てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

井上さんの選択

 

 俺は死んだ。

 死んだと思う。

 いや、間違いなく死んだはずだ。

 だって、医者は俺の左腕の脈を取るのを止めたし、恭子と雅美は涙ながらに大きな声で俺の名前を呼んでいるし。

 俺だって、こんなに急に自分が死ぬなんてまったく思っていなかったさ。血圧が少し高めなのと、心室不整脈とかいうトシ食うと誰でも多少はあるという軽い不整脈くらいのもので、特別どこか悪いところもなかったし、会社と秘書が煩いから、定期的に人間ドッグも受けていたんだから。

 でもまあ、俺の人生そんなに悪い人生でもなかったよな。会社では苦労もしたが、社長にもなれたし、女房や子供にも恵まれた方だろう。仕事ばっかりで、全く家族を省みもしなかったが、あいつら文句も言わず俺について来てくれた。65歳というトシは、少しばかり早いには早いが、ボケたり寝込んだりして周りに迷惑かけるよりはいいだろ。財産だってそれなりにあるから女房が困ることもないしな。あ、純子ちゃん。そうだよ。純子ちゃんがいたよ。いい女だったな。あんなに通ってさ、会社の金とはいえ、相当落としてあげたのにあの子は結局落ちなかったな。もう少しだと思ったんだけどなあ。くそ。思い出さなきゃ良かった。ま、しょうがないか。

 

 

 お?おいおい、恭子。ついさっきまで大声で泣いてたのに。なんだよ。医者がいなくなったら急に静かになったな。

「さ、雅美、行くわよ。お腹すいたでしょ」

「うん、どこ行く?」

「あそこのさ、イタリアンどう?」

「ああ、前言ってた?」

「そうそう」

「いいね、行こう行こう。でもいいの?会社の人たち来るんじゃないの?」

「朝、家出る前に秘書さんから連絡があって会議があるから午後になるって。だから少しくらい大丈夫よ。もう死んじゃってるんだから。ああ、せいせいした」

「ママ、大変だったもんね」

 嘘だろ、おい。

 愕然として目の前が暗くなるとはこのことか。いや、もう暗いか。

 そうか、そんなもんか。いざ死んじまえば冷たいもんだ。確かに、好き勝手やってきたし、仕事ばかりの人生だったけど。もうちょっと悲しんでくれてもいいんじゃないのか。くそ。会社の奴らも奴らだよ。会議だと。ふざけやがって。手の平返すにも程があるだろ。しかし死んでも腹は立つんだな。

 

 漆黒の闇だった俺の目の前になんだか明るいぼやっとした光が見えてくる。

 

 あれ?吉田?吉田じゃないか!

「井上さん、井上さんのおかげで自分の未熟さに気づかされました。本当にありがとうございました」

「えっ、どういうこと?吉田、君は死んでないだろ」

「はい、今の井上さんの世界では生きてます。でも、僕にしてくれたお返しをしたくて」

「なに?なんのことだい」

 

 俺の見ている吉田が、一瞬で切り替わるイリュージョンマジックのように、消え失せたかと思うと、全く違う映像になっている。

 

 あれは俺じゃないか。たしか、まだ部長のときの俺だ。

「では、最下位を発表する。吉田!」

 吉田が、おずおずと前に出てくる。

「また、お前か。前回は頑張ると言ってたな」

 吉田が泣き出しそうな表情ですいませんと小さく呟く。

「なに?聞こえんぞ!謝るならもっと大きな声で皆に謝れ!」

 吉田は俯いたまま肩を震わせている。

「ほら、どうした吉田!謝れ!」

 おいおい、ほんとかよ。俺ってあんなに怒ってたんだ。

 社員のざわめきに交じって囁き声が聞こえてくる。

「あれじゃ吉田が可哀そうだよ」

「だよな。あんなひどい担当させられて数字が上がるわけないよな」

「井上部長は知ってんのかね」

「知るわけないだろ。吉田を嫌ってるあのヒラメ課長の沼田さんが上手く報告してっから」

 そうか、吉田にはそんな事情があったのか。

 

 映像が目まぐるしく移り変わっていく。

 

 ん?これはうちの会社の前だな。

「吉田、元気でな」

「皆さん、大変お世話になりました」

 数人の社員に囲まれた吉田が頭を下げている。

 吉田の目は涙で濡れている。

 そうだ、そういえば、あいつ会社辞めたんだったな。

 

 お、社長じゃないか。

「井上くん、君には最年少役員としてまず余剰社員のリストラをやってもらいたい。来期は相当厳しい見通しだ。会社のために一つ頼むぞ」

「リストラ・・ですか。は、はい。頑張ります」

 そういえば、役員になったはいいが、最初の仕事がリストラだったな。嫌な仕事だったよな、全く。

 

 うわ、西田かよ・・・。

「なあ、頼むよ、井上、いや、お願いします、井上役員。今、会社を辞めてもろくな給料貰えるとこなんかないんだ。うちはまだ子供も小さいし、家のローンも残っている。それは知ってるだろう。な、頼む、頼みます、この通りだ」

「・・・すまんが、お前の期待には沿えん。会社の危機を救うと言う責任ある立場が俺にはある。親友で同期だからといってルールを曲げるわけにはいかないんだ。分かってくれ」

 辛い決断だったな、あの時は。

 

 ええっ、まさか・・あのときの・・・。

 西田が人気のない深夜のホームに佇んでいる。

 電車がすべりこんでくる。西田がふらっと歩き出す。

 おい、西田!やめろ!西田!西田!

 西田がふわっと線路に身を投げ出す。

 わああっ!西田あ!

 

 強く瞑っていた目を開けると笑顔の西田が立っている。

「西田・・・」

「井上、一言お礼が言いたくてさ。来ちゃったよ」

「お礼?」

「うん、おれは自分に負けちゃったんだよ。でもそれに気づいたのはお前のおかげだ。またやり直すよ。嫌な役回りさせて悪かったな」

「西田、本気で言ってんのか。あんな仕打ちをした俺に」

「そうだよ。おれの言ってる意味はそのうち分かるさ」

 西田が消えていく。

 西田!西田!おい、西田!ちょっと待て!まだ話したい事がたくさんあるんだよ、待ってくれ、西田!

 

 ふう、なんだよ一体、勘弁してくれよ。

 今度は銀座か。そうだ、間違いない。純子ちゃんがいる。

「いやあ、よくやってくれたね。社長。それにしても過去最高益とはな」

「期待以上のリストラ効果でした。まあ、あの井上くんが想定以上に頑張ってくれましたんで」

「井上くんか、ふふ、会社の危機を演出してやらせるとはね。君もうまく人を使うようになったもんだ」

「いえいえ、まだまだ会長の足元にも及びません。しかし、会長、彼はなかなか使えますよ」

「そうかね。では君の後任候補の一人にでも考えておくとするか」

 演出?あんなに必死になってやったリストラの理由が危機の演出だと?そういうことか。要するに役員をエサに俺を利用し、ついでに意のままに動くかどうか試したってことか・・・。

 

 結局俺は何も分かっちゃいなかったんだ・・・・・・・・・・・。

 

 映像が消えていく・・・ああ、いよいよ終わりか・・・。

 あれ?また光り出したじゃないか。

 

 

 また俺だよ、どうなってんだ?

「では最下位を発表する。吉田!」

 吉田がおずおずと前に出てくる。

「また、お前か。前回は頑張ると言ってたな」

 吉田が泣き出しそうな表情ですいませんと小さく呟く。

 

 おいおい、またかよ。これさっき見たよ。

 

「吉田。次こそ頑張れよ。期待してるからな」

 吉田が驚いて俺を見つめている。

「どうした。お前なら出来るだろう」

「はいっ!頑張ります!」

 明るい笑顔で手を振りながら席に戻る吉田に皆から大きな拍手が送られる。

 あれ?さっきと違うな。どっちが本当だったっけ。こんがらがって来たぞ。

 

 また表彰式か。

「では栄えあるナンバーワンを発表する。吉田!」

 大きな拍手とともに吉田が堂々と前に出てくる。

「吉田。よくやったな。おめでとう」

「ありがとうございます」

 鳴り止まない拍手のなか、社員の会話が聞こえる。

「すげえな、吉田。あんな担当でよくトップ取ったよな」

「いや、あいつさ。尊敬する井上さんから頑張れってみんなの前で言われたのが効いたらしいよ。それにしてもあの頑張りは半端ないよな」

「だな。井上さんもさすがだよ」

 そういえばそうだった・・かな・・。

 

 今度は社長か。これは社長室だな。

「ああ井上くん、この前のリストラの件だが、プランは決まったかね」

「社長、自分なりによくよく考えてみましたが、我が社は今、リストラをやるべきではないと思います」

「なに?君は何を言っているのか分かっているのか?」

「はい、今、会社は、社内に活気があり業績が上がっている途上にあります。こんな時にリストラをやれば、人事コスト削減によって一時的に利益は上がりますが、中長期的には社員の士気は下がり、決して良い結果にはならないと判断しました」

「判断だと?いつ、君に判断を聞いたかね!私は指示をしたんだ!」

「そうですが、会社の将来を」

「もういい!君のごたくを聞きたいわけじゃない!」

 会社に良かれと思い切って言ったつもりだったんだけどな・・・。

 

 おおっ、ペンギンがいる!旭山動物園じゃないか。

「家族水いらずで旅行なんて何年ぶり?何年どころじゃないわよね、何十年ぶり?」

「そうだなあ。そんなになるか。まだ雅美が小さい頃あれどこだっけ?」

「私はあんまり覚えてないけど」

「箱根よ、箱根。あの時も本当は北海道をドライブしようって言ってたんだけど、結局お父さん仕事入っちゃって、一泊二日で行けるとこにってなったのよ」

「そうだったかなあ。悪いことしたな」

「でも、こうやって雅美と一度来たいねって言ってた旭山動物園に来れたんだから、私嬉しいわ」

「俺も暇になったからな。これからはいつでも行けるよ」

 あれから家族で色々行ったなあ。いい思い出だよ。

 

 また西田だ。今度は何だっけ。

「井上、頼むよ。知ってるだろ、うちはまだ子供が小さいし、家のローンも残っている。これからまだ金がかかるんだ。今、会社を放り出されても50過ぎてるとろくな就職先もないんだよ」

「西田。分かってるよ。俺だって何とか力になってやりたいけど、役員降ろされた俺にはそんな力はもうないんだよ」

「でも、まだ上の方に顔が利くだろ。頼むよ。この通りだ。井上、頼む」

 困った顔してるな、俺。

 

 沼田?そうか、後任の沼田に頼みに行ったんだ。

「沼田さん、いや沼田役員。以前、役員の部下だった西田をリストラ対象から外してやってもらえませんか。あいつは50過ぎた平社員で不器用なために出世こそ逃してますが、ご存知の通り、真面目で一生懸命で、取引先や同僚たちの信頼は非常に篤い男です。それに、結婚が遅くてまだ子供が小さいし家のローンも抱えていると聞いてます。何とかお願いします」

「ああ、西田さんね。よく存じてますよ。たしか井上さんの同期でしたね」

「同期は同期ですが、それだけではありません」

「いや、いいんですよ。誰だって同期の力になってやりたいと思いますからね。じゃ、こうしましょう。西田さんをリストラ対象から外しますので、その代わりに、井上さん、あなたに辞めていただきます」

「えっ、私が」

「いや、実はですね。社長からあなたを辞めさせるように言われてるんですよ。理由はお分かりでしょう。ま、あなたも会社にしがみつくよりいいんじゃありませんか。退職金も割増になりますしね」

「・・・わかりました。私が辞めます・・・」

 うう、くそ。思い出したら腹が立って来た。

 

 ああ、純子ちゃんだ!やっぱり可愛いなあ。

「会社辞める?嘘でしょ」

「ホントだよ。まあ、色々あってさ。こうやって最後に純子ちゃんに会いに来たってわけさ」

「最後って、これからもたまには来てくれるんでしょ」

「いや流石に自分のカネでは来れないよ。これからは細々と生きて行かなくちゃならないし」

「何だ、寂しいじゃない」

「えっ、寂しい?じゃあさ、前から誘ってた、熱海。どう?行かない?やっぱりダメ?」

「・・・いいわよ」

「マジ?俺、本気にしちゃうよ」

「うん、行く」

「そうか。行ってくれるのか・・・」

「何?どうしたの?難しい顔して。嬉しくないの?」

「いや、もちろんめちゃくちゃ嬉しいよ。でもさ、何だかよく考えたら純子ちゃんと行っちゃいけないような気がしてさ」

「何よ、それ、今さら。その気にさせといて」

「・・・ごめん。俺、諦めるよ。純子ちゃん、誘っといてホントごめん」

 何だかあの時は憑き物が落ちたような変な感じだったな。結局あの店にもあれから一回も行かなかったし、今頃、純子ちゃんどうしてるかな。

 

 また会社か?これは役員会議室じゃないか。

「欠品だと!どうなってるんだ、一体!説明したまえ!」

「はい、社長。ええ・・実は、製造本部に大量の離職者が発生しまして・・製造ラインが維持できない状態となりまして・・あの」

「何でだ!何でそんなことになったんだ!」

「はあ・・申し上げにくいのですが・・リストラによる減員で製造現場が疲弊した結果かと・・」

「もういい!至急何とかしたまえ!」

 でもダメだったんだよな。急に何とかならないよ。だから俺が止めろって言ったんだよ。

 

 お、また社長だぞ。今度はなんだ。

「それで、銀行は何と言って来てるんだ」

「はい、現経営陣を刷新して欲しいと」

「ふざけるな!ここまでこの会社を成長させたのは誰だと思ってるんだ!」

「ただ、組合が同調してまして」

「組合?どう言うことだ?」

「はい、組合の吉田委員長が、会社の危機を招いたのは現経営陣による無謀なリストラが原因だと主張してまして」

「何だと。組合ごときが何を抜かす」

「ただ社長、組合だけではなくて、管理職までもがどうも同調しているようでして、銀行もそれを掴んでいるようなんです」

 まあ、あれだけ業績やら株価が落ちたらしょうがないよなあ。

 

 また俺だ。ここは・・社長室か。

「西田、頼みがある」

「何ですか、井上社長。社長には大きな恩義がありますから何でもおっしゃってください」

「他に誰もいないんだから他人行儀はよせ。俺とお前の仲だろう。まあ、いいや。単刀直入に言うぞ。お前には役員になってもらう。それでだ。取引先の信頼を取り戻すために先頭に立ってやってもらいたいんだ。もちろん俺も一緒に頑張る。どうだ」

「・・・分かった。命に替えてでもやってやる」

 まさか組合が辞める寸前だった俺を新社長にしてくれと銀行に要求するとは思っても見なかったな。でもあれからみんなよく働いて会社の業績もよくなったし。まあ、良かったよな。

 

 映像が消えてくぞ。今度こそいよいよ終わりか。

 それにしても、俺の見たのは何だったんだ。どっちが本当のことだったかさっぱり分からんが、どっちも本当のように思えるのは何でだ。まあ死んじまったんだからどっちでもいいか。それはそうと、この後俺はどうなるんだ、一体。

 

 ん?何だ?

 微かに何か聞こえる・・。

 

 この声は・・・。恭子と雅美だ。

 恭子と雅美が俺の名を呼んでいる。

 

 誰だ、俺の左腕を触ってるのは。

 

 俺は目を開けた。

 

 なんだ、ここは。

 ん?こいつは医者か、何をそんなに驚いてるんだ。

 それにしても大勢いるな。

 あれ?西田がいるぞ。吉田もいるじゃないか。

 みんな泣いているのか。

 え?秘書は何で笑っているんだ?

 

 あ、ドアの蔭に純子ちゃんがいる。

 そうか、本当は俺に惚れてたんだな。

 恭子、勘違いするなよ。俺は何もしていないんだから。

 

 

 俺はどうやら生き返ったようだ。

 それにしても死んだと思ったときのあの経験は何だったんだろう。

 最初に死んだと思った時と、生き返った時では全く違う人生を生きているようだ。

 どっちが本当の俺の人生なんだ?

 いや、どっちも本当なのかもな。

 とすると、俺は幸か不幸か、同じ人生の上で違う選択を生きたわけだ。

 たしか、最初に見た人生で吉田や西田がきっと分かるって言ってたのは、俺の選択次第で違う結果になるって意味だったのか、それとも人生は何度もやり直せるから後悔するなよって意味なのか・・・。やっぱりよく分からないな。

 だけど、不思議だな。あいつら、今も生きてるんだから。

 まあ、でもこれからの残りの人生、よくよく考えて生きていかなきゃな。

 下手に浮気でもしたらどんな結末になるか分からんからなあ。

 それとも、何度でもやり直せるなら好き勝手にやるっていうのもありだな。

 ん?待てよ。

 結局のところ俺は好きなように選択して好きなように生きてきてるって話にならないか。

 

                                       

                                      了