てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

奥多摩トリップ

「チェックインお願いします」

と言った時の受付男性の余りにも驚いた表情に僕は驚いた。

「チェ、チェックインですか?」

 そんなに驚くことか。時間が早すぎたか。いやもうすぐ17時だろう。

「はい、そうです」

「あ、しょ、少々お待ちください」

 何やらとても慌てている。手違いでもあったのだろうか。受付男性は手元の紙のようなものをパラパラめくっていたが、そのうち僕に小さく頭を下げて奥の部屋に入っていく。しばらく待たされ、僕は多少イラついてきたがなんとか我慢する。旅の最初で気分を害すとずっと引きずるのを知っているからだ。

「遅いね」とロビーのソファに座る女房。

 7、8分は待っただろうか。ようやく奥の部屋から出て来て、お詫びを言いつつ宿泊受付用紙を差し出され、必要事項を記入すると、部屋の鍵を渡される。

 部屋に入った僕は、あれ?と思う。予約した部屋ではない。なぜなら部屋中探しても露天風呂が見当たらないからだ。

 僕は昨年の3月に会社を定年退職したが、その際に会社から退職記念品の10万円旅行券を貰っていた。僕は暇になったが、女房はパートで働いていたし、長女に初孫が生まれて何かと面倒を見させられていたこともあり、すっかり忘れていたのを、年明けに思い出し、ほぼ一年後となる今日、コロナが落ち着いたこともあって、ようやく使う機会ができたのだった。さらにせっかくだからと、珍しく女房が思い切って露天風呂つきの一番良い部屋を予約したと言うわけだ。僕はフロントに戻った。

「部屋が違っていませんか?」

「はい?ちょ、ちょっと待ってください」

 また大慌てだ。しばらく待たされた後、

「大変失礼ですが、どちらの部屋をご予約されましたでしょうか?」

 この質問には流石にムカッとしたが、まだダメだ。怒ってはダメだ。全てが台無しになると自分を抑える。

「いや、露天風呂つきの部屋を予約したはずですが」

「は、はい。露天風呂つきですね。少々お待ちください」

 また後ろの部屋に入っていく。時間が1分、3分、5分と経つ。無意識に右手は

受付のテーブルを細かく叩いている。それに気づいたとき男性が出てくる。

「大変お待たせしました。確かにそうでした。こちらのお部屋ですね」

 鍵を交換して僕たちはエレベーターで最上階の4階に上がり、401とある部屋に入る。ふわっとお香の匂いがする。良質な白檀だろう。靴を脱いで4畳半はあろうかという踏み込みに上がり、正面の襖を引くと、大きなソファーセットと50インチはある大型テレビが目に入る。20畳はあろうかという広いリビングルームだ。リビングの左手に行くと10畳ほどのツインベッドが置かれた洋間になっている。リビングに戻ってもう一方の襖を開けると、12畳ほどの床の間つきの和室があり、重そうな一枚板の座卓と座り心地の良さそうな和座椅子が2脚置かれている。和室の奥の襖を開けると、広縁になっていてそこにも洒落た木のテーブルと椅子が置かれている。大きく開かれた一面ガラス張りの窓からは、夕暮れの山々が一望に見渡せる。広縁の右横には曇りガラスの扉があり、それを開けると露天風呂になっている。大きくはないが、大人が4人ほどは入れるだろう。景色も素晴らしい。

「ああ、良かった、しかしさ、どうなってんだって話だよな」と不満げに言うと

「まあ、いいじゃない。間違えたんでしょ」と鷹揚に女房が言う。

 久しぶりの旅行で気分がいいのだろう。僕も気を取り直して、楽しみにしていた部屋の露天風呂に入る。2月下旬ではあったが、それほどの強い冷気もなく、日が暮れかけた青黒い山影を見ながら入る風呂は格別だ。深い渓谷からは川のせせらぎも聞こえてくる。ああ、こんな贅沢が出来るのも一生懸命仕事をして定年まで頑張ってきたからだなあなどと感慨に耽りつつお湯をバシャっと顔にかける。

 女房と入れ替わりに風呂を出て和室の脇息つきの座椅子にあぐらをかく。普段は座ることのない分厚い座布団が心地よい。女房が入れてくれたお茶を飲もうとして止める。ビールまで我慢しよう。あと30分だ。

 ふと見ると座卓の上に新聞が置いてある。

 奥多摩新聞?

 聞いた事がないが、ここら辺りで発行されているのか。

 一面にでかでかと「連続猟奇殺人事件」とある。

 なになに?今週に入ってこの辺りで立て続けに3人もの成人男女が残虐な手口で殺されただと?殺された3人に共通点はなく金品類が残されていたことから物盗りではなさそうである、あまりにも残虐な手口から精神異常者と推定されている。死体には口紅でサインめいたものが残されていて犯人は女の可能性もある。

 まだここ数日の話のようだ。しかし、これほどの大事件ならテレビニュースや全国新聞ネタになっていいはずだがと、座卓の上にあるテレビのリモコンを押す。

 夕方のニュース番組が流れている。と思った瞬間、画像が切り替わる。突発的な災害などでよく見るやつだ。キャスターが慌てた感じで手元の紙をめくる。

「えー、ただいま入りましたニュースをお伝えします。奥多摩の連続猟奇殺人事件の続報です。つい先ほど、4人目の犠牲者が発見された模様です。場所は日原鍾乳洞入り口にある石山神社の裏手とのことで、やはり被害者には口紅のサインのようなものが残されていたと言うことです。また続報が入りましたらお伝えします」

 画面がいつものニュースに戻る。

 どうやら本当のようだ。日原鍾乳洞って明日女房と行こうって言ってた場所じゃないか。とんでもないときに来てしまったな。

 風呂から出て来た女房に、僕は新聞を見せ今しがた流れたニュースの内容をかいつまんで女房に話すと、

「へえ、こんな場所でねえ」とのんびりした口調で言う。

日原鍾乳洞って明日行くとこだぞ。どうする?」

「どうするって。別に関係ないでしょ。道路が通れないんじゃ行けないけど」

 日原鍾乳洞への道は一本道なので迂回も出来ないはずだ。

「そうだな。こんな事件日本じゃ滅多にないからとんでもない数の警察が来てるかもな。まあ、明日確認してからだな」

 夕食に行こうと、部屋を出た僕たちが廊下を歩いていくと、隣の部屋から女性が出てくる。一人のようだ。僕たちの後ろをついて来る。やはり夕食に行くのだろう。廊下を左に曲がって少し行くとエレベーターがあり、レストランや大浴場に行くには今いる4階から1階に降りるのだが、その曲がり角にホテルの従業員らしき男性が立っている。

「エレベーターはこちらでございます」とにこやかな笑顔を浮かべ、右手で指し示す。

 ん?そんなことを言うためにわざわざここに立っているのか?と一瞬思うが、4階のこのフロアは最上階で、僕たちの泊まる露天風呂付き部屋を含めてVIPフロアなのかもしれないなあと勝手に想像を膨らませる。

 レストランはゆったりした和風の作りで、元々は大きな宴会場だったのだろう。畳の部屋に、4人掛けテーブルが窓側に3席、壁側に3席と十分すぎるほどのスペースを持ってしつらえてある。すでに5席ほどが埋まっていて、そのほとんどは年配の夫婦のようだった。僕たちは、入口から入って左手の壁側真ん中の席に案内された。やはりお香が炊かれている。

 料理は和食懐石だったはずだ。ここの和食は評判だと予約した女房は言っていた。僕は生ビール、女房は梅酒の炭酸割を注文する。彼女はいつもは酒は飲まないが、梅酒やあんず酒があれば、それを炭酸で割ったものを一杯だけ飲むことがある。僕たちのテーブルを担当してくれた女性は意外に若く、30歳半ばだろうか、きりっとした感じですべてがテキパキしていて気持ちが良い。

 食事は評判通りの素晴らしい味だった。先付けの後、刺身が運ばれてきたときに僕は日本酒を注文する。

 ふと僕たちの席の反対側、つまり窓側の最も奥の席に、ポツンと一人で食事をしている女性が目に入った。隣の部屋の女性だ。やっぱり一人だったんだ。こんなところに一人で来るなんて珍しいなあと思い、女房に小声で

「あそこ、後ろ、そっと見てみろ。隣の人だよ。一人なんて珍しいな」

 女房が注文をするような素振りでそれとなく振り向く。

「ここ、東京から近いし、お料理が美味しいから、仕事のストレス解消とかにいいんじゃない。今は女性も大変だから」

「ああ、そうかもな。それとも不倫でさ。男が来るのを待ってたりして」

 多少の酔いも手伝って、くだらない妄想をつい言うと女房が軽侮の眼差しを送ってくる。

 料理は焼き物となり、鰆の西京焼きが供される。やはり旨い。

「しかし、久しぶりだよな。二人で旅行なんて」

「そうねえ」

「でも俺もよく頑張ったと思うよ。自分で言うのもなんだけど」

「ホントよねえ」

「お前、本当にそう思ってるか」

「思ってるわよ。当たり前でしょ」

「あのなあ」

「あ、ちょっとトイレ」

「ったく」

 女房がトイレに行っている間、手持ち無沙汰になった僕は、あの女性が気になりついつい見てしまう。40代か。髪はショートカットで化粧は薄い。決して美人とは言えないが、ブスでもない。確かに不倫という感じではないな。キャリアウーマンか。気は強そうだ。あんな女性の部下がいたら上司はやりづらいだろうな。いや彼女が上司だったら部下の男はたまったもんじゃないだろう。俺だったら絶対嫌だな。

 酒ゆえの勝手な妄想をしていると、肝心の酒がなくなる。女房のいない隙にもう一本頼もうと、周囲を見ると窓側に立っている男性従業員が、その女性をじっと見つめていることに気づく。いやに目つきが悪い。横から見ている僕からは明らかにその視線が女性の方向を向いているのが分かるが、彼女から見ると男性は前を向いているように見えるから気づかないのだろう。それにしても、鋭い視線に見える。獲物を見るような視線だ。好みのタイプなのか。いや、そんな感じでもないな。

 女房が戻って来て、その話をすると

「ホント暇なのねえ。そんなことばかり考えて」

 毎日暇にしている僕に対する当て付けを言外に込めているのだ。

 定年後、何度も交わした話である。この話は必ず良い結末にはならない。せっかく気分良く飲んでいる酒が拙くなるだけだ。ただ、僕にも言いたい事が山ほどあった。

 40年近く一生懸命働いてようやく定年を迎えたのだ。少しくらいゆっくりしたっていいじゃないか。そりゃ君だって子育てやパートで頑張って来ただろうさ。今だって家事をこなし、パートに出てるけど、僕はそれほど我儘を言ってはいないだろう。そりゃ晩酌はするさ。毎日つまみを作るのは面倒かもしれない。でも旨い飯を食わせろと言ったことはないはずだ。年金が貰えるまで、僕だって働かなきゃとは思ってるよ。僕だって男だ、いつまでも君のパートに頼っているわけにはいかない。しかし、僕が仕事を辞めてブラブラしているのがそんなに悪いことなのか。もちろん僕だっていつまでもブラブラするつもりじゃないさ。充電期間が終われば外に出たくもなるだろう。少しくらい待ってくれてもいいじゃないか。

 やっぱり酒が進んでしまう。飲み過ぎると鼾が大きくなる。最も女房が嫌うことだ。だがもう遅い。適量はすでに超えているのだ。

 僕たちは当たり障りのない最も無難な孫の話をし、ネットで見た明日行く予定の鍾乳洞の見所などを話していると、料理はいつの間にか、ご飯になっている。鰻がまぶしてある。女房はさっさとご飯を食べているが、僕の前にはまだいくつもの料理が並んでいる。僕はどうにでもなれと思いもう一本お酒を頼む。きっと睨んでいるだろう女房の視線を外したその先に、あの女性が席を立って歩いてくるのが見える。もう終わったんだ。早いな。そう言えば、浴衣じゃないのは彼女だけだ。これから風呂かな。

「まだ飲んでるなら私、先に部屋に帰っていいかしら」

 お怒りムードだ。飲み過ぎると鼾で寝られないっていつも言ってるでしょと目が言っている。僕の言葉を待つまでもなく女房は席を立ち、テーブルの上のルームキーを乱暴な手つきで持っていなくなる。

 はあ、男ってのはいつからこんなに弱くなったんだろ。巷ではジェンダーハラスメントだとかジェンダーフリーだとかで喧しいが、公平と同等は違うんじゃないのか。男は子供が産めないけど、力仕事は出来る。部屋の模様替えや引っ越しなんかで重い物を持たされるのはいつも男じゃないか。それで女どもは必ずこう言うだろうよ。

「やっぱり男の人よね」

 都合のいいときだけそう言うだろ。俺たちが料理を用意した女性に

「やっぱり料理は女だな」って言ったらなんと言う。

「料理は女って決めつけないで。最近は、料理をしてくれる旦那さんも多いんだから」

 待てよ。そうか。昔みたいに男が男らしく働く機会や場所がないんだ。狩りや農作業ならきっと違うもんな。だから女からすると男の価値が低くなっているのか。結局そうなると、男が女側に寄って行かざるを得ないのか。情けないけどきっとそうだ。たしかに頭を使う仕事なら男も女もないもんな。境目がなくなってきてるんだ。しょうがないんだな。

 くそう。やっぱり酒が進む。しかし、これから俺たち夫婦はどうなっていくんだろう。世間でいうところのすれ違い夫婦になっちまったのか。なる過程なのか。その先はなんだ?熟年離婚ってやつか。離婚して独りで生きていくか。それもありかな。厭々二人で暮らしていくこともないしな。

 もうご飯は食べられない。腹が一杯だ。僕は担当の女性にご馳走様、美味しかったよと言い、レストランを後にした。エレベーターで4階まで上がり、廊下を歩いて行くと、先ほどの男性がまだ立っている。

「ご苦労さん」と声を掛けると

「お休みなさいませ」とやはりにこやかに返事をしてくれる。

 これだよ、これ。夫婦もさ。こういう心遣いが大切なんだよな、などと思いながら角を曲がり、部屋に着く。

 ルームチャイムを押す。ん?開かない。もう一度押す。やはり開かない。トイレにでも入っているのか。あいつは食べ過ぎるとすぐトイレに行くからな。そのうち開くだろうとしばらく待ってもう一度チャイムを押す。反応が全くない。チャイムの音はトイレにも聞こえているだろう。木製の洒落たドアノブをガチャガチャ回す。だめだ。しょうがない。僕は、廊下を戻って先ほどの男性に声をかける。

「あのう、部屋に入れないんです。女房がいるはずなんですが」

「えっ!奥さんは先にレストランを出られたんですか?」

 男性従業員が驚愕の表情を浮かべる。僕がはいと答えると

「ちょ、ちょっと待ってください」

 男性はそう言うと、慌ててスマホを取り出しどこかに電話を掛ける。

「あ、伊藤です。マルタイはどこですか?はい、え?いない?こっちもです。はい、手配お願いします。すぐ行きます」

 マルタイ?どっかで聞いたことがあるな。

「ちょっとこちらに来てください」

 男性とともにエレベーターに乗り1階に降りる。先ほどのレストランに行く途中にあるフロントの横の部屋に入って行く。てっきりマスターキーでも渡されるのかと思ってついていくと、事務所のような部屋のソファにスーツを着込んだ男女3人がいる。とてもホテルの従業員には見えない。

「どうぞお掛けください」

ソファの真ん中に座る年配の男性が言うので僕は男性の正面のソファに座る。よく見ると受付にいた人だ。年配男性の横を見ると、レストランで窓際に立っていた目つきの悪い人だ。おいおいと思いつつ横を見ると、その女性は僕たちのテーブル担当をしていた人だった。一体どうなっているんだ。

「いいですか。落ち着いて聞いてください」

 年配の男性がおもむろに切り出した。

「最近、この辺りで殺人事件がありました。ご存知ですか?」

 そっちか!僕の酔いはふっとぶ。

「ええ、部屋の新聞で見ました」

「我々はこの事件を追っている青梅署の刑事です。実は、事件の有力な容疑者の一人がこのホテルに宿泊しているので従業員に扮して追っていたんです」

 話は驚きの連続だった。容疑者というのは一人で来ていた隣の部屋の女性だと言うのだ。彼女に似た女性が事件現場で複数目撃されていて、事件が始まった時期と彼女がこのホテルに来た時期が一致、しかも毎晩どこかに出掛け、戻るのは朝方という不自然な行動を取っているようだ。確証がないので張り込んで監視していたのだが、よりによって、先ほどレストランを出たところで見失ったというのだ。エレベーターに乗ったのは間違いないが、どうもその途中の階で降りた可能性が高いらしい。ここまででも驚くには十分だったが、本当に驚かされるのはここからだった。

「それで、奥様のことなんですが」

 僕は理由もなくドキッとしてしまう。

「レストランを先に出られましたよね。ところが部屋に戻られてないんです」

「何だって!どういうことですか!」

「すいません。我々もてっきりエレベーターに乗られたもんだと思っていたんですが・・部屋には戻られていません。そうだろ?伊藤」

「ええ、ずっと張っていましたが、来られませんでした」

「じゃあ女房はどこにいるんですか!」

「分かりません、しかし、すでに手配してホテルの周辺を捜索しています」

 スマホ!と僕は思ったが、スマホは部屋に置いてあるはずだ。間違いない。彼女は僕と違ってこういうときにスマホを持ってはいかない。貴重品と一緒にいつも金庫に入れておくのだ。今日も、それじゃ何かあったときに困るだろと言って口喧嘩になったのだ。

「どこかホテル内にいるんじゃないんですか」

「はい、もちろん全て捜させています。ただ奥さんが立ち寄りそうな場所は、1階以外にありません。2階から4階はすべて客室ですから」

 僕は何が起きているのか理解できないまま

「他の階のお客さんに誘われたとか、なんとか、あるでしょう」

「いえ、実は、お客はあなた方ご夫婦一組だけなんです」

「!」

「レストランにいた客はすべてフェイク。つまり容疑者を騙すためにお願いして来てもらった方々です。彼らはすでにホテルにはいません。今ホテルにいるのは我々だけなんです」

「じゃあなんで僕たちだけが・・」

「すべての予約を確認していたはずが漏れていたようです」

 それで目の前の刑事はフロントに来た僕を見てあんなに驚いたのか。部屋を間違えたのもそうか。確か女房は旅行券の会社を通じて予約したと言ってたが、何かの手違いがあって予約がそのままになっていたのか。

「と、とにかく女房を早く見つけてください!お願いします!お願いします!」

 僕は刑事たちに懇願した。

 ホテルの裏は渓谷になっていて、川のせせらぎが聞こえていた。真っ暗な闇の広がる世界だ。僕はいてもたってもいられなくなり、立ち上がった。着替えて女房を捜しに行くつもりだった。

「どちらへ?」

「部屋に戻って着替えて僕も探しに行きます」

「いえ、それは止めていただきたい。かえって危険です。この辺りは森が深くてまったく明かりはありません。ご覧になったかもしれませんが、渓谷も岩だらけで足を滑らせでもしたら大変です。捜索は我々に任せてください。必ず探し出しますから」

 僕はへなへなとソファに座り込んだ。あの女は女房を言葉巧みに誘い出したのだろうか。女房は人を疑うことを知らない。ホテルを出たところで頭でも殴られて気を失って・・・。想像が想像を呼ぶ。僕は頭を抱える。

「少しお部屋で休まれてはいかがでしょうか」

 僕はマスターキーを受け取り、伊藤という刑事に付き添われて部屋を出た。フロント前にはホテルの玄関がある。僕はそこに立ち止まりじっと外の暗闇を見つめる。心が押しつぶされそうだ。

 エレベーターに乗り刑事に尋ねる。

「念のために各階を見て回ってもいいですか」

「もちろんです」

 僕と伊藤刑事は、2階、3階と見て回る。大きなホテルではない。一部屋ずつは大きいが、各階5部屋程度しかないのだ。確かに人の気配が全くない。やはりいないのかと僕はすごすご部屋に戻った。すぐ、金庫を確認すると、やはり貴重品と女房のスマホが置いてあった。伊藤刑事は犯人がまだホテル内にいないとも限らないので絶対に部屋を出ないで欲しい、何かあればすぐ連絡をと携帯番号をメモ用紙に書いて出ていった。

 僕はソファに横になるが、何も考えられない。起き上がり、頭を抱える。焦る気持ちばかりが募る。どこにいるんだろう、どうしているんだろう、渓谷の岩場で横たわる浴衣姿の女房が浮かんでくるがその映像を振り払う。

 時間ばかりが過ぎていく。時計を見るともうまもなく午前0時になる。そうだ、子供たちに電話しようか。いや、まだやめとこう。心配させるだけだ。

 僕は当たり前だが真剣に女房の無事を祈っていた。つい数時間前までは、酒を飲みながら熟年離婚もありかなと思っていたにも関わらず。

 

 思い出が走馬灯のように蘇るとはよく言ったもんだ。

 僕たちは若くして結婚して、会社の転勤で全国色々な土地を回った。今は東京に住んでいるが、子供の小さい頃は様々な地方都市にも住んだ。何度か転校もさせた。遊びに行く場所に事欠かず子供を育てるなら地方に限るとよく女房と話し合ったものだ。いつも帰れば温かい夕飯が用意されていた。明るく陽気な彼女のおかげで家の中が暗くなったりすることはなかったし、常に子供たちの笑顔があった。子供たちが転校や友人関係などで悩んだり苦労した話も後から聞いた。なのに僕はといえば、女房に家の全てを任せきり、仕事とはいえ飲んで朝帰りしたり、泥酔して家の玄関前で寝ていたことさえあった。仕事さえしていればという思いは確かに僕のどこかにあった。僕は、仕事中心で過ごしていたが、女房は子供中心だった。友達さえほとんどいなかったはずだ。知らない土地で慣れないことも多かっただろう。僕には見せなかったし言わなかったが辛いこともあっただろう。

 

 ふいに涙が零れてきた。

 俺が悪かった。帰ってきてくれ。これからはお前を大切にするから。頼む。神様。いるならお願いします。無事でいさせてください。何でもします。この通りです。僕は手を合わせた。

 静寂を破って部屋の電話が鳴った。僕は飛び上がらんばかりに驚き、急いで受話器を取ろうとするあまり、テーブルの脚にくるぶしをぶつけてしまう。物凄い痛みだが気にならない。ただ嫌な予感がする。

「もしもし」

「う、う・・に・・にげて・・」

「もしもし!もしもし!」

 ツー・ツー・ツー

 なんだ?伊藤刑事の声のようだったが。スマホで伊藤刑事にかけるが呼び出し音が空しく鳴るのみだ。心臓の動悸が早まり、コールタールのような黒く重い得体のしれない恐怖が腹の底からやってくる。どうしよう。どうしよう。女房の顔が浮かぶ。どうあろうと行くしかない。僕は、急いで武器になりそうなものを捜し、ベッドサイドにあった陶器で出来たスタンドライトを手に取った。

 エレベーターを1階に降り、廊下をフロントの方に向かうが先ほどと違って全く明かりがない。足音を立てないようそっと廊下からフロントを窺う。ロビーもフロントも真っ暗だ。入口ドア横の非常灯だけが緑色にぼうっと光っていて気味が悪い。

 見たくないものを見なければいけない、聞きたくないことを聞かなきゃならない、そんな瞬間が人生にはある。なぜかそんな声が聞こえる。行きたくない。でも身体は勝手に動き出す。そろそろと暗い中をフロントに向かって行く。暗闇に多少は目が慣れてきたせいか、大まかな位置取は把握できる。とにかく足音だけは立ててはならない。床の冷たさが裸足にダイレクトに伝わる。スタンドライトを持った右手に力がこもる。

 ぎょっとして立ち止まる。ロビーのソファに誰かがこちらに背を向けて座っている。女だ。あの女だろうか。恐怖が押し寄せるのと同時にまたも女房の顔が浮かぶ。あの女だとしても俺はやるしかない。もう一度スタンドライトを握り直し、ソファに向かって一歩を踏み出したときだった。 

 いきなり照明が点いた。眩しい!それと同時に

「おめでとうございます!」という声と大きな拍手に心臓が飛び出るほど驚く。

 どこに隠れていたのか。何人もの人が拍手をしながら出てくる。伊藤刑事に加え、さっきの年配の刑事や目つきの悪い刑事、テーブルを担当していた女性刑事、そしてなんと、隣の部屋の犯人とされる女性まで。みんな笑顔で拍手をしている。

 まったく理解できず声もない。

 ソファに座っていた女が立ち上がり振り向く。

 女房だった。満面の笑みを浮かべている。

 その姿を見た僕は、まず本当に生きている女房かどうかを確認し、それが間違いないと確信した後、怒りで身体が震え、最後に安堵でその場に座り込んでしまった。

 

 女房は、このホテルが企画したミステリーツアーに応募した。夫婦の日常を変えるというのがそのテーマだった。コロナ禍のホテルが苦境の際に思いついた企画でとても好評を博したため、月一回のペースで続けているらしい。今回の奥多摩連続殺人事件と呼ばれる企画はその中でも特に人気があって、熟年期の奥様連中から予約申し込みが殺到しているそうだ。もちろん刑事役や犯人役はすべてホテルの従業員で、犯人役の女性は、ホテルの若女将、目付きの悪い刑事はその旦那だと言う。テレビニュースで見た映像は、ホテルが制作したものでパソコンによる操作で流れるようになっている。気づかなかったがキャスター役は髪型を変えた伊藤刑事だそうだ。

 抽選かどうか知らないが女房は運良く予約にこぎ着け、僕はまんまと騙されたというわけだ。

 たしかに女房の存在の有難みには改めて気付かされた。そういう意味でこの企画は大成功に違いない。僕は当分女房には頭が上がらないだろう。しかし癪に障る。癪に障るが僕はやり返すことが出来ない。床にへたりこんだ僕をホテルの誰か、多分年配の刑事役だと思うが、写真に撮っていて、それは女房の手によってポートレートが如く居間のテレビ台の横の嫌でも目に付くところに置いてあるのだが、僕の態度如何によってはその写真を僕の遺影にすると女房が脅すからだ。

 しかしこれはジェンダーハラスメントではないのか。

 

 

                                   了