てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

みかん 第一章

 東京に出てきて初めて借りた部屋は、家賃3万円の風呂なし6畳一間だった。

 この春大学を卒業した僕だったが、晴れて就職する予定だった地元の企業がなんと卒業間際で倒産する事態に直面した。早い話が就職浪人となってしまったのだ。さすがに慌てた僕は、地元より東京の方が就職には有利だろうと判断して急遽上京したというわけだ。時間も予算も少ない僕に不動産屋が案内したのは、見るからに古い木造アパートだった。僕は、そのアパートを前に茫然としたが、もう後戻りは出来ないと自分に言い聞かせた。

 築50年を超える木造アパートというのは、いざ住んでみると驚く事ばかりだ。音が響くというレベルじゃない。僕の部屋は2階になるが、横どころか下の部屋、さらには窓を隔てた隣の家の物音までが異常に響き、電話などは話し相手の声まで聞こえそうなほど。これじゃ壁も床もないのと同じじゃないかと愚痴っても始まらない。僕はここに住まなきゃならないんだから。とにかくな大きな物音を立てて隣人に迷惑をかけないようにしなければと、テレビの音量やたまに話す電話の声はもちろん、足音なんかにも気をつけて生活していた。

 その小柄なおじいちゃんは道路からすぐの下の部屋に住んでいた。

 初めて見かけたのは、僕が買い物から帰ったときで、おじいちゃんは傍目にもきれいと言えない白い半袖の下着にこちらも白いいわゆる股引姿で座り込んで自転車の修理をしていた。こんにちはと声を掛けると、こちらを振り向いて人懐こい笑顔でぺこりと小さく頭を下げてくれた。ああ、こんなお年寄りがこういうところに住まざるを得ないのか、厳しい世の中だなとつい思ってしまう。

 ところが、世の中の厳しさは容赦なく僕にも襲い掛かってきた。就職浪人が新卒に比べて、就職に不利だというのは聞き知っていたがこれほどとは思わなかった。全く内定が貰えないのだ。ほとんどは書類選考で落とされ、何社かは1次面接まで進むが、そこまで。何より、腹立たしく情けないのは、面接官が就職浪人の僕を落伍者のような蔑んだ目で見ることだった。それは、僕が生まれて初めて味わう生の社会の厳しさだったのだが、厳しさはそこでは終わらず、さらに違う形でやってきた。

 僕の部屋は、北と南に窓があり通風はすこぶる良く日当たりも良い。4月から住み始めた僕にとって、この2か月弱の季節の良い時期は最高の部屋だった。ところがいざ暑くなってくると真夏をどう乗り切るかという問題にぶち当たる。エアコンが取り付けられないのだ。お金の問題ももちろんあったが、何とか買えても室外機を置くスペースがない。多少の暑さくらいと思っていたが完全に甘かった。真夏の日光は木造アパート全体をバーナーで熱しているかと錯覚させるほど強烈で、昼間の部屋の温度はゆうに体温を超えていてさらにそれが夜通し下がらない。しかも窓を大きく開けられない。僕の部屋のサッシ窓には網戸がなく、窓を開ければ容赦なく蚊が入ってくるのだった。

 その日も、眠ったと思えば寝苦しさで目覚め、疲れでまた眠りを繰り返していた。せっかく銭湯でさっぱりした体に大量の汗がじとっとまとわりついている。あまりに毎日続くそんな夜に加えて、就職がままならない僕のやり場のない怒りは完全に限界点を迎えていた。暑さで朦朧とする頭に浮かぶのは、封書で届く、残念ながらで始まる文字、緊張して面接室を開け、最初に見る面接官のあの目、椅子を立つときに小さく聞こえる溜息。僕が何をしたっていうんだ!内定をもらってたんだぞ!その会社が潰れたんだからどうしようもないじゃないか!

夜中何時か分からない。僕は、がばっとはね起き、

「くっそー!!!」と思わず大声で叫んでしまった。自分でも驚くくらいの声だった。 

 アパートどころか近所に響き渡っただろう。ヤバイ。そう思ったときだった、ふとあの小柄なおじいちゃんの笑顔が浮かんだ。もう70歳はゆうに超えているだろう。いや80歳台かもしれない。あのおじいちゃんもきっと寝苦しい思いをしながらも我慢して寝ていたに違いない。起こしてしまっただろうか、いやきっとそうだ。今度は罪悪感が僕を襲う。

 数日後、僕は近くのドトールにコーヒーを飲みに出かけた。夏は涼みたい客が多いせいか混んでいて、自動ドアを入ってすぐのところに、一時間以内の利用にご協力くださいと書いた立て札がある。僕はこういうのに弱い。小心者なんだろう。30分も経つと時間が気になってしまい、結局40分ほどで店を出る。他に行くあてもない僕は、途中にあるスーパーで水やお茶、缶コーヒーなどを買ってアパートに帰ると、強い日差しの中、おじいちゃんが座り込んでまた自転車を直している。僕は先日の夜を思い出す。思わず「暑いですよね、これ飲みませんか」と冷えた缶コーヒーを差し出すと、おじいちゃんは立ち上がって受け取り深々と頭を下げる。すぐ近くで見ると思っていたより小さく、日に焼けた笑顔には深い皺が刻まれている。僕はなんだか申し訳ないような気恥ずかしいような複雑な気持ちになり、ペコリと頭を下げ、そそくさと部屋に戻る。

 最近は、春の内定辞退者の穴埋めや、海外大学卒業生などを採用するために秋採用の会社も増えていて、僕は10社ほど応募したが、そこでもまた、面接で嫌な思いをした挙句、内定を得ることができずにいた。僕には何か足りないものがあるのだろうか。焦る気持ちだけが募っていくがどうしようもない。

 暑さもだいぶ和らいだ10月初旬のある日の夜だった。アルバイトを終えて帰ろうとすると、

「すぐ帰るんすか?良かったらメシでも行かないすか?みんなで行こうって言ってるんすけど」

 2歳下で大学生の伊藤君だ。みんなというのは、同じシフトで働いている男2人、女2人の計4人のことだろう。疲れていたが、せっかく誘ってくれたんだからと付き合うことにし、僕たちは、近くの安い居酒屋チェーン店の小上がりになっている座敷に落ち着いた。伊藤君は場慣れしているのか適当に注文し場を盛り上げようと一生懸命だ。僕はあまり酒が得意ではない。生ビールをちびちび飲んでいると、結構な勢いで飲んでいた伊藤君が急に大きな声で

「就職決まりました?」と言う。

「えっ」と僕が驚くと

「まあまあ、パイセン、いいじゃないすか。それでどうなんすか?教えてくださいよお」と伊藤君は急に砕けた調子になる。バイト仲間の女の子が

「就職?今頃?なんで?」と言う。

僕は思わず卑屈な笑いを浮かべてしまう。

「パイセーン。おれだっていつ就職浪人になるか分かんないすから色々教えてくださいよお」

「ええっ!就職浪人?いるんだ、いまどきそんなひと」

 先ほどの女の子がもう一人の女の子と目を見合わせる。むくむくと湧き上がる、恥ずかしさと屈辱感と怒りが混じった感情を無理やり抑え込む。

「パイセン、おれがなんで知ってるか知りたいっしょ」

 僕が答える前に、二人の女の子が乾杯の音頭のように声を合わせる。

「知りたーい」

「店長すよ、てんちょお。あいつ嫌なやろうでしょ。パイセンのことを裏で色々言ってんすよ。田舎もんだとか、使えねえから就職も無理だなとか言ってんすよ」

「もういいよ。分かったよ。伊藤君、楽しく飲もうぜ」

 僕は内心ショックを受けていたが、年上らしく余裕を見せると、伊藤君はそれでもしつこく顔を近づけ

「言わせといていいんすか、パイセン」

 息が酒臭い。女の子たちは何が可笑しいのかケラケラ笑っている。

「そんなんじゃ就職できないっすよ、パイセーン。ケケケ」

 何かが僕の中でプチっと破裂し、右手の拳で伊藤君の顔面を殴りつけ、倒れた背中を蹴り付け、仁王立ちになって、

「いい加減にしろ!この野郎、文句があるならかかってこい!」・・・。

 という空想は、僕の頭の中だけで終わった。結局、いい人なんだよな、僕は。

 何事もなく居酒屋を出てアパートに帰ると、部屋の扉の前に小さめのレジ袋が置いてある。中を確かめると、缶コーヒーが一本入っていた。僕は、ああ、おじいちゃんだなと察した。むしゃくしゃした気持ちがまだ残っていたが、部屋で飲み始めると、なんだかほっとして少しだけ温かい気持ちになれた。

 季節は秋から冬になり、僕は最後の望みをかけて1月から始まる中途採用への応募を始めていた。夏の暑さを乗り切り、楽園のような秋の涼しい日々があっという間に過ぎ去ると、極寒の冬が待っていた。コタツしかない僕の部屋は、気温が一桁台になると恐ろしく冷え込む。外にいるのと変わらないんじゃないかと思えるほどだ。板一枚のような薄い壁にはもちろん断熱材など入っているはずもないし、窓もサッシで隙間風こそないが、外気温を素通ししているのだろう。特にしんしんと底冷えがする夜がやはり辛い。くるまった布団のなかで、ふとおじいちゃんを思い出す。最近会ってないが、大丈夫だろうか。寒くないだろうか。

 数日後、実家からリンゴが送られてきた。とても一人では食べ切れないので、5つほどをバイト先に持って行き、あと5つをアパートの住人に配ろうと考えた。バイト先では嫌われている店長と大して親しくもないバイト仲間に渡し、6部屋しかないアパートの住人は、2部屋は直接渡し、2部屋は不在だったのでレジ袋にメモ書きとリンゴを入れて部屋の前に置いておいた。あと一個はおじいちゃんだ。部屋をノックすると、しばらくして、ガラっと戸が開く。

「あ、こんにちは。突然すみません。これ、実家から送ってきたんです。自分一人では食べ切れないんで良かったら食べてもらえませんか」

 おじいちゃんが僕を見て皺くちゃの笑顔を浮かべると、開いた口には歯が数本しかないのが見える。おじいちゃんはリンゴを受け取り、何度も頭を下げる。

「あの、大丈夫ですか。寒くないですか」

 思わず口をついて出た言葉に、おじいちゃんは笑顔のまま、うんうんと言うように首を振って答える。

 1月中に書類選考を突破した3社の中途採用面接をすべて終えた僕は、内定可否の通知を待っていた。そのうち1社は何となく手応えを感じ、もう1社はもしかしたらと思い、あと1社は無理を承知で受けた人気の大企業で競争倍率が半端なく、まず無理だと踏んでいた。

 翌日、コタツに入って寝転び、スマホでマンガを読んでいると、もしかしたらと思っていた企業から面接結果の通知が届いた。結果は否だった。やっぱりかと思いながらもショックだった。実質残されたのはあと1社のみだ。嫌な予感が走るのを無理やり振り払い、僕は部屋を出てドトールに行くが、コーヒーを飲みながらも、もしかすると僕みたいなタイプはどこも無理なのか、もし就職できなかったらどうしよう、一生アルバイトかなどと否定的な考えがとめどもなく脳裏を過る。結局、30分も経たずドトールを後にした僕は、寒い中とぼとぼ歩いてアパートに帰ると、部屋の前にレジ袋があり、中にはみかんが2つ入っている。

「ああ、またあのおじいちゃんだな」

 部屋でコタツに入ってみかんを食べていると、母方の祖母を思い出した。母の実家は、祖父が早くに亡くなったため困窮を極めていたが、そんななかでもまだ幼い僕が喜ぶからといって祖母が少ないお金を工面して、仕事の帰りによくみかんを買って帰ってきたらしい。その話を僕が小さい時からよく母から聞かされていたためか、僕はずっと祖母に守られているような感覚を抱いていた。

 あれは、たしか高校2年生の夏休みだった。僕は、受験勉強のための過酷な学習計画を立てて夏休みに突入したのだが、毎日ぶっ続けで12時間以上勉強していた僕は、1週間も経つと知恵熱のような症状になってしまって勉強どころではなくなってしまった。微熱があって頭が痛む。その日も、誰もいない実家の和室で午後、横になって寝ていると、家の外から子供たちの遊ぶはしゃいだ声が聞こえてくる。そんなことを思っていた時だった。いきなり体の自由が奪われ動くことができなくなった。いわゆる金縛りというのか。どうにもならない。すると枕元の襖が音もなくすっと開いた。ただ開いたと感じたのであって目を瞑っているので見たわけではないのだが。心臓がドクンと波打つ僕。開いた襖から誰かが入ってきて、僕のすぐ右横を通り、右手にあった押入れに消えた。僕の直観が、おばあちゃんだ、と告げていた。そのためか恐怖は全くなかった。

そんなことを思っていると、最も手応えを感じていた期待の会社からの合否通知が届いた。おばあちゃんに守られているとは感じていたが、神様のようにおばあちゃんに何か願い事をしたりしたことは一度もない。ただこのときばかりは、タイミングもあり、おばあちゃん、お願い、と念じながら開く。閉じていた目をそうっと目を開ける。否の文字。僕を言いようのない無力感が襲う。

「もうどうでもいいや。くそ。なんだこれ」

 翌日の夜、アルバイトから帰ると、おじいちゃんの部屋の明かりが消えている。まだ9時前だ。おかしいなと思い部屋に戻る。

 次の日はバイトも休みで予定のない僕は、ドトールに行こうと10時過ぎに部屋を出る。ふとおじいちゃんのことが気に掛かり、みかんのお礼でも言おうかと部屋をノックするがいつまで経っても出ない。いないのかと窓を見るとカーテンがない、中を覗くと家具も何もない。そういえばいつも修理している自転車も消えている。引っ越したのか。それとも何かあったのだろうか。まさか。おじいちゃんの皺くちゃだらけの笑顔と孤独死という文字が浮かんでくる。

僕は、急いで部屋に戻り、アパートを紹介してくれた不動産屋に電話すると、個人情報もありお答えできませんと言われてしまう。そう言えば大家さんの連絡先があったはずと契約関係の書類を引っ張り出し、電話をかける。僕は部屋番号と名前を名乗り、事情を話し、おじいちゃんの消息を尋ねた。

「ああ、あの人は昨日引っ越しましたよ。なんでも息子さんと同居されるとかで」

 僕はお礼を言って電話を切った。なんだかほっとして、おじいちゃん、良かったね、本当に良かったねと心で呟いていた。

 ああ、良かったあとコタツでごろんと横になったのもつかの間、僕は、地元に帰って何をしようかと考え始めていた。親はごく普通の会社員だし、起業して成功するタイプでもないし、何か特別な技術や資格や得意なことがある訳でもない。でもそんな人間はこの世にたくさんいるだろう。なんで僕だけがこんな目に合うんだろう。何か悪いことでもしたか。誰かの恨みを買うようなことをしたか。いや、やっぱりどこか僕に足りない何かがあるのだろうか、などと考えるうちだんだん腹が立ってきた。

「くそう、頭に来た。今晩は焼け食いしてやる」

 ドトールへ行く手前に気になる焼き肉店があった。就職が決まったらそこに行って思いっきり好きなだけ食べようとずっと思っていたのだ。そのための貯金もしていたくらいだ。

 よし、焼き肉行くぞと部屋を出ようとしたとき、その驚くべき知らせは届いた。それは、絶対に無理だろうと思っていたあの有名人気企業からの採用通知だった。何度も見直すが間違いない。宛名も僕あてだ。僕は何が起こったのかしばらくの間理解できず、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。宝くじの一等で何億円とかが当たったときにはこんな感じになるのだろうか。僕は思わず、

「おばあちゃん、ありがとう。おじいちゃん、ありがとう」と自分でも意味不明の感謝の言葉を呟いていた。

 3月中旬、僕はアパートを引き払い部屋を後にした。これから新しく住み始める1DKのマンションに引っ越すためだった。部屋を出て、ぎしぎし音のする階段を降り、今はもういないおじいちゃんの部屋の前で立ち止まる。もう新しい人が住んでいる。あの自転車は今頃どうなっただろう。息子さんに新しいのを買ってもらっただろうか。それとも今も修理しながら乗っているのだろうか。

道路に出ると、若い男の人と不動産屋らしき女性がアパートの僕の部屋あたりを見ながら何か話している。あの部屋に住むのだろうか。若い男の人は不安そうな表情をしている。1年前は僕も同じような表情をしていたのかもしれない。

「大丈夫、僕もそうだった、でもきっと何とかなるよ」

僕は心の中で呟き、アパートを後にして、ドトールの前を過ぎ、歩いて10分ほどの地下鉄の駅に向かった。

                                      了