てんのなかのきぼう

短編小説を綴っています

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

 

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。

 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。

 年がら年中、履物は雪駄だ。

 本人には黙っているが、寅さんの真似に違いない。それはそれで本人が好きでやっているのだから構わないのだが、せめて二人でデパートなど街に買い物に出かける時くらいはやめて欲しいとも思っている。しかし、それを口にすれば、うるせえと罵声が飛んでくるのが関の山だし、それよりも何よりも、意外にもナイーブな勝男の心が傷つくのを知っているからこそハルコさんは言わないのだ。

 よくまあ飽きもせず毎日、毎日、ドトールだかに行くものだと常々思っているが、長い時だと半日は留守にしてくれるので、その間、羽を伸ばせるハルコさんにとってはそのドトールという喫茶店はありがたい存在でもある。

 その日、勝男を送り出したハルコさんは、一度私も行ってみようかしらと、ふと思い立ち、買い物ついでに駅まで出て、ドトールの自動ドアを開けて中を覗き込んだ。

「いらっしゃいませー」

 声を掛けられて一瞬迷ったハルコさんだったが、意を決してレジに立ってはみたものの、何をどう注文して良いのかわからない。

「いらっしゃいませー」

 他の客が自分の後ろに並んでしまう。

「あ、薄めのコーヒーでお願いします」

アメリカンでよろしいですか」

「はい」

「サイズはいかがしましょうか」

「普通で」

「Mでよろしいですか」

「はい」

 代金を払い、コーヒーを受け取ると、キョロキョロと辺りを伺いながら奥の方に歩いて行く。

 いたいた。あれに間違いない。

 奥に並んだ席の左端に、新聞を大きく広げている客がいる。ハルコさんは、気付かれないように右手前の少し奥まった席に座ると、いきなり、かあああっといつもの声が聞こえてくる。

 やってる、やってる。まったく恥ずかしいったらありゃしない。

コーヒー飲んだら気付かれないうちにさっさと帰らなきゃ。

んん、意外に美味しいじゃない、このコーヒー。

ハルコさんは勝男の様子を伺いながらも、しばらくコーヒーを愉しんでいると、

「こら!電話はやめんか!」

 いきなり勝男の怒声が響き渡った。

 その声に反応した隣のスーツを着た会社員らしき男が、携帯電話を持ったまま慌てて席を立って外に出て行った。

 はあ。相変わらずだわ、あの人。

 ハルコさんはため息をついた。

 

 ハルコさんこと、旧姓、近藤春子とナベさんこと渡辺勝男は社員三十人ほどの印刷会社に勤める同僚だった。小さな会社ゆえに、家族同然のように社員は仲が良く、給料は安くても皆楽しく生き生きと働いていた。

「もうすぐだな」

「ああ、そうだな。お前んとこ何する?」

「そりゃ言えないよ」

「なんだよ、いいじゃないか、教えろよ」

 年に一度の社員旅行が近づくと、あちらこちらでこんな会話がなされる。五つある職場が競い合って出し物をするのが恒例になっているからだ。しかも毎年、優勝した職場には、社長のポケットマネーから高価な賞品が供されるため、仕事そっちのけで皆本気になる。

 春子の職場では、春子が山本リンダに扮し、当時、ヒットした『こまっちゃうな』をお色気たっぷりに踊って歌う寸劇を準備していた。他の男たちは歌う春子に花を差し出すも、順番に振られていくというどうでも良い振り付けで、成否の全ては春子のお色気に掛かっていた。

 春子は上司の発案で決まったこの出し物が嫌で嫌でしょうがなかった。なにしろ、歌いながらストリッパーさながら、一枚ずつ脱いでいき、最後には当時まだ珍しかったビキニ姿になるのだから。

 それでも恥ずかしさを押し隠して笑顔でやり切った春子は、拍手喝采の中を宴会場から部屋へと飛ぶように駆け戻り、濃い化粧を落とし、服に着替え、そうっと何食わぬ顔でまた宴会場へと戻った。

「おお、春子ちゃん、こっち、こっち」

 赤ら顔でご機嫌な様子の社長が、春子を呼んでいる。

 あ、やっぱり見つかった。

 日頃は社員思いで、人の良い男なのだが、酒が過ぎると、目を付けた女性社員を隣に侍らせ、卑猥な下ネタを言い、体を触り、ひどい場合には口説き始めるというワンマン社長にありがちなタイプでもあった。とはいえ、社長の指名では無視するわけにもいかず、春子は社長の隣に座った。

「いやあ、良かったよ。ささ、まあ一杯」

 社長はコップを春子に持たせビールを注ぐ。

「それにしても春子ちゃんは着痩せするタイプなんだねえ。なかなか立派な、なあ」

 社長は両手を胸に持っていき、周りの社員に同意を求めるが、皆、さすがに視線を外したり、曖昧に頷いたりしている。

「しかし、あれ、ビキニっていうの。あれ、いいねえ。まだ下に着けてるの」

「いえ、もう着替えてきました」

「なんだ、もったいない。近くで見たかったな、なあ」

 またも周りに同意を求めると、脇を固める幹部社員たちは、口々にそうですね、私も見たいですなどと調子の良い相槌を打つ。

「なあ、春子ちゃん、もう一度、あのビキニ姿を見せてくれないかなあ」

「いえ、それはちょっと」

「見るだけだからさ。いいだろ」

 嫌がる春子に気づかないのか、それとも自分の言うことは絶対だと思い込んでいるのか、社長はしつこく何度も春子に迫る。それでも春子が困惑の表情を浮かべていると、ニヤけた社長が春子に顔を寄せ耳打ちする。

「嫌ならおっぱい触らせてくれる?ね、ちょっとだけでいいから」

 春子はとうとう観念して、着替えに行こうと席を立とうとしたそのときだった。

「うわっ」

 勝男が後ろに立って、社長の禿げ上がった頭にビールを流しかけている。

 おい、やめんかと、周りの人間に勝男は取り押さえられた。

 

 いい歳して変に正義感ぶっちゃって。ほんと、あの時のまんま。

 しばらくすると、携帯を持って出て行ったサラリーマンの男が戻ってきて、勝男に頭を下げる。

「ま、いいや。気をつけるんだな」

 自分だってうるさいくせに。

「ナベさん、あんまり他のお客さんイジメちゃダメよ」

 テーブルを拭きにやってきた女性店員が、勝男に声をかける。

「お、西島ちゃん、違うよ。俺はちょっと、なあ」

 さっき怒鳴られた隣のサラリーマンが慌てて頷く。

「悪い人じゃないので、許して上げてくださいね」

西島という女性店員はサラリーマンにそう声をかけると、にこやかな笑顔のままレジの方に戻っていく。勝男はその後ろ姿を嬉しそうに見ている。

へえ、私には見せないくせに、今でもあんなニヤけた顔するんだ。

 そういうことか、なるほど。楽しみがあったのね。よしよし。

 勝男に気取られないよう、そっとドトールを後にし、その夜の食卓で満を持してハルコさんは切り出した。

「よくまあ毎日毎日、ドトールとかに行くわね。飽きないの」

「なんだよ、急に。悪いのか」

「悪いなんて言ってないでしょうよ。飽きないのかって聞いただけよ」

「飽きて嫌んなったら行かねえよ」

「ということは、何か楽しみがあるってことね」

「ねえよ、楽しみなんて」

「だって、コーヒー飲むだけなら、うちで十分でしょ。少ない年金工面して行くんだからそれなりに楽しみでもないと、ねえ」

「新聞読みに行ってるだけだよ」

「うちでも読めるじゃない」

「散歩だよ、散歩」

「散歩ねえ」

 ハルコさんの訝るような目つきに勝男は思わず目を逸らしてご飯をかき込む。

「綺麗な女の人がいるとかさ」

「ぐっ」

 勝男がご飯を喉に詰まらせ、ひどく咳き込んだので、笑いを堪えてハルコさんが背中をさする。

「ほらね、図星だからそうなるのよ」

 

 数日後、勝男が突然、古い同僚のツルタさんを連れて帰ってきた。

「あらあ、ツルタさん、お久しぶり。何年?何十年?」

「どうも、ハルコちゃん、あ、もうちゃんじゃないな。でも変わんないねえ」

「まあまあどうぞ上がって」

「おい、酒、酒」

「こんな昼間っから飲むの?」

「うるせえ、外で飲むよりいいだろ。なあツルタ」

「いや、俺は別に外でも」

「いいから、いいから」

「悪いね、ハルコちゃん」

「でも大したものないのよ、前もって聞いてれば良かったんだけどねえ」

「いや、ほんと。気にしないでいいから」

 ハルコさんは、まだ半分ほど残っている日本酒の一升瓶と、コップを二つ、そして、漬物やかまぼこなどあり合わせのつまみをいくつか座卓に用意した。

 若い頃なら五合の酒などあっという間に飲み干しただろうが、二人とも八十の齢を迎えようかという高齢もあって、一合の酒に小一時間もかかっている。つまみにもほとんど手をつけず、やることもないハルコさんは、座卓の端でワイドショーを見ながら、二人の昔話を聞くともなしに聞いている。

「そういえば、おい、キミちゃん、亡くなったってよ」

「ええっ、ほんと?いつ?」

「もう十年になるよ。子宮がんでさ」

「そう。いい子だったのに・・残念ね。じゃそれからツルタさん一人で?」

「うん、息子たちも出てったからね」

「それじゃ色々不自由で大変でしょうよ」

「さすがにもう慣れたよ」

「若い嫁さんでも貰うつもりじゃねえのか、けけ」

 勝男がまぜっ返す。

「やめなさいよ。くだらない冗談ばっかり言って。ねえツルタさん」

 ハルコさんが嗜めると、それを取りなすようにツルタさんが話題を変える。

「だけどナベよ、さっきの話だけどよ、よく定年してから今まで仕事もせず遊んで来れたもんだな」

「ん?まあな。かあああっ」

 えっ?仕事もせず遊んできた?

 思わずハルコさんは勝男を見るが、わざとなのか、たまたまなのか、勝男は顔を背けている。

 

 勝男が五十五歳で会社を定年退職してから、二十五年、二人が結婚してからだと半世紀が経とうとしているが、結婚してから今までずっと生活は楽ではなかった。

 何しろ、勝男は出世とは無縁の安月給のくせに、奢ってやると会社の同僚や後輩たちを連れて飲

み歩き、時には家にまで連れてきてはご馳走する。金がないと聞くと、帰りのタクシー代まで出し

てやる念の入れようだ。本人は、ナベさん、ナベさんと慕われて上機嫌だが、家計を預かるハルコ

さんはたまったもんじゃない。

 勝男の頼みで、ハルコさんは結婚を機に会社を辞めてしまっていたから、収入は勝男の少ない月

給以外になく、最初のうちこそ貯金を取り崩したりしながら、何とかやり繰りしていたが、勝男の

金遣いの荒さは半端なく、巷間いうところの、宵越しの金は持たないというやつで、いくら渡して

も毎晩のように飲み歩いてあっという間に使い果たしてしまう。

 勝男の派手な飲み歩きが始まったのは、結婚十年ほど経ってからだったため、子供が授からない

ことが遠因かもしれないと思っていたハルコさんは、よく調べもせず、自分に原因があると思い込

み、少しでも家計の足しになればと近所のスーパーで働き始めた。

 そんなハルコさんの苦労を知ってか知らずか、勝男はあいも変わらず飲み歩いて散財する生活を

送り、それは結局定年退職まで続いた。

 ところが勝男が会社を辞めてまもなく、ハルコさんの実家を不幸が襲った。

 八十二歳の高齢ながら小さな電気店を営んでいたハルコさんの父親が、悪どい投資話に騙され、

預貯金どころか、家も店も差し押さえられる羽目に陥ったのだ。

「三千万?そんなにあるのか」

「御免なさい」

 ハルコさんは、泣く泣く勝男に親の窮状を話した。

「よし、わかった」

 そう言った勝男は、酒をキッパリ止めると、すぐさま肉体労働の仕事を探し、働き始めた。ハル

コさんの父親の借金を返済し終わったのは、まだ肺がんを患う一昨年のことで、都合丸二十三年か

かった。その間、職を転々としながらも、勝男は一切文句や愚痴を言わず懸命に働いた。

 

「だってさ、ハルコさんだってすぐ会社辞めちまったし、こう言っちゃなんだけど、年金だってそ

う多くないだろ。それに確かナベは結構、金遣い荒かっただろ。まあ、そういう俺も随分奢っても

らった口だけどさ」

 勝男はそれには答えず、相変わらずそっぽを向いて酒をちびちび嘗めている。

「私よ、私。内助の功って言うでしょ」

「あ、そうか。ハルコちゃん、なんか仕事してたのか」

「そういうこと」

「けっ、ナベ、お前はカミさんにだけは恵まれてるなあ」

 ツルタさんは、コップに僅かに残った酒を煽ると、一升瓶を掴んで勝男のコップと自分のコップ

に半分ほど注いだ。

「でもな、ナベ。俺が言うのも何だが、お前はよく頑張ったよ。お前は一切来ないが、今でも会社

の集まりで会うとお前の話で盛り上がるんだ。そうそう、ハルコちゃん、こいつの武勇伝知って

る?」

「武勇伝?私が知ってるのは、あの社内旅行で社長にビールかけたことくらいだけど」

「やっぱり。ナベ、お前言ってないんだな」

「うるせえ、ツルタ、余計なこと言うな」

「ま、いいじゃないか。時効だろ」

「ツルタ、やめろって言ってんだろ」

 酔いが回り始めているツルタさんは、勝男にお構いなしに語り始めた。

「ハルコさん、そうだな、あれは俺たちが三十半ば過ぎたくらいの時だから、ハルコさんが会社辞めてちょうど十年くらいか。あのナベがビールかけたタコ社長がさ、会社を追われたんだよ」

「え?どういうこと?」

 当時は、高度成長期真っ只中で、独自で会社を大きくしたい社長派と、大手印刷会社との対等合

併を密かに進める専務派が対立し、結局、人の良い社長が足元を掬われる形で会社を辞めざるを得

なくなった。

 専務が新たに社長となり、合併を進めようとしていたが、ほとんどの社員は反対していた。なぜ

なら対等合併とは名ばかりで、実際には会社に残れる社員は専務派の僅かしかないと判明したから

だった。

「そこで立ち上がったのがナベだ」

 勝男は新社長の合併を阻止しようと組合を組織すべく奔走した。

「それで?」

「組合はできなかった。なあ、ナベ。あんなにカネ使って頑張ったのにな」

 ツルタさんはしんみりと言い、勝男は顰めっ面をして酒を嘗めている。

「じゃあ会社は?」

「ハルコちゃん、会社の名前変わってないだろ」

「ということは」

「そう。合併もできなかったんだよ。向こうが諦めたんだ。ナベのおかげで」

 ハルコさんが思わず勝男を見る。

「ナベがさ、向こうの会社に乗り込んだんだよ。で、社長に土下座して合併をやめてくれ、やめてくれなきゃここで死ぬって啖呵切ったんだよ。そしたらさ、向こうの社長もさすが大したもんで、分かった、手を引くって。まるでヤクザ映画だよ」

「それ本当なの?」

「もちろん本当だよ、そういう時代だったんだろうね。ただこれを知ってるのはもう何人もこの世に残ってないけど」

「余計なことを言いやがって。かあああっ」

「会社も社員も救われたまではいいが、ナベは結局社長に睨まれてクビにこそならなかっただけ

で、ずっと冷や飯食わされてさ」

 勝男はじっと手元のコップ酒を睨んでいる。

「確かに、あの後働きたくなかった気持ちも俺には分かるよ。あんだけ辛い思いしたんだもんな。なあ、ハルコちゃん、こんなわがままな男だけどさ、許してやってくれよ」

 ハルコさんは、涙が溢れ出て止まらなくなった。

「あれ、ごめん。ハルコちゃん、俺、なんか悪いこと言っちゃったかな」

「そうだ、ツルタ、てめえのせいだ。まあ、いいや、ほら、飲め」

 勝男はツルタのコップに酒をなみなみと注いだ。

                                         了

ドトールな人々 ハルコさんとナベさん

 

ドトールのいつもの席で、新聞を大きく広げ、かあああっと時折、大きな音を上げるナベさんを、陰ながらそれとなく見つめるハルコさんがいる。

 今朝も行ってくるよと言って、玄関の引き戸を開け、ハルコさんの旦那であるナベさんこと渡辺勝男は家を出た。

 年がら年中、履物は雪駄だ。

 本人には黙っているが、寅さんの真似に違いない。それはそれで本人が好きでやっているのだから構わないのだが、せめて二人でデパートなど街に買い物に出かける時くらいはやめて欲しいとも思っている。しかし、それを口にすれば、うるせえと罵声が飛んでくるのが関の山だし、それよりも何よりも、意外にもナイーブな勝男の心が傷つくのを知っているからこそハルコさんは言わないのだ。

 よくまあ飽きもせず毎日、毎日、ドトールだかに行くものだと常々思っているが、長い時だと半日は留守にしてくれるので、その間、羽を伸ばせるハルコさんにとってはそのドトールという喫茶店はありがたい存在でもある。

 その日、勝男を送り出したハルコさんは、一度私も行ってみようかしらと、ふと思い立ち、買い物ついでに駅まで出て、ドトールの自動ドアを開けて中を覗き込んだ。

「いらっしゃいませー」

 声を掛けられて一瞬迷ったハルコさんだったが、意を決してレジに立ってはみたものの、何をどう注文して良いのかわからない。

「いらっしゃいませー」

 他の客が自分の後ろに並んでしまう。

「あ、薄めのコーヒーでお願いします」

アメリカンでよろしいですか」

「はい」

「サイズはいかがしましょうか」

「普通で」

「Mでよろしいですか」

「はい」

 代金を払い、コーヒーを受け取ると、キョロキョロと辺りを伺いながら奥の方に歩いて行く。

 いたいた。あれに間違いない。

 奥に並んだ席の左端に、新聞を大きく広げている客がいる。ハルコさんは、気付かれないように右手前の少し奥まった席に座ると、いきなり、かあああっといつもの声が聞こえてくる。

 やってる、やってる。まったく恥ずかしいったらありゃしない。

コーヒー飲んだら気付かれないうちにさっさと帰らなきゃ。

んん、意外に美味しいじゃない、このコーヒー。

ハルコさんは勝男の様子を伺いながらも、しばらくコーヒーを愉しんでいると、

「こら!電話はやめんか!」

 いきなり勝男の怒声が響き渡った。

 その声に反応した隣のスーツを着た会社員らしき男が、携帯電話を持ったまま慌てて席を立って外に出て行った。

 はあ。相変わらずだわ、あの人。

 ハルコさんはため息をついた。

 

 ハルコさんこと、旧姓、近藤春子とナベさんこと渡辺勝男は社員三十人ほどの印刷会社に勤める同僚だった。小さな会社ゆえに、家族同然のように社員は仲が良く、給料は安くても皆楽しく生き生きと働いていた。

「もうすぐだな」

「ああ、そうだな。お前んとこ何する?」

「そりゃ言えないよ」

「なんだよ、いいじゃないか、教えろよ」

 年に一度の社員旅行が近づくと、あちらこちらでこんな会話がなされる。五つある職場が競い合って出し物をするのが恒例になっているからだ。しかも毎年、優勝した職場には、社長のポケットマネーから高価な賞品が供されるため、仕事そっちのけで皆本気になる。

 春子の職場では、春子が山本リンダに扮し、当時、ヒットした『こまっちゃうな』をお色気たっぷりに踊って歌う寸劇を準備していた。他の男たちは歌う春子に花を差し出すも、順番に振られていくというどうでも良い振り付けで、成否の全ては春子のお色気に掛かっていた。

 春子は上司の発案で決まったこの出し物が嫌で嫌でしょうがなかった。なにしろ、歌いながらストリッパーさながら、一枚ずつ脱いでいき、最後には当時まだ珍しかったビキニ姿になるのだから。

 それでも恥ずかしさを押し隠して笑顔でやり切った春子は、拍手喝采の中を宴会場から部屋へと飛ぶように駆け戻り、濃い化粧を落とし、服に着替え、そうっと何食わぬ顔でまた宴会場へと戻った。

「おお、春子ちゃん、こっち、こっち」

 赤ら顔でご機嫌な様子の社長が、春子を呼んでいる。

 あ、やっぱり見つかった。

 日頃は社員思いで、人の良い男なのだが、酒が過ぎると、目を付けた女性社員を隣に侍らせ、卑猥な下ネタを言い、体を触り、ひどい場合には口説き始めるというワンマン社長にありがちなタイプでもあった。とはいえ、社長の指名では無視するわけにもいかず、春子は社長の隣に座った。

「いやあ、良かったよ。ささ、まあ一杯」

 社長はコップを春子に持たせビールを注ぐ。

「それにしても春子ちゃんは着痩せするタイプなんだねえ。なかなか立派な、なあ」

 社長は両手を胸に持っていき、周りの社員に同意を求めるが、皆、さすがに視線を外したり、曖昧に頷いたりしている。

「しかし、あれ、ビキニっていうの。あれ、いいねえ。まだ下に着けてるの」

「いえ、もう着替えてきました」

「なんだ、もったいない。近くで見たかったな、なあ」

 またも周りに同意を求めると、脇を固める幹部社員たちは、口々にそうですね、私も見たいですなどと調子の良い相槌を打つ。

「なあ、春子ちゃん、もう一度、あのビキニ姿を見せてくれないかなあ」

「いえ、それはちょっと」

「見るだけだからさ。いいだろ」

 嫌がる春子に気づかないのか、それとも自分の言うことは絶対だと思い込んでいるのか、社長はしつこく何度も春子に迫る。それでも春子が困惑の表情を浮かべていると、ニヤけた社長が春子に顔を寄せ耳打ちする。

「嫌ならおっぱい触らせてくれる?ね、ちょっとだけでいいから」

 春子はとうとう観念して、着替えに行こうと席を立とうとしたそのときだった。

「うわっ」

 勝男が後ろに立って、社長の禿げ上がった頭にビールを流しかけている。

 おい、やめんかと、周りの人間に勝男は取り押さえられた。

 

 いい歳して変に正義感ぶっちゃって。ほんと、あの時のまんま。

 しばらくすると、携帯を持って出て行ったサラリーマンの男が戻ってきて、勝男に頭を下げる。

「ま、いいや。気をつけるんだな」

 自分だってうるさいくせに。

「ナベさん、あんまり他のお客さんイジメちゃダメよ」

 テーブルを拭きにやってきた女性店員が、勝男に声をかける。

「お、西島ちゃん、違うよ。俺はちょっと、なあ」

 さっき怒鳴られた隣のサラリーマンが慌てて頷く。

「悪い人じゃないので、許して上げてくださいね」

西島という女性店員はサラリーマンにそう声をかけると、にこやかな笑顔のままレジの方に戻っていく。勝男はその後ろ姿を嬉しそうに見ている。

へえ、私には見せないくせに、今でもあんなニヤけた顔するんだ。

 そういうことか、なるほど。楽しみがあったのね。よしよし。

 勝男に気取られないよう、そっとドトールを後にし、その夜の食卓で満を持してハルコさんは切り出した。

「よくまあ毎日毎日、ドトールとかに行くわね。飽きないの」

「なんだよ、急に。悪いのか」

「悪いなんて言ってないでしょうよ。飽きないのかって聞いただけよ」

「飽きて嫌んなったら行かねえよ」

「ということは、何か楽しみがあるってことね」

「ねえよ、楽しみなんて」

「だって、コーヒー飲むだけなら、うちで十分でしょ。少ない年金工面して行くんだからそれなりに楽しみでもないと、ねえ」

「新聞読みに行ってるだけだよ」

「うちでも読めるじゃない」

「散歩だよ、散歩」

「散歩ねえ」

 ハルコさんの訝るような目つきに勝男は思わず目を逸らしてご飯をかき込む。

「綺麗な女の人がいるとかさ」

「ぐっ」

 勝男がご飯を喉に詰まらせ、ひどく咳き込んだので、笑いを堪えてハルコさんが背中をさする。

「ほらね、図星だからそうなるのよ」

 

 数日後、勝男が突然、古い同僚のツルタさんを連れて帰ってきた。

「あらあ、ツルタさん、お久しぶり。何年?何十年?」

「どうも、ハルコちゃん、あ、もうちゃんじゃないな。でも変わんないねえ」

「まあまあどうぞ上がって」

「おい、酒、酒」

「こんな昼間っから飲むの?」

「うるせえ、外で飲むよりいいだろ。なあツルタ」

「いや、俺は別に外でも」

「いいから、いいから」

「悪いね、ハルコちゃん」

「でも大したものないのよ、前もって聞いてれば良かったんだけどねえ」

「いや、ほんと。気にしないでいいから」

 ハルコさんは、まだ半分ほど残っている日本酒の一升瓶と、コップを二つ、そして、漬物やかまぼこなどあり合わせのつまみをいくつか座卓に用意した。

 若い頃なら五合の酒などあっという間に飲み干しただろうが、二人とも八十の齢を迎えようかという高齢もあって、一合の酒に小一時間もかかっている。つまみにもほとんど手をつけず、やることもないハルコさんは、座卓の端でワイドショーを見ながら、二人の昔話を聞くともなしに聞いている。

「そういえば、おい、キミちゃん、亡くなったってよ」

「ええっ、ほんと?いつ?」

「もう十年になるよ。子宮がんでさ」

「そう。いい子だったのに・・残念ね。じゃそれからツルタさん一人で?」

「うん、息子たちも出てったからね」

「それじゃ色々不自由で大変でしょうよ」

「さすがにもう慣れたよ」

「若い嫁さんでも貰うつもりじゃねえのか、けけ」

 勝男がまぜっ返す。

「やめなさいよ。くだらない冗談ばっかり言って。ねえツルタさん」

 ハルコさんが嗜めると、それを取りなすようにツルタさんが話題を変える。

「だけどナベよ、さっきの話だけどよ、よく定年してから今まで仕事もせず遊んで来れたもんだな」

「ん?まあな。かあああっ」

 えっ?仕事もせず遊んできた?

 思わずハルコさんは勝男を見るが、わざとなのか、たまたまなのか、勝男は顔を背けている。

 

 勝男が五十五歳で会社を定年退職してから、二十五年、二人が結婚してからだと半世紀が経とうとしているが、結婚してから今までずっと生活は楽ではなかった。

 何しろ、勝男は出世とは無縁の安月給のくせに、奢ってやると会社の同僚や後輩たちを連れて飲

み歩き、時には家にまで連れてきてはご馳走する。金がないと聞くと、帰りのタクシー代まで出し

てやる念の入れようだ。本人は、ナベさん、ナベさんと慕われて上機嫌だが、家計を預かるハルコ

さんはたまったもんじゃない。

 勝男の頼みで、ハルコさんは結婚を機に会社を辞めてしまっていたから、収入は勝男の少ない月

給以外になく、最初のうちこそ貯金を取り崩したりしながら、何とかやり繰りしていたが、勝男の

金遣いの荒さは半端なく、巷間いうところの、宵越しの金は持たないというやつで、いくら渡して

も毎晩のように飲み歩いてあっという間に使い果たしてしまう。

 勝男の派手な飲み歩きが始まったのは、結婚十年ほど経ってからだったため、子供が授からない

ことが遠因かもしれないと思っていたハルコさんは、よく調べもせず、自分に原因があると思い込

み、少しでも家計の足しになればと近所のスーパーで働き始めた。

 そんなハルコさんの苦労を知ってか知らずか、勝男はあいも変わらず飲み歩いて散財する生活を

送り、それは結局定年退職まで続いた。

 ところが勝男が会社を辞めてまもなく、ハルコさんの実家を不幸が襲った。

 八十二歳の高齢ながら小さな電気店を営んでいたハルコさんの父親が、悪どい投資話に騙され、

預貯金どころか、家も店も差し押さえられる羽目に陥ったのだ。

「三千万?そんなにあるのか」

「御免なさい」

 ハルコさんは、泣く泣く勝男に親の窮状を話した。

「よし、わかった」

 そう言った勝男は、酒をキッパリ止めると、すぐさま肉体労働の仕事を探し、働き始めた。ハル

コさんの父親の借金を返済し終わったのは、まだ肺がんを患う一昨年のことで、都合丸二十三年か

かった。その間、職を転々としながらも、勝男は一切文句や愚痴を言わず懸命に働いた。

 

「だってさ、ハルコさんだってすぐ会社辞めちまったし、こう言っちゃなんだけど、年金だってそ

う多くないだろ。それに確かナベは結構、金遣い荒かっただろ。まあ、そういう俺も随分奢っても

らった口だけどさ」

 勝男はそれには答えず、相変わらずそっぽを向いて酒をちびちび嘗めている。

「私よ、私。内助の功って言うでしょ」

「あ、そうか。ハルコちゃん、なんか仕事してたのか」

「そういうこと」

「けっ、ナベ、お前はカミさんにだけは恵まれてるなあ」

 ツルタさんは、コップに僅かに残った酒を煽ると、一升瓶を掴んで勝男のコップと自分のコップ

に半分ほど注いだ。

「でもな、ナベ。俺が言うのも何だが、お前はよく頑張ったよ。お前は一切来ないが、今でも会社

の集まりで会うとお前の話で盛り上がるんだ。そうそう、ハルコちゃん、こいつの武勇伝知って

る?」

「武勇伝?私が知ってるのは、あの社内旅行で社長にビールかけたことくらいだけど」

「やっぱり。ナベ、お前言ってないんだな」

「うるせえ、ツルタ、余計なこと言うな」

「ま、いいじゃないか。時効だろ」

「ツルタ、やめろって言ってんだろ」

 酔いが回り始めているツルタさんは、勝男にお構いなしに語り始めた。

「ハルコさん、そうだな、あれは俺たちが三十半ば過ぎたくらいの時だから、ハルコさんが会社辞めてちょうど十年くらいか。あのナベがビールかけたタコ社長がさ、会社を追われたんだよ」

「え?どういうこと?」

 当時は、高度成長期真っ只中で、独自で会社を大きくしたい社長派と、大手印刷会社との対等合

併を密かに進める専務派が対立し、結局、人の良い社長が足元を掬われる形で会社を辞めざるを得

なくなった。

 専務が新たに社長となり、合併を進めようとしていたが、ほとんどの社員は反対していた。なぜ

なら対等合併とは名ばかりで、実際には会社に残れる社員は専務派の僅かしかないと判明したから

だった。

「そこで立ち上がったのがナベだ」

 勝男は新社長の合併を阻止しようと組合を組織すべく奔走した。

「それで?」

「組合はできなかった。なあ、ナベ。あんなにカネ使って頑張ったのにな」

 ツルタさんはしんみりと言い、勝男は顰めっ面をして酒を嘗めている。

「じゃあ会社は?」

「ハルコちゃん、会社の名前変わってないだろ」

「ということは」

「そう。合併もできなかったんだよ。向こうが諦めたんだ。ナベのおかげで」

 ハルコさんが思わず勝男を見る。

「ナベがさ、向こうの会社に乗り込んだんだよ。で、社長に土下座して合併をやめてくれ、やめてくれなきゃここで死ぬって啖呵切ったんだよ。そしたらさ、向こうの社長もさすが大したもんで、分かった、手を引くって。まるでヤクザ映画だよ」

「それ本当なの?」

「もちろん本当だよ、そういう時代だったんだろうね。ただこれを知ってるのはもう何人もこの世に残ってないけど」

「余計なことを言いやがって。かあああっ」

「会社も社員も救われたまではいいが、ナベは結局社長に睨まれてクビにこそならなかっただけ

で、ずっと冷や飯食わされてさ」

 勝男はじっと手元のコップ酒を睨んでいる。

「確かに、あの後働きたくなかった気持ちも俺には分かるよ。あんだけ辛い思いしたんだもんな。なあ、ハルコちゃん、こんなわがままな男だけどさ、許してやってくれよ」

 ハルコさんは、涙が溢れ出て止まらなくなった。

「あれ、ごめん。ハルコちゃん、俺、なんか悪いこと言っちゃったかな」

「そうだ、ツルタ、てめえのせいだ。まあ、いいや、ほら、飲め」

 勝男はツルタのコップに酒をなみなみと注いだ。

                                         了

ドトールな人々 祓う男


 その顔色の悪い痩せた細面の男は、ドトールの二階に上がり、街中を見下ろせる窓側の一人席に座った。手に持っていた黒い小型のバッグは窓に持たせかけ、コーヒーを載せたトレーを置き、袋を破いて濡れナプキンを取り出すと、小さく震える両手を何度も几帳面に拭った。
 大きな深呼吸を、ゆっくりと一つ行うと、バッグからセブンスターとライターを取り出してテーブルに置く。徐に立ち上がると、喫煙ルームに向かった。
男は、小磯慎也といった。
 夕方ドトールに立ち寄り、タバコを一本喫い、コーヒーを飲んで気持ちを落ち着けてから出勤するのが小磯のいつものルーティンだった。
 小磯は普段はタバコを喫わない。いやでも高揚する神経を落ち着かせるためだけに喫うのだ。本来ならマリファナが最も適しているらしいのだが、やむを得ずタバコで代用している。
 喫煙ルームから戻った小磯は、もう一枚取ってあった濡れナプキンで、両手をしっかりと拭い、コーヒーを一口啜ると、バッグからクリアファイルを取り出す。ファイルには、これから向かう家の詳細な資料が綴じてある。
 小磯は資料を見る前に、目を閉じた。
 心してかからなければ。
 そう思い、視界に広がる暗闇の奥に焦点を合わせ、自分の内側を見つめる。
 よし。何とかいける。大丈夫だ。
 三十八歳の小磯が生命保険会社を辞め、世の中のほとんどの人が知ることのない今の会社員になって既に十年あまり経つ。亡くなってまで強い思念をこの世に残すほどの負のエネルギーを祓うのは、自分の持つ精神エネルギーを全て使い果たすほどの重労働であり、若い頃と違い、最近は疲労が抜けにくくなっているのを小磯は感じていた。
 そっと目を開け、窓の外を見る。多くの人々が行き交い賑わう街の風景はいつもと変わらない。皆、それぞれの意思と目的を持ってどこかに向かっている。
 おばあちゃん、俺、これからどうしたらいいだろう。
 心で祖母を呼ぶが何も起こらない。

 小磯に祓う能力の存在を教えたのは、ことのほか小磯を可愛がってくれた祖母の千枝だった。小学六年生で祖母の葬儀に参列した際、泣きじゃくった後に疲れて眠ってしまった小磯の意識下に千枝が現れた。
「慎ちゃん、悲しむ必要はないのよ、おばあちゃんは、ずっとあなたを見守っているし、心で呼べばすぐ駆けつけるからね。それと、よく聞いて。あなたには特別な力があってね、その力は、悲しいとか辛いとかって気持ちを楽にさせてあげられるの。大きくなったらその力が分かるから、その時はおばあちゃんの言ったことを思い出してね」
 千枝の言った通り、社会人になって数年した時、亡くなった先輩の葬儀で小磯はその能力を知った。
 焼香する人々の上で浮いている先輩が小磯の心の目に見えた時に、小磯は心底驚いたが、不思議と恐怖は感じなかった。それよりも、若くして家族を残してこの世を去る哀しみが、強烈な波動となって小磯の心を締め付けた。
 小磯はごく自然に、先輩に話しかけた。
「先輩の気持ちはよく分かります。本当に残念で心残りでしょうね」
 浮いていた先輩は話しかけられたことに驚いたようだった。
「はい、僕には見えていますし、先輩の気持ちがダイレクトに伝わってきます。僕は、先輩のその気持ちをしっかりご家族に伝えます。そして先輩がいつまでも見守っているので心配はいらないということも」
 すると、先輩の悲哀の表情がみるみる間に柔和な表情へと変わっていき、そのまま消えて行った。
 葬儀の後、駅に向かう小磯に女性が声をかけてきた。
「小磯さんですね。少々お話をさせていただけませんか」
 女性は、小磯をある会社にスカウトした。
「池の表面に小石を投げると、生み出された波はどこかにぶつかるまで消えません。この相対的な世界では、必ず正と負のエネルギーが釣り合って存在していますが、何かの要因で負のエネルギーが優勢になると、経済は停滞し、ひどい場合には戦争やテロにつながります。そして、その負のエネルギーとは人間の生み出す思念に他なりません。この影響の強さを理解している世界の富裕層が少なからずおられ、この会社は彼らの寄付で運営されています」
 女性の説明を聞いて、小磯はこれこそ自分がやるべき仕事だと直観し、転職を決意した。
 
取り出した資料を見始めた矢先、一つ離れた席の客が、スマホにかかってきた電話で話し始めた。
小磯は資料を閉じ、客の方をちらっと見る。三十代くらいの会社員のようだ。
はあと一つ、聞こえよがしに大きな溜息をつくと、それに気づいた客が、そそくさと席を立ち階段を降りていく。
それを見て小さく首を振り、また目を閉じる。
どうした。こんな些細なことでイラついてどうする。
しかし、小磯には分かっていた。長年、祓ってきた負のエネルギーによって、自分自身が少しずつ影響を受けていて、例えばそれは、入れ替えをしていないプールの水が徐々に濁るようなものだった。
そろそろ辞めどきなのかな。
今日の仕事が終わったら、今後のことを真剣に考えよう。
目を開け、小磯は立ち上がった。
 
 竹田家は、不動産業で莫大な資産を築いただけあって、都内でも有数の高級住宅地の一角にあった。
 大きな木組みの門の前には、白い手袋をした葬儀の案内人と思しき男性が立っている。
「小磯と申します」
「お聞きしております。どうぞこちらへ」
 案内に従って、門を入っていくと、敷地は驚くほど広く、何百、いや何千坪あるのだろうか、白く瀟洒な洋風の邸宅がまず目に入る。その邸宅を右手に見ながら、よく手入れされた洋風庭園の脇道を進んでいくと、左手前方に小ぶりな和風の建物が見えてくる。
 この平屋か、故人が幽閉されていたところは。
 男性に礼を言い、上り框で靴を脱いでいると、品の良さそうな五十歳ほどの女性がやってくる。
「本日はありがとうございます。故人の妹で喪主の竹田タエと申します」
「小磯と申します。この度はご愁傷さまでした」
「どうぞこちらへ」
 八畳ほどの座敷に、簡素ではあるが、それなりに立派な祭壇がしつらえてある。敷いてある参列
者用の座布団は六枚ほどで、小磯は末席に着座した。
 優しげな微笑みを浮かべて遺影にある当主の竹田義雄は、この豪壮な屋敷の片隅で一人、家族に
も看取られず餓死同然の非業の死を遂げていた。
「差し支えなければ、なぜ私どもに?」
「はい、それが・・」
 兄の苦境を知っていながら、もっと何かしてやれなかっただろうかと自分を責め続ける日々だったが、ある時、母の言葉を思い出し、小磯の会社に連絡を取ったという。
「御社のことは、生前、母から聞いておりました。父の葬儀の際にもお願いしたと。ただその際はうまく行かず、いつかまた同じようなことがきっと起こるからその時は必ず連絡するようにと」
「そうでしたか。承知しました。お役に立てるよう精一杯務めさせていただきます」
 しばらくすると、義雄の夫人の玲子と長女の理恵、そして長男の圭一と思しき三人が訪れ着座した。どの顔もしょうがなく来てやったとばかりの不満気な表情を浮かべていたが、特に夫人は、末席に座る小磯を見下すように一瞥した後、深々と頭を下げるタエに憎々しげな視線を投げつけた。
 ほどなくして訪れた法主が読経を始め、合図とともに焼香も始まった。
 小磯は、もう一度、バッグからファイルを取り出し、義雄の写真をじっと見つめた後、そっと目を閉じ、視界の奥にある漆黒のスクリーンにフォーカスした。
 その刹那、意識が跳んだ。
 目を閉じてはいるが、その跳んだ意識の中では、目を開くことができる。
 そこには、宙を漂う義雄の姿があり、案の定、ついこの前まで家族だった、夫人や息子を憤怒の表情で睨んで・・いない?
 そこに怒りの色はなく、哀しみと憐みの入り交じった複雑な表情に小磯には映った。
 そうか、義雄は自分を辛い目に合わせた夫人や子供たちを恨んではいないのか。
「竹田義雄さん」
 小磯が声をかけると、義雄は驚いた表情を浮かべる。
「妹のタエさんに依頼されて参りました。さぞ無念だったことでしょう」
 義雄は哀しげな表情で首を振る。自分が悪かったとでも言いたげだ。
「義雄さん、安心してください。あなたのことはタエさんやご家族だけでなく、私どもも決して忘れません。あなたの深い愛情は決して消えることはありません」
 義雄は、嬉しそうに涙を浮かべながら消えていった。
 少し拍子抜けした小磯だったが、疲れることもなく、すんなり終わった仕事に、まずはほっと胸を撫で下ろした。
 葬儀が終わり、タエに報告をしようと小磯がその場に残っていると、後片付けをしているタエに夫人の玲子が声を掛けた。
「タエさん、お願いもしていないのに色々ご苦労様でした。ところで葬儀費用はいかほど?」
「いえ・・それはもう」
「いらないとおっしゃる?」
「はい、こちらでやりますので」
「そう。後からごねられても困りますからね。それとこの際ですからお伝えしておきたいことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「あなたに主人の遺産をお渡しするつもりはございません。彼の面倒を見ていたのは私ですから」
「そんな・・もちろんそんなものを戴くつもりはございません」
「本当?おばさん、何か下心があってこんなことやってるんじゃないの?」
 長男の圭一が横から口を出すと長女の理恵も続ける。
「下心って。私たちパパにはほとほと迷惑掛けられたの、おばさま、知ってらっしゃるでしょ。会社は乗っ取られるわ、そのせいで私の縁談はダメになるわ、死に方が死に方だったから、警察からは不審死で何度も呼び出されるわ、何にも手を打ってないから相続税は莫大だわ、もういい加減にしてって感じなんだから」
 タエは正座し俯いたままだ。前で重ねた両手が微かに震えている。
それにしても、このような場で言うことか、義雄もこんな風に毎日責められた挙句、この狭い家に幽閉されたのだろうか。
「まあ、いいじゃん。保険金が・・」
 玲子が素早く視線を送ると、圭一は慌てて口をつぐんだ。
 保険金?まさか、計算づくで義雄さんを追い詰めたのか?
 小磯がそう思った時、タエの纏う空気が一変する。
 なんだ?
 タエが顔を上げる。先ほどまでとは別人のような表情だ。視線は焦点が合わず、口元には笑みが浮かんでいる。
「おい、俺の金を返せ」
 タエの口から野太い男の声が漏れ出た。
 小磯は思わず、目を瞑り、タエの姿を思い浮かべ意識を集中した。
 タエの上、天井あたりに黒い影があり、とんでもない負のエネルギーを感じる。まるでブラックホールのように、周囲のものを飲み込もうかとしているようだ。
 義雄の父で先代当主の伊知郎だ。小磯は直観した。
 タエが母親から聞いていたように、伊知郎が亡くなった時も祓ったがうまく行かなかったと、小磯も会社の資料から知っていた。
 なるほど、伊知郎の思念が祓えなかったのは、兄を想うタエの思念に同化していたからか。
「俺の金を返せ」
「は?何言ってんの」
 理恵が吐き捨てるように言うと、黒い影が一気に部屋全体を覆った。
「タエさん!タエさん!」
 小磯が必死に声を掛けるが、自分の意識を失ったタエには届かない。かと言って、どうやって伊知郎の思念にアクセスすれば良いか、小磯には検討もつかない。
「竹田伊知郎さん!聞こえますか!伊知郎さん!」
 黒い影に向かって呼びかけるが何の手応えもない。
「おい、俺の金を返せ」
「大丈夫かよ、おばさん」
 圭一がタエに近寄ると、タエがその頬を右手で軽く触れた・・ように見えた。その刹那、圭一の体が重力に逆らうような動きで人の身長ほどに宙に舞ったかと思えば、今度は上から強力な力で押さえ付けられたかのように猛スピードで畳に叩きつけられた。何かが潰れるような嫌な音がし、衝撃で圭一は血を吐いて失神した。
 玲子と理恵の悲鳴が響く。
 黒い影はさらにどす黒さを増し、小磯の視界はどんどん奪われていく。
 もう駄目だ。おばあちゃん!
 小磯はパニックに陥った。
 どれほど経っただろう、数秒にも数時間にも思える。
 小磯がそっと心の目を開けると、なんとそこには消えたはずの義雄がいた。義雄は、タエを庇うかのように頭上にいて、ある方向を見つめている。そちらに視点を移すと、黒い影の中に、人のような姿が浮かび上がる。
 あれが伊知郎か。
「父さん、もう止めてください」
 義雄が懇願するように言う。
「義雄、邪魔するな」
「お願いです。父さん」
「俺が苦労して得た金だ。あいつらに好きなようにはさせん」
「その通りです。全部、私が悪いのです。父さんの期待に応えられなかった私が悪いのです」
「義雄、お前は本気で言っているのか。それでも俺の息子か。悔しくないのか、恥ずかしくはないのか。俺が誰のために金を残したと思っているのだ」
「分かっています、分かっています。悔しいです。恥ずかしいです。でも」
「もういい!でしゃばるな!」
 伊知郎の周囲を取り巻く黒い影は、全てを飲み込まんとばかりに再び勢いを増すと、タエがすっと立ち上がり、圭一の側で、オロオロするばかりの玲子の背中に近寄ると、タエの上を浮遊していた義雄が、玲子の背中に覆い被さった。
「おい、どういうつもりだ。どけ」
「父さん、父さんが何と言おうが、これは僕の大切な家族です。どれだけひどい家族でも家族なんです」
「家族だと。何を抜かす。こんな奴らが家族と言えるか。いいからどけ」
「いえ、どきません」
「ふん、お前、俺の言うことが聞けんのか」
「・・聞けません。これだけは聞けません。お願いします。お願いします」
「・・・まさか、お前」
 鬼気迫る表情で必死に哀願する義雄を伊知郎はじっと見つめる。
「・・・そうだったのか。お前というやつは・・・」
黒い影がすうっと引くと、明瞭な姿となった伊知郎が、義雄に近寄りその肩を抱いた。
「父さん、ありがとうございます」
 伊知郎は、優しげな微笑みを浮かべてうんうんと頷き、二人は消えていった。そしてその消えた二人の後にもう一人の姿が浮かび上がった。
「おばあちゃん!」
 祖母の千枝が、そこにいた。
 そうか、消えた義雄さんを連れてきてくれたんだね。ありがとう。
 千枝もまた微笑みながら消えていった。
 小磯が目を開けると、玲子の傍でタエがぐったりと横たわっている。
「タエさん、タエさん、大丈夫ですか」
 タエは小磯の呼びかけにうっすらと目を開けた。

 一ヶ月後、仕事のない週末に小磯はドトールに来ていた。
 いつもの二階の窓側に席に座り、ゆったりとコーヒーを愉しみながら、竹田家の仕事を思い出していた。
 事件の数日後、タエと会った際に、新たな事実を小磯は聞かされた。先代当主の竹田伊知郎は、強い金への思念を残して亡くなったと聞いていたが、それには明確な理由があった。
「父がそこまでお金に執着するようになったのは兄のためだと思います」
「義雄さんの?どういうことですか」
「父は事業を兄に継がせようととても厳しく育てましたが、いつ頃からか諦めたようで、ちょうどそのあたりからです。父がお金にこだわるようになったのは」
「と言うことは」
「兄に少しでも多くの資産を残してやりたかったのだと思います」
「なるほど」
「父は、自分とは正反対の兄を実はとても愛していました。兄に商才はありませんでしたが、とても純粋な精神の持ち主で、誰にでも優しく寛容な兄を父は陰で認めていました」
「お兄さんを心配するがあまりに・・」
「ええ、玲子さんも最初はいい奥さんだったんです。でも、だんだんお金にこだわるようになって・・。父は気づいていました」
「それでタエさんに・・ですか」
 多分とタエは頷いた。
 その後、再びタエから連絡があり、長男の圭一は、脊椎損傷で下半身不随となり、ショックを受けた玲子も精神を病んで入院し、広い邸宅には、長女の理恵が一人寂しく暮らしていると聞いた。
 家族か。残された彼らは、これからどんな人生を歩むのだろう。
 そして小磯はあることに気づき愕然とする。
 もしかすると、義雄は自分の保険金目当てなど、全てを知っていて、それでもあえて受け入れて死んでいったのではないか、いや、きっとそうに違いない。それほどの義雄の愛だったのだ。父や家族の期待に応えられなかった分、自分の身をもって死で応えようとしたのだ。そしてそれを立派にやり遂げた。最後の最後、伊知郎はそれを知ったからこそ許したのだ。
義雄の無償の愛がきっとこれからの彼らを守り、支えていくだろう、そしていつか彼らも義雄の愛を知るだろうという確信が小磯にはあった。同時に、自分に対する祖母の深い愛を小磯は想った。すると感謝の念とともに、体の底から大きなエネルギーが沸き起こるのを感じた。
分かってるよ、おばあちゃん、この仕事、もう少し続けるよ。
 まだまだこの歳になっても知らないことばかりだしね。
 隣の席に座る客のスマホが大きな音楽を鳴らし、はいはい、私です、と女性が大声で言った。
 やれやれ。ま、いいか。
 小磯は苦笑いして、残っていたコーヒーを飲み干すと、カップを持って席を立った。

 

 

ドトールな人々 何がオモロいねん

 いつもボロ自転車に乗ってドトールにやってくるその若い男は、桜田義彦と言う二十八歳のピン芸人だった。本名がいかにもイケメン風なので、芸名に使うのは諦め、桜田をもじって、サクラダファミリーとしていた。
 もちろん、全く売れていないので、誰も芸人とは気づかない。
 不定期な夜の居酒屋のバイトで得た、いくばくかの金でその日暮らしを続けてもう八年になる。
 京都府北部で農業を営む両親との約束の期限まであと二年となった。
 手広く京野菜を育てる義彦の両親の下に生まれた義彦は、子供を諦めようとしていた矢先にようやくできた一粒種で、十年経って芸人としてモノにならなければ、京都に戻って実家の農業を継ぐと約束していた。
義彦はいつものコーヒーSを受け取り、二階に上がりこれもいつもの角の席に座ると、スマホをテーブルに置き、安物の黒いナイロンリュックから使い古したB5のノートと、何かのアンケートを書いた時そのまま持って帰ってきた黒一色のボールペンを取り出すと、昨日、電車の中で思いついたネタを書き始める。
 これが義彦の唯一の日課だった。
 ネタを書いているこの瞬間は義彦にとって至福のひと時で、それは、客が爆笑する姿をありありとイメージできるからだった。
 あかん。
 ついつい没頭し過ぎて、コーヒーを半分以上飲み過ぎていることに気づいた義彦は、慌ててカップを持って立ち上がり冷水を入れに行く。席に戻り、ミルクとガムシロを入れる。
 よし、サクラダスペシャルや。今日のはちょっと薄いけど。
 その生ぬるく、薄味のアイスコーヒーをちびちび啜りながら、義彦はまたノートに向かう。
 擦り切れたノートの表紙には、サクラダファミリーV21とある。
 俺は野球なんか何の興味もないけど、そういえば昔、ジャイアンツがV9とかって、栄光の記録やっていうてたな。その点俺なんかV21やで。
 ただ問題はや。それを披露する機会がないから、誰もそれを知らへんちゅうことや。せやけど、何十年も経ってからな、誰かがこれをお宝鑑定団なんかに出したらやで。ネタの凄さが分かる芸人が中身を鑑定してやな、こりゃとんでもない価値がある、お笑いの歴史の一大発見やってことになったりせえへんかな。
そんとき、俺は死んでるかもしれへんけど、よくあるやんか、死んでから価値が出るっていう画家とか、あんな感じで、サクラダファミリーいや桜田義彦氏のお笑いが、今、見直されるって特集がテレビで作られたりして。
 いつものよう妄想に耽る義彦は、あかんあかんと頭を振って、またノートに向かう。
 
 高校生までの義彦は、校内で知らぬ者はいない爆笑王だった。
 見た目もそこそこユニークで芸人向きではあるが、何しろ喋らせたら誰もがその話術に引き込まれてしまう。
 本人に言わせれば、何も考えなくても適当に喋っていると言葉が天から降ってくるらしい。
 文化祭で、独演会をやった時には、他校からも来て、会場に人が入り切らず場所取りでケンカが起こったほどだった。
 当然のように義彦はお笑い芸人になるものと、本人はもちろん周りも思っていた。そしてその通りになった。高校を卒業して、大阪の有名なお笑い養成所に入るかどうか悩んだ義彦だったが、腕試しに上京して受けた芸能プロダクションのオーディションに一発合格してしまったのだ。
 さすがに驚いた義彦だったが、更なるチャンスはすぐに巡って来た。
 テレビ局の主催で行われた新人お笑い登竜門という企画の予選会に出場することになったのだ。ほとんど舞台経験のない素人同然の新人には、あり得ない機会をプロダクションは与えたわけだが、それだけ自分への期待は大きいに違いないと義彦は思った。
 出場30組ほどの中で、予選を突破できるのは8組のみと狭き門ながら、本戦に進めば、テレビの全国放送で流され、知名度を上げる大きなチャンスとなる。
 出場者中最年少の義彦にはプレッシャーや気負いもなく、やる気と自信だけが満ち溢れていた。
 ネタが終わると、3人の審査員からは激賞の嵐だった。
「末恐ろしい逸材だ」
「本当にネタがあるのか?喋りが凄くてとてもネタとは思えない」
「このお笑いのセンスは誰も真似できない」
 義彦は自分に向けられた賛辞に
「こんなに褒められるんやったら、歌手は諦めた方がええんでしょうか」
と、笑いで返すほどだった。
 予選をダントツのトップで通過した義彦に、プロダクション社長の飯田は、お前はお笑い界の藤井聡太大谷翔平になれると手放しで褒めちぎった。
 実力の世界は厳しい。
 義彦を駆け出しの一芸人と見ていた周囲の見る目は一夜にして変わり、売れている、売れていないに関わらず、先輩芸人たちからは、羨望の眼差しと共に、その目の色の中に、ある種の恐怖のような感情が宿っているのを義彦は感じ取っていた。
 そして義彦の生活も一変する。
 社長の飯田に連れられて、劇場やテレビ局の責任者などに挨拶して回り、夜は夜で大物プロデューサーや番組制作会社社長、売れっ子大物芸人などとの会食の場が続いた。
「いいか、お前が望むか望まないかに関係なく、お前はレールに乗ったんだ。乗っちまったんだよ」
 会食を終えた夜、ホテルのラウンジで飯田は義彦に言った。
「レール・・ですか」
「そうだ。芸能界ってのはな、レールに乗れるかどうかが全てなんだよ。俳優だって歌手だって芸人だってみんな一緒だ。どんなに実力があったってレールに乗れなきゃこの世界では成功しない。もっと分かりやすく言やあ、売り込みとか推しってやつだよ。分かるだろ」
「はい、何となく」
「俺の長年の経験で分かる。お前は売れる。だからこそレールに乗せたんだ。いいか、今度の本戦ではぶっちぎりで優勝しろ」
 飯田はそう呟いて、ブランデーを飲み干した。
 本戦までの二週間余り、義彦は飯田の期待に応えようと、必死になってネタを考えた。それは今までの義彦には見られなかった姿だった。
 
 決勝本番を迎えた。
前夜、珍しくナーバスになった義彦は、よく眠れなかったためか冴えない頭を叱りつけるようにして、顔を洗い、着替え、アパートを出た。
 予選トップ通過で出番が最後だったため、控室で待つ義彦は、ずっとネタ帳を睨んでいた。
 そしてそれは、義彦の不安の現れでもあった。
「サクラダファミリーさん、どうぞ」
 キューを出されて、義彦は駆け足で舞台に上がる。
 眩しい。こんなにも眩しいのか。
 何台ものテレビカメラが目に入る。
 生まれて初めて味わう緊張ゆえに顔の強張る自分を自覚する。
 落ち着け、落ち着け。ゆっくりでいい。慌てるな。お前なら出来る。
 背中を一筋、冷たい汗が流れ落ちる。
「サクラダファミリーと言います。よろしくお願いします」
 義彦は一つ息を吐いて、自己紹介し最初のネタに入った。
 いつもの鉄板ネタだった。
 ここでドーンと笑いを取り、この日のために練りに練ったネタで最後まで押し切る。それが義彦の作戦だった。
 ところが噛んだ。噛んでしまった。予想もしないところで。
 噛んでしまったために、最初のネタが不発に終わる。
 全く笑いが起きない。
 一気に歯車が狂い、焦りが焦りを呼ぶ。
 あかん、何とかせんと。
 カメラが気になり、思わず、右手に座る審査員を見てしまう。
 あれ?次なんやった?
 ネタが頭から吹っ飛んだ。
 おいおい、ウソやろ。あのネタ帳の右から三行目くらいに書いたやんか。
 何も出てこない。
 早よ。早よ思い出さんかい。
 なんだか様子がおかしいと周囲の動きが慌ただしくなるのが分かる。
 持ち時間の2分30秒が虚しく過ぎていく。
「はい、カメラ一回止めて」
 立ち竦んで放心状態の義彦は、番組スタッフに抱えられるようにして舞台を降りた。
 その日から義彦の全てが変わった。
 その後も何度かチャンスが与えられたが、元のように流れるような喋りは出来なくなっていた。
 不安のあまり、ネタを徹底して覚えないと舞台には上がれず、上がってもそのネタを棒読みするような抑揚のない喋りに、客は笑うどころか引くようになってしまった。
 数年もすると、どこからか、あいつは終わったという声が耳に入る。
 後輩芸人がどんどん追い抜いて行く。
 漫才やトリオなら慰め合ったり、相談することも出来るだろうが、ピン芸人の義彦はただただ独りで悩み苦しむ他はなく、輝いていた自分を取り戻そうと足掻きに足掻く。
 仲間に撮って貰った自分の舞台を、何度も何度も見返し、何が悪いのか、どこをどう変えればいいのか、気づいたことを丁寧にノートに取り、数少ない舞台のチャンスに色々試してみるが、客の反応は何一つ変わらない。
 
 ドトールで新たなネタを書き上げ、店を後にした義彦は、ボロ自転車を置いたまま、地下鉄に乗って夕方からの舞台に向かった。
 今日こそ、絶対笑いを取る。取ってやる。
 舞台の袖で出番を待つ義彦には鬼気迫るものがあった。
「サクラダファミリーさん、お願いします」
 勢いよく舞台に上がった義彦だったが、ライトと客席を前にすると、それまでの意気込みが一気に萎んでしまう。
 あかん。何やったっけ。
 結局、いつものように辿々しく台本を棒読みするような抑揚のない喋りになってしまい、客はクスリとも笑わない。
 またや。なんでいつもこうなんや。
 舞台を引けると、袖で出番を待つ芸人が、義彦の肩をぽんぽんと叩く。
 義彦は築年数さえ不明の風呂なし4畳半のアパートで、眠れない夜を過ごした。
甲子園で脚光浴びても、ホンマにプロとして活躍できる者は一握りや。要は俺も高校生止まりっちゅうことか。
 天井に浮き出たシミが人の顔に見える。
泣いているあいつは俺で、怒っているあいつは社長や。あの無表情なのは客やな。
 遠くに救急車のサイレンが聞こえてくる。
 病院で治してもらえるんなら頼むから連れてってくれ。
俺は終わったんか。終わったんなら終わったて誰かはっきり言うてくれ。プロ野球選手みたいに、お前はクビやって言ってくれ。
 俺は金なんぞいらへんねん、賞もいらん。あいつオモロいって言って欲しいだけなんや。
 くそ、くそ、くそ。
 義彦はガバッと布団から起き上がり、カーテンもない暗闇な窓の外を見つめる。
 どうしたらええんや。辞めて故郷に帰ればええんか。ああ、辞めたるわ。辞めたらええんやろ。その代わり、お願いや、俺を哀れむような目つきで見るのはやめてえな。
 義彦は、布団から出て、リュックをまさぐりノートを取り出して小机に向かった。
「V21か」
 部屋の片隅には、ノートが積み上がっている。
 ノートを広げ、ボールペンを持つと窓からの薄灯で白いページが浮き立つ。
 書かんと。
 なんとか絞り出した文字を書こうとするが、残り少なくなったインクがかすれて書けない。
 しばらくじっとしていた義彦だったが、不意に涙が溢れ、ノートに滴り落ちた。
 俺はこのボールペンみたいなもんや。
 何も思い浮かばへん。
 何も書けへん。
 かすれた俺にはもう書くことすらできへんのや。俺のインクは尽きたんや。
 まんじりともせず朝を迎えた義彦は、全てのノートをアパートのゴミ捨て場に投げ捨てた。

 数日後、義彦はプロダクションの社長室にいた。
「本当に辞めるのか」
「はい、もう決めました」
「そうか、分かった」
 社長の飯田は、わざとらしく引き止めようとさえしなかったが、義彦にとっては、その方が有り難かった。今までずっと社長の憐れむような目線が辛かったからだ。
「で、これからどうするつもりだ」
「田舎に帰って考えます」
「ふむ、まあ、それもいいだろう」
「長い間、社長には本当にお世話になりました」
 部屋を出る時、飯田が、義彦の背中を二度三度と優しく叩いた。
 その後、飯田が、義彦のために引退の花道としての舞台を用意し、大勢の芸人仲間に加え、田舎の両親まで招いてくれていた。売れない若手芸人のために、それほどの対応をするのは、異例中の異例だったが、その理由を最後だからと食事に誘ってくれた大物先輩芸人が教えてくれた。
「もう時効だから言うけどな。社長はお前にプレッシャーをかけすぎたと、ずっと後悔してんだよ。それにな、お前がもがき苦しんで、必死に努力していたことも全部知ってんだ」
 義彦はテーブルに突っ伏して泣いた。

 二週間ほどが経ち、義彦の芸人人生最後となる舞台の日がやってきた。
「社長、こんな舞台用意してもらってホンマにありがとうございます」
「うん、まあ、俺に出来るのはこれくらいのもんだ」
 特別ゲストに、売れっ子となっていた後輩芸人が登場することもあって会場は満席だった。義彦の出番はトリを務めるその後輩芸人の一つ前だったのだが、義彦の頭の中には何もなく、ネタどころか、何を喋るかさえ決めていなかった。せっかく用意してくれた社長の飯田には申し訳なかったが、空気の抜けた風船のように気が抜けた義彦には、受けようとネタを考える気力さえ残っていなかった。
 出番が来た義彦が舞台に上がると、まばらな拍手とともに誰?とでも言うように会場がざわつく。
 そりゃそうやろ。俺のことなんか誰も知るかい。
 あれ、いつもは見えへん客の表情がよう見えるわ。くそ、全く期待してへんちゅう顔ばっかりやな。あそこの男なんかあくびしとるやんか。
 親父とおふくろはと・・ああ、おったおった。あんな顰めっ面して、やりにくいやんか。
 ま、ええか。どうせ今日で終わりや。今さら変に頑張ってもしゃあないし、誰が期待してるわけでもなし、ちょうどええわ、自虐ネタでも適当に喋って早よ引けよ。
 すると喋り始めた義彦自身が驚く。
 今まで書き溜めていたノートのネタの数々がスラスラと口をついて出ると、いきなりドッと笑いが起こる。
 え?嘘やろ。何や。どうしたんや。
 言葉が次から次へと流れ出し、その度に会場が湧き上がる。それは、まるで八年もの間、堰きとめられていたダムが決壊したかのようだった。
「何がオモロいねん!」
 怒りと喜びの入り混ざった、自分でもよく分からない複雑な感情が込み上げ、思わず義彦は客席に怒鳴ってしまうが、その言葉にまた会場が大きく湧く。
 よう分からんけど、もうどうとでもなれ。
 義彦の言葉は縦横無尽に駆け巡り、会場が揺れ動くかのような笑いに包まれていく。
 舞台を降り、紅潮した表情の義彦の下に、飯田を始め芸人仲間が押し寄せてくる。まるでゴルフのトーナメントで初優勝した選手のようだ。
 その夜、開かれた打ち上げの席で、横にいた飯田が義彦に言った。
「なあ、もう一度、考え直さないか。今日の舞台が、お前の本来の実力だよ。俺はあれを待ってたんだ」
 義彦は一瞬、逡巡した様子を見せた後、キッパリと言った。
「ありがとうございます、社長。でも、やっぱりもう芸人の道は諦めます。僕は、プロの芸人にはなれないと今日はっきり分かりました」
「何?何でだ?あんなに受けてたじゃないか」
「あれは僕の実力じゃありません。お笑いの神様がよく頑張った、最後だからって、もう一度だけ与えてくれた舞台だったんです」
 飯田や周囲の度重なる慰留にも関わらず、義彦は首を縦に振らなかった。

 一ヶ月後、義彦の姿はドトールにあった。
 アパートを引き払い、ボロ自転車を近所の自転車屋に引き取ってもらった後、故郷の京都に戻る前に立ち寄ったのだ。
 いつもの二階の角の席に座り、ナイロンリュックから、真新しいノートとボールペンを取り出す。義彦は、その表紙に、桜田義彦V1と記した。
 今日からは、俺の新たな人生や。色々あったが、やるだけはやったし、まだまだこれからや。綺麗な嫁さんも貰わんとあかんし、親父やお袋も楽させてやらなあかん。頑張って京野菜で一発当てたるで。しかし、今となってはあのネタ帳ちょっともったいなかったな。誰か後輩芸人にでもたこう売りつけたったら良かった。
 そう思いつつ、いつもの癖でコーヒーの量を確認すると、知らぬ間にほとんど残っていない。
 あ、失敗した。サクラダスペシャル忘れてもうた。
 ま、ええか、最後や。セコセコせんともう一杯飲むか。
 義彦は、席を立って一階に降りると、「かあああっ」といつもの爺さんの声が聞こえる。
ああ、いつもの爺さんや。うるさい爺さんがおるなと思うとったけど、この声ももう聞けんと思うと、寂しいもんやな。
そう思いながら、義彦はレジに向かった。

ドトールな人々 孤独(ひとり)、心のスキマ

 

 七海はずっとスマホを見続ける。

 心のどこか奥の方で、やめろ、という囁きが声のような、音のような、はたまたイメージのような感覚で微かに意識されるが、やめられない。

 どれだけ画面を見続けたとしても、誰からもメールもラインも来ないことは分かっている。

 たとえ、うまい具合に、千紗や圭介や真未から来たとしても、嬉しくもないし、既読はつけないし、もちろんすぐ返信するつもりもない。

 

 いつからだろう。

 見かけの友人は山ほどいる。

 けれど、心のスキマは埋まらない。

 親は口を開けばあなたを思って言っていると何かの呪文のように言う。

 私を思っている?

 私の何を思っているの?

 私を本当に思っているなら私の心のスキマを埋めてみてよ。

 スマホで世界とつながっているけど、私がつながっている実感などどこにもない。

 宙ぶらりん。

 落ちないのはなぜ?

 本当に楽しいことは長く続かない。

 つながったと思ってもいつかそれは消え失せる怖さ。

 不安?

 どうせ自分なんてと言う思い。

 そのくせ愛されたい、大切にされたい。

 愛してくれさえすれば、大切にしてくれさえすれば、私もそうする。

 待っている。ただただ只管に。

 心は叫ぶ。

 喉の奥の、奥の、奥の方から。

 自分でも想像できないほどの甲高い音で。

 血の涙を流しながら。

 

 ここまでノートに書いたとき、七海の足元にスプーンがやってきた。まるで「こんにちは」

とでも言うように。

 隣のおばあちゃんが落としたのだ。

 その時点ですでに予感はあった。

 七海が体を折り曲げてスプーンを拾い上げ、おばあちゃんに渡すと、予感通り

「ありがとうございます」と会釈をして受け取り、

「よくお見かけしますね。学生さんですか」と言った。

「はい、高校生です」

「ああ、そうでしたか。大変ですね」

 何が大変なのだろう。

 勉強か、スポーツか、はたまた恋愛か。たぶん勉強のことだろう。

 作り笑いを浮かべて曖昧に肯く。 

 隣でコーヒーを飲むおばあちゃんはなぜいつもあんなにニコニコしているのか。何がそんなに楽しいのだろう。いつも独りで来ているということは、旦那はもとより家族もいないのかもしれない。寂しくないのか。辛くないのか。それとも何か嬉しいことが待っているのだろうか。

 おばあちゃんは足が悪い。膝が悪いせいかゆっくりしか歩けないし、腰も少し曲がっている。でもニコニコしている。

 

 あいつもこいつもどいつも何を信じてここにいる?

 そのキラキラした瞳はどこから来る?

 お前が信じ続けるものはなんだ?

 それを信じ続けられる根拠はなんだ?

 ずるずると学校に行きずるずると家に帰る。

 私を本当に待ち受けるのは何だ。

 誰か教えてください。

 私はどこにいる。

 どの時点にいるのだ。

 どの時点からどの時点に行こうとしているのだ。

 なんのために?

 それは一体誰の意志だ?

 昏すぎて歩けない。

 重すぎて歩けない。

 遠すぎて歩けない。

 ずるずると学校に行きずるずると家に帰る。

 いつ心のスキマは埋まるのか。

 誰か教えてください。

 誰か教えてください。

 誰か教えてください。

 お願いだから。

待っている。ただただ只管に。

 心は叫ぶ。

 喉の奥の、奥の、奥の方から。

 自分でも想像できないほどの甲高い音で。

 血の涙を流しながら。

 

「あのね」とおばあちゃんが言った。

 七海がノートから目を上げると、おばあちゃんの皺だらけの手には、真新しいアイフォンが握られている。

「これね、娘に勧められて買ったんですけど使い方がよく分からなくて」

 おばあちゃんがニコニコして言う。

「こんな歳でと思ったんですよ。でも遠くに住んでいる娘がひ孫の顔が見られるって言うんです」

 七海は、スマホを受け取ったものの、思案する。

 何から教えてあげたらいいのか。

「本当に御免なさい。誰も聞ける人がいないものですから」

 そう言われても困った。

 まず、電話か。

 七海は、スマホの連絡先画面を開くと、たぶん前のガラケーに入っていたと思われる名前が出てきた。なんと3件しかない。

「娘さんの電話番号はどれですか?」

「ああ、その一番下のマリエさんて書いてるところです。あと、孫はその上のちいちゃんです」

「ここをこう指で」

「あ、御免なさい。ラインで電話をかける方法は分かるんです。でも顔が見えなくて」

 ラインで電話は出来るんだ。

「じゃ私とやってみましょうか。いいですか」

「はい、お願いします」

 七海は、スマホを操作してラインの友達登録をし、おばあちゃんのスマホに電話をかけた。

「もしもし」

 通話が繋がったところで、七海が、

「このビデオ通話というところを押すと・・・ほら」

「あら、こんなに簡単だったの。びっくり」

「でも、ライン電話が出来るの、すごいです。うちの毋なんて何度教えても覚えるまで大変だったから」

「ひとりだと大概のことは何でも自分で出来るようになるのよ」

 なるほど。そうかもしれない。

「でも本当にありがとう。ナナさん、助かったわ」

 ナナさん?あ、そうか。

ラインの登録名はナナだった。

 

 数日後の夜、七海が自分の部屋で、ベッドに寝転がってスマホを見ていると、ラインが入る。

 シオノカオルコ???

 すぐあのおばあちゃんだと閃いたが、七海は何かが頭の片隅に引っかかった。

「この前は本当にありがとうございました。ナナさんさえ良ければ、今度またドトールでお会いしませんか。私は大体、あの時間にドトールにおります。お礼にカフエラッテか何かご馳走させてください。シオノ」

 見たことのない動物キャラクターが何度もお辞儀をするスタンプが貼られている。

「ありがとうございます。週末また行くと思います。七海」

 あれ?返信しちゃった。

 

 週末の午後、ドトールに行き、レジで注文する前に客席を覗くと、シオノさんはすでにいて、七海を待っていたのだろう、すぐ気づいた。

「あら、嬉しい。いらしてくださったのね、あ、飲み物はまだよね。ホットのカフエラッテで良かったかしら」

「あ、はい。ありがとうございます」

 本当はアイスが飲みたいけど。

 前の座席に座って待っていると、しばらくして、シオノさんがホットのカフエラッテを持って戻る。

「お待たせ、この前はありがとう」

「いえ、たいしたことじゃないのに、なんかすいません」

「たいしたことなのよ、年寄りに取っては。それにね、ライン友達が一人増えてそれも私にとってはとっても嬉しいのよ」

 ライン友達?友達になったつもりはないけど、ま、いいか。

「孫のちいちゃんはね、26歳なのね。で、そのちいちゃんにこの前赤ちゃんができたの。女の子でね。私も仕事で忙しいから中々会いに行けなくて」

 仕事?仕事してるんだ。孫が26歳ってことは・・・もう結構いい歳じゃん。

「あのう、連絡先の一番上にあった、ミツオさんって方は旦那さんですか」

「あ、そうそう。本当はもう消さなきゃいけないんだけどね」

 やっぱり。聞かなきゃよかった。

「高校生って大変でしょ。色々と」

「はい、まあ」

「そうよねえ。時代が時代だものねえ。そうだ、ね、これから、たまにここで会って話を聞かせてくれない?もし、迷惑じゃなかったらだけど」

 げっ。だるいじゃん。

 七海が答えに窮していると、

「もし、嫌なら全然構わないから。はっきり言ってね」

 そんなはっきり嫌ですなんて言えないじゃん。これからもここで顔合わせるかもしれないのに。んー。どうしよう。

「長くなければ」

 言っちゃった。ついつい外ヅラの良さが出ちゃう。

 

 その日から、ほぼ毎週末の午後、ドトールで二人は会い、最初のうちは30分ほどを共に過ごし、その時間は徐々に長くなっていった。

 シオノさんは自分のことはほとんど話すことはなく、七海に様々な質問をし、ただただ聞いて、それを小さな手帳にメモしていた。

「学校って面白い?」

「面白くないのはなぜだと思う?」

「友達とは何して遊ぶの?」

「どんな話するの?」

「なぜ話さないの?」

「将来は何になりたい?」

「それはどうして?」

「なぜそう思うの?」

 七海は最初のうちこそ、言葉を探しつつ、探しつつ、慎重に口数少なく答えていたが、何度かやり取りをするうちに、慣れたのか、どんどん饒舌になっていった。

 七海はシオノさんに会うのが楽しみになっている自分に気づいた。

 同時に、とげとげしかった自分の心が何か優しい膜で覆われたような感じがしていた。

「ナナさん、長い間ありがとう。すごく助かったわ」

 シオノさんはそう言いつつ小さな手帳を閉じた。

 助かった?そう言えばこのやり取りは何のためだったの?

 一瞬そう思った七海だったが、それは寂しさでかき消された。

「もうこれは今日で終わりなんですか?」

「そうね。もう終わりにしましょう。十分でしょ」

 十分?何が?

「前から聞きたいと思っていたんですけど、聞いていいですか?」

「何?もちろんなんでも聞いて」

「一人きりで寂しくないですか?」

「寂しいわよ」

「ですよね」

「友達とか話し相手とか欲しいと思いませんか」

「あなたがいるじゃない」

「私、ですか?」

「そうよ。あなたが一人いてくれるだけで私には十分よ」

 その時、七海のスマホが鳴った。

「ちょっとすいません」

 七海はシオノさんにそう言って、スマホを見ると、千紗からのラインだった。

「なにしてり?わたしいまメンヘラなり。かまちょ」

 七海は一瞬考え、返信する。

「いま友達とドトールにいて大切な話してる。ごめんね。また今度聞くからね」

 スマホを閉じて七海が言う。

「シオノさん、これからもドトールに来ますか?」

「もちろん。だって大好きだもの。他に行きたいところもないしね」

「私も来ます。その時お話ししませんか。まだ話したいことたくさんあるんです」

「そうなの?実は私もなのよ」

 二人は笑った。

 

 それから半年ほど経った。

 七海は、受験勉強のための参考書を買いに書店に来ていた。

 いくつかを選び、レジに並んでいるとき、店員の後ろの壁に貼ってあるポスターが目に入った。そこには、脚本家塩野薫子の処女小説『孤独(ひとり)、心のスキマ』と大きな文字で書かれている。

 えっ、塩野薫子?思い出した。あの大ヒットドラマを書いた人だ。

 七海は、新刊本が平積みされているコーナーに行き、その本を手に取った。パラパラと最後の方からめくり、著者あとがきを流し読む。

 

 ・・・

待っている。ただただ只管に。

 心は叫ぶ。

 喉の奥の、奥の、奥の方から。

 自分でも想像できないほどの甲高い音で。

 血の涙を流しながら。

 

 この文章は、この物語を書く発端になった女子高生が書いていたものです。私は、たまたまカフェで隣り合わせた彼女が書いていた、魂の叫びのようなこの文章を、隣の席から盗み読んで、ショックを受けました。

 私の心を代弁していたからです。

 ・・・

 幸いにも彼女と私は心を通わせ、これからも友人としてお付き合いしていけそうです。

 その友人はナナさんと言います。ナナさん、勝手に文章載せてゴメンなさい。

 心の友であるナナさんに、この本を捧げます。

 七海の瞳から涙がこぼれ落ち、そのページに落ちた。

 七海は本を閉じ、参考書の上に重ね持ち、レジに向かった。

                                      

 

 

 

 

 

ドトールな人々 読む人

時折、コーヒーを一口飲みながら、ずっと、静かに文庫本を読んでいる。

 喧騒の店内で、彼女の周りだけが、あたかも静寂に満たされた緩やかな時間が流れているようだと、櫻井亘(わたる)は改めて思った。

 彼女をこのドトールで初めて見たちょうど一年前の記憶が蘇る。

 あの日も、五月晴れの爽やかな風が吹く気持ちの良い日だった。

 昨日のことのようにはっきりと覚えている。

 それは、亘がひどい失恋をした翌日だったからだ。

 

 5年余りも付き合い、亘が本気で結婚を意識し始めた頃だった。

きっと裕子も同じ気持ちだろうと思っていたが、破局はいきなり訪れた。

やはりこのドトールのこの席で、5月下旬に27回目の誕生日を迎える裕子に、プレゼントは何がいいか聞いた時だった。

亘は何を裕子がリクエストするにせよ、エンゲージリングと一緒に渡そうと決めていた。

「ごめんなさい」

 亘には咄嗟には言葉の意味が分からなかった。

「好きな人ができたの」

 なんの予兆もなかった。

 あまりに多くの疑問があり過ぎたし、小さな己のプライドが邪魔をして、何一つ裕子に理由を聞けなかった。

 裕子はもう一度、ごめんなさいと小さく言って、店からも亘からも去っていった。

 亘の心に開いた穴を、5月だというのに、晩秋を思わせる、乾いた冷たい風が吹き抜けた。

 落ち込むというのでもない。悲しいというのでもない。あえて表現するなら虚しいというべきか。亘には、自分の味わっている気持ちが何であるのか、自分自身にさえ、うまく説明できなかった。

 亘は翌日もドトールに来た。

 他に行きたいところもやりたいことも逢いたい人もいなかったからだ。

 亘はコーヒーを受け取り、一番奥の端の席に座る。

 コーヒーを一口飲むが、味がよく分からない。

 僕はここで何をしているのだろう。

 しばらくして、若いママが、ベビーカーと二人の幼い子供を連れてやって来た。壁際にあった二人がけの丸テーブルをくっつけ、空いたスペースにベビーカーを置き、二人の子供を椅子に座らせた。

「ママ、取ってくるから。いい?ちょっとだけ待っててよ」

 子供たちに言い置いて、レジに向かった。

二人の幼な子はママがいなくなって心細くなったのか、少し緊張気味の様子で、ちょこんと座ってママが戻るのを待っていた。

 しばらくして、ママがトレーに飲み物やら食べ物をいくつか載せて戻ってくると、ママが戻った喜びと好きな飲み物などを見た歓びで、おとなしかった子供たちが大騒ぎになる。

「静かにして!」

「何度言ったら分かるの!」

 ママが嗜めるが、二人は全く言うことを聞こうとせず、椅子から降りてテーブルの回りを、歓声を上げながら追いかけっこのごとく走り回り始める。

「いい加減にしなさい!」

 周囲を構うことなく何度も大声で叱りつける若いママに、子供が騒ぐのはしょうがないと最初は我慢していた客たちも、さすがに何人かが席を立つ。

 亘は、いつもなら気になったであろう、その親子が発する騒音が、ただ耳を通過するのに任せていた。それは、まるで動画をミュートで見ているようだった。

 その刹那、親子の隣にいる彼女に気づいた。

 本当に最初からそこにいたのかと思えてしまうほど存在感がなく、いきなりその場に現れたかのようだ。

 いや、違う。あまりにも空気に溶け込んでいただけだ。

 なぜなら、彼女に気づいた後は、その存在感に圧倒され、亘は自分自身も現実世界へと引き戻され、親子の騒がしい声が急に耳に響いてきたからだ。

 これほどの喧騒の中で、彼女のいる空間だけが静寂に包まれている。

 この店には何度も通っているのに、気づかなかった。いつも来ていた女性だろうか。それとも最近になってからか。

 よほど、本が好きなのか、ずっと文庫本を読んでいる。一語一語噛み締めているかのように、視線がゆっくりと上下に動く。口元にはほんの微かな笑みを浮かべ、無意識だと思われるが、時折、長い黒髪の先を細く長い指でいじる。何を熱心に読んでいるのだろう。布製のようなカバーがかかっていて分からないが、もしかすると詩集かもしれない。

 そうか。気づかなかったのは、彼女が本に彼女の全存在を没入させていたせいだ。

 彼女の意識の全ては今見えている彼女にはなく、意図的ではないにせよ、ありとあらゆる気配を消し去ってしまっていたのだ。

 ところがそこに彼女がいるとこちらが認識した瞬間、今度は、目が離せないほどの圧倒的な存在感を感じる。

 亘は強く興味を惹かれた。いや、惹きつけられてしまった。

 

 あ、またいる。

 それからも休日になると、何度かドトールに行く亘は、店に入るとすぐに彼女の姿を探してしまう。彼女が決して亘を見ることはなかったが、彼女の持つ不思議な魅力に触れるだけで亘は十分だった。

 秋の気配が色濃くなり、街に乾いて冷たい風が吹いて、色づいた葉が舞い落ちる季節になった頃、彼女は現れた時と同じように突然消えてしまい、ドトールで彼女を見かけることもなくなった。皮肉なことに、すでに亘の心に開いていた穴は気づかぬ間に塞がり、風が吹き抜けはしなくなっていた。

亘はその時、自分が彼女に抱く感情が本物の恋であると知った。

彼女がいなくなって感じた切なさや寂しさは、裕子に別れを告げられたときに感じた虚無感とは異なり、抗いようのない現実そのものだった。

彼女に逢いたい。

息苦しいほどの想いが日毎に募っていったが、気持ちとは裏腹に彼女がドトールに現れることはなかった。

冬を過ぎ、桜が咲き乱れる季節になっても彼女は現れはしなかったが、それでも亘は諦めることなく、ずっとドトールに通い続けた。

 

五月晴れの爽やかな風が吹き抜ける日の午後だった。

彼女はそこに現れていた。

以前のように、緩やかに流れる時間のなか、静寂を纏って文庫本を読んでいた。

亘は彼女の空間を邪魔しないよう細心の注意を払って隣の席に座り、しばらく待って、高鳴る鼓動を抑えるため深呼吸を一つした。

「失礼ですが何の本を読んでいるのですか?」

 彼女の返事はない。それどころかこちらを見ようともしなかった。

「失礼ですが何の本を読んでいるのですか?」

 亘は明らかに声のトーンを上げて聞こえるように言った、つもりだったが、やはり彼女の視線は本に注がれたままで微動だにしない。

 亘は自分が無視されたように感じた。

 話しかけないで欲しい。あなたには興味がない。私の邪魔をしないで。

 そう言われている気がした。

 亘は自分が勝手に恋して、勝手に逢いたくなって、勝手にずっと今まで想い続けてドトールに通っていたことが、情けなくて、悲しくて、恥ずかしくなって、膝の上に置いた両の拳を強く握りしめた。

 どれだけ時間がかかっただろう。

帰ろう、そしてもうドトールに来るのはやめようと、ようやく気持ちを切り替えた時、彼女がすっと席を立った。

 入り口に向かって歩きかけた彼女のどこかから、ハンカチがふわっと舞い落ちた。

 あ、と亘は思ったが、通路席に座っていた親娘と思われる二人連れのうち、母親の方が、足元に落ちたそのハンカチを拾い、彼女に声を掛けた。

「落ちましたよ」

 彼女がその声に気づくことなく歩いていくと、母親は、脇に立て掛けてあった杖を持って席を立つ。少しぽっちゃりした感じの娘が、お母さん、私行くからと言うが、母親は、もう一度、落ちましたよと言いつつ杖をつき、右足を少し引きずりながら彼女の後を追う。

 その様子に気づいた女性店員が、さっとカウンターから出てきて、中年女性に何かを言ってハンカチを受け取り、ドアの手前で彼女の肩をトントンと叩くと、彼女が振り返った。

 女性店員を見た彼女は、目を大きく見開き、両手を体の前で交差させお辞儀するような仕草をし、ハンカチを受け取って、また丁寧なお辞儀をして店を後にしていった。

 

 ひどく落ち込んで家に帰った亘は、夕食を食べる食欲もなく、風呂に入ってただ見るともなく天井を見つめていた。

 はあと大きくため息をひとつつき、バシャっと両手で顔にお湯をかけたときに閃いた。

 慌ただしく風呂を出て、ろくに体も拭かず、パンツだけ履いて部屋に行き、ノートパソコンを開くと、ユーチューブにそれはあった。

 彼女のした仕草は、間違いなく、ありがとうございますという手話だった。

 亘は、彼女がまた消えてしまう前に手話を覚えなきゃと思った。           

 

 

 

ドトールな人々 白いテンガロンハットの男

 

 もう1時間近く経つのに、その席には誰も座らない。

 もちろん、煩瑣いナベさんの隣だったから、常連なら避けもしただろうが、混み合う日曜日の午前中にも関わらず誰も座ろうとはしなかった。

 西島さんたち店員も不思議に思い始めた頃、そのテンガロンハットの男はやって来た。

 白いテンガロンハット、白い上下のスーツに白いシャツとタイ。そしてなぜか左右色の違うスニーカー。右足は白で左足は黒だ。まるで、フライドチキンが売りのチェーン店の店先に立っている人形にテンガロンハットを被せたような雰囲気だが、人形と違っていたのは、肌が浅黒いことと、人によって見え方の異なるその瞳、そして年齢だった。

 優しくもあり、厳しくもある。鋭くも感じ、親しげでもある。濃く深い泉のようでいながら、強い光を湛えている。宇宙に存在する元素の全てを含んでいるかのような不思議な瞳だった。

 年齢はさらに人を惑わせる。30歳前後という人もいれば、70歳はゆうに過ぎているという人もいる。若くして老成しているようでもあり、年老いていながら溌溂としてエネルギッシュのようにも見える。

 男は、ハザマ・キャンベルというネイティブアメリカン、いわゆるインディアンと称されるアメリカ先住民で、今朝早くニューヨークから成田に着いたばかりだった。

 

 キャンベルはレジでコーヒーを受け取ると、真っ直ぐにその空いていた席へと向かった。

 店員も他の客も興味津々で見ている中、その席に座ると、隣の爺さんだけは、新聞を広げているせいか全く気付いていないようだ。

 キャンベルは座るなり、じっと腕時計を見つめた。

 

 ハザマ・キャンベルがこのドトールに来た理由。それはただ一つ。地球を救うためだった。

 あと10分ほどだ。

 キャンベルには全てを見通せる能力があった。

 ほとんどの人間は気づきもしないだろう。この世が全て関連していることを。全てだ。

 ほら、今、自動ドアが開いた隙にハエが一匹、入ってきた。あのハエは、あの中年男の顔の前を飛ぶ。すると、あいつは煩げに手でハエを追い払おうとする。そのとき、手が水の入ったグラスに当たってしまい、グラスが倒れる。ちょうど、席を立とうとした隣の若い女性にその水がほんの少しかかる。中年男は申し訳ないと謝るが、その若い女性は大丈夫です、と言って店を出ていく。

 その一瞬の間が、若い女性を災難から救うのだ。

 ドアが開いた瞬間、女性の前を猛スピードで自転車が走り抜けていく。もちろん、自転車に乗る母親には急ぐ理由がある。子供が怪我をしたと幼稚園から連絡があって病院に行くところだから。ハエが飛んでこなければ、若い女性も自転車に乗った女性もとんでもない目に合ったことだろう。

 ではなぜ、ハエが飛んで来たのか。

 それは、世界の合意であり意思だ。

 世界の合意や意思がなければ、誰も、指一本たりと動かせはしないのだ。そのような分かりきった事実でさえ、この世のほとんど誰も知らないし、知ろうともしない。

 キャンベルは、腕時計を確認し、コーヒーを一口飲んだ。

 あと5分だ。

 この席が1時間も前から自分を待っていたのはもちろん分かっていた。

 隣の痩せて年老いた男が、ワタナベという名前で、時折「かあああっ」と言うのも、それを言う理由も知っている。

 煩瑣いが、しょうがない。この男がここにいるのも地球を救うために必要なのだから。

 この世界に偶然はない。何一つない。全ては必然だ。

 もし、自分が地球を救わないとしてもそれも必然だ。

 ただ救うと決めてはるばるニューヨークからここまでやってきた。

 そして間もなくその時間はやってくる。

 

 キャンベルは腕時計を見た。

 さあ、時間だ。

 あと1分。

 50秒。

 40秒。

 30秒。

 ・・・

 10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0

 そして地球は救われた。

 

 ハザマ・キャンベルは、おもむろにもう一口コーヒーを飲んだ。

 しばらくして、また腕時計を見た後、席を立ち、まだほとんど残ったままのコーヒーカップを持って、ドアに向かった。

 ドアまでの途中にある返却口に、神聖な儀式でも執り行うかのように、カップを両手で音もなく静かに置くと、再び、ドアに向かって少し歩いて立ち止まる。

 そして、レジにいる女性を見て、ウインクをした。

 確かこの女性はニシジマという名前だ。

 西島さんは微笑んで軽い会釈をし、キャンベルが微笑んだ後、振り返った。

 もちろんそうだろう。

 あのワタナベという爺さんは、自分が来たときと同じように、ただ新聞を読んでいるが、もうすぐ「かああああっ」と言う筈だ。

 

 

 

                                         了