いた後、
「あら、ナベさん、珍しいわね。お友達なんて」と言うと、
「西島ちゃん、お友達なんて洒落たもんじゃねえよ、腐れ縁ってやつだ」
「はいはい、まあ、ごゆっくり」
西島さんという女性店員はレジの方に戻っていく、
「まあいいや、ところでナベ、まだ時間あるか」
「なきゃこんなとこにいるかよ」
「そろそろ昼だろ。その辺で一杯どうだ」
「それもいいが、俺んとこ来いよ。久しぶりにお前の顔見りゃ女房も喜ぶしな」
二人のじいさんは、揃ってドトールを出て行った。
翌日、孝はハローワークに行くのをやめた。
そして、家を出るときに言った。
「ドトール行ってくるよ」
あ、そう、気をつけてとカミさんは孝に言った。
エッセイ 雪の顔
二十年ほど前、転勤で札幌に数年暮らしたことがある。
最初の冬、初めて雪虫を知った。その名の通り、雪と間違うくらい白く小さな虫がフワフワ大量に舞い、雪の訪れを知らせるのだ。
雪にはいくつもの顔がある。
僕は、静まり返った早朝の銀世界が大好きだった。
幻想的で、荘厳で、稀に、厚い雲の切れ間から一筋の光が差し込む時などは、思わず息を呑むほど美しい。
仕事の終わった夜、雪の無人駅のホームで、一人いつまでも来ない電車を待つ。
世界には暗闇と降りしきる雪と自分だけ。
これほどの容赦のない孤独を感じたことが果たしてあっただろうか。
ただただ永遠とも思える時間だけが過ぎていく。
冬の朝、高速道路を岩見沢市へと向かっていると、徐々に雪が激しくなり、ついには猛吹雪になった。
白、白、白。
他には何も見えない。時折、猛烈な雪を撒き散らして大型トラックが走り抜ける。手汗と背中を流れる汗が半端ない。
こういう時、低速で走り続けろと聞いていた僕は、何ものも見逃すまいと、ハンドルに覆い被さるようにして走っていたが、あっと思った時はすでに遅かった。
前を走る車の赤いテールランプが微かに目に入った瞬間、咄嗟にブレーキを踏むと、車は右に大きくスピンし、ガードレールに衝突して、反対方向を向いて止まった。
パニックになった僕の視界に大型トラックが迫るのが見え、必死にパッシングを繰り返すと、トラックは轟音と共に僕の横をすり抜けて行った。
死は思いの外、身近にあると知った。
僕は、平日は出張で家を留守にしていたので、冬の週末は溜まった雪掻きが主な仕事だった。
ある日、出張から帰ると、家の前が格段に綺麗になっている。
カミさんは、近所の一人暮らしのお爺さんが掻いているのを見かけたと言うので、お礼に伺うと、ランニングシャツ姿のそのお爺さんは、照れた表情で、なんもさあと言った。
そしてそれは、カミさんの雪掻きが一人前になるまで黙々と何度も繰り返された。
豪雪で知られる深川市での仕事の折、腰の曲がった高齢の小柄な女性がやってきた。
大雪の降る夜だった。
三時間かけ電車とバスを乗り継いで来たと言う。
こんな日にありがとうございますと言うと、なんもさとニッコリ笑った。
その笑顔に胸が熱くなり涙が込み上げた。
猫が行方不明になった雪の夜に助けてくれた近所の人々に、菓子折りを持ってお礼に回った際の一言が今も忘れられない。
「お互い様っしょ。こんなことするならもう二度と手伝わないからね」
雪が見せてくれる顔は、そのどれもが非情なまでに真剣だ。
雪は本気なのだ。だからこそこの上なく美しく、とてつもなく厳しい。
人の中途半端な感情などに左右されないし、雪の前では全く無力で小さい自分を徹底的に思い知る。
そういえば、初雪前に大量に街を舞い、時折、口や鼻や目に飛び込んでくる、あの可憐な白い雪虫は、アブラムシの一種である。
このあたりもある意味厳しく、甘くはないのだ。
ちゃちゃ
パパは、クリスマスの日の夜、今度は札幌だよと言った。そして、1月10日が公示だから、引っ越しはその後だなと続けた。
私は中学1年生、2人の妹は小学4年生と1年生だった。
登校最後の日、いざ前に立ってみると、クラスのみんなの顔がまともに見られなくて、あれも言ってやる、これも言ってやると決めていた話は何一つ出来ないまま、声が小さくなるにつれて、顔もだんだん下を向いてしまった。
吉田美幸先生は、転校するのが寂しいのだろうと勘違いして、優しく私の肩を抱いてくれた。
引っ越しの日、朝から妹たちの大の仲良しの朋美ちゃんや加奈ちゃんがやって来て、二人はずっと泣いていた。
私は泣かなかった。
ママとパパは、「強くなったね。さすがお姉ちゃん」と褒めてくれた。
でもそれは違う。2度目の転校だったし、もう中学生だし、お姉ちゃんだけど、それは違う。悲しくなかったから泣かなかっただけだ。
本当のことを知っていたのはちゃちゃだけだった。
ちゃちゃは、聞き上手で、余計なことは言わず、ときには優しく慰めてくれる最高の相談相手だったから。
ちゃちゃ、私、不安で不安でしょうがないよ。
今度は友達できるかな。
またいじめられたらどうしよう。
ちゃちゃは、きっと大丈夫だよ、と私の鼻をちろっと舐めてくれた。
ちゃちゃは、5年前に静岡県浜松市から三重県津市に引っ越してすぐの頃、パパが拾ってきたメスの三毛ネコだった。
道端で佇む子ネコが、車のヘッドライトに一瞬映し出され、一旦は通り過ぎたが、やっぱり戻って拾ってきてしまったと、ネコの嫌いなパパは言い訳するように言った。
冷たい雨が降る夜だった。
大のネコ好きのママは、しょうがないわねと言いながら、想定外に飼うことになった子ネコをタオルケットにくるんでその濡れた小さな体を優しく拭いていた。
私たち姉妹は当時大好きだった、赤ずきんちゃちゃという漫画から、ちゃちゃと名付けた。
ちゃちゃはミルクもあまり飲まず、下痢が止まらなくて、ママが動物病院に連れていくと、お腹に虫がいると言われて薬をもらってきたが、回虫症とかいう子ネコによくある病気で、死ぬようなことはないと聞いて私たちは胸を撫で下ろした。
私たち姉妹とちゃちゃは一緒に大きくなっていった。
ちゃちゃは大きくなってもとても憶病で、外に出してあげてもすぐ帰って来るし、他のネコが庭に現れようものなら、あっと言う間に2階の部屋の片隅に逃げ隠れてしまうくらいだった。
パパは、あんな小さなときに、親と引き離されて、捨てられて、冷たい雨の中で寂しく泣いていたから憶病になっちゃったんだよと言った。
ちゃちゃはとても優しくもあった。
当時パパは仕事が忙しく、いつも疲れた顔をしていて、そのせいか、よくママと口喧嘩をした。そんなとき、必ずちゃちゃはそっと動いてパパとママの間に座っていたのを私は知っていた。
ちゃちゃは仲裁しているつもりだったのだ。
なぜなら、私と妹が喧嘩したときもいつもそうだったから。
札幌へ行く日、ケージに入れられたちゃちゃはぐったりしていた。
憶病なちゃちゃは乗り物が大嫌いだったから、動物病院で麻酔の注射をしてもらって運ぶためだったが、私たちは心配で心配でしょうがなかった。
札幌に着くと大雪で、新しい家に荷物を入れるのも大変そうだったが、私と妹たちは、雪が珍しくて庭に積もった雪をかけ合ったりして遊んでいた。
ちゃちゃがいなくなったのはその引っ越しの最中だった。
大きな荷物は、庭から入れるために窓を開けたり閉めたりしていたので、気付かぬうちにそこから逃げたのかもしれないとママは言った。
パパはそのうち帰ってくるよと言ったし、私たちも臆病なちゃちゃのことだからそうだよねとそれほど心配していなかったのだが、その夜どころか次の日もちゃちゃは帰ってこなかった。
ママは私がもっと気をつけていたらと泣いた。
人目も憚らずにあんなに泣くママを見たのは初めてだったので、ママもちゃちゃに助けてもらっていたのだと初めて知った。
動物病院の先生は、庭から出たときに他のネコとか車とかに驚いて逃げたのかもしれない、最初の1週間くらいは、半径200メートルくらいのどこかに隠れていると思うが、それ以上過ぎるとどこかもっと遠くに行ってしまうかもしれないし、この雪なので餌がないと死んでしまうかもしれないと言った。
それを聞いたママは次の日の朝、よく眠れなかったのか、泣いていたのか、目が充血していた。
次の日も、その次の日もちゃちゃは帰ってこなかった。
北海道特有の長い冬休みが終わり、札幌の新しい学校へ行く日が近づいていたが、私は、ちゃちゃがいないことが寂しくて、悲しくて、不安で不安でしょうがなくて、とても学校に行く勇気が持てなかった。
ママとパパと私は、毎晩、厚着をして長靴を履いて、懐中電灯を持って雪のなかを捜して回ったが、姿どころか、どこのネコかも分からない雪の中の足跡しか見つけることができず、冷え切った体に落胆が重くのしかかった。
ママのお願いで、パパがパソコンで作ってくれた、ちゃちゃの名前と写真入りのポスターを持って、私とママは、近所の家々や食品スーパーやラーメン屋、美容院からガソリンスタンドなどのお店まで、ちゃちゃのようなネコを見かけたら連絡をくださいとお願いして回った。
ママは私と同じく、どちらかというと引っ込み思案で、人前では物怖じするタイプだと思っていたけど、手当たり次第と言っていいほど呼び鈴を押して、出てきた人にどんどん話しかけていく。
お店なんかにも、他にお客さんがいようが関係なく、お構いなしにずんずん入っていって、ポスターを押し付けるようにして説明する。
ママっていざとなったら凄い。
ちゃちゃがいなくなって6日目の夜、ママはとうとう玄関に布団を持ってきて寝ると言い出した。それまでも、いつちゃちゃが帰ってきてもいいように、玄関ドアはずっと開けっ放しだったし、灯りも点けっぱなしだった。
札幌の家は大体、冷気が入らないように玄関は2重ドアになっていて、内側の扉はガラスの引き戸になっていたから、ママは、玄関で寝ていればもしちゃちゃが帰ってきてもすぐ気づけるでしょと言った。
パパはずっと寝不足で疲労の色が濃いママが心配で、さすがにそれは止めろよ、体に悪いよと何度も止めたが、ママは頑として聞かず、パパは弱々しくソファに座り込んでしまった。
ちゃちゃは、翌日の朝、ひょっこり帰ってきた。
私たちはママの歓喜の叫びを聞いて、まさかと思い、2階の部屋から転げ落ちるように階段を駆け下りると、痩せて一回り小さくなったちゃちゃがそこにいた。
ちゃちゃを見た私が泣き出したので、妹たちもつられるように泣き出した。
ママは毛布を持ってきて、ちゃちゃを包んで抱き、寒かったね、お腹すいたねと何度も言いながら優しく撫でた。
ママからのラインでちゃちゃが戻ったと知ったパパは、それこそ飛ぶように仕事から帰ってき
て、ちゃちゃを大きな手で優しく抱いて、ママと同じように、寒かっただろう、ごめんなと何度も言って撫でていた。
パパは私たちにずっと顔を背けていたからきっと泣いていたのだと思う。
その夜、パパは近所にある回転寿司のお店で、家族5人では食べきれないほどの寿司を買ってきて、ちゃちゃ生還のお祝いをした。
さすがに北海道のいくらやカニは飛びっきり美味しくて最高だったけど、ママも私たちも苦手なウニだけは、パパが大喜びで食べていた。
ちゃちゃが帰ってきた喜びと明日から始まる学校が楽しみでしょうがない妹たちは、風呂を出た後、きゃあきゃあとハイテンションで家の中を駆け回っていた。
妹たちの甲高い声にびくともせず、居間のソファの上で気持ち良く寝ているちゃちゃに、
「お前は、憶病だけど強いやつだな」とパパがぼそっと言った。
夜、ベッドに入ってはみたものの、なかなか寝付けない私のところに、ちゃちゃがそっとやって来た。
翌日、雪のなかを歩いて新しい学校に登校した。
担任の先生に連れられて、教室に入り、紹介された。
私は、ちゃちゃに言われた通り、胸を張ってクラスのみんなを正面から見て、ちゃんと最後まで大きな声で挨拶した。
そして、自分の好きなアイドルと好きな食べものと家族とちゃちゃの話をした。
席に着くと、隣の女の子が、
「うちにもネコいるよ」
と、嬉しそうに話しかけてきた。
了
奥多摩トリップ
「チェックインお願いします」
と言った時の受付男性の余りにも驚いた表情に僕は驚いた。
「チェ、チェックインですか?」
そんなに驚くことか。時間が早すぎたか。いやもうすぐ17時だろう。
「はい、そうです」
「あ、しょ、少々お待ちください」
何やらとても慌てている。手違いでもあったのだろうか。受付男性は手元の紙のようなものをパラパラめくっていたが、そのうち僕に小さく頭を下げて奥の部屋に入っていく。しばらく待たされ、僕は多少イラついてきたがなんとか我慢する。旅の最初で気分を害すとずっと引きずるのを知っているからだ。
「遅いね」とロビーのソファに座る女房。
7、8分は待っただろうか。ようやく奥の部屋から出て来て、お詫びを言いつつ宿泊受付用紙を差し出され、必要事項を記入すると、部屋の鍵を渡される。
部屋に入った僕は、あれ?と思う。予約した部屋ではない。なぜなら部屋中探しても露天風呂が見当たらないからだ。
僕は昨年の3月に会社を定年退職したが、その際に会社から退職記念品の10万円旅行券を貰っていた。僕は暇になったが、女房はパートで働いていたし、長女に初孫が生まれて何かと面倒を見させられていたこともあり、すっかり忘れていたのを、年明けに思い出し、ほぼ一年後となる今日、コロナが落ち着いたこともあって、ようやく使う機会ができたのだった。さらにせっかくだからと、珍しく女房が思い切って露天風呂つきの一番良い部屋を予約したと言うわけだ。僕はフロントに戻った。
「部屋が違っていませんか?」
「はい?ちょ、ちょっと待ってください」
また大慌てだ。しばらく待たされた後、
「大変失礼ですが、どちらの部屋をご予約されましたでしょうか?」
この質問には流石にムカッとしたが、まだダメだ。怒ってはダメだ。全てが台無しになると自分を抑える。
「いや、露天風呂つきの部屋を予約したはずですが」
「は、はい。露天風呂つきですね。少々お待ちください」
また後ろの部屋に入っていく。時間が1分、3分、5分と経つ。無意識に右手は
受付のテーブルを細かく叩いている。それに気づいたとき男性が出てくる。
「大変お待たせしました。確かにそうでした。こちらのお部屋ですね」
鍵を交換して僕たちはエレベーターで最上階の4階に上がり、401とある部屋に入る。ふわっとお香の匂いがする。良質な白檀だろう。靴を脱いで4畳半はあろうかという踏み込みに上がり、正面の襖を引くと、大きなソファーセットと50インチはある大型テレビが目に入る。20畳はあろうかという広いリビングルームだ。リビングの左手に行くと10畳ほどのツインベッドが置かれた洋間になっている。リビングに戻ってもう一方の襖を開けると、12畳ほどの床の間つきの和室があり、重そうな一枚板の座卓と座り心地の良さそうな和座椅子が2脚置かれている。和室の奥の襖を開けると、広縁になっていてそこにも洒落た木のテーブルと椅子が置かれている。大きく開かれた一面ガラス張りの窓からは、夕暮れの山々が一望に見渡せる。広縁の右横には曇りガラスの扉があり、それを開けると露天風呂になっている。大きくはないが、大人が4人ほどは入れるだろう。景色も素晴らしい。
「ああ、良かった、しかしさ、どうなってんだって話だよな」と不満げに言うと
「まあ、いいじゃない。間違えたんでしょ」と鷹揚に女房が言う。
久しぶりの旅行で気分がいいのだろう。僕も気を取り直して、楽しみにしていた部屋の露天風呂に入る。2月下旬ではあったが、それほどの強い冷気もなく、日が暮れかけた青黒い山影を見ながら入る風呂は格別だ。深い渓谷からは川のせせらぎも聞こえてくる。ああ、こんな贅沢が出来るのも一生懸命仕事をして定年まで頑張ってきたからだなあなどと感慨に耽りつつお湯をバシャっと顔にかける。
女房と入れ替わりに風呂を出て和室の脇息つきの座椅子にあぐらをかく。普段は座ることのない分厚い座布団が心地よい。女房が入れてくれたお茶を飲もうとして止める。ビールまで我慢しよう。あと30分だ。
ふと見ると座卓の上に新聞が置いてある。
奥多摩新聞?
聞いた事がないが、ここら辺りで発行されているのか。
一面にでかでかと「連続猟奇殺人事件」とある。
なになに?今週に入ってこの辺りで立て続けに3人もの成人男女が残虐な手口で殺されただと?殺された3人に共通点はなく金品類が残されていたことから物盗りではなさそうである、あまりにも残虐な手口から精神異常者と推定されている。死体には口紅でサインめいたものが残されていて犯人は女の可能性もある。
まだここ数日の話のようだ。しかし、これほどの大事件ならテレビニュースや全国新聞ネタになっていいはずだがと、座卓の上にあるテレビのリモコンを押す。
夕方のニュース番組が流れている。と思った瞬間、画像が切り替わる。突発的な災害などでよく見るやつだ。キャスターが慌てた感じで手元の紙をめくる。
「えー、ただいま入りましたニュースをお伝えします。奥多摩の連続猟奇殺人事件の続報です。つい先ほど、4人目の犠牲者が発見された模様です。場所は日原鍾乳洞入り口にある石山神社の裏手とのことで、やはり被害者には口紅のサインのようなものが残されていたと言うことです。また続報が入りましたらお伝えします」
画面がいつものニュースに戻る。
どうやら本当のようだ。日原鍾乳洞って明日女房と行こうって言ってた場所じゃないか。とんでもないときに来てしまったな。
風呂から出て来た女房に、僕は新聞を見せ今しがた流れたニュースの内容をかいつまんで女房に話すと、
「へえ、こんな場所でねえ」とのんびりした口調で言う。
「日原鍾乳洞って明日行くとこだぞ。どうする?」
「どうするって。別に関係ないでしょ。道路が通れないんじゃ行けないけど」
日原鍾乳洞への道は一本道なので迂回も出来ないはずだ。
「そうだな。こんな事件日本じゃ滅多にないからとんでもない数の警察が来てるかもな。まあ、明日確認してからだな」
夕食に行こうと、部屋を出た僕たちが廊下を歩いていくと、隣の部屋から女性が出てくる。一人のようだ。僕たちの後ろをついて来る。やはり夕食に行くのだろう。廊下を左に曲がって少し行くとエレベーターがあり、レストランや大浴場に行くには今いる4階から1階に降りるのだが、その曲がり角にホテルの従業員らしき男性が立っている。
「エレベーターはこちらでございます」とにこやかな笑顔を浮かべ、右手で指し示す。
ん?そんなことを言うためにわざわざここに立っているのか?と一瞬思うが、4階のこのフロアは最上階で、僕たちの泊まる露天風呂付き部屋を含めてVIPフロアなのかもしれないなあと勝手に想像を膨らませる。
レストランはゆったりした和風の作りで、元々は大きな宴会場だったのだろう。畳の部屋に、4人掛けテーブルが窓側に3席、壁側に3席と十分すぎるほどのスペースを持ってしつらえてある。すでに5席ほどが埋まっていて、そのほとんどは年配の夫婦のようだった。僕たちは、入口から入って左手の壁側真ん中の席に案内された。やはりお香が炊かれている。
料理は和食懐石だったはずだ。ここの和食は評判だと予約した女房は言っていた。僕は生ビール、女房は梅酒の炭酸割を注文する。彼女はいつもは酒は飲まないが、梅酒やあんず酒があれば、それを炭酸で割ったものを一杯だけ飲むことがある。僕たちのテーブルを担当してくれた女性は意外に若く、30歳半ばだろうか、きりっとした感じですべてがテキパキしていて気持ちが良い。
食事は評判通りの素晴らしい味だった。先付けの後、刺身が運ばれてきたときに僕は日本酒を注文する。
ふと僕たちの席の反対側、つまり窓側の最も奥の席に、ポツンと一人で食事をしている女性が目に入った。隣の部屋の女性だ。やっぱり一人だったんだ。こんなところに一人で来るなんて珍しいなあと思い、女房に小声で
「あそこ、後ろ、そっと見てみろ。隣の人だよ。一人なんて珍しいな」
女房が注文をするような素振りでそれとなく振り向く。
「ここ、東京から近いし、お料理が美味しいから、仕事のストレス解消とかにいいんじゃない。今は女性も大変だから」
「ああ、そうかもな。それとも不倫でさ。男が来るのを待ってたりして」
多少の酔いも手伝って、くだらない妄想をつい言うと女房が軽侮の眼差しを送ってくる。
料理は焼き物となり、鰆の西京焼きが供される。やはり旨い。
「しかし、久しぶりだよな。二人で旅行なんて」
「そうねえ」
「でも俺もよく頑張ったと思うよ。自分で言うのもなんだけど」
「ホントよねえ」
「お前、本当にそう思ってるか」
「思ってるわよ。当たり前でしょ」
「あのなあ」
「あ、ちょっとトイレ」
「ったく」
女房がトイレに行っている間、手持ち無沙汰になった僕は、あの女性が気になりついつい見てしまう。40代か。髪はショートカットで化粧は薄い。決して美人とは言えないが、ブスでもない。確かに不倫という感じではないな。キャリアウーマンか。気は強そうだ。あんな女性の部下がいたら上司はやりづらいだろうな。いや彼女が上司だったら部下の男はたまったもんじゃないだろう。俺だったら絶対嫌だな。
酒ゆえの勝手な妄想をしていると、肝心の酒がなくなる。女房のいない隙にもう一本頼もうと、周囲を見ると窓側に立っている男性従業員が、その女性をじっと見つめていることに気づく。いやに目つきが悪い。横から見ている僕からは明らかにその視線が女性の方向を向いているのが分かるが、彼女から見ると男性は前を向いているように見えるから気づかないのだろう。それにしても、鋭い視線に見える。獲物を見るような視線だ。好みのタイプなのか。いや、そんな感じでもないな。
女房が戻って来て、その話をすると
「ホント暇なのねえ。そんなことばかり考えて」
毎日暇にしている僕に対する当て付けを言外に込めているのだ。
定年後、何度も交わした話である。この話は必ず良い結末にはならない。せっかく気分良く飲んでいる酒が拙くなるだけだ。ただ、僕にも言いたい事が山ほどあった。
40年近く一生懸命働いてようやく定年を迎えたのだ。少しくらいゆっくりしたっていいじゃないか。そりゃ君だって子育てやパートで頑張って来ただろうさ。今だって家事をこなし、パートに出てるけど、僕はそれほど我儘を言ってはいないだろう。そりゃ晩酌はするさ。毎日つまみを作るのは面倒かもしれない。でも旨い飯を食わせろと言ったことはないはずだ。年金が貰えるまで、僕だって働かなきゃとは思ってるよ。僕だって男だ、いつまでも君のパートに頼っているわけにはいかない。しかし、僕が仕事を辞めてブラブラしているのがそんなに悪いことなのか。もちろん僕だっていつまでもブラブラするつもりじゃないさ。充電期間が終われば外に出たくもなるだろう。少しくらい待ってくれてもいいじゃないか。
やっぱり酒が進んでしまう。飲み過ぎると鼾が大きくなる。最も女房が嫌うことだ。だがもう遅い。適量はすでに超えているのだ。
僕たちは当たり障りのない最も無難な孫の話をし、ネットで見た明日行く予定の鍾乳洞の見所などを話していると、料理はいつの間にか、ご飯になっている。鰻がまぶしてある。女房はさっさとご飯を食べているが、僕の前にはまだいくつもの料理が並んでいる。僕はどうにでもなれと思いもう一本お酒を頼む。きっと睨んでいるだろう女房の視線を外したその先に、あの女性が席を立って歩いてくるのが見える。もう終わったんだ。早いな。そう言えば、浴衣じゃないのは彼女だけだ。これから風呂かな。
「まだ飲んでるなら私、先に部屋に帰っていいかしら」
お怒りムードだ。飲み過ぎると鼾で寝られないっていつも言ってるでしょと目が言っている。僕の言葉を待つまでもなく女房は席を立ち、テーブルの上のルームキーを乱暴な手つきで持っていなくなる。
はあ、男ってのはいつからこんなに弱くなったんだろ。巷ではジェンダーハラスメントだとかジェンダーフリーだとかで喧しいが、公平と同等は違うんじゃないのか。男は子供が産めないけど、力仕事は出来る。部屋の模様替えや引っ越しなんかで重い物を持たされるのはいつも男じゃないか。それで女どもは必ずこう言うだろうよ。
「やっぱり男の人よね」
都合のいいときだけそう言うだろ。俺たちが料理を用意した女性に
「やっぱり料理は女だな」って言ったらなんと言う。
「料理は女って決めつけないで。最近は、料理をしてくれる旦那さんも多いんだから」
待てよ。そうか。昔みたいに男が男らしく働く機会や場所がないんだ。狩りや農作業ならきっと違うもんな。だから女からすると男の価値が低くなっているのか。結局そうなると、男が女側に寄って行かざるを得ないのか。情けないけどきっとそうだ。たしかに頭を使う仕事なら男も女もないもんな。境目がなくなってきてるんだ。しょうがないんだな。
くそう。やっぱり酒が進む。しかし、これから俺たち夫婦はどうなっていくんだろう。世間でいうところのすれ違い夫婦になっちまったのか。なる過程なのか。その先はなんだ?熟年離婚ってやつか。離婚して独りで生きていくか。それもありかな。厭々二人で暮らしていくこともないしな。
もうご飯は食べられない。腹が一杯だ。僕は担当の女性にご馳走様、美味しかったよと言い、レストランを後にした。エレベーターで4階まで上がり、廊下を歩いて行くと、先ほどの男性がまだ立っている。
「ご苦労さん」と声を掛けると
「お休みなさいませ」とやはりにこやかに返事をしてくれる。
これだよ、これ。夫婦もさ。こういう心遣いが大切なんだよな、などと思いながら角を曲がり、部屋に着く。
ルームチャイムを押す。ん?開かない。もう一度押す。やはり開かない。トイレにでも入っているのか。あいつは食べ過ぎるとすぐトイレに行くからな。そのうち開くだろうとしばらく待ってもう一度チャイムを押す。反応が全くない。チャイムの音はトイレにも聞こえているだろう。木製の洒落たドアノブをガチャガチャ回す。だめだ。しょうがない。僕は、廊下を戻って先ほどの男性に声をかける。
「あのう、部屋に入れないんです。女房がいるはずなんですが」
「えっ!奥さんは先にレストランを出られたんですか?」
男性従業員が驚愕の表情を浮かべる。僕がはいと答えると
「ちょ、ちょっと待ってください」
男性はそう言うと、慌ててスマホを取り出しどこかに電話を掛ける。
「あ、伊藤です。マルタイはどこですか?はい、え?いない?こっちもです。はい、手配お願いします。すぐ行きます」
マルタイ?どっかで聞いたことがあるな。
「ちょっとこちらに来てください」
男性とともにエレベーターに乗り1階に降りる。先ほどのレストランに行く途中にあるフロントの横の部屋に入って行く。てっきりマスターキーでも渡されるのかと思ってついていくと、事務所のような部屋のソファにスーツを着込んだ男女3人がいる。とてもホテルの従業員には見えない。
「どうぞお掛けください」
ソファの真ん中に座る年配の男性が言うので僕は男性の正面のソファに座る。よく見ると受付にいた人だ。年配男性の横を見ると、レストランで窓際に立っていた目つきの悪い人だ。おいおいと思いつつ横を見ると、その女性は僕たちのテーブル担当をしていた人だった。一体どうなっているんだ。
「いいですか。落ち着いて聞いてください」
年配の男性がおもむろに切り出した。
「最近、この辺りで殺人事件がありました。ご存知ですか?」
そっちか!僕の酔いはふっとぶ。
「ええ、部屋の新聞で見ました」
「我々はこの事件を追っている青梅署の刑事です。実は、事件の有力な容疑者の一人がこのホテルに宿泊しているので従業員に扮して追っていたんです」
話は驚きの連続だった。容疑者というのは一人で来ていた隣の部屋の女性だと言うのだ。彼女に似た女性が事件現場で複数目撃されていて、事件が始まった時期と彼女がこのホテルに来た時期が一致、しかも毎晩どこかに出掛け、戻るのは朝方という不自然な行動を取っているようだ。確証がないので張り込んで監視していたのだが、よりによって、先ほどレストランを出たところで見失ったというのだ。エレベーターに乗ったのは間違いないが、どうもその途中の階で降りた可能性が高いらしい。ここまででも驚くには十分だったが、本当に驚かされるのはここからだった。
「それで、奥様のことなんですが」
僕は理由もなくドキッとしてしまう。
「レストランを先に出られましたよね。ところが部屋に戻られてないんです」
「何だって!どういうことですか!」
「すいません。我々もてっきりエレベーターに乗られたもんだと思っていたんですが・・部屋には戻られていません。そうだろ?伊藤」
「ええ、ずっと張っていましたが、来られませんでした」
「じゃあ女房はどこにいるんですか!」
「分かりません、しかし、すでに手配してホテルの周辺を捜索しています」
スマホ!と僕は思ったが、スマホは部屋に置いてあるはずだ。間違いない。彼女は僕と違ってこういうときにスマホを持ってはいかない。貴重品と一緒にいつも金庫に入れておくのだ。今日も、それじゃ何かあったときに困るだろと言って口喧嘩になったのだ。
「どこかホテル内にいるんじゃないんですか」
「はい、もちろん全て捜させています。ただ奥さんが立ち寄りそうな場所は、1階以外にありません。2階から4階はすべて客室ですから」
僕は何が起きているのか理解できないまま
「他の階のお客さんに誘われたとか、なんとか、あるでしょう」
「いえ、実は、お客はあなた方ご夫婦一組だけなんです」
「!」
「レストランにいた客はすべてフェイク。つまり容疑者を騙すためにお願いして来てもらった方々です。彼らはすでにホテルにはいません。今ホテルにいるのは我々だけなんです」
「じゃあなんで僕たちだけが・・」
「すべての予約を確認していたはずが漏れていたようです」
それで目の前の刑事はフロントに来た僕を見てあんなに驚いたのか。部屋を間違えたのもそうか。確か女房は旅行券の会社を通じて予約したと言ってたが、何かの手違いがあって予約がそのままになっていたのか。
「と、とにかく女房を早く見つけてください!お願いします!お願いします!」
僕は刑事たちに懇願した。
ホテルの裏は渓谷になっていて、川のせせらぎが聞こえていた。真っ暗な闇の広がる世界だ。僕はいてもたってもいられなくなり、立ち上がった。着替えて女房を捜しに行くつもりだった。
「どちらへ?」
「部屋に戻って着替えて僕も探しに行きます」
「いえ、それは止めていただきたい。かえって危険です。この辺りは森が深くてまったく明かりはありません。ご覧になったかもしれませんが、渓谷も岩だらけで足を滑らせでもしたら大変です。捜索は我々に任せてください。必ず探し出しますから」
僕はへなへなとソファに座り込んだ。あの女は女房を言葉巧みに誘い出したのだろうか。女房は人を疑うことを知らない。ホテルを出たところで頭でも殴られて気を失って・・・。想像が想像を呼ぶ。僕は頭を抱える。
「少しお部屋で休まれてはいかがでしょうか」
僕はマスターキーを受け取り、伊藤という刑事に付き添われて部屋を出た。フロント前にはホテルの玄関がある。僕はそこに立ち止まりじっと外の暗闇を見つめる。心が押しつぶされそうだ。
エレベーターに乗り刑事に尋ねる。
「念のために各階を見て回ってもいいですか」
「もちろんです」
僕と伊藤刑事は、2階、3階と見て回る。大きなホテルではない。一部屋ずつは大きいが、各階5部屋程度しかないのだ。確かに人の気配が全くない。やはりいないのかと僕はすごすご部屋に戻った。すぐ、金庫を確認すると、やはり貴重品と女房のスマホが置いてあった。伊藤刑事は犯人がまだホテル内にいないとも限らないので絶対に部屋を出ないで欲しい、何かあればすぐ連絡をと携帯番号をメモ用紙に書いて出ていった。
僕はソファに横になるが、何も考えられない。起き上がり、頭を抱える。焦る気持ちばかりが募る。どこにいるんだろう、どうしているんだろう、渓谷の岩場で横たわる浴衣姿の女房が浮かんでくるがその映像を振り払う。
時間ばかりが過ぎていく。時計を見るともうまもなく午前0時になる。そうだ、子供たちに電話しようか。いや、まだやめとこう。心配させるだけだ。
僕は当たり前だが真剣に女房の無事を祈っていた。つい数時間前までは、酒を飲みながら熟年離婚もありかなと思っていたにも関わらず。
思い出が走馬灯のように蘇るとはよく言ったもんだ。
僕たちは若くして結婚して、会社の転勤で全国色々な土地を回った。今は東京に住んでいるが、子供の小さい頃は様々な地方都市にも住んだ。何度か転校もさせた。遊びに行く場所に事欠かず子供を育てるなら地方に限るとよく女房と話し合ったものだ。いつも帰れば温かい夕飯が用意されていた。明るく陽気な彼女のおかげで家の中が暗くなったりすることはなかったし、常に子供たちの笑顔があった。子供たちが転校や友人関係などで悩んだり苦労した話も後から聞いた。なのに僕はといえば、女房に家の全てを任せきり、仕事とはいえ飲んで朝帰りしたり、泥酔して家の玄関前で寝ていたことさえあった。仕事さえしていればという思いは確かに僕のどこかにあった。僕は、仕事中心で過ごしていたが、女房は子供中心だった。友達さえほとんどいなかったはずだ。知らない土地で慣れないことも多かっただろう。僕には見せなかったし言わなかったが辛いこともあっただろう。
ふいに涙が零れてきた。
俺が悪かった。帰ってきてくれ。これからはお前を大切にするから。頼む。神様。いるならお願いします。無事でいさせてください。何でもします。この通りです。僕は手を合わせた。
静寂を破って部屋の電話が鳴った。僕は飛び上がらんばかりに驚き、急いで受話器を取ろうとするあまり、テーブルの脚にくるぶしをぶつけてしまう。物凄い痛みだが気にならない。ただ嫌な予感がする。
「もしもし」
「う、う・・に・・にげて・・」
「もしもし!もしもし!」
ツー・ツー・ツー
なんだ?伊藤刑事の声のようだったが。スマホで伊藤刑事にかけるが呼び出し音が空しく鳴るのみだ。心臓の動悸が早まり、コールタールのような黒く重い得体のしれない恐怖が腹の底からやってくる。どうしよう。どうしよう。女房の顔が浮かぶ。どうあろうと行くしかない。僕は、急いで武器になりそうなものを捜し、ベッドサイドにあった陶器で出来たスタンドライトを手に取った。
エレベーターを1階に降り、廊下をフロントの方に向かうが先ほどと違って全く明かりがない。足音を立てないようそっと廊下からフロントを窺う。ロビーもフロントも真っ暗だ。入口ドア横の非常灯だけが緑色にぼうっと光っていて気味が悪い。
見たくないものを見なければいけない、聞きたくないことを聞かなきゃならない、そんな瞬間が人生にはある。なぜかそんな声が聞こえる。行きたくない。でも身体は勝手に動き出す。そろそろと暗い中をフロントに向かって行く。暗闇に多少は目が慣れてきたせいか、大まかな位置取は把握できる。とにかく足音だけは立ててはならない。床の冷たさが裸足にダイレクトに伝わる。スタンドライトを持った右手に力がこもる。
ぎょっとして立ち止まる。ロビーのソファに誰かがこちらに背を向けて座っている。女だ。あの女だろうか。恐怖が押し寄せるのと同時にまたも女房の顔が浮かぶ。あの女だとしても俺はやるしかない。もう一度スタンドライトを握り直し、ソファに向かって一歩を踏み出したときだった。
いきなり照明が点いた。眩しい!それと同時に
「おめでとうございます!」という声と大きな拍手に心臓が飛び出るほど驚く。
どこに隠れていたのか。何人もの人が拍手をしながら出てくる。伊藤刑事に加え、さっきの年配の刑事や目つきの悪い刑事、テーブルを担当していた女性刑事、そしてなんと、隣の部屋の犯人とされる女性まで。みんな笑顔で拍手をしている。
まったく理解できず声もない。
ソファに座っていた女が立ち上がり振り向く。
女房だった。満面の笑みを浮かべている。
その姿を見た僕は、まず本当に生きている女房かどうかを確認し、それが間違いないと確信した後、怒りで身体が震え、最後に安堵でその場に座り込んでしまった。
女房は、このホテルが企画したミステリーツアーに応募した。夫婦の日常を変えるというのがそのテーマだった。コロナ禍のホテルが苦境の際に思いついた企画でとても好評を博したため、月一回のペースで続けているらしい。今回の奥多摩連続殺人事件と呼ばれる企画はその中でも特に人気があって、熟年期の奥様連中から予約申し込みが殺到しているそうだ。もちろん刑事役や犯人役はすべてホテルの従業員で、犯人役の女性は、ホテルの若女将、目付きの悪い刑事はその旦那だと言う。テレビニュースで見た映像は、ホテルが制作したものでパソコンによる操作で流れるようになっている。気づかなかったがキャスター役は髪型を変えた伊藤刑事だそうだ。
抽選かどうか知らないが女房は運良く予約にこぎ着け、僕はまんまと騙されたというわけだ。
たしかに女房の存在の有難みには改めて気付かされた。そういう意味でこの企画は大成功に違いない。僕は当分女房には頭が上がらないだろう。しかし癪に障る。癪に障るが僕はやり返すことが出来ない。床にへたりこんだ僕をホテルの誰か、多分年配の刑事役だと思うが、写真に撮っていて、それは女房の手によってポートレートが如く居間のテレビ台の横の嫌でも目に付くところに置いてあるのだが、僕の態度如何によってはその写真を僕の遺影にすると女房が脅すからだ。
しかしこれはジェンダーハラスメントではないのか。
了
井上さんの選択
俺は死んだ。
死んだと思う。
いや、間違いなく死んだはずだ。
だって、医者は俺の左腕の脈を取るのを止めたし、恭子と雅美は涙ながらに大きな声で俺の名前を呼んでいるし。
俺だって、こんなに急に自分が死ぬなんてまったく思っていなかったさ。血圧が少し高めなのと、心室性不整脈とかいうトシ食うと誰でも多少はあるという軽い不整脈くらいのもので、特別どこか悪いところもなかったし、会社と秘書が煩いから、定期的に人間ドッグも受けていたんだから。
でもまあ、俺の人生そんなに悪い人生でもなかったよな。会社では苦労もしたが、社長にもなれたし、女房や子供にも恵まれた方だろう。仕事ばっかりで、全く家族を省みもしなかったが、あいつら文句も言わず俺について来てくれた。65歳というトシは、少しばかり早いには早いが、ボケたり寝込んだりして周りに迷惑かけるよりはいいだろ。財産だってそれなりにあるから女房が困ることもないしな。あ、純子ちゃん。そうだよ。純子ちゃんがいたよ。いい女だったな。あんなに通ってさ、会社の金とはいえ、相当落としてあげたのにあの子は結局落ちなかったな。もう少しだと思ったんだけどなあ。くそ。思い出さなきゃ良かった。ま、しょうがないか。
お?おいおい、恭子。ついさっきまで大声で泣いてたのに。なんだよ。医者がいなくなったら急に静かになったな。
「さ、雅美、行くわよ。お腹すいたでしょ」
「うん、どこ行く?」
「あそこのさ、イタリアンどう?」
「ああ、前言ってた?」
「そうそう」
「いいね、行こう行こう。でもいいの?会社の人たち来るんじゃないの?」
「朝、家出る前に秘書さんから連絡があって会議があるから午後になるって。だから少しくらい大丈夫よ。もう死んじゃってるんだから。ああ、せいせいした」
「ママ、大変だったもんね」
嘘だろ、おい。
愕然として目の前が暗くなるとはこのことか。いや、もう暗いか。
そうか、そんなもんか。いざ死んじまえば冷たいもんだ。確かに、好き勝手やってきたし、仕事ばかりの人生だったけど。もうちょっと悲しんでくれてもいいんじゃないのか。くそ。会社の奴らも奴らだよ。会議だと。ふざけやがって。手の平返すにも程があるだろ。しかし死んでも腹は立つんだな。
漆黒の闇だった俺の目の前になんだか明るいぼやっとした光が見えてくる。
あれ?吉田?吉田じゃないか!
「井上さん、井上さんのおかげで自分の未熟さに気づかされました。本当にありがとうございました」
「えっ、どういうこと?吉田、君は死んでないだろ」
「はい、今の井上さんの世界では生きてます。でも、僕にしてくれたお返しをしたくて」
「なに?なんのことだい」
俺の見ている吉田が、一瞬で切り替わるイリュージョンマジックのように、消え失せたかと思うと、全く違う映像になっている。
あれは俺じゃないか。たしか、まだ部長のときの俺だ。
「では、最下位を発表する。吉田!」
吉田が、おずおずと前に出てくる。
「また、お前か。前回は頑張ると言ってたな」
吉田が泣き出しそうな表情ですいませんと小さく呟く。
「なに?聞こえんぞ!謝るならもっと大きな声で皆に謝れ!」
吉田は俯いたまま肩を震わせている。
「ほら、どうした吉田!謝れ!」
おいおい、ほんとかよ。俺ってあんなに怒ってたんだ。
社員のざわめきに交じって囁き声が聞こえてくる。
「あれじゃ吉田が可哀そうだよ」
「だよな。あんなひどい担当させられて数字が上がるわけないよな」
「井上部長は知ってんのかね」
「知るわけないだろ。吉田を嫌ってるあのヒラメ課長の沼田さんが上手く報告してっから」
そうか、吉田にはそんな事情があったのか。
映像が目まぐるしく移り変わっていく。
ん?これはうちの会社の前だな。
「吉田、元気でな」
「皆さん、大変お世話になりました」
数人の社員に囲まれた吉田が頭を下げている。
吉田の目は涙で濡れている。
そうだ、そういえば、あいつ会社辞めたんだったな。
お、社長じゃないか。
「井上くん、君には最年少役員としてまず余剰社員のリストラをやってもらいたい。来期は相当厳しい見通しだ。会社のために一つ頼むぞ」
「リストラ・・ですか。は、はい。頑張ります」
そういえば、役員になったはいいが、最初の仕事がリストラだったな。嫌な仕事だったよな、全く。
うわ、西田かよ・・・。
「なあ、頼むよ、井上、いや、お願いします、井上役員。今、会社を辞めてもろくな給料貰えるとこなんかないんだ。うちはまだ子供も小さいし、家のローンも残っている。それは知ってるだろう。な、頼む、頼みます、この通りだ」
「・・・すまんが、お前の期待には沿えん。会社の危機を救うと言う責任ある立場が俺にはある。親友で同期だからといってルールを曲げるわけにはいかないんだ。分かってくれ」
辛い決断だったな、あの時は。
ええっ、まさか・・あのときの・・・。
西田が人気のない深夜のホームに佇んでいる。
電車がすべりこんでくる。西田がふらっと歩き出す。
おい、西田!やめろ!西田!西田!
西田がふわっと線路に身を投げ出す。
わああっ!西田あ!
強く瞑っていた目を開けると笑顔の西田が立っている。
「西田・・・」
「井上、一言お礼が言いたくてさ。来ちゃったよ」
「お礼?」
「うん、おれは自分に負けちゃったんだよ。でもそれに気づいたのはお前のおかげだ。またやり直すよ。嫌な役回りさせて悪かったな」
「西田、本気で言ってんのか。あんな仕打ちをした俺に」
「そうだよ。おれの言ってる意味はそのうち分かるさ」
西田が消えていく。
西田!西田!おい、西田!ちょっと待て!まだ話したい事がたくさんあるんだよ、待ってくれ、西田!
ふう、なんだよ一体、勘弁してくれよ。
今度は銀座か。そうだ、間違いない。純子ちゃんがいる。
「いやあ、よくやってくれたね。社長。それにしても過去最高益とはな」
「期待以上のリストラ効果でした。まあ、あの井上くんが想定以上に頑張ってくれましたんで」
「井上くんか、ふふ、会社の危機を演出してやらせるとはね。君もうまく人を使うようになったもんだ」
「いえいえ、まだまだ会長の足元にも及びません。しかし、会長、彼はなかなか使えますよ」
「そうかね。では君の後任候補の一人にでも考えておくとするか」
演出?あんなに必死になってやったリストラの理由が危機の演出だと?そういうことか。要するに役員をエサに俺を利用し、ついでに意のままに動くかどうか試したってことか・・・。
結局俺は何も分かっちゃいなかったんだ・・・・・・・・・・・。
映像が消えていく・・・ああ、いよいよ終わりか・・・。
あれ?また光り出したじゃないか。
また俺だよ、どうなってんだ?
「では最下位を発表する。吉田!」
吉田がおずおずと前に出てくる。
「また、お前か。前回は頑張ると言ってたな」
吉田が泣き出しそうな表情ですいませんと小さく呟く。
おいおい、またかよ。これさっき見たよ。
「吉田。次こそ頑張れよ。期待してるからな」
吉田が驚いて俺を見つめている。
「どうした。お前なら出来るだろう」
「はいっ!頑張ります!」
明るい笑顔で手を振りながら席に戻る吉田に皆から大きな拍手が送られる。
あれ?さっきと違うな。どっちが本当だったっけ。こんがらがって来たぞ。
また表彰式か。
「では栄えあるナンバーワンを発表する。吉田!」
大きな拍手とともに吉田が堂々と前に出てくる。
「吉田。よくやったな。おめでとう」
「ありがとうございます」
鳴り止まない拍手のなか、社員の会話が聞こえる。
「すげえな、吉田。あんな担当でよくトップ取ったよな」
「いや、あいつさ。尊敬する井上さんから頑張れってみんなの前で言われたのが効いたらしいよ。それにしてもあの頑張りは半端ないよな」
「だな。井上さんもさすがだよ」
そういえばそうだった・・かな・・。
今度は社長か。これは社長室だな。
「ああ井上くん、この前のリストラの件だが、プランは決まったかね」
「社長、自分なりによくよく考えてみましたが、我が社は今、リストラをやるべきではないと思います」
「なに?君は何を言っているのか分かっているのか?」
「はい、今、会社は、社内に活気があり業績が上がっている途上にあります。こんな時にリストラをやれば、人事コスト削減によって一時的に利益は上がりますが、中長期的には社員の士気は下がり、決して良い結果にはならないと判断しました」
「判断だと?いつ、君に判断を聞いたかね!私は指示をしたんだ!」
「そうですが、会社の将来を」
「もういい!君のごたくを聞きたいわけじゃない!」
会社に良かれと思い切って言ったつもりだったんだけどな・・・。
おおっ、ペンギンがいる!旭山動物園じゃないか。
「家族水いらずで旅行なんて何年ぶり?何年どころじゃないわよね、何十年ぶり?」
「そうだなあ。そんなになるか。まだ雅美が小さい頃あれどこだっけ?」
「私はあんまり覚えてないけど」
「箱根よ、箱根。あの時も本当は北海道をドライブしようって言ってたんだけど、結局お父さん仕事入っちゃって、一泊二日で行けるとこにってなったのよ」
「そうだったかなあ。悪いことしたな」
「でも、こうやって雅美と一度来たいねって言ってた旭山動物園に来れたんだから、私嬉しいわ」
「俺も暇になったからな。これからはいつでも行けるよ」
あれから家族で色々行ったなあ。いい思い出だよ。
また西田だ。今度は何だっけ。
「井上、頼むよ。知ってるだろ、うちはまだ子供が小さいし、家のローンも残っている。これからまだ金がかかるんだ。今、会社を放り出されても50過ぎてるとろくな就職先もないんだよ」
「西田。分かってるよ。俺だって何とか力になってやりたいけど、役員降ろされた俺にはそんな力はもうないんだよ」
「でも、まだ上の方に顔が利くだろ。頼むよ。この通りだ。井上、頼む」
困った顔してるな、俺。
沼田?そうか、後任の沼田に頼みに行ったんだ。
「沼田さん、いや沼田役員。以前、役員の部下だった西田をリストラ対象から外してやってもらえませんか。あいつは50過ぎた平社員で不器用なために出世こそ逃してますが、ご存知の通り、真面目で一生懸命で、取引先や同僚たちの信頼は非常に篤い男です。それに、結婚が遅くてまだ子供が小さいし家のローンも抱えていると聞いてます。何とかお願いします」
「ああ、西田さんね。よく存じてますよ。たしか井上さんの同期でしたね」
「同期は同期ですが、それだけではありません」
「いや、いいんですよ。誰だって同期の力になってやりたいと思いますからね。じゃ、こうしましょう。西田さんをリストラ対象から外しますので、その代わりに、井上さん、あなたに辞めていただきます」
「えっ、私が」
「いや、実はですね。社長からあなたを辞めさせるように言われてるんですよ。理由はお分かりでしょう。ま、あなたも会社にしがみつくよりいいんじゃありませんか。退職金も割増になりますしね」
「・・・わかりました。私が辞めます・・・」
うう、くそ。思い出したら腹が立って来た。
ああ、純子ちゃんだ!やっぱり可愛いなあ。
「会社辞める?嘘でしょ」
「ホントだよ。まあ、色々あってさ。こうやって最後に純子ちゃんに会いに来たってわけさ」
「最後って、これからもたまには来てくれるんでしょ」
「いや流石に自分のカネでは来れないよ。これからは細々と生きて行かなくちゃならないし」
「何だ、寂しいじゃない」
「えっ、寂しい?じゃあさ、前から誘ってた、熱海。どう?行かない?やっぱりダメ?」
「・・・いいわよ」
「マジ?俺、本気にしちゃうよ」
「うん、行く」
「そうか。行ってくれるのか・・・」
「何?どうしたの?難しい顔して。嬉しくないの?」
「いや、もちろんめちゃくちゃ嬉しいよ。でもさ、何だかよく考えたら純子ちゃんと行っちゃいけないような気がしてさ」
「何よ、それ、今さら。その気にさせといて」
「・・・ごめん。俺、諦めるよ。純子ちゃん、誘っといてホントごめん」
何だかあの時は憑き物が落ちたような変な感じだったな。結局あの店にもあれから一回も行かなかったし、今頃、純子ちゃんどうしてるかな。
また会社か?これは役員会議室じゃないか。
「欠品だと!どうなってるんだ、一体!説明したまえ!」
「はい、社長。ええ・・実は、製造本部に大量の離職者が発生しまして・・製造ラインが維持できない状態となりまして・・あの」
「何でだ!何でそんなことになったんだ!」
「はあ・・申し上げにくいのですが・・リストラによる減員で製造現場が疲弊した結果かと・・」
「もういい!至急何とかしたまえ!」
でもダメだったんだよな。急に何とかならないよ。だから俺が止めろって言ったんだよ。
お、また社長だぞ。今度はなんだ。
「それで、銀行は何と言って来てるんだ」
「はい、現経営陣を刷新して欲しいと」
「ふざけるな!ここまでこの会社を成長させたのは誰だと思ってるんだ!」
「ただ、組合が同調してまして」
「組合?どう言うことだ?」
「はい、組合の吉田委員長が、会社の危機を招いたのは現経営陣による無謀なリストラが原因だと主張してまして」
「何だと。組合ごときが何を抜かす」
「ただ社長、組合だけではなくて、管理職までもがどうも同調しているようでして、銀行もそれを掴んでいるようなんです」
まあ、あれだけ業績やら株価が落ちたらしょうがないよなあ。
また俺だ。ここは・・社長室か。
「西田、頼みがある」
「何ですか、井上社長。社長には大きな恩義がありますから何でもおっしゃってください」
「他に誰もいないんだから他人行儀はよせ。俺とお前の仲だろう。まあ、いいや。単刀直入に言うぞ。お前には役員になってもらう。それでだ。取引先の信頼を取り戻すために先頭に立ってやってもらいたいんだ。もちろん俺も一緒に頑張る。どうだ」
「・・・分かった。命に替えてでもやってやる」
まさか組合が辞める寸前だった俺を新社長にしてくれと銀行に要求するとは思っても見なかったな。でもあれからみんなよく働いて会社の業績もよくなったし。まあ、良かったよな。
映像が消えてくぞ。今度こそいよいよ終わりか。
それにしても、俺の見たのは何だったんだ。どっちが本当のことだったかさっぱり分からんが、どっちも本当のように思えるのは何でだ。まあ死んじまったんだからどっちでもいいか。それはそうと、この後俺はどうなるんだ、一体。
ん?何だ?
微かに何か聞こえる・・。
この声は・・・。恭子と雅美だ。
恭子と雅美が俺の名を呼んでいる。
誰だ、俺の左腕を触ってるのは。
俺は目を開けた。
なんだ、ここは。
ん?こいつは医者か、何をそんなに驚いてるんだ。
それにしても大勢いるな。
あれ?西田がいるぞ。吉田もいるじゃないか。
みんな泣いているのか。
え?秘書は何で笑っているんだ?
あ、ドアの蔭に純子ちゃんがいる。
そうか、本当は俺に惚れてたんだな。
恭子、勘違いするなよ。俺は何もしていないんだから。
俺はどうやら生き返ったようだ。
それにしても死んだと思ったときのあの経験は何だったんだろう。
最初に死んだと思った時と、生き返った時では全く違う人生を生きているようだ。
どっちが本当の俺の人生なんだ?
いや、どっちも本当なのかもな。
とすると、俺は幸か不幸か、同じ人生の上で違う選択を生きたわけだ。
たしか、最初に見た人生で吉田や西田がきっと分かるって言ってたのは、俺の選択次第で違う結果になるって意味だったのか、それとも人生は何度もやり直せるから後悔するなよって意味なのか・・・。やっぱりよく分からないな。
だけど、不思議だな。あいつら、今も生きてるんだから。
まあ、でもこれからの残りの人生、よくよく考えて生きていかなきゃな。
下手に浮気でもしたらどんな結末になるか分からんからなあ。
それとも、何度でもやり直せるなら好き勝手にやるっていうのもありだな。
ん?待てよ。
結局のところ俺は好きなように選択して好きなように生きてきてるって話にならないか。
了